雑記帳

雑記帳

会社でされたこと-その4

2021年03月11日 | 日記
【人事のふざけた応対】
俺はそもそも学問とやらをしに行ってみようと
大学進学を決意したのだ。
そこのところをこの会社の人事も、同期も全く分かっていなかった。
大学とはどういうところなのか、
そういうことを考えたこともないこの腑抜けどもが、
俺を、勉強しかしてきていないただのガリ勉だの 、
(俺は勉強をしていたというよりも、
学問に触れてみたいと思っていたわけなのだが)、
出身校の偏差値の低い人間だから
頭の良い人間ではないだのと、
言いたい放題俺を中傷し、
俺を虐めて悦に浸っていた。
この会社の人事も、同期も、
大学を就職予備校としか捉えていなかった。
こういう奴らのコンプレックスやストレスの捌け口のために、
研修では散々俺が利用されたわけだ。

企業が選考基準として、
大学の偏差値だけではなく、
高校の偏差値も参考にする場合があると
噂には聞いたことがあったし、
実際に、
世の中ではそのような選考基準が
横行している部分もあるようである。
この会社の人間は、
その会社の立ち位置から、
大学そのものの偏差値の高い人間を採用するのは難しかったようであるが、
大学の偏差値がパッとしなくても、
高校の偏差値の高い人間は結構多かった。
俺は難関大の出身者というわけではないし、
就職先の会社は大学のOBが多数在籍している会社でもなかったので、
大学そのものに対する人事の理解と評価は乏しかったであろうし、
また、そういうことから、
俺の出身大学から入社した人間を受け入れる
会社の土壌が整っていたともいえないだろう。
そして、出身高専の入学難易度もさして高くもなく、
ましてや地元では
進学校の滑り止めとも評価されることもある
学校であるので、
この学校のレベルをみられて、
俺が会社で酷い扱いを受けたとも考えられるのだ。
結局はただ学歴ですべてを判断され、
酷い扱いを受けたのかもしれない。

偏差値至上主義者にはわからないだろうが、
出身校の偏差値が高くても馬鹿な奴もいるんだよ。
まあ、それがこういう奴らにはわかんないんだろうな。
偏差値こそ唯一の指標であり、
それによって下される評価は絶対にして唯一の
間違いなく正しいものであると信じ込んでいるのだから。
糞馬鹿だな、こいつら。
そもそもその偏差値という評価基準を適用させる際の
万人の状態や環境が同一というわけでもないんだから、
それはあくまでもある段階で
一定の評価基準を適用させた際の結果という意味合いしか持たないだろう。
これはあくまでも当人の進学先を振り分ける際の
基準として設定され、用いられているだけのことだ。
学校という組織の社会における機能上、
そういった点で学生の学習能力を評価し、
選抜しておいた方が合理的であると考えられ、
導入されている制度でしかないだろう。
もちろんそれが、
学術的な知識の習得を特に必要とするような専攻分野においては
有効と見受けられる選抜方法であることは十分に認識している。
しかし、この評価の手法が能力を
絶対的に平等に、そして公正に評価していると
強く信じ込んでいる人間もいて、
そういう奴は例外なくその評価と根源的な知力とを結び付け、
優劣を語ってくることが多いが、
そうではなく、この評価手法に関しては、
万人に対して、
進学先の振り分けを目的として、
当人の状態や環境は考慮せず、
ある一定の段階で同一の評価手法を適用させて、
その手法を基にとある評価を出してみるという、
その評価手法の適用が同一であるということでしかないだろう。
馬鹿ばっかりだな、ほんと。
そもそも偏差値で進学先の振るい分けが行われるわけでもあるのだから、
それによって無情にも当人の希望が打ち砕かれることもあるわけで、
そういった環境では、
学力の高い人間に対する嫉妬から、
あるいは気にくわない人間の足を引っ張ろうとする意図から、
当人へのいじめ、あるいは学習妨害などといった
陰湿な行為も行われることくらいは容易に想像ができるだろうが。
そしてそういった卑劣な行為に対し、
学校側は何ら有効な手立てを講じようともしないだろう?
実際に学校で何が起きても、
学生のことは学生の自主性に任せる、
学生自身で問題解決させるとの文言の元、
卑劣な行為は放置放任されるじゃないか。
あくまでも偏差値という評価基準は、
とりわけ進学先の振り分けを意図して、
人生のとある一時期に、
統一の評価手法を適用させただけの
一つの指標でしかなく、
もちろん学校で学ぶ教養という観点を軽視するわけではないが、
特にそれ以外の意味合いなど持たないだろう。
そして教養というのはその人の内面を豊かにするものであって、
その人の視点や視野に示唆を与えてくれるものであったり、
結果として、その人の人生に深みを与えてくれることもあれば、
年齢を積み重ねた際に、人生を歩むうえでの
考察のポイントを与えてくれたり、
判断力を支えてくれるものでもあったりするものなのだろうし、
即時に役に立つような実践的な色彩を帯びたものでもないのだろうから、
その知識だけをひらけかし、
他者との優劣を語るというものではないのだろうし、
そういう形の優劣という尺度でもって
その価値を付けられるものでもないだろうと思うのだが。
身に付けておけば、年齢を重ねた際に、
あなたの人生にとって助けとなるヒントを
与えてくれるものなのかもしれませんよ、
というものなのだろうと思うし。
そもそも世の中には、この、
偏差値で能力の優劣まで語られるというシステムに乗っかって、
高偏差値校に進学するということ自体が
目的となっている奴らもいて、
そういう奴らは教養という観点から学習を積んでいるわけではなく、
そういう奴らの大半は、高偏差値校に進学するために受験技術を磨き、
テストのための勉強しかしていないのだから、
この指標と教養の深さというものを
安易に結びつけること自体も間違いだろう。
偏差値至上主義者がこういう点に気付いていないとは考えにくいし、
そういうわけで、結局のところ俺には、
こいつらは偏差値コンプをこじらせすぎていて、
性格がひん曲がっており、
それがただの指標であろうが、
それにより自身の優越性を主張できたり、
他者を否定できるのであれば何でも利用するという、
きったない魂胆を持ち合わせているだけとしか思えないのだ。
こういうクズっているからな、ほんと。
また、一定の年齢以上の人の場合、
若いうちに頭に学術知識を詰め込んだり学習訓練を積んでおかないと、
一定年齢を超えたらそれによって培われた知識量や能力は固定され、
向上しないと信じていることが多い。
こういうところが、偏狭な偏差値至上主義者たちの学歴妄信、
偏差値至上主義に繋がっていることが多々見受けられる。
別に世界的な一流を目指すというのならともかく、
一般的な世界なら挽回も可能だろうし、
そもそも個人の意思や自由を尊重するのが筋なのではないかと思うのだが、
こういう人間にそういう柔軟性はないのだ。
偏差値至上主義者ってこういう偏狭な嫌な奴らばかりなのだろうなと思う。

出身高専の偏差値のことで、
ここ十年以上も馬鹿にされ、
俺の学力・能力まで否定されてきたからな。
あほくさい。
こんなことを十年以上も言われ続けてきた俺の身にもなってみろよ。
それで公然と馬鹿にされ、低能だとみなされ、
可能性すら否定され、踏みにじられてきたんだから。
本来ならする必要のない苦労だった。
俺は地元有数の進学校に進学できなかったんじゃなくて、
ただ単に進学する選択を取らなかっただけで、
この進学校には優に進学できる学力を備えていたのだから。
このような批判は滑稽無答なただの誹謗中傷、
学力の高い俺に対する妬み以外の何物でもなかったのだから。
こんなことで俺の能力が否定され、
俺の意思や希望、可能性すら公然と否定され、
学習を妨害され、進学まで潰されたのだから。
俺が自身の努力により掴み取るはずだった将来すら、
この出身高専の偏差値を持ち出されて公然と否定され続け、
そして握り潰された。
馬鹿げている。こんなことが公然と行われていたんだからな。
世の中偏差値至上主義者は非常に多く、
また自身のコンプレックスでもあるからなのか、
偏差値を持ち出して人のことを公然と馬鹿にし、
その能力や可能性まで否定し、馬鹿にしてくる奴は本当に多いからな。
こいつらはそもそも自分の能力や可能性といったものまで
他人の作り出した尺度でもってでしか語れないということ、
またその他人の作り出した尺度を疑いようもなく受け入れ、
これを信じ切っていて、
これを持ち出して自分は勿論のこと、
人のことまでその能力を値踏みし、決めつける
という馬鹿馬鹿しさにも気づいていないのだろうか。
本当に自分の首に繋がれた首輪の立派さを自慢しあう奴隷そのものだと思う。
自分たちがいかに馬鹿げたことをしているのかということにも
気づかないのだろうか。
正直そんなことなどどうでもいいんだろうな。
多くの人間が信頼している評価を持ち出して、
自身の能力の優越性を語れたり、
あるいは自分は投げやりに諦めているというのに、
それでもなお将来の為に前に進もうとしている人間を疎ましく思うあまりに、
この尺度でもって、さも正論であるかのように装って、
他人の能力や可能性を否定できるのであれば、それでいいのだろう。
偏差値至上主義者が多いのではなく、
偏差値コンプレックスの奴らが多いのかもな。
馬鹿な奴らだよなぁと思う。
こんな奴らのくだらないニヒリズムに付き合わされる道理はない。

この会社にいた時のことは今思い返しても
腸が煮え繰り返る。
そもそも文系上がりの人事に
理系の何がわかるのだろうか。
こんな奴らが採用なんてやっているから、
会社が傾くんだろうがというのに。
はっきり言わせてもらえば、
この会社は人事が駄目駄目だった。

そもそも俺はただ数学や専門科目の世界を探究したかっただけで、
別に仕事がどうだとかそんな尺度で
物事に取り組んでいたわけではないのだ。
純粋な学術への探求心から取り組んでいただけ。
なのにしたり顔で、
「勉強ができるからといって仕事ができるとは限らない」
なんて言われると本当にあきれてしまう。
論点がずれているのだ。

個人的には、この、
「勉強ができるからといって仕事ができるとは限らない」
という主張に関しても思うところがあるので、
ここでその考えを述べさせてもらう。
まずは基本的に、仕事内容によっては、
机上の学習で培ってきた知識やその学習のノウハウが生かせない、
ということは当然あると思うので、
それは対象となる仕事によるのではないだろうか。
また、頭の中で理解することと、
実際にものに触れたり、現場に立ち会って、
自分の手を動かして問題解決にあたることは違うので、
そういう意味においてもこのような主張が出てくるのではないかと思う。
仕事の現場でどのような観点に注意を払い、
どのように頭を働かせて仕事を遂行するのか、
あるいはどのような能力や視点、
考察のポイントなどが求められているのかなんて、
結局のところ仕事を通じて自らをその場に置き、
実体験を積み重ねることによってでしか
掴むことはできないだろう。
ただそれは、経験値の不足により生じてくる問題であり、
そもそもそれまでの人生で
仕事の現状に沿った実戦的な経験を積むことは難しいのであるから、
それを教訓として述べるのならともかく、
その言葉を、
他人の能力を否定したり、
他人のこれまでの実績を否定したりするために持ち出すことなど
ただの個人攻撃の範疇を出ないだろう。
また、理系に関しては、
実験実習という講義や、あるいは研究活動などで、
仮にそれが部分的なものであるとしても、
研究者、技術者としての
問題解決の訓練を積むわけで、
文系と理系を一括りにして語ることはできないだろう。
そもそも、個人的な話をさせてもらえば、
俺は実験実習や、その課題として提出が義務付けられるレポート、
さらには研究活動などにはきちんと取り組んでいたし、
自分の頭で何が必要なのか、どのような能力を身に付けるべきなのか、
きちんと考えながら活動をしていたわけで、
そのような活動を通して身に付けた理系出身の技術者としての経験値を、
理系の教育体系も知らない文系の人間に
偉そうに頭ごなしに否定され、
これまでの活動そのものを否定される筋合いなどない。
また、これまでの入学試験や教育機関では
そのような実践的な問題解決能力を養うことの出来なかった人間もいるのかもしれないが、
そういう人間がいるとして、
そのような批判が成立するとした場合、
それは、ただその人が、
確かな知識や知恵を習得せず、
理解を伴わないただの暗記活動、
それは時間の経過とともに忘れ去ってしまい、後には何にも残らない、
全く意味のないことだと俺は思っているが、
そのような活動に終始していたり、
あるいは、受験突破のための受験技術習得のみに熱心で、
その学習の過程においてでも培われたはずの知識を、
結果的に試験以外で実践的に応用することのできない人間に対して
いえる言葉なのではないだろうか。
物事を抽象化して捉え、
エッセンスを理解するという訓練を行わない人間の場合、
別の物事と直面した際に、
その物事を抽象化して捉えられないので、
問題の本質を見極めきれず、
したがってその物事に対して
どのように取り組めばいいのかという策を自身で考案することもできず、
また、過去に直面した類似する物事との関連性も見いだせないであろうから、
過去の知見を問題解決に生かすこともできず、
結果として、種々の物事に直面するごとに、
その都度提案された解決策を覚えていくという
はなはだ非効率な方式を採用するしかなくなるだろう[1]。
言わせてもらえば、
俺は常に理解を伴う学習を心掛けてきたし、
基本的には各種試験の出題範囲にこだわって学習してきたわけでもないので、
俺にそのような趣旨の批判をするのであれば、
それは甚だ的外れなものであると言わざるをえない。

ここで俺の学習方針について書き綴っておこうと思う。
俺は能力を培うために、
自分なりの学習方針を立て、学習を積んできた。
基本的に提示された謎、問題に対して、
一体何が問題なのか、
どのあたりを探れば解決策を導き出すことができるか、
そのヒントを提示してくれる知識のデータベースを
何となくでもいいので頭の中に残しておくことと、
その切り口から思考を巡らせ、
解決策や仮説、あるいは推測を展開できるように、
既存の、抽象的思考の成果物を用いて、
(例えば、数学、物理学等の証明、概念の提示など)、
過去の偉人の作り上げたその思考の道筋を辿り、
それを自ら仮想的に体験することで、
これが後の本質を捉える思考力やひらめきの回路を
作り上げることに繋がるのではないかとの考えの元、
学習を積んできた。

それから、よくありがちな「優等生不要論」の批判も受けたので、
これについてもところ感じることをいわせてもらう。
日本では、
周囲に合わせておかないと虐められることが多いし、
集団の決断が本当に正しいのかという議論はさほどなされずに、
とにかく集団に合わせるのが正しいのだ、
という結論になることが多いから、
自分の頭で物事を考えたり、判断することを放棄し、
集団に合わせることを良しとする圧力が余計にかかりやすいのだろう。
しかし、そのように周りに合わせてばかりの人生では、
はっきりいって何も成し遂げることはできない、と俺は思う。
そして、このような学校教育の現状がある中で、
このようなことをいうのは生徒や学生の諸君には気の毒だとは思うが、
集団に合わせるということで答えを出し、思考停止する人間ではなく、
自分の頭で物事を考え、
判断できる人間が求められている側面もあるのではないだろうか。
例えば、個人が人間としての良識、良心を備え、
なおかつそれを大事にすることは
人として当然であり立派なことではあるし、
集団の生活の中で規範がつくられ、
それを人々が共有することによって社会秩序が保たれることも
また確かなことではあるので、
結果として周囲の意見にも耳を傾けることが必要になってはくるが、
その価値観に縛られるあまり、
集団に合わせてばかりで、
自ら考え、判断するということを集団に委ねるようなことがあっては、
周囲に流されるばかりで人生では何もなしえない、
主体的に何かをなしえることは難しい、
ということは、まずは言えるのではないかとおもう。
一方で、個々で倫理やモラルを持ち合わせておらず、
また、それらを重視もしないことから、
そういった観点で自身で物事を判断することができず、
とりわけ学校教育において、
学校側にとって都合の良い学校の体面・秩序の維持を
結果として無自覚に支持する、
個人の幸せや、集団生活の犠牲者には目を向けず、
善悪の概念から離れた、集団の歪な秩序の維持を重視する、
そんな、学校側にとって、生徒を管理する側にとっての
都合の良い存在はいらない、
というのが俺の感じる「優等生不要論」なのだ。
つまり、この場合における「優等生」という区分は、
成績が良いことや、倫理やモラルを兼ね備えているか、
ということを指し示す用語なのではなく、
生徒を管理する教師にとって都合の良い存在、
学校側にとって都合の良い、
学校の体面を維持するために、
教師、学校側に体よく利用されているだけの人、
日本の学校独自の閉鎖的な集団関係や、その集団の不文律の中で、
とにかく集団に弾かれないよう、
自分では何も考えず、
何ら主体的に行動もせず、
そして集団に合わせることに非常に重きを置き、
結果として学校の体面が守られること、
集団の歪な秩序が維持されることを
学校の意図に対して無自覚なまま肯定し、
これを正当化する人間のことを指すものなのである。
そのような人間が増えた方が、
生徒を管理する学校側にとっては都合が良いだろう。
おそらくは、時代の変化とともに、
空気のように当たり前のように存在していたレベルの
倫理やモラルでさえもさして意識もされず、
むしろそのようなものが警戒されるような世の中へと変遷していったために、
集団を構成する個人に倫理やモラルがある程度備わっている、
という前提がまずは崩れ、
集団の良識といったものが失われてしまったのだと思う。
とりわけ若いころは、
しっかりとした自分の軸をまだ形成することができておらず、
フラフラしており、
周囲に影響されやすいところがある。
こうして、倫理やモラルの観点から物事を考えようともしない、
生徒を管理する学校側にとって都合の良い、
学校の体面を保つこと、
その閉鎖的な集団での歪な秩序を維持することを無自覚に優先させ、
そうすることが当然だと思い込み、
それを正当化し、支持する人間が増えたことから、
この「優等生不要論」なる論調が提示されるように
なっていったのではないかと思っているのだ。
このような人間は、
集団内での明らかな問題も放置放任し、
それに疑問すら抱かないのは分かり切っているし、
とりわけ学校においては
生徒を管理する側にとっての都合の良い存在でしかないだろう。
そして、こういった人間はどこにいっても問題を放置し、
また、集団内での卑劣な行為まで、
善悪といった概念で捉えることをせずに、
集団の歪な秩序が保たれることを優先して、
この秩序の維持を正当化し、
支持することなどわかりきっている。
倫理やモラルといったものでさえ警戒感を抱かれるような社会では、
人々が当然そのようなものを心の片隅にでも意識して過ごすこともなく、
したがって集団において集団の良識というものは確立されず、
個々が倫理やモラルを持ち合わせておくことも重視されないので、
集団は倫理やモラルを軽視した、
とりわけ学校教育では生徒を管理する学校側にとって都合の良い、
組織が発する、体面を取り繕うための詭弁を、
無自覚に支持する判断、決断を下すことが多くなっていったのだと思う。
そして、かえって、
一人一人が社会に所属する人間として持ち合わせていたはずの
最低限の倫理やモラルが集団では共有されておらず、
これが欠如していることに気付き、
これを個人的に重視していくような人間そのものを、
集団が攻撃、否定する論調へと変わっていってしまっている気がする。
このニュアンスの「優等生不要論」の論調で、
俺の成績などを持ち出しては、
的外れな批判をしてくる奴が結構いるのだ。
馬鹿な奴らだよなぁ、と思う。
そしてこういう奴らは、
本当に人を痛めつけるために何でも引っ張り出してくるんだな、
というのがよくわかる。
(この項の参考文献:[2])

俺の人生なのに俺のやりたいようにもできなかったな。
いつだってそうだった。
他人の身勝手で偏狭な考えや理想、結論を押し付けられて、
その実践を迫られる。
こうして他人に常に批判され、否定され続ける。
さらには些細なことで道徳的観点を持ち出されては批判され、
集団でつるし上げられる。
ずっとこんな感じだった。
そのくせ今度は優等生不要論ときた。
自分を出さずに周りに合わさないと
生きていけない環境だったから、
そうして我慢して何とか生きてきただけなのに、
そうしたら今度は今度で、
優等生不要論なんて持ち出して、
能力のある俺を否定してくるんだってさ。
能力ゆえに嫉妬されいじめられ続けてきた人生だったのに。
馬鹿馬鹿しい。
一人の人間として、のびのびと自由に
生きることすら許されなかった。
まあ、所詮は馬鹿のいじめでしかなかったんだから、
相手にせずに無視しておけば良かっただけなんだけどな。

【人事にモノ申す】
”社交性(≒コミュニケーション能力、と一般的には捉えられている)”
という魔法の言葉でこの会社を解雇された。
この言葉、会社にとって都合のいいように解釈できる
魔法の言葉だなぁ、と思う。
こうやってただのリンチの上での解雇が
正当化されているのだろうか、と感じている。

業務で必要とされるコミュニケーション能力とやらの詳細を
明確に説明できる企業の採用担当者はいるのだろうか?
特にこの会社の場合は、
人事にだって、それが具体的にはどのような能力を指すのか、
明確に説明できないのではないかと感じる。

周囲の人間と円滑な関係を築く能力、というのは
社会で生きていくうえではどこでも基本的に求められることだし、
それがなければまともな人間は社会で幸せに生きていけないのだから、
誰だってその人なりのコミュニケーションスキルを身につけているものだろうと思う。
ただ、何も考えずに歳を積み重ねてきた学生は、
自分のウマのあう人間としか付き合っておらず、
さし障りのない人間同士で人間関係を築いてきただけで、
いろんな価値観を持った人同士で、
お互いに尊重し合い生きていく、
という、基本的な姿勢を身につけていないのだと感じる。
仲間同士で群れて、
気に食わない奴を虐める、
基本的にはこういうことを続けてきた人間がのさばるのが
今の日本の教育システムなのではないか、と
自分が感じているところも大きい。

実際、この会社の新入社員は
こんな感じの人間ばかりだった。
でも、人事に言わせれば
こういう同期にこそコミュニケーション能力はあり、
俺にはそれがないらしい。
呆れてものもいえなかった。
大体、会社には嫌な上司だっているし、
パワハラだって横行しているというのに、
周囲の人間と合わせてうまくやっていける”コミュニケーション能力”が大事だなんて
欺瞞以外の何物でもないような感じを受ける。
円滑な人間関係の築ける環境を
会社が整えているわけでもないだろうに。
パワハラもセクハラも放置、というのが実情だと思うのだが。
会社は仕事をする所で、
仲の良いもの同士でつるんでいればいい学校とは違う、
なんて話を聞いたりもするのだが、
どうなのだろうか。
大体こんなことを感じていたのだが、
このような趣旨の発言を、
退職勧告の日に人材開発グループ長が俺に言ってきた。
「大学の研究室のようなところはない」、と。
この人は何も把握してなかったか、
底意地の悪い人なのだろうか。
業務で必要とされるコミュニケーション能力というのは、
自分の考えを明確に説明でき、伝える能力、
相手の伝えたいことをきちんと把握できる能力、のことだと思うし、
その能力は俺にはあると、研修でも、
それより前の採用の段階でもきちんと証明したつもりだったのだが。

それに、周囲の人間と円滑な関係を築く能力というのは、
コミュニケーション能力というよりも、
むしろ人間性の問題の方が大きく影響してくるのではないかと、
この会社の研修中に同期と触れあっている中で感じていた。
同期は、相手とコミュニケーションを取る技術を持っていても、
感情をむき出しにし、
相手を無視したり、虐めたりする奴ばかりだったからだ。

昨今の学校では、
仲間同士で群れて、
気に食わない人間を虐める人間もいるのだし、
そういうのは黙認されているのだから、
まともな人間性を備えた奴でなければ、
似た者同士で群れを作って、
気に食わない奴を虐めるし、
そもそもそういう人間は、
人間関係を優劣のヒエラルキー構造で捉えていることが多いので、
基本的には群れているグループの
ヒエラルキーを高めること、維持することしか
しないだろうと思う。
そもそも、この会社の人事が、
業務で必要とされるコミュニケーション能力と、
こういった人間性の問題を一体視している感じを受けた。
そして、様々な年齢や立場の人がいるような、
学校の外の世界において、
他人との円滑な関係を築く際に重要になってくるのは、
マナーやモラルに関して
ある一定の理解を備えていることなのではないだろうか。
種々のバックグラウンドを持つ人間同士で、
お互いに自身の人生体験だけでは理解できない部分、
誤解しがちな部分を埋め合わせ、
ある一定の結論の合意に達するためには、
相手の主張することの真意を推察し、
理解し、くみ取る能力、
合わせて自身の考えを適切に言語に変換できる能力が不可欠であろうし、
他者とそのやり取りを繰り返し、
その都度得られた情報を考慮し、そこから新たな議論を展開する
フィードバックをかけることによって、
認識のずれ、理解のずれを
埋め合わせるしか方法がないであろう。
また、他者の人となりを形成してきた人生の背景について、
ある一定の、最低限の理解と敬意を示すこと、
すなわち自分と他者との違いがあることをまずは事実として認め、
所詮人間の認識など、
自身の先入観や感情、自身の経験によって、
そもそもの情報の捉え方、
視点そのものが制限されるものでしかないということを自覚すること、
そのためには、
ある一定の、最低限のモラルでもって
他者の存在を肯定する姿勢を
根底に持っていることが求められるのではないだろうか。
また、一般的な話としてだが、
人としての最低限のモラルに対し、
自身も一定の理解を示していることも、
自身を周囲に受け入れてもらい、
一個人としての敬意を払ってもらうために
必要なことなのではないだろうか。
結局のところ、
他者との共通項を見出すことによってでしか、
他者への親密さや信頼感を抱くことなど
できないのではないだろうか。
その最もわかりやすい共通項が、
社会の様々な人に共有されている、
美徳や善、他者への思いやりや配慮を感じさせる
モラルというわけではないのだろうか。
いわばその社会における
ドレスコードとでもいおうか。
つまり、あくまでも一般論としてだが、
他者との意思疎通や関係構築を図る際には、
他者の意図を推察し、掴む能力、
また、自身の考えを適切に言語として表現することのできる、
自身の対人経験と言語感覚とに依存する能力である
”コミュニケーション能力”と、
基本的に、
種々のバックグラウンドを持つ人間の存在そのものをまずは認める
最低限のモラルを備えていること、
また、自身もその集団に帰属する一員として認めてもらうために、
人としての最低限のモラルに対し
理解を示していることが必要となってくるのではないだろうか。
また、この点において、
モラルというものが教条的なものであると捉えられ、
それによって集団の多数の視点や考えが
時においては支障をきたす画一的なものになるのではないか
という懸念が表明されることが多いが、
基本的にはモラルは教条的なものというよりも、
他者に対する思いやりや優しさ、
他者の心や痛みを慮ることから生じてくる、
あくまでも自省により自らの視点を振り返るという形でもって、
他者との関係性の中で築かれるものであると捉えているので、
このような実態を伴うものである場合においては、
それにおいて視点が画一化され、
何かしらの支障をきたす可能性は少ないものと考えられる。
そして何よりもそれは、
他者や社会的弱者に対するいたわりの心を
基調とするものだろうと思うし、
そのモラルを教条的なものであると捉え、
それを根拠として掲げては画一的な偏狭な考えを振り回し、
他者を否定してくるような人間は
そもそもが馬鹿なのだろう。
そういう馬鹿はどこにだっているし、
わざわざそんな馬鹿のことなんて
一々相手にして考える必要すらないだろう。
昨今の教育事情では、
人間社会における最低限のモラルに触れることは、
”道徳”という言葉に対する警戒感も相まって軽視されており、
その集団では、ごく狭い学生同士、
身内同士の身勝手な感情によって
”その集団の規範”というものが定義されるようになっており、
このようなごく狭い集団において共有される歪な規範に対し、
大人が介入することもないので、
学生は、集団で共有されている感情によって形成される
規範に従うことを余儀なくされる
学生生活を送っていることを考慮に入れる必要があるであろう。
そこから学生が理解することは、
人としての最低限のモラルを理解することの重要さではなく、
集団社会においては、
集団の出した結論に従い、
周囲に合わせておかないと
弾かれ、孤立し、攻撃されてしまうという
歪な規範への盲目的な順守の重要さなのである。
そこには人として兼ね備えておくべき最低限のモラルなど
重要視も考慮もされてはいない。

いつの間にか、世間では、
個人の意識のレベルで
人としての最低限のモラルを理解することを軽視し、
それとは切り離したものとして、
その人の個性や人柄といったものを捉えるようになり、
その結果、個人そのものが最低限のモラルを軽視するような人間性を
備えることを肯定するようになり、
こういった理解の下での個性や人柄といったものを、
他者との認識や理解の差を埋める技術としての
コミュニケーション能力と結び付けて考え、
その結果、ある特定の性格的傾向のみを肯定し、
それ以外を公然と否定する、
幅のない、不寛容な社会となってしまったような気がする。
コミュニケーション能力と人間性を結びつけている人間は、
強引で自己主張の強い性格を奨励し、
マナーやモラルといった、社会で必要とされる技能には目を向けず、
ついでに人格改造を迫ってくることが多い[3]。
この会社の人事はこんな感じだった。
哲学のない人間に現場を任せるからこんなことになるのだろう。
周囲の様々なタイプの人間とさし障りのない関係を築こうとする、
最低限のモラルを押さえた人間性を備えているかくらいは
面接で確かめてほしいものだと思った。
人事は一体何をやっていたのだろうか。
そして、何が俺の社交性(≒コミュニケーション能力)がない、なのだろうか。
本当にふざけた話だと思う。

【この会社に対する俺の見解】
まあ、会社の関与、意図があったから、
一切問題にもならずにそのまま片づけられているんだろうな。
つまりはまあ、そういうことだろう。
こいつらに誠意ある応対など期待するだけ無駄で、
間違っているということだ。
こいつらがすることは、
ただ事実を握りつぶし、なかったことにするだけ。
そういう会社なんだよ、ここは。
本当に関わるんじゃなかった。
そのせいで俺の若者としての時間まで
握りつぶされてしまったからな。
もうどうしようもないからな。
失った時間を取り戻すことなんてできやしないんだから。

本当に権力者や大企業に優位に作られた社会なんだな。
まあ、官僚が社会を設計しているんだから、
そりゃこんな社会に決まってるわな、そんなの。
東証一部は貴重な外貨を稼ぐ国家の基幹ですもんね。
何があっても守られるし、こういう会社の存立が優先されるわけですわ。
世の中なんてそんなもんだよ。
個人の権利だの、そんなものはまやかしのたわごとでしかない。
実際そんな現実に直面し、人生をにぎり潰された人が、
絶望的な人生を送らざるを得ない現実があるんだから。
そしてそれは国家の存立の大義名分のもと放置されている。
そんなものだよ。
あほくさ。こうして俺の人生が握りつぶされたわけだ。
組織の良識や誠意ある対応なんて期待する方が間違っているということだ。
組織はそんなものを気にしてはいないし、
それを基軸にして動いているわけではない。
こんなことで俺のたった一度しかない人生がここまで破壊されたとはな。
こんなクソ企業なんかと関わるんじゃなかったな、ほんと。

【事実の公表が必要なその理由】
事実は公表し続けるに限るな。
勝手に俺が悪いだの、
俺に原因があるだのといった話にされて、
これからの人生も握りつぶされるのなんて
目に見えているからな。
事実を書き綴り公開するしかない。
事実を公表しておかないと、
ありもしない疑いを持たれて
俺の人生が握りつぶされ続けるからな。
噂とか評判とか、伝聞とかで
本当に全てを判断される社会だからな。
自分の人生を守るためにはこうするしかない。
黙って自分の人生が潰され続けるのを
見ているわけにはいかないだろう。
何か、社会的地位のしっかりした人にも
公然と事実無根の中傷をされることが何度かあったし、
それにはどうやら俺の過去の出来事が
勝手に誤解されて理解されている節があったので、
根本的に過去の事実を公表しておかないと、
同様の事態はこれから何度でも起き、
俺の人生が潰され続けるだろう。
本当に、いじめられる奴が悪い、
いじめられるやつに問題がある、
人間として欠落していると固く信じていて、
その偏狭な考えの元に人を非難し、攻撃し、
無視し、いじめてくる人間がいるからな。
だからそもそもの過去のあらましを書き綴り、
あらぬ誤解を解くしかない。
会社でのことも、
きちんとこちらから説明しておかないと、
俺のあずかり知らぬところで、
会社側の言い分が広められ、
俺に問題があった、
俺がとんでもない奴だったとかいう話にされ、
俺の人生が潰されるのなんて目に見えているじゃないか。
中傷やリンチを公然と実施してきた奴らなんだし。
実際に、この会社を出て行った後も、
そういう目に何度も遭い、
人生を潰されてきたからな。
この会社と関わっていた時期があることは事実として残るんだから、
この会社と縁を切った後でさえも
このような嫌な目に遭い続けてきたことを考えれば、
何かしらの会社の関与があった可能性を疑うのは
至極当然のことだろう。
こうでもしないと俺の人生が守れないんだよ。
きったない手段ではめられ、
それを口実に社内で公然と無視され、いじめられ、
パワハラ研修まで受けて、
その事実まで握りつぶされ、
人事には最後まで侮辱され、
馬鹿にされたんだからな。
こいつらに誠意などあるわけがない。
公表を控えても、
こいつらがその社会的地位や信用度を利用して、
事実を都合の良いように捻じ曲げ、
俺が悪いだの、俺に原因があっただの、
そういう話にしてこれからの俺の人生まで
握りつぶそうとしてくるのなんて
目に見えているじゃないか。
こうでもして事実を公表しないと自分も守れない。



【参考文献】

1.「思考」を育てる100の講義 森博嗣著 大和書房
2.いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか 内藤朝雄著 講談社
3.わかりあえないことから─コミュニケーション能力とは何か 平田オリザ著 講談社

この記事についてブログを書く
« 会社でされたこと-その3 | トップ | 荏原製作所と株式会社シェイ... »