パロディといえば、誰にでもわかる馬鹿げたものだと思われている。
断じて違う。
パロディを理解するには、作者と共通する教養が、読者にも必要だ。
ホメロスの『オデュッセイア』を知らない者に、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を理解することはできない。
教養とは、なにも高尚なものに限らない。
クエンティン・タランティーノの映画『キル・ビル』を楽しむには、『服部半蔵/影の軍団』『吸血鬼ゴケミドロ』『片腕カンフー対空飛ぶギロチン』といった「教養」が必要となる。
俺がブログを始めたのは2004年で、「電気羊はアンドロイドの夢を見るか」というタイトルだった。これはフィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』をもじったものだ。映画『ブレードランナー』の原作である。
「茜さすアンドロイドの片腕に」 倉坂鬼一郎
「人造人間(アンドロイド)の疑惑もたるる少年が転んだ場所に落ちているネジ」 笹公人
こうした俳句や短歌を知って「アンドロイド」という響きが気に入った。
ハンドルネームは、ばかばかしいものにしようと思って「とっとこ電八郎」を名乗った。「とっとこハム太郎」のパロディである。長いので、電八郎とした。
たこ八郎というコメディアンが好きだった。元ボクサーで、ノーガード戦法は『あしたのジョー』のモデルになった。「おたく評論家」の宅八郎も、たこ八郎のもじりである。
アンドロイド携帯の登場を機に、ブログ名を「孤立無援のブログ」に変えた。
高橋和巳の『孤立無援の思想』である。吉本隆明がこれを批判して、思想家は孤立無援であるのが当然だ、と書いていた。森田童子にも「孤立無援の唄」がある。
2006年に「小山田圭吾における人間の研究」を書いた。
このタイトルに引っかかりを覚えない者は教養がないことを自覚すればいい。三木清の『パスカルにおける人間の研究』である。
三木清は治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑で特高警察によって検挙・拘留され、終戦直後に獄死した。
こんな教科書的な知識では、ぜんぜん足りない。高潔な思想家である三木清の卑劣な人間性を暴露し、徹底的な批判を加えたのが今日出海の『三木清における人間の研究』である。
日本政治思想史とそのゴシップにまで通じている者がこれを書いている。
つまらない事物の奥にも、深遠な思想は眠っている。読解力のない者は、最低の鞍馬で飛び越え、それで自足する。
「小山田圭吾における人間の研究」というタイトルだけで、わかる者にはわかる。「村上清のいじめ紀行」に障害者差別を読み取り、それを批評したのが「小山田圭吾における人間の研究」である。
これは批評である。
批評とは、批判的に読むことである。一般読者や視聴者が気づいていないことを指摘するのが批評である。
「王様は裸だ」と叫んだ子供のように。
『風と共に去りぬ』は黒人差別の映画だというのも批評である。『ゴジラ』は原水爆への恐怖を訴えた反戦映画だというのも批評である。『帰ってきたウルトラマン』に反差別のメッセージを読み取るのも批評である。
聖書を革命思想として読んだ吉本隆明「マチウ書試論」、野間宏『真空地帯』の通俗性を糾弾した大西巨人「俗情との結託」、『資本論』をゲーデル的問題として読み換えた柄谷行人「マルクスその可能性の中心」。
まさかこうしたものまでデマだというバカはいまい。いやしかし、いるのだ。知的レベルも落ちたものである。
自分の無教養を棚に上げて、誤読するのも自由だ。しかしその責任は読者にある。
小林信彦のパロディ小説『唐獅子株式会社』の文庫版解説は、筒井康隆である。
この小説に使われているパロディの元ネタを、筒井康隆はすべて詳細に解説した。いちいち解説してやらないと、わからない読者ばかりなのだ。
井の中の蛙大海を知らず。
教養がある者と、そうでない者とは、そもそも見えている景色が違うのである。
てなわけで、note始めたよ。
まだ手探りで、使い方よくわからん。
当面、両方に書くから読みやすい方で読んでね。
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