様々な行も訓練もありますが、最も重要なのはただ一つで、正智です。
正念、正念正智、念正智などとも言いますが、
ここでいう念正智というのは、まず正しい教えがあって、その教えを間違った覚え方や
都合の捉え方をせずに、そのまましっかりと覚え(頭での記憶)、
忘れたり変形しないように保ち、いついかなる時も気をそらさずに
24時間心から離さずにそれを持って観察し生かし深める。
これも段階に応じ、カルマに応じ変わっていきますが、それぞれに合ったものを
師より教えと行と共に授けてもらうと良いですね。
ここではベースになる基本的なことを書きますが、
どんなに素晴らしい教えや行があっても、
どんなに素晴らしい瞑想の経験を重ねて来ていたとしても
その時だけのものならば、教えも行も瞑想も何の意味もありません。
ただ自我の欲求を満たしているに過ぎません。
ものすごい瞑想が出来、すばらしい経験をしたとして悟りを得ても
瞑想から出た途端に自負や固定観念になり、穢れたものになってしまう。
大抵がこれに陥っていても気が付くことはなく、
何気なく周りから指摘されると、ムスッとしたり経験の無いものは分からなくて当然だ、
普通の人は知らなくていいことだなどと言いだしますね。
念正智は無いか敗れたことになり穢れたままであることにも気が付かないわけですね。
なので正しく学び、自分の癖やカルマをよく知り、
あるいは行や瞑想で経験したことや気づいたことを
そこで終わらせずに自分の行為や考えに融合させて実践しようという
意志を固めなければいけません。
そのように意識的にやらない限り、われわれの心や行動は
すべて自分の積み上げたカルマの総和によって動かされ
またカルマを重ねていくことになるわけです。
そのように思ってもすぐに気がそれたり、面倒に想えたり、
カルマが動き後悔したりすれば気が付くかもしれませんが、
無意識に世俗の事に反応してイライラや嫌悪、欲しいなどの事には
気がつきません。
わたしたちが行をし、善い教えを学んだり、善い経験を重ねていても
はるかな過去のカルマの集積の中ではほんの僅かな善に過ぎないわけです。
PCに大切なデータが入っていますが、小さな一つのウイルスで簡単に破壊されます。
ウイルスを、悪いデータで満たされたときに小さな善を入れても復旧はできないでしょう。
この観念の世界である現実と思わされている世界は、
すべてのカルマが自由に動ける世界なんです。
善いカルマに変えていくには、よほどすぐれたソフトが必要になわけですね。
ただ一つの間違いもあってはいけないんです。
興味の引くものや欲を満たすもの、こうだったらいいなに付け込んで
物品その他が販売され、企業は成長して行きます。
けれどもユーザーが納得するものはそうはありません。
あっても一時ですぐに違うものに移行します。
満たされる物はエゴとカルマのみで、次々に積み重なって行きますね。
だからこそ正しい教えを学んだら保ち、よく周りも自分も観、意識しないと
すぐに流されてしまうわけです。
意識していなければ膨大な変化や考え方、悪いカルマが動いても気が付かないんです。
すぐに悪い考えが出たり、否定的になったりなどになってしまうわけですね。
なので教えを保ち監視員となり、その念(正しい思い、意志、心)を
心の中で保ち続けておくわけですね。
自分の心を常にチェックし、悪いカルマの流れに巻き込まれないようにし、
小さな善の自分を置き、
一瞬たりともそれから目を離さずに悪い癖の自分を制して行く。
これが念(善の心)正智というものですね。
これが無い善は、偽善で必ず何かを期待しているか、下心があるとか、
自分をよく見せるとか、ただの情によって哀れと見、無意識にでも
相手を劣ったものとかなどの分別を付けているわけですね。
念正智という明確なものはなく、何の念正智かというのはまた別問題で、
それぞれの課題によっても変わってきます。
信仰に対するもの、瞑想や無常観、縁起論や因果論、当然人の社会の
病気の治療や家庭や仕事、趣味でも良いわけですが、
エゴや頓着が出ていては意味ありませんね。
あるいは例えば仏教的に、慈悲や、人々の幸福を願うなどで
自分は慈悲を発してるのであろうか、
自分の行動は人々のためになっているのであろうかと。
それを日々一瞬たりとも忘れずに考えるだけでも培われていけます。
何でも良いのですが、エゴを入れず頓着愛着見返りを抜きに
正しい思い、正しい行動、これを常に持続させる。
これが、行の基本ということになるわけですね。
一定期間の行や、知日何時間やりましたと言う行や、
所作儀礼や功のみの行で修行した気になってる。
自分は何年どこどこで修行してきました。
どこどこの大学を出て、何々を学んできました。
このようにレッスンを重ねて、やっと成功しました。
これではその過去があって付加価値とし、評価の期待や自負や
人からも認めてもらいたいと言うただのカルマですね。
顔や肩書経緯無しに示せなければ、薄っぺらでカルマの通りこの先も流されていくだけです。
これは修行でもなければ付加価値にすらならず、
カルマを重ね続け、悪癖が現れた時にはそれを回避する幸運はもう尽きている
ということになるわけですね。
このような教えを目にすることは、ある意味では準備なんです。
そこから離れ日常に戻ったときが活かす機会です。
つまりこのように目にし、しっかり読んで保つという事を集中的に行えば、
日常のどのような時でもやりやすくなっていけます。
だからこそただの情報とはせず、本末転倒にならないようにしなければ
いけないんですね。
結局だれであろうと人である以上は本質的に自分を変えていかなければ行けないんです。
便利さや快適さ、生活を維持する以上に見失ってはいけないんです。
行や訓練の方法論がいくら完璧であってもこれが無ければ意味がなく、
そうして瑜伽の実戦で形になって行くわけですね。
だからどちらか一方で良いと言うわけではないんですね。