2022年11月21日月曜日

sakana biography 番外編 1997~2009

 1997年のある日、エマーソン北村さんから連絡があり「音楽評論家の高橋健太郎さんって知ってるすか?最近グリーディグリーンってバンドとか朝日美穂さんのプロデュースもやってる人ですが、その高橋氏が先日リリースされたsakanaの「My Dear」を聴いて興味を持ったらしくて、会いたいと云ってるんすけど、近々下北辺りで会えねぇっすかね?」と云われる。高橋健太郎氏の事は知らなかったけど、ポコペンさんと話し合い、北村さんが云うならって事で会ってみる事にした。

日にちは覚えてないけど秋頃だったかな、ある日の夕方、下北沢のイタリアントマトで高橋氏と北村さんと僕ら二人で話をした。「こちらが音楽評論家で知られる健太郎さんです」と紹介されて開口一番「君たちの作品聴かせてもらいました。ボーカルは素晴らしいですね。歌詞も面白いし。歌詞はポコペンさんが書いているの?」「はい」「曲やアレンジは僕にはあまりピンと来なかったけどね、、」「はあ、」「僕ならもっと歌がよく聴こえるようにアレンジを考えるね、まずギターは要らないでしょう?キーボードと良いリズム隊を揃えて、歌を活かすアレンジを丁寧に考えれば今より売れると思いますよ?」「ハハハ、、」

もちろん僕がギター担当だと分かっていていきなりこう云ってきた。俺は手強いぜ?と威嚇されて、めんどくさそうな人だなと思う。「だったらsakanaじゃ無理なんで、ポコペンさんのソロとして考える方が可能性があるんじゃないですかね?ポコペンさん次第ですが、」「いや、君たちも10年以上活動して来てお客さんが少しは居るでしょう?そのお客さんは大切だから、取り敢えず離陸?するまではsakanaの方がいいと思うんだよね、その先はそうなってから考えればいいんじゃない?」その後も「今までのアルバムは何枚くらい売れたの?」「1000枚とか2000枚とか、、聞いてますけど」「あ、そう、もし僕に手伝わせてくれたら確実に5000以上売りますよ、今まで手がけたアーティストで実現出来たからそれなりのノウハウを持ってるんで、」等々、自分には全然興味の持てない話が続き、高橋氏の連絡先のメモを渡されて「じゃあ、よく考えて、考えが決まったら連絡してくんせぇ」と北村さんが締めくくって帰った。

帰りの電車でポコペンさんに云う。「僕は関わりたくないから、このまま連絡しないで放っておいていいよね?」「うん、、」ポコペンさんはなんとなく残念そうだったけど、あの話の内容じゃ仕方ないと思ったのだろう。

また別のある日、マンダラ2でsakanaのライブ。連絡せずに3ヶ月以上放っていた高橋氏が観に来た。この日は勝井さん、鈴木君と4人で演奏した。僕は関わりたくなかったのであまり近寄らないようにしていたが、勝井さん、鈴木君は互いに自己紹介を済ませ、親しく話をしていたみたいだ。どうやらこの時勝井さんは連絡先を交換していたらしく、後日スタジオで練習した時に勝井さんから云われる。「今度高橋氏と僕ら4人で会って話をしないか?って云われてるんだけど、いつがいい?」僕は「この間2人で会ったんだけど、あまり関わりたくないんですけど、」と云ったものの、「どんな人なのか俺も見極めたいから4人でもう一回会ってみようよ」と云われて次のスタジオ練習の後、梅ヶ丘の駅前の喫茶店で会う事になった。

この時は僕はあまり喋らず、勝井さんと鈴木君が主に喋っていたので、どんな話をしていたのか覚えていない。でも経験豊富な勝井さんが、高橋氏にどんなプランを持っているのか具体的に質問していたと思う。それと、sakanaのマネージメントもする気があるのか?と訊ねていた。高橋氏はポコペンさんをソロアーティストとしてマネージメントする事は先々あるかも知れないが、sakanaのマネージメントをする気はないと答えていた。これは初対面の時の印象と共通しているので本当にそうだったのだと思う。その日はそのまま別れて、その後の練習日、勝井さんに云われる。「高橋氏との録音制作、やってみてもいいんじゃない、話の内容はちゃんとしてるし信頼出来ると思いますよ」え〜〜?そうなの??鈴木君も「僕もやってみたいと思います」あ〜〜、そうなの??ポコペンさんも「私も折角の機会だしやってみた方がいいと思う」あ〜、そう、、。

その後も話が進んで、どうやら勝井さんが高橋氏と共同プロデューサーとして作業を進めた方が僕ら2人と高橋氏のやり取りがスムーズになるだろうと決まったらしい。鈴木君は完全に同調モードだ。そんなこんなで、高橋氏が中目黒に構えるプライベートスタジオに4人で遊びに行って具体的なミーティングを行う段取りになった。

しかし僕は考えを決めかねていた。これまでの話ぶりで、高橋氏が音楽的に興味を持っているのはポコペンさんのSSWとしての能力(才能?)が主だと知ったが、取り敢えず今までのsakanaの活動で得たものは利用したいので、スタートはsakanaで、と云う考えを受け入れて自分は果たして一緒に共同作業が出来るのか?そもそもギターは要らないと云ってる相手と?勝井さん、鈴木君を味方に付けてしまう巧妙な交渉術も含め、自分にはどうしても気持ち良く共同作業が出来る相手とは思えなかった。

スタジオに遊びに行く前日まで悩んでいた。ポコペンさんには「やっぱりやりたくない」とゴネたのだが、「10年以上地道に活動して来てようやく巡って来た機会なんだから私はやりたいよ」と云われ、返す言葉がない。本当に前日の夜中までsakanaを辞めようかどうしようか悩み、寸前で、よっしゃ、腹括って頑張ってみよう、と決心した。これは高橋氏と関わる事になったのはポコペンさんや勝井さん鈴木君に引っ張られた所為だと云いたいわけじゃない。折角の機会だからと安易に飛び付いたわけではなく、ホントに悩んで熟考の末、自分の意思で決めたと云いたいだけ。 そして納得が行くまで悩んで、やると決めた以上、よい作品が作れるように頑張ろうと思った。そして無論、もっとsakanaを聴いてくれる人が増えるなら、もっと作品が売れるなら、と云う期待をこの時点では持っていた。

と云うわけで少々寝不足のまま中目黒のプライベートスタジオで集合した。へえ〜〜、こんな立派な機材の揃ったプライベートスタジオがあるものなんだ、と驚く。自分が知っている宅録環境とは別次元だった。高橋氏はギターを弾くそうで、良さげなギターが並んでいた。結局この日はギターを触らせてもらって喜んで帰っただけだったが、4人揃って高橋氏とミニアルバム「リトルスワロー」を制作する事になったのだった。 

その後も度々ミーティングが行われた。高橋氏の大まかなプランは自分と勝井さんが共同プロデューサーになり、何処かのレーベルと交渉して予算を得て制作開始するつもり、との事で、打診した先で、現時点で興味を持っているのはバッドニュースと云うレーベルだと云われた。バッドニュースは以前に高橋氏がオムニバスアルバムの制作プロデュースをした事で縁があるとの事だったが、僕は初めて聞く名前だった。勝井さんは相応の予算が出るのならそこで良いのではと賛成していた。他にも幾つか打診したようだけど、結局バッドニュースにお願いする事になり、ポコペンさんと僕と高橋氏で代々木八幡の事務所へ挨拶に行った。社長は千葉氏。そしてsakanaを担当するスタッフとして川端と云う人物を紹介された。この日はただ挨拶だけで帰った。

97年末だったか、明けて1998年に入ってからだったかの頃。場所も名前も忘れたけど、都内のスタジオでベーシック録音をした。 ミニアルバムで6曲入り、全て既にアルバムに入れて発表済みのオリジナル曲のセルフカバーと云う設定だった。1曲は「ロッキンチェア」でポコペンさんと2人で演る事にしたので、4人バンド編成でのベーシック録音は「リトルスワロー」「ジプシー」「サンセットデイヴ」「ハッピーチューズデイ」「ファン」の5曲。 セルフカバーと云うのは気が進まなかったけど、まずはより多くの人にsakanaを知ってもらう為のミニアルバムであり、新曲で作るフルアルバムはその次にしましょうと共同プロデュース隊の高橋&勝井氏に云われて納得した。ベーシック録音は2日間だった。その後はギター、バイオリンのオーバーダブ作業とボーカル録りを高橋氏のスタジオで行った。随分長々と作業した。3ヶ月くらいやっていたんじゃないかな。その間ほぼ週一でポコペンさんと僕は中目黒のスタジオに通っていた。一週間の間に新たなアレンジを考えて行き、試してみると云う試行錯誤を繰り返していた。勝井さんは他のバンド活動が忙しく、自分のパートを録音する為に2~3回来ただけ、鈴木君はベーシックでやる事が終わっているので殆ど来てなかった。そんな感じで高橋氏と僕ら2人での作業が多かった時期、高橋氏と勝井さんの共同プロデュースのチームワークがなんとなく食い違い始めた。ライブのリハーサルの為にスタジオで勝井さんと顔を合わせるといつも高橋氏との作業はうまく進んでいるか?と訊かれて、いろいろ進捗状況を伝えた。でもそれは全て音楽的な話。勝井さんは共同プロデューサーとして高橋氏がバッドニュースからどのくらいの予算を引き出したのか?それをどの様に運用していくつもりか?等々を高橋氏から聞き出そうとしても、はぐらかされてしまってよく分からないと云う。こんなに不透明要素が多くては、自分は共同プロデュースなんて無理だし、結局高橋氏が一人で勝手に決めて話しを進めているだけじゃないか?と僕らに訴えて来たのだが、それは高橋氏と勝井さんが話し合って決めた事だから高橋さんと話し合って解決してください、僕らからは何も云えません、と答えた。その後も勝井さんは渋々制作に付き合っていると云う態度のままだったけど、録音作業はほぼ終わってミックスを誰に頼もうか?と云う段階になった。

ポコペンさんと僕はお任せしますと云い、勝井さんが「zAk氏がいいと思う」と提案すると、「あ〜、zAk氏は素晴らしいよね、でもかなり高い(ギャラが)って話しだけど?」zAk氏と付き合いのある勝井さんは「あ〜、あの人高いんだ?」と云いながらも、一曲いくらでやってくれるか僕から訊いてみますよと云ってくれたのだった。一曲いくらだったのかは知らされてないけど、勝井さんの交渉によって「リトルスワロー」「ロッキンチェア」「サンセットデイヴ」「ハッピーチューズデイ」「ファン」の5曲をzAk氏にお願いする事になり、「ジプシー」だけ「My Dear」の録音ミックスをしてもらった益子さんにお願いする事になった。これは予算の問題ではなく、1曲違う人がミックスした方が変化があって面白いんじゃないかと勝井さんが提案した。益子さんのミックス作業は高橋氏のスタジオで行ったのだが、ここで一悶着あった。益子さんがミックスしているところへ高橋氏があれこれ口やかましく注文をつける。自分が初対面で経験した高圧的な態度だ。この人は自分が認める気のない相手にはこう云う態度なんだなと思いつつ様子を見守っていた。やがてとうとう益子さんが怒って「そんなにいろいろ云うんだったら別の人に頼んでください」と途中で投げ出して帰ろうとしている。でも僕は「My Dear」の制作でとてもお世話になった益子さんになんとか最後までやってほしかったので「いや、丁寧に話し合えばきっとよい方向が見つかると思いますよ、もう少し頑張ってみましょうよ」と頼んでなんとかミックスを仕上げてもらった。

数日後、勝井さんからzAk氏のミックスが完成したので音源をDATで受け取ったから、高橋氏のスタジオで確認しましょうと云われて集合した。う〜ん、この時はビックリしたな、。どの曲も見違える?ように素晴らしい音響だった。曲のイメージを一つに方向に絞ってそれを思い切り強調した音作りと云えばいいのか、。「いや〜、もう最高です!ありがとうございます」と勝井さんに告げた。高橋氏も流石素晴らしいね、と納得していた。「じゃあ、今zAkは自分のスタジオに居るみたいなんですぐ電話してOKだったので支払いについて相談してください」と云った。高橋氏は「うん、あとでしとくよ」と云ったが「いや、今すぐしてもらえませんか」と食い下がって渋々電話した。結局zAk氏と挨拶がてらどこかで待ち合わせて飯でも食いましょうとなり、どこかのカレー屋で初めてzAk氏と会った。気さくだったけど淡々と冷静な印象の人だった。

もうこの頃は勝井さんの高橋氏に対する不信感は決定的なものだった。ポコペンさんと僕は更に揉め事に発展するのを心配して高橋氏に「勝井さんが共同プロデュースと云う約束だったが知らないうちに勝手に事を進められてしまうので困ると云ってましたよ?」と進言してみた。でも高橋氏は「あ、そう?僕は何も不満はないけどね」と云うおかしな返事だった。

そうして週一ペースでライブをしながらミニアルバムは完成してタイトルは「リトルスワロー」に決まり、リリースへ向けてどうやってプロモーションして行くか?の段階へ。これについても高橋氏は自分の好きな様に仕切って進めようとしていた。職業柄?雑誌やラジオ等への繋がりがあるので幾つもの雑誌取材やFMの番組への出演が決まって行った。取材はポコペンさんと僕の2人で受けるものが殆どで、実際に取材に同行するのはバッドニュースのスタッフ川端氏だった。こうした活動はポコペンさんも僕も不得意で毎週のように取材に呼び出されて疲れたけど、そうした一連の様子を面白くなさそうに横目で見ながら、もう共同プロデュースなんて知った事か、みたいな態度で悪態をついている勝井さんと、高橋氏の間で2人で板挟みになっている事の方が辛かった。この時の心境は僕ら2人にしか分かるまい。鈴木君は終始我関せずで飄々としていたので。

そしてある時、、、
田中さんと云う時々ライブに誘ってもらってお世話になっている人がいた。最初に誘ってもらったのは灰野敬二さんのバンド「哀悲謡」だった。田中さんは海外からマニアックな音楽家を呼んでライブを企画してsakanaを何度も前座に誘ってくれた。KEITH TIPPETT & JULIE TIPPETTさんやSLAPP HAPPYなど今では信じられないような機会を何度ももらった。その田中さんから「徳間ジャパンのインディー部門?であるWAXレーベルでsakanaのアルバムを作らないか?と云ってきてるんだけど、どうですか?」と相談をもらった。確か経堂の駅前の喫茶店でポコペンさんと2人で話を聞きに行った。「今、高橋健太郎さんって云う人と関わってセルフカバーのミニアルバムが完成してリリースへ向けて動いている感じなので、皆さんと相談してみないと分からないんですが、僕たち2人はお願いしたい気持ちです」と云って帰った。

田中さんは勝井さんと親しかったので、この話は田中さんから勝井さんにも伝えた。勝井さんは素早く反応して「じゃあ僕が全面的にプロデュースしますよ、sakanaの2人もやる気なんだしすぐ動きましょう」と1人で勝手に話を進め始めた。その後のスタジオでのリハーサルで、自分がプロデューサーとして仕切って、WAXレーベルで新アルバムを制作する事、勝井さんのレーベル「まぼろしの世界」からリリースしてもらった97年作の「My Dear」をWAXレーベルから同時に再発売してもらう事、を鈴木君含め僕らに発表した。鈴木君は「いいですね〜」と相変わらずお気楽だったけど、僕ら2人は「「リトルスワロー」の進め方と問題ないように高橋氏と相談して決めた方がよくないですか?」と云うも、「だってあの人別にマネージャーじゃないし、いちいち相談する必要ないでしょ?WAXの件は高橋氏無関係で進めたいと思ってますよ」と無茶な云い分だった。でも何も云わないわけにはいかないって事で、後日勝井さんは高橋氏に上記の計画を伝えたようだ。

当然ながら高橋氏は怒った。勝井さんに対して相当な剣幕だったようで、全員揃って緊急ミーティングとなった。確か梅ヶ丘の駅前喫茶店。「徳間でアルバム制作って事はsakanaにとって初のメジャー流通でのアルバムになるわけでしょう?それ自体はよかったと思うけど、今このタイミングで僕を無関係にして、その制作を進めるのはあまりに非常識ですよね?、もしどうしてもそれを強行するなら、僕は「リトルスワロー」の発売は中止しようと思います。でもかなり損害が出ますから、それなりの手段で争う事になりますよ?」と高橋氏は法的な訴えもあり得ると云っている。「じゃあ、どうしますかね?」と勝井さんは僕らに話を振る。なんでこんな目に合わなくては?と思うものの、、「僕としては高橋氏との計画が随分進んでいるので、先ずそれをちゃんと予定通りにやり終えたいです。WAXはその後の話になると思います」「で、WAXの制作に高橋氏には参加してもらうの?」「それは高橋氏と勝井さんで話し合ってもらえませんか?」「僕は当然だけど、制作に関わりたいですよ」と高橋氏。「じゃあ、後で僕らメンバー4人で話し合って決めますから」と勝井さんが強引に話を終わらせて、その日は帰った。WAXでのアルバム制作に高橋氏に参加してもらうか否かについては暫く棚上げ状態が続いた。

高橋氏から知人のつてで、11月にニューヨーク全体のライブハウスで一斉に行われるCMJと云う音楽イベントに出演出来る事になったので、ミニアルバムのプロモーションを兼ねて行きたいのだが、と云われる。メンバー4人の反応は様々。ポコペンさんと鈴木君は海外で演奏する機会は初めてなので行ってみたいと単純に云う。勝井さんはいろんなバンドで海外ツアーを経験しているし高橋氏への不信感があるので、費用はどうやって賄うのか確認している。相変わらず高橋氏の金銭面での説明は曖昧で「なんとかしようと思ってる」みたいな返事しかなかった。「でも出演する話が決まってしまってから旅費は自分持ちでと云われたって俺は行きませんよ?」と食い下がっていたけれど。そして僕はなんとなく気が進まなかった。僕は元々海外へsakanaの音楽を届けてみたいと云う考えがなかった。自分達が作ってる音楽は日本語で日本のリスナーへ向けてのもので、音楽の構造面?でも特に独自な面白みがあると思えないので、海外の人が聴いて関心を持つような音楽ではないと常々思っていた。だから行ったって意味がないと思った。でもプロモーションの為なら、ただ「海外でライブやって来ました」と云う事実を宣伝に使うのだろうと思ったので、リリースに向けて積極的に協力するのを求められるなら行くしかないんだろうなと。でも旅費なんて出せるはずがないからそこはどうするのか?と思う。

同時期に高橋氏からポコペンさんと僕に対して別の仕事を持ちかけられる。しのはらともえさんと云う芸能人?が作るアルバムにアレンジとバックトラックの制作で1曲参加しないかと。元曲を聴かされて、ギターとサンプリングデータを使ってヘンテコなアレンジを考えて、高橋氏のスタジオでポコペンさんと2人でバックトラックを録音した。その後都内の立派なスタジオでしのはらさんの歌入れに立ち会った。録音作業は全て高橋氏が行い、それを高橋氏はニューヨークの知人エンジニアの所へ持って行ってミックスして来た。プロデューサーとして一体幾らで制作を請け負ったのか知らないけど、メジャー仕事ってのは随分金が出るんだなと思った。当然僕たちへのギャラも高橋氏が受け取った予算から支払われるわけだけど、予算の詳細なんて教えてくれるはずはなく、ただ2人のギャラをニューヨークへの旅費に使おうと思ってるんだけどいいかな?と訊かれる。う〜ん、仕事の報酬を旅費に使うって、結局自腹で行けって事と同じですよね?と云ってみたが、ポコペンさんはそれでいいと云うので、それに同調した。考えてみれば僕ら2人の旅費捻出の為に高橋氏が取って来た仕事だったのかも知れないけど実情は不明。

鈴木君は「僕は自腹で行ってもいいくらいに思ってます」と云う。高橋氏は勝井さんと鈴木君の旅費はミニアルバム「リトルスワロー」の演奏ギャラで賄いたいと云って来た。鈴木君は即OKで勝井さんはそれは自腹と同じだから、俺はその条件なら行きませんと云った。

1998年11月、CMJミュージックマラソンに参加するためにニューヨークへ。高橋氏は別件で先に行っており、sakanaのメンバー4人は成田で集合。音楽ライターの岡村さんが同行した。 岡村さんはCMJに参加する幾つかの日本の音楽家を中心にCMJと云うイベント全体を取材してMM誌に記事を書くとの事だった。

行きの飛行機は空いていて3席くらい占領してぐうぐう寝てたらあっという間に着いた。自分は初めてのニューヨークって云うか渡米。ヨーロッパとは全然違う雰囲気。アメリカのTVドラマで見るような風景そのままですね〜と勝井さんに感想を云いながら宿までタクシー。翌日はライオンズ・デンと云うライブハウスで演奏。この日はバッドニュースナイト?みたいなバッドニュースから作品をリリースしているバンドが集まってのイベントだった。sakanaの演奏は散々だったと思う。初めての海外で音響の様子もさっぱり分からず、緊張もしていたので酷い演奏だった。日本なら白けてシ〜ンとしてしまうところだけど、海外は逆で誰も聴こうとしないでしゃべっているのでガヤガヤと煩い。僕ら全員ガッカリだった。勝井さんは不機嫌だった事もあり、演奏後珍しくお説教。「今日は酷かったね、明後日もこんな演奏したら本当に来た意味は全くないと思うよ、もっと頑張ろう」

翌日はOFFで少し観光。鈴木君は一人楽しそうに「本場のハンバーガー食って来ましたよ、いや〜、デカイのなんの!」と喜んでいた。いやしかしね、食べ物の不味さに驚く。何を食べても油っぽくて大味で全然美味しくない。しかも僕は好き嫌いが多く、肉を殆ど食べないので、スーパーでビスケットとコーヒー牛乳みたいな飲み物を買って来て、そればかり食べていた。そしてやはり緊張していたんだろうな、1日に二箱くらいタバコを吸っていた。ニューヨークの宿は当然のように禁煙だったけど全員無視して吸っていた。あの頃は4人ともタバコを吸っていたんだな、。

そして翌日は1日目より若干キレイ目なライブハウスで演奏。お店の名前は失念。やはり勝井さん以外みんな緊張しているけど、もう後がないと思って頑張った。決してベストな演奏だったとは思わないけど、いつも通りの演奏は出来たと思う。客席は相変わらず騒ついていたけど、ちゃんと聴いて反応してくれる人も居た。

翌日はすぐに帰りの飛行機へ。もうクタクタに疲れていた。帰りは混んでたけど、グウグウ寝てたらあっという間に成田に着いた。成田からはなぜか4人バラバラに帰路についた。僕は鈴木君と上野までスカイライナーに乗った。まだ疲れていてボ〜ッとしていたら、鈴木君が云う。「僕は今回初めて海外で演奏出来て本当によかったです。よい思い出になりました。ありがとうございます」「あ〜、うん、ならよかった、でも疲れたね、」それから帰りの飛行機の中で勝井さんにこう云われた。「往きの成田の待ち合わせ、俺は当日まで行くのやめようか悩んでたんだよね。まあ困るだろうと思って来たけど。でも旅費の件は納得出来ないから、これからなんとかしてもらわないと、」その後、勝井さんの旅費については結局高橋氏が充当すると云っていた「リトルスワロー」の演奏ギャラをちゃんと支払うかたちで勝井さんは納得したはずと思う。

その後も週一ペースのライブは続き、法政大学でPhewさんの前座をしたりいろいろ。「リトルスワロー」のプロモーション活動は大詰めになって、本日二つの取材を終えれば取材は全部終わりです、って日になった。バッドニュースの川端氏と3人でお疲れさまでした、と別れようとしたら「最後だしちょっとそこの喫茶店で話しませんか?」と誘われてポコペンさんと3人でお茶を飲む。川端氏が突然こんな話をした。「ウチ(バッドニュース)は以前オムニバスアルバムを作る際に高橋氏にアーティストを紹介してもらったりかなりお世話になったんですよ」「はあ、、」「それで今回のsakanaの話を持って来られて、ウチは全然やりたくはなかったんですけど断れなかったんですよね」「あ〜、そうなんですか、」「ええ、こんな話したくはなかったですけど、一応知っておいてほしいと思って、」「ははは、分かりましたよ、まあでも僕らが貴方達に義理を感じる必要なんてないですよね?」と云って気まずく別れた。あんな事を云わずにいられない程なにやら嫌な事を高橋氏にされたんだろうか?、、と僕らの高橋氏への不信感は募った。でもこの後も川端氏と高橋氏と顔を合わせる機会は何度もあったけど、どちらもシレッと普通にしていたけどね。

ミニアルバム「リトルスワロー」は1998年12月に予定どおり発売されて、取材を受けた記事やCMJのレポートも殆どは12月発売の雑誌に掲載されたと思う。 

明けて1999年。引き続きプロモーション活動として週一ペースのライブ、春頃からWAXレーベルで作るアルバムの準備。勝井さんが高橋氏はやはり制作からは外れてもらおうと云う。でもそれじゃ、昨年揉めた時の約束と違ってしまうでしょう?「いや、制作を一緒にと俺は云った覚えはないよ。何かしらで関わってもらう必要があるならプロモーションって事でいいんじゃない?」と強行だ。更に最初に話を持ってきた田中さんが「私は高橋氏とはあまり関わりたくないですね。プロデュースは勝井さんだけでよいと思うし、もう曲目もだいたい決まってるんでしょう?スタジオを手配すれば、他に頼む事なんてないじゃないですか?」と畳み掛けられる。う〜む、別に僕も高橋氏と一緒に制作したいわけじゃなかったけど、勝井さんの高橋氏に対する不信感がエスカレートして強引に話を進められてsakanaが巻き込まれている感じがどうにも納得いかない。ポコペンさんも同じように感じていた。でも煮え切らない態度の僕らに勝井さんは追い打ちをかける。「ハッキリ云うけど、高橋氏は不透明な事が多くて信頼出来ないし、もう関わるのを止めた方がいいと思いますよ!」、、、、、「じゃあ、制作から降りてプロモーションだけ担当してくださいって勝井さん連絡してくれますか?」「いや、それはバンドリーダーから云うべきでしょう」僕をバンドリーダーなんて呼んだのはこの時が初めてじゃないのか?あまりに勝手な云い分に呆れたけど、もう何を云っても無駄だと思い僕から高橋氏に伝える事にした。

ポコペンさんと2人の時に自分は全然納得いかないと話した。ポコペンさんも同じように思うとは云うけれど、でもこうなったら勝井さんのやりたいようにやってもらうしかないじゃないの、と云う。1人だと気が滅入るので一緒にいる時に高橋氏に電話して「今日皆でWAXの件話し合ったんですが、高橋さんには制作から降りてもらってプロモーションだけおねがいしたいと云うことになりました、すみません」と伝えた。「リトルスワローの事で僕は頑張ったつもりだけど、僕は外して次へ行きますって、それはないんじゃないの?本当に酷いと思うよ」と云われる。なんでこんな羽目になってるのか??と思うんだけど、この時だけは高橋氏の云い分は分かる気がした。でももう決まったことなので、と伝えて話を終えた。

そんな感じで夏が来て、WAXレーベルでのアルバム制作が始まった。進行は全て勝井さん仕切り。徳間からディレクターの人が1人付いたけど名前は失念。この人とは1~2回会っただけで、殆ど勝井さんとしかやり取りしていない。当時の大きい会社のレーベルってのは制作ノルマみたいのがあって、年間これだけの作品を制作しなきゃいけないってノルマの達成の為にsakanaは誘われただけだった。だからこのディレクター氏はsakanaには全く興味なかったし、勝井さんと金銭やスケジュールの確認が出来ていればそれでよかったのだ。

確か6月、吉祥寺のGOKサウンドでアルバム「Welcome」の制作が始まった。制作の過程は「バイオグラフィ-後半」に書いたので詳しくは書かないけど、約3ヶ月の制作期間で9月にマスタリングを終えて完成した。 この時同じスタジオで「My Dear」のリマスタリングも行って、10月に同時発売になった。その後はプローモーション活動でライブと取材が続く。

ここで「リトルスワロー」と「welcome」で僕が受け取った印税の額を書いておく。「リトルスワロー」はバッドニュースから約¥48,000-、「welcome」は同時に再販された「My Dear」と合わせてWAXから約¥80,000-。その他にジャケットのイラスト代として¥50,000-をもらった。

「welcome」は自分にとってはあまり気に入った作品ではなかった。なのですぐにでも、もっと自分で好きになれる作品を作らないと収まりがつかない心境だった。それで'99年秋にマルチレコーダーA-DATとアナログミキサーの中古品とマイクとマイクアンプを2年ローンを組んで買い込み、自宅で次の作品「Blind Moon」の制作を1人で始めた。取り敢えずは全く1人で新たに作った曲を4曲録音して、それをポコペンさんに聴いてもらい、歌詞を書いて歌を入れてもらった。よい感触だったのでポコペンさんにも新曲を提供してもらい僕も追加で曲を作り、全11曲を録音して完成させた。全て自宅で完成させるつもりだったが、途中でアパートの住人から騒音苦情が来て作業が出来なくなったので、高橋氏のプライベートスタジオの使ってない深夜〜朝までを一泊20,000円で借りて制作を続けた。高橋氏のスタジオへも自前のマイクやその他機材を持ち込んで作業したが、A-DATとミキサーはスタジオのを借りた。音入れが済んで、ミックス作業は全て自宅でヘッドフォンでモニターしながら行った。このアルバムは初めて自分で製品化に堪える音質で音源を作ろうとしたので、録音面、演奏面でも試行錯誤が多く、とても時間がかかった。バイトとライブとリハーサルを除く殆どの時間を費やして、約半年かかり2000年の5月に音源が完成した。マスターテープは全てDAT。曲順も決めて、さてこれをどうやって発売しようか?と悩む。機材のローンがあったけど、更にどこからか金を借りて自主制作で発売しようかと思う。でも万年金欠の自分にはローンを抱えてちょっとリスクがあり過ぎ。「Welcome」の経緯があるので勝井さんに相談する気はなかった。過去にお世話になったナツメグとSSEはどちらもこの時期既にレーベルとしては運営されていなかった。なので、高橋氏にどこか出してくれるところを紹介してくれませんか?と頼んでみた。「バッドニュースの川端くんには既に何曲か聴いてもらったけど興味あるみたいでしたよ?」更に「僕は近々レーベルを始めようと思ってるから、そこでやってもいいけど」と云われた。

しかしその頃にまた揉め事があった。「Welcome」の印税配分でWAXと高橋氏との間で食い違いが生じて、結局僕らが受け取るアーティスト印税?をその穴埋めに回すと云われたのだった。「いや、それは納得行きません」と伝えて、徳間のディレクター氏と勝井さんと高橋氏、僕ら2人で緊急ミーティング。事の詳細はよく覚えていないけど、高橋氏に分配されるはずのプローモーション印税が約束とは違う低い%なので高橋氏が異議を唱え、穴埋めをどうするか?って問題なった。僕らにしてみればプロデューサーである勝井さんとプロモーション担当の高橋氏との間で話し合われるべき問題だったのになぜ僕らにしわ寄せが来るんですか?と云う不満があったわけ。ポコペンさんは「あなた達3人の問題でしょう?なんで私達にそんな事云ってくるんですか?(徳間のディレクター氏に向かって)貴方が不足分を個人的に払えばいいじゃないですか?」と無茶な事を云っている。結局どうにもならず、しわ寄せを僕らの印税から引く事になった。この一件でレーベルと関わって作品を世に出そうとするとなぜだか面倒が起こるものだなと痛感したので、帰り際に「Blind Moon」のリリースは自分達で少し金貯めてやろうと思うので、先日の話はなかった事にしてください、と伝えた。しかしこれについては意外なほど反対された。「いや、せっかく苦労して作ったのに、それでは十分なプローモーションも出来ないだろうし。それにバッドニュースも興味持っているし、」と云われる。「少し考えます」と云ってその日は帰ったけど、結局後日ミーティングをして高橋氏が新たに立ち上げるレーベルMemory Labでリリースする事に決まった。

「Blind Moon」は2000年11月に発売。その後はプロモーションの一環で関西方面に何度もライブへ行く。都内でもかなりのペースでライブ。都内は4人だったけど関西へは2人が多かった。関西での取材もあった。ともかく2000年〜2001年はこの流れでとても疲れた。新しい曲もあまり出来なかった。それでも4人でのライブは10日に一回ペースで続いていた。2002年には僕が音楽的に勝井さんと演奏するのが難しくなり抜けてもらった。新作を早く作れないか?と高橋氏から度々訊かれるが無理だった。次のアルバムは鈴木君を含めたトリオ編成でバンドっぽく作ろうとは云っていたが、なかなか録音に入れるまで曲が纏まらなかった。

2002年のある時、sakanaにしては大きなイベントに出演した。他の出演者はクラムボンやハナレグミ(当時は違う名前だったかも知れない)etc, 大きなイベンターから高橋氏にオファーがあって「出ませんか?」と連絡をもらう。 一旦出ますと返事したが、翌日鈴木君から他のバンドのライブとダブルブッキングになってしまって出られないと連絡が来た。大き目なイベントに2人では出演出来ないと高橋氏にキャンセルの連絡をするが「今更キャンセル出来ない、もう出演すると返事してしまったから」と強硬に云われる。さあ困った、、となって、高橋氏から「フリーボのリズム隊2人なら紹介するよ」と云われてお願いする事になった。急遽の助っ人だったけど熱心に演奏してもらって助かった。しかしこのイベントは報酬が一切出ないと後から高橋氏に云われる。「え、そうなんですか?でもフリーボのお2人にはギャラ払ってくれるんですよね?」「いや、だってイベンターから何も入って来ないんだから払いようがないでしょ?」と云われる。後日ポコペンさんと相談して、フリーボのお2人にsakanaの活動貯金から10,000円ずつ謝礼を支払った。経緯を考えればおかしな話だと思ったが、これは僕らがそうしなくては気が済まず勝手にした事だ。しかしこの出来事の2年後くらいに高橋氏はブログでこの件について書いていた。「イベンターの**はsakanaに数年前に出演依頼をして来たが結局ノーギャラで済ませた。他の出演者にノーギャラで済ませられたはずはないのでウチがなめられたわけだが、オレの金ではなくアーティスト金なんだ。ふざけんな!!」と乱暴な言葉遣いの書きようだった。ポコペンさんとこのブログを読んで変な人だなと思う。あの時の経緯と僕らがフリーボのお2人にギャラを払ったのを知っているはずなんだけど、それを何もなかったかのように傍観していたのに、。

ある時、高橋氏がオリジナルがなかなか纏まらないなら、何かカバーを録音してみたら?と云われて、なんとなく3曲録音してみた。ギリアン・ウェルチの「One More Doller」ボブ・ディランの「Girl From North Country」ジェリー.ジェフ・ウォーカーの「Mr. Bojangles」をアコースティックギター2本と鈴木君の簡素なパーカッション、ポコペンさんのボーカルを録音してミックスしてみたけど、あまり良い出来とは思わなかった。でも折角録ったしCD-Rに焼いてライブで手売りしようって事になった。他人の著作物を無断で録音したものを売るんだから、幾らで売ったか覚えてないけど本来はするべきではない事だった。枚数は10枚、1回のライブで売り切った。この事を高橋氏から後日咎められる。「10枚くらいだからいいだろう?と思うのかも知れないが違法ですよ?それにカバーを録音してみたらと云うのは僕のアイデアじゃないですか?それを無断で売るのもよくないでしょう?」著作権侵害と云う点では何を云われても仕方がないが、カバーでも録音してみれば?をこんな風に恩着せがましく云われるとは思ってなかったけど黙っていた。更にこう云われる。「マキシシングルとしてウチ(Memory Lab)で出しますよ」もう考えるのが面倒になって承諾した。しかしこのシングル発売については演奏と録音に対する報酬は一切なし(現物を20枚支給されたが)。説明は「シングルは全然利益にならないから」の一言。僕らが家で作って提供した音源に高橋氏がマスタリングを施し、リリースされたのは2003年春だったと思う。

話が少し前後するが、2002年秋に久しぶりに個展をした。下北沢の小さな貸しギャラリーを知り合いに教えてもらって自分で企画した。いろいろ煮詰まった状況に変化を求めての事だったと思う。会期中その会場で流すためのBGMを録音した。3分の2はポコペンさんに歌詞を付けて歌ってもらい、3分の1はインストだった。真夏の暑い部屋で汗だくで録音した。かなりラフな演奏と録音ミックスだったけど、「Blind Moon」以降久しぶりのオリジナル曲の録音物となった。これにポコペンさんが新たに書き下ろした新曲2曲を追加録音して、アルバムとして発売したいと考えた。今回は高橋氏のレーベルに頼みたくなかったので、初めての自主レーベル、sakana recordsからリリースする事にした。CDプレスについては「音が良い」との事だったので高橋氏に紹介してもらったところへ頼む事にした。流通が分からなかったので勝井さんに電話してディストリビューターを紹介してほしいと頼む。ブリッジの金野さんを紹介してもらって、ポコペンさんと学芸大の事務所へ会いに行った。金野さんは納品前にしなくてはいけない段取りを詳しく説明してくれて「よろしくお願いします」とお願いして帰った。更に高橋氏からディストリビューター、ダイキサウンドを紹介してもらい、確か品川の会社へ挨拶に行った覚えがある。乗松さんと云う担当者を紹介されたはず。

そうこうしている間に高橋氏から電話があり「今までウチでアルバムをリリースしてプロモーションその他で働いてきたが、それについてどう考えているのか?」と訊かれる。「はあ?どういうことですか?」「リトルスワロー以降、ライブの集客数やsakanaの知名度は明らかに上がったでしょう?それをもういいです、これからは自分たちでやって行きます、さようならで済むと考えているんですか?それに現時点でもライブのオファーなどウチに連絡が来る事も多いけど、それに対して今後どう対応して行けばいいのですか?」と問い詰められ、「ではライブのオファーについてはウチを窓口にして取り次いでください、そしてプロモーションを引き続きお願いしたいと思いますが、プローモーション印税の相場ってどのくらいなんでしょうか?」「さあ?」「分かりました、じゃあ5%でお願いします」と約束した。それから「Sunny Spot Lane」の音源は自分でミックスしてとあるスタジオでマスタリングしたけど失敗した。マスタリングに問題があったのではなくミックスの駄目さがマスタリングで露わになってしまったのでミックスからやり直した。そして修正した音源を高橋氏に頼んでマスタリングしてもらった。この時マスタリング費として高橋氏に¥100,000-を支払った(額は自分で決めた事でこの額を高橋氏から請求されたわけではない)。

このBGMアルバム?「Sunny Spot Lane」はPocopen & Nishiwaki名義で2003年にリリース。実質約2200枚を出荷して高橋氏に支払ったプローモーション印税の合計は約¥280,000-だった(後述する未払いだった¥50,000-を含む)。その他にプローモーションにかかった実費として200,000-を請求されて支払っている。明細は資料郵送費¥150,000、大阪京都へのレコード店への営業の為の交通費¥50,000-、云うザックリしたものだった。この経験により(支払わなくてはならない経費額が思っていたより多かった為)次回から高橋氏には何も頼まないようにしようと思う。しかしこの後も残念ながらそう云う方向へは運ばない。

2003年末、ついに3人編成のsakanaでアルバムを作ろうと決心した。当時ライブで頻繁に演奏していた曲目で構成したバンド然とした作品を目標にして、下北沢のスタジオを借りて全10曲のベーシック録音をした。 ポコペンさんと僕のギター2本とドラムと仮歌をせーので録って、オケはそれでOKを目指したが、やはりギターパートにいろいろ後悔が残りドラムパートだけ生かしてギターは殆どを家で録り直した。そのオケに本歌を全て家で録音してミックスした。ミックスはかなり悩んで1ヶ月くらいかかったけど、いよいよ完成間近のところまで来た。ほぼ完成の音源をポコペンさんと鈴木君に渡して、これで大丈夫かを確認する。鈴木君はOKだったがポコペンさんがダメ出し。「これじゃ全然ダメでしょ?もう手直ししてどうにかなる感じじゃないと思う。この音源は全部ボツね!」「え〜〜〜?こんなに時間をかけて頑張ったのに??」しかしこうなるともうどうにもならない。鈴木君も苦笑していたがまあ諦めた。この音源制作の為のスタジオ代は、当時のsakanaは次作を作る時の為に普段のライブギャラから少しずつ貯金をしていてそれで払った。3人とも納得の上での貯金だったので、このボツ宣言に全員従う事で損害は後腐れナシだったわけ。

で、ここまで来たら再挑戦してアルバムを作らねばならないがもうsakana貯金はなくなったしどうする?となった。ポコペンさんが高橋氏(Memory Lab)に頼もうと云う。鈴木君はそれに賛成。僕はボツが尾を引いていて、何も反論する気になれずそれに従った。高橋氏への依頼はポコペンさんから伝えてもらった。

2004年たぶん6月頃、高橋氏自宅近所のスタジオでアルバム「Locomotion」のベーシック録音をした。スタジオ作業は2日間。やはり結局ギターパートは8割くらい家で録り直したし、本歌は全て家で録った。ミックスについては前回のボツで僕は自信を失っていたので殆どを高橋氏に頼んだ。少し自分でやれば?と云われて2曲だけやった。

しかしこのアルバムの完成音源はポコペンさんと自分はあまり気に入らなかった。頑張ったけれど残念な結果だと感じていた。

でも2004年にリリースされて、明けて2005年はそのプローモーションの為のライブが続いた。度々関西方面へ行って、インストアライブや取材等々。東京での発売ライブは少し時間を置いて8月にマンダラ-2で行った。この日を最後に鈴木君はsakanaを辞めた。ポコペンさんと鈴木君の間での音楽的な意見の相違?が主な理由だった(詳しくは以前書いたbiographyに書いてあります)。でも僕個人は特に鈴木君と揉めたわけじゃない。実は僕と鈴木君は長年付かず離れずと云った感じで、微妙な距離感で付き合っていたと思う。ポコペンさん勝井さんの方がずっと親しく付き合っていたんじゃないかな。そして高橋氏と最も和気藹々と付き合っていたのも鈴木君だった。きっとウマが合ったのだろう。 「Locomotion」で僕がもらった印税の額は約¥36,000-。

余談だけど、2004年に僕はようやくネット環境を整えて、sakanaのホームページを開設した。簡素なものだったけど自分達で情報を発信出来るようになってよかった。いろんなバンドのホームページも見れるようになって、遅ればせながらへえ〜とか思って見物していた。それから初めて海外(フランス)で個展をした。旧い付き合いの知人が企画してくれたのだった。

2005年秋に下北沢leteの営業時間外を借りて次のアルバム「Sunday Clothes」の録音を始めた。高橋氏はこの頃、sakanaのライブの動画を撮影したいと云っていた。なんでなのか?訊くと、記録として残しておくとよいと思うとの答えだった。しかしポコペンさんと僕は、録画したものを後々商品にして販売するのではないか?と心配した。そうしたいとは全然思っていなかった。高橋氏はそんなつもりはないと云って、次のライブを撮影しに行くからと約束したのだが、そのライブにカメラマンを連れ行くと連絡があり、そんな風に人手を使って撮影したら、またカメラマンに報酬を払ったんだとかなんとか云って、その映像を販売する事にならないか?と思い、土壇場でキャンセルした。高橋氏は怒っていたが、もうどうでもよかった。そして2005年冬、随分寒くなって来た頃、青山のライブハウスでsakanaのライブがあった、他の出演者が割礼、コクシネル、灰野敬二さん、と云う思い出深いライブだった。そこへ高橋氏が観にやって来て、楽屋で「この間キャンセルになった撮影を仕切り直して行ないたいんだけど」と云われる。「今僕らは次のアルバムの準備中でsakana recordsでリリースしようと思っています。でも高橋さんにお願いしたい事は何もありません。そしてもし動画を撮ってもらってもそれを世に出す気はないのですが、それでも撮影するのですか?」と答えた。「うん、記録として残したいから、」と高橋氏は云っていた。このやり取りは高橋氏に同行していたデザイナーの山田真介氏が隣で聞いていたので覚えていると思う。でもこの後動画撮影は自然消滅して、高橋氏と連絡を取り合う事もどこかで顔を合わせる事もなく数年が過ぎた。この時以降、高橋氏とsakanaの関わりは無くなったと思う。人から恩知らずだよね?と云われた事もあるし、高橋氏が関わらなくなったら目に見えてライブの集客減りましたねぇ?と云う人もいた。そうなのかも知れないし、、でも自分にはよく分からない。

そして暫く経って、
2008年12月、sakanaが度々ライブでお世話になっていた下北沢のleteが、店外イベント「レテのコンサート vol.1」を企画してsakanaで出演する事になった。店主町野氏から「会場での物販用にアルバム「Blind Moon」を再販してほしいと高橋さんに頼んだんですよ」と云われて驚く。この時点で「Blind Moon」は廃盤になって5年近く経っていた(少なくとも5年間は印税報告がなく、在庫は売り切って廃盤になり流通していないと思っていた)。それが突然再販されると聞いたので。通常だと再販の際は事前に作者側に何かしら連絡があるものだけど(少なくとも他のアルバムはそうだった)、何も断らずに再販してもいいものなんだな、と少し変に感じたけど、いずれ報告があるのだろうとその時点では思った。

2009年4月、 再販された「Blind Moon」はアマゾンでも売っているしどうなってるのだろう?とあらためて思う。なぜ5年も販売せずに放っていたものを急に再販したのだろうか?僕たちは「Blind Moon」が廃盤状態なのを残念に思っていたので、使わないのなら原盤権を返してもらえないだろうか?と思っていた。それが突然再販されて何も云われないのだから不信に思うのも仕方がない。なので「Blind Moon」が再販されているようだが売上の報告を頂きたい、そして今後は「Blind Moon」を自分たちでCDにして販売して行きたいので原盤を返してもらえないだろうか?と高橋氏にメールした。原盤を返してほしいと云われて、はいそうですか、と返却されるなんて無理なのは分かっていた。でも自分はなんとなくそれまでの経緯で「Blind Moon」は元が取れて(リクープして)いて、レーベル側に多少の利益があっただろうと推測していた。なので原盤を使う気がないのなら返してもらえないか?と訊ねてみたのだ。

*ここで本当に元が取れているのかどうか?少し詳しく書いてみる。この時点で自分が報告を受けていた[Blind Moon]の売上枚数のトータルは約4500枚強。「Blind Moon」の音源は全て自宅録音ミックスで制作(前述したように途中騒音問題で高橋氏のプライベートをスタジオを一泊2万円計算で数日借りた)したので、音源の制作費は全て自分で負担した。そして完成した音源を高橋氏に60万円で売却した。その際上記のスタジオ使用料を相殺して、自分が受け取った額は約44万。この金額はポコペンさんと僕が録音と演奏に費やした時間と労力、高橋氏のスタジオを借りた借り賃等を自分で細かに書き出して算出した額なので別に金額に不満はない。それをポコペンさんと演奏ギャラとして折半した。基本的に自主制作と思っていたのでそれで構わなかった。その音源を高橋氏はマスタリングを施してして商品化した。マスタリングは良いスタジオを使ったのでたぶん25万位かかったと思う。その他ジャケット印刷やプレス代はネットで調べればすぐわかると思う。ジャケットのイラストは僕が描いてノーギャラだったけど別に構わなかったので何も云わなかった。20歳過ぎくらいの若者にデザイン制作を頼んでいたけど彼はデザイン料をもらったのだろうか、分からない。その他にもプロモーション費用やらなんやら雑費はあると思う。CDの流通は55~53%卸し、上代が¥2,800-で4500枚分を計算すれば大まかな売上が分かり、上記の制作費やジャスラック登録料や諸々経費を引いてみれば、元が取れて若干は利益が出ていると自分には思われる。

それで、、上記の問い合わせに対する高橋氏の返信メールは以下のような内容だった。

「何の理由もなしに原盤の返却などするはずがない。元は取れているのだろうから返してくれてもいいだろう?と考えるのかも知れないが、仮に10万円で手に入れたものを使って1億円儲けたって、10万円で納得して売ったのなら文句は云えないはずだ。

再販分の報告については後日行う。

突然思い付きで連絡をして来て、ワケの分からない要求をして、 相手が不快に思うことくらい分からないのか?

それからついでだから云うが、 ウチがプロモーションを引き受けた「Sunny Spot Lane」の売上について2005年以降なんの報告もないがどうなっているのか?」

随分な云われよう。
しかし迂闊にも「Sunny Spot Lane」の売上報告をほぼ4年間失念していた。と云うか「Sunny Spot Lane」の売上分の印税は全部払って、もう在庫はなかったので未払いの印税はないと思っていた。でも指摘されて出荷伝票を確認して約5万円のプロモーション印税を支払うべきだと分かり、申し訳ありませんと謝ってすぐに支払った。

そしてこの返答によって、もう原盤を手に入れるのは無理と理解してすぐ諦めた。再販の報告は大人しく待っていよう。約1ヶ月後に「Blind Moon」の再販分として自分は約¥5.000-の印税を受け取った。

*この時の高橋氏とのやり取りで、自分は今までに「Blind Moon」の売上として(再販前に)報告を受けたトータルの枚数は約4500枚だがそれで間違いないか?と確認している。「報告書にそう書いてあったならそうだ」と云う返答だった。そして更にやり取りの返信の中で以下のように云われた。

「いろいろ思うところあって、2005年以降、ウチで出したsakanaのアルバムはもう売ってやらないと決めた。完全に流通しておらずamazonでも「Blind Moon」の中古盤が高値で売られていたはずだ。理由としては (ドラムの)鈴木君がsakanaを辞めた経緯は酷いと思ったし、それ以外にも動画撮影を土壇場でキャンセルしたり、今まであなた達と付き合う事で被った迷惑が多いのでこれ以上関係を維持する理由がなかった為だ。「Blind Moon」は昨年末(2008年末)にレテの町野氏からコンサートで売りたいから再販してほしいと頼まれて、気は進まなかったが仕方なくやった。しかしこんな事ならやはりやらなければよかったと思う」 

これもまた散々な云われよう、。
しかし付き合いがあった期間に多々迷惑をかけたのは事実とも思う。セッティングされた取材に度々遅刻した。アルバム「Locomotion」のジャケット印刷用データを僕が作ったんだけど、失敗してしまい最初の製版代を無駄にしてしまったり、他にも色々あったんだろうと思う。鈴木君脱退と動画撮影キャンセルについては先に書いた通りなのでそんな風に云われるのはおかしいと思うけど。

なので「もうsakanaの作品は売ってやらない」がそのまま実行され続けたら、自分はそれで構わなかったんだよな、。でも今でもMemory Labからリリースされた3タイトルは配信販売されている。印税が発生するような売上はないと思うけど何も報告せず10年以上放ったらかしで配信を続けてるのはおかしいと思う。例えばOTOTOYだって何年も売り上げゼロだけど月々報告は来るので。でもなんか理由があるんだろう。例えばアルバム「Locomotion」はたぶんリクープ出来てないので赤字回収の為とか、。

今になってみれば、以前はほしいと思った「Blind Moon」の原盤はもう要らない。もし仮にただで返してくれると云われても使い道がないからと断ると思う。これから先なにかしらの印税がMemory Labから支払われる事も一切ないと思うが、それも全然構わない。今はもうsakanaとして活動してないしね。

上記の中で自分が受け取った印税の額をわざわざ書き記したのは、云うまでもない事だけど、自分たちみたいに小さな規模で音楽活動しているものにとって作品が金になるとかならないなんて話はナンセンスだと分かってもらいたかったから。まして録音物は金にならないと云われて久しい近年。それから高橋氏が電話で云って来たように、高橋氏のプロモーションやその他によってライブの集客数が増えたのは事実だと思うし、それによってライブ毎のメンバーのギャラが少し増えたのかも知れないけど、じゃあ高橋氏はsakanaにただ「与えた」だけなのかと云えばそうではないと思う。金銭面だけではなく色んな意味でお互い様だと思うので誰かから「恩知らずだよね」なんて云われる覚えはないんだよな。

上記2009年の問い合わせが高橋氏と自分が交わした最後のやり取りだった。この後ポコペンさんは高橋氏と約10カ月に渡って執拗な問答を繰り返すのだがそれについて自分は全てを知っているわけではないし、ポコペンさんには不毛だから早く止めるよう進言したけど全く効力がなかったので、自分としては何も云う事はない。

、、、
自分は冒頭で書いたように散々悩んで自分の意思で関わって頑張ってみようと決めたので後悔はしてない。でも単純に関わっていた間はいい事より嫌な思いをする事の方が自分は多かった。自分だけとは思わない。ポコペンさんも、勝井さんも、たぶん高橋氏もそうなんだろう。そして金銭的にも大雑把には誰にも利益はなかったと思う。少なくとも自分は高橋氏からもらった金と高橋氏に支払った金に殆ど差がないので。

こうやって振り返ってみて思うのは、冒頭で書いたようにやはり高橋氏はsakanaではなくポコペンさんとソロアーティストとして関わってみようとすればよかったと。それまでのささやかなsakanaの活動歴を勿体ないから利用しようとか、そんな風に作戦を考えて自分やその他の人たちを巻き込まなければよかったんじゃないかと思う。そうすればもしかしたら「離陸」出来たのかも知れない。それともやはり「あの時」自分がsakanaを辞めてしまうのが正解だったのだろうか?