私が学生時代に、魅せられた美術作品があります。
ミケランジェロ作・最後の審判。
ヴァチカン美術館のシスティーナ礼拝堂の壁画として現在も存在しています。
描かれているのは、キリストの再臨と全人類に対する神による最後の、そして永遠の裁き。
私はこの作品を見て、人々が犯した罪をまとめて全世界の人々を現世から抹殺し、キリストの左手で罪人を断罪して地獄へ落とし、右手で善人を救済して天国へと導く姿を見て取ると同時に、これがミケランジェロが存命中、また現世でも絶えず行われている営みであると解釈しました。
より深くミケランジェロの意図を感じようと思い、大学卒業後に現地まで行ったこともあり、レプリカの大型ポスターを長いこと自室に飾っていたこともあります。
そして私が新卒後に就いた職は、断罪側の仕事。
私の素養は弱い性格ですから、本当は救済側の仕事がしたかった。
断罪という仕事をすることで、救済の対象となる人たちを遠回しに救済できるのではと思っていましたが、現実はキリストのように両方できはしませんでした。
事の大小は様々でしたが、人の心や生活の中の闇に触れ続け、闇に光を与えようと自分にできることを模索しながらも、人ではなく法のみによってしか動くことができない葛藤の日々がありました。
今振り返ると、当時の私は愛情に飢えていたと思います。
本当に自分の気持ちを理解してくれる人との出会いがなければ、自分自身にすら光を当てることもできない。
降りかかる火の粉を、ただ作業的にこなしているだけでは、断罪も効果あるものにならない。
与する組織をただ守るための存在が自分であるという観念が刷り込まれ切る前に、私は離職しました。
その後、私は家族を持ち、新たな一歩を踏み出しましたが、それも長くは続かず、現在は再び独り身に。
しかし私はやるべきことが既に見えており、歩を踏み出しています。
今の私は、エリクソンのライフサイクル理論でいうところの成人期であり、直面している心理社会的危機は「生殖性」対「停滞」。次世代を育てたいという意思が達成されることで危機を乗り越えれば、「世話」という強さを手に入れられますが、失敗すれば「停滞」に陥る。
私がかつて本当にやりたかった救済側の仕事に携わることで、欲求を実現できるとともに、心理社会的危機は乗り越えられると思いました。
ユングは人生の午後である中年期を、それまで家族や社会に対して築き上げた自己を見つめなおし、本来の内的欲求や自分自身を発達させていく「個性化」の時期としました。
私も過去を踏まえて自己を再構築化し、これからの午後の人生を歩んでいきたいと思います。