R・D・レイン「ぼくの心臓は割れちゃうだろうな」
こんにちは
今日はR・D・レインの詩、『好き? 好き? 大好き?』を紹介します。
***
好き? 好き? 大好き?
彼女 好き?好き?大好き?
彼 うん 好き 好き 大好き
彼女 なによりもかによりも?
彼 うん なによりもかによりも
彼女 世界全体よりもっと?
彼 うん 世界全体よりもっと
彼女 わたしが好き?
彼 うん きみが好きだ
彼女 わたしのそばにいるの 好き?
彼 うん きみのそばにいるの 好きだ
彼女 わたしを見つめるの 好き?
彼 うん きみを見つめるの 好きだ
彼女 わたしのこと おばかさんだと思う?
彼 いや きみのこと おばかさんだなんて思わないよ
彼女 わたしのこと 魅力あると思う?
彼 うん きみのこと 魅力あると思うよ
彼女 わたしといると退屈になる?
彼 いや きみといると退屈にならないよ
彼女 わたしの眉毛 好き?
彼 うん きみの眉毛 好きだ
彼女 とっても?
彼 とっても
彼女 どっちのほうが好き?
彼 一方といったらもう一方がやっかんじゃうよ
彼女 言わなきゃだめ
彼 両方とも言いようなくすてきだなあ
彼女 本気?
彼 本気
(中略)
彼女 わたしのこと おかしいと思う?
彼 だって そこがいいんだなあ
彼女 わたしのこと 笑いものにしてる?
彼 いや きみのこと 笑いものになんてしてないよ
彼女 ほんとうに 好き? 好き? 大好き?
彼 うん ほんとうに 好き 好き 大好き
彼女 言って 「好き 好き 大好き」って
彼 好き 好き 大好き
彼女 わたしを抱きしめたいと思う?
彼 うん きみを抱きしめたい、きみを抱いてなでまわしたいよ、
そして鳩どうしみたいにキスしたり甘い声で話し合ったりしたいな
彼女 これでいい?
彼 うん これでいいよ
彼女 誓ってくれる? けっしてわたしを置きざりにしないって
彼 いつまでだってけっしてきみを置きざりにしないって誓うよ、胸のうえに十
字を切るよ、
そして嘘をつくくらいなら死ねたらと思うよ
(無言)
彼女 ほんとうに 好き? 好き? 大好き?
***
1976年に発表されたこの詩は、庵野監督の映画、エヴァンゲリオンの中にサブタイトルとして引用されていることで結構知られているようです。
一見この詩は、「彼女」と「彼」という恋人たちの他愛のない対話のようにみえるかもしれません。
「好き?」と聞いて「好き」と答える。ほとんど意味のない会話だけど、そんな無意味で些細なやりとりから恋人たちは愛されているのだという安心感を抱く。そういったコミュニケーションは日常にありふれているものです。
けれども、ここに描かれる「彼女」と「彼」の会話を読み進めるにつれて、なんともいえない気持ち悪さを感じる人もいるのではないでしょうか。
「彼女」は「彼」にたくさんの質問を浴びせる。「彼」はそれにひとつひとつこたえる。しかし、どれだけ「彼」が答えたとしても、「彼女」の質問はつきることがない。
彼女は質問することによって愛を確認しようとしているけれども、どれだけ確認したところで心から納得し安心することができない。
最後に「彼」は、「彼女」を決して置き去りにはしない、と誓う。でもそれを聞いた彼女は沈黙し、その後、また同じ質問をくりかえします。彼女の寂寥感やなんともいえない不安感は、言葉によって満たされることのできない深淵なものなのです。
***
この詩集に描かれている人々やその会話が「病的」であるということは、ほかの詩をよめば一目瞭然です。
たとえば「つぶやき」と題された詩からの一節。(以下太字引用)
わたしにはそれが信じられなかったわたしにはただもうそれが信じられなかったただもうそれを信じることができなかったわたしにはわたしにはわたしにはただもうそれが信じられなかったそれが信じられなかったそれが信じられなかったわたしにはただもう信じられなかったそれが信じられなかったそれが信じられなかったわたしにはわたしにはただもうわたしにはただもうできなかったわたしにはただもうそれが信じられなかったそれを信じることができなかったわたしにはそれが信じられなかったそれが信じられなかったそれが信じられなかった
先の詩にも強迫観念的な怖さが垣間見れたけれど、この詩の「病的」さは尋常ではないですね。
作者R・D・レインは1927年イギリス生まれの精神科医で、若干28歳のときに、『分裂された自己(The Divided Self)』という研究書をだし、一躍有名になりました。
その著書の中で「分裂病」(統合失調症)の前段階というべき「分裂病質」(スキゾイド)についての研究を明らかにしていますが、その「分裂病質者」のことをレインは次のように述べています。
精神分裂病質者というのは、その人の体験の全体が、主として次のような二つの仕方で裂けている人間のことである。つまり第一に世界とのあいだに断層が、第二に自分自身とのあいだに亀裂が生じているのである。このような人間は、他者と<ともに>ある存在として生きることができないし、世界のなかで<くつろぐ>こともできない。それどころか、絶望的な孤独と孤立の中で自分を体験する。その上、自分自身をひとりの完全な人間としてではなく、さまざまな仕方で<分裂>したものとして体験する。たとえば身体との結びつきが多少ともゆるくなった精神として、あるいはまた、二つ以上の自分として――等々。
「分裂病質者」という言葉はあまりききなれないものですが、それの意味するところは、正常と狂気の境界である、今でいう「境界例」に近いものかと思います。
彼らは、存在論的に不安定さを抱えており、確固たる自己を成り立たせることができない。
ふつう、存在論的に安定している人間というのは、一貫した自分というものをもっているので、外の世界に触れても自己存在が揺らぐことはありません。
一方、自身の存在の核に不安定さを内包している人間は、自己が曖昧であるために、外界の事象とふれあったとき、それがささいなものであっても自己存在を脅かすほどの衝撃としてうけとってしまいます。
「わたしにはそれが信じられなかった」と言いつづけている語り手は、「それ」という事実をうまく自分の中で消化することができない。というのも、その語り手にとってはひとつひとつの出来事が、自己存在を揺るがすほどの影響をもっているからです。
安定の悪い足場の上に立っていれば、ちょっと押されただけでも、風が吹いただけでも、崩れ落ちそうになってしまう。
それと同じように脆弱な自己を抱え生きている人にとっては、ちょっとした言葉や出来事が自己を破壊する存在となりえる。あまりにも繊細な彼らが世界のなかでくつろげるわけもなく、感じるのはいつも居心地の悪さと不安です。
そうした彼らは、自己という足場を持ちながら相手と「ともにある」という人間関係を築くことも困難で、なんとなく感じる不安感を言葉や行動をもちいて表面的に対処しようとするけれども、それがまた不安を助長するという悪循環をもたらす。
「好き? 好き? 大好き?」と尋ね続ける少女は根源的な自己存在に不安を抱えているために、いくら言葉という理性で愛を確認したところで不安がふたたび浮き彫りになるだけで、いつまでも漠然とした不安を払しょくすることができないのです。
***
こういったいわば症例は、「境界例」という言葉が示すように、「正常」と「狂気」の間というものに存在するのですが、「正常」と「狂気・病」といったものの線引きは非常にあいまいなものです。
実際、村上春樹のいうように、すべての人間はある程度病んでいる(『ひとつ、村上さんにきいてみるか』)、のであり、健常者と病人というものをあえて明確に分けることは
不可能であり、その必要もありません。
100パーセント確立された自己を持っている人間など存在しないのだし、すべての人間がある程度はこのような「狂気」に蝕まれる可能性をもっているわけです。
ただ生きていくなかでそうした狂気に飲み込まれないために大事なことは、自分にとって不快なものも排除しようとせず、あらゆるものを受け入れるという姿勢です。
もし不快なものが、具体的な形を持った対象として自分の外に存在している場合には、それを排除することはある程度可能ではあります。
たとえば、虫が嫌いだったら、殺すことによって排除したり、はじめから虫のいそうな場所には近づかないといった別の形の排除をとることもできます。
しかし、不快なものが多く増えてしまったとき、人は自らの居場所を削ることになります。
あの人も嫌い、この人も嫌い、と言い続け、嫌いな人たちとのかかわりを排除していくということは、その人自身の居場所を狭めているということにもなります。
生きづらさを感じたとき、外に原因を求めるのではなく、自分の中に一度柔軟性を植え付けてみると、案外うまくやっていけるものです。
そして何よりも問題なのは、自分の中に不快なものをみつけてしまったときです。
不快なものが自分の中に生じてしまったとき、多くの人はその不快さから逃げようとしますが、そうしつづけると遅かれ早かれ人は正気を保てなくなってしまいます。
強迫観念というものは、その一つの例といえるでしょう。
手を何回洗っても、なんとなく不快感がなくならなくて、洗うことをやめることができない。何回確認しても、家の鍵をかけたかどうか不安になってしまう。
こういった強迫観念は、自分の中にある根源的な不安感から目を背けるための一時的な行為でしかないので、いくら手を洗ったり、確認して不安を除去しようとしたところで、根っこの取り残された雑草のようになんどもその不安はよみがえってきます。
これが悪化すると日常生活を送れないほど支障をきたすことになるのです。このときの唯一の対処法は、確認行為によって不安を排除し逃げようとするのではなく、その不安という不快な感情をありのまま感じる、ということです。
こういった、嫌な感情にふたをしてしまう、という行為は多くの人にみられるものです。
感情というのは自分の中から生じるものなので、虫を殺すようにはうまく消すことはできません。
にもかかわらず、人は嫌な感情を、隠したり、麻痺させたりすることによって感じないようにしてしまいがちです。
怒り、嫉妬、やましさ、悲しみ、恐怖、軽蔑、不安。
これらの感情はしばしば不快感を伴うため、なるべくなら感じたくないな、と思うのですが、悲しみがあっての喜びであり、怒りがあっての楽しみなので、どれかを排除してなにか特定のものだけをピックアップするということはできません。
レインの詩の中で、次のようなものがあります。
49
デイジー、デイジー
ぼくたちこれからどうしたらいい?
ぼくはなかば狂ってるよ
恋してしかも憎んでるよ きみのことを
ぼくはこんなにちぐはぐなのに
とにかく妖精ではない
ぼくたち もし別れたりしたら
ぼくの心臓は割れちゃうだろうな
もうとっくに二つに裂けているよ
ここに描かれている「ぼく」は、恋しいという気持ちを抱きながら憎しみという感情をも抱く自分の心の状態を「もうとっくに二つに裂けている」という。
恋しさと憎しみという、相反する感情は、彼にとっては同居すべきものではないため、併せ持つことができません。
「分裂症」のことをいまでは「統合失調症」というけれども、こうした相容れない要素をうまく「統合」することができなくなったとき、人は正気をうしなってしまうのでしょう。
あらゆる感情の引き出しをもち、自分にもあらゆる面があるのだという認識をもっておく。狭い足場の上で、「これは自分のもつべきものではないから排除しなくては」、と自分が倒れないように躍起になるのではなく、自分の足場それ自体を広げていく。そうすれば自己は次第に安定し、いかなる危機にも対処できるような柔軟性をもつことができるようになります。
強くなろうとするのならば、自分の弱さを認めて受け入れること。
自分の中にある不快なものをうまく受け入れ、統合することができるようになったときにやっと、人は狂気という落とし穴を無数にはらんだ世界の上をも自由に歩けるようになるのかもしれません。
今日はR・D・レインの詩、『好き? 好き? 大好き?』を紹介します。
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好き? 好き? 大好き?
彼女 好き?好き?大好き?
彼 うん 好き 好き 大好き
彼女 なによりもかによりも?
彼 うん なによりもかによりも
彼女 世界全体よりもっと?
彼 うん 世界全体よりもっと
彼女 わたしが好き?
彼 うん きみが好きだ
彼女 わたしのそばにいるの 好き?
彼 うん きみのそばにいるの 好きだ
彼女 わたしを見つめるの 好き?
彼 うん きみを見つめるの 好きだ
彼女 わたしのこと おばかさんだと思う?
彼 いや きみのこと おばかさんだなんて思わないよ
彼女 わたしのこと 魅力あると思う?
彼 うん きみのこと 魅力あると思うよ
彼女 わたしといると退屈になる?
彼 いや きみといると退屈にならないよ
彼女 わたしの眉毛 好き?
彼 うん きみの眉毛 好きだ
彼女 とっても?
彼 とっても
彼女 どっちのほうが好き?
彼 一方といったらもう一方がやっかんじゃうよ
彼女 言わなきゃだめ
彼 両方とも言いようなくすてきだなあ
彼女 本気?
彼 本気
(中略)
彼女 わたしのこと おかしいと思う?
彼 だって そこがいいんだなあ
彼女 わたしのこと 笑いものにしてる?
彼 いや きみのこと 笑いものになんてしてないよ
彼女 ほんとうに 好き? 好き? 大好き?
彼 うん ほんとうに 好き 好き 大好き
彼女 言って 「好き 好き 大好き」って
彼 好き 好き 大好き
彼女 わたしを抱きしめたいと思う?
彼 うん きみを抱きしめたい、きみを抱いてなでまわしたいよ、
そして鳩どうしみたいにキスしたり甘い声で話し合ったりしたいな
彼女 これでいい?
彼 うん これでいいよ
彼女 誓ってくれる? けっしてわたしを置きざりにしないって
彼 いつまでだってけっしてきみを置きざりにしないって誓うよ、胸のうえに十
字を切るよ、
そして嘘をつくくらいなら死ねたらと思うよ
(無言)
彼女 ほんとうに 好き? 好き? 大好き?
***
1976年に発表されたこの詩は、庵野監督の映画、エヴァンゲリオンの中にサブタイトルとして引用されていることで結構知られているようです。
一見この詩は、「彼女」と「彼」という恋人たちの他愛のない対話のようにみえるかもしれません。
「好き?」と聞いて「好き」と答える。ほとんど意味のない会話だけど、そんな無意味で些細なやりとりから恋人たちは愛されているのだという安心感を抱く。そういったコミュニケーションは日常にありふれているものです。
けれども、ここに描かれる「彼女」と「彼」の会話を読み進めるにつれて、なんともいえない気持ち悪さを感じる人もいるのではないでしょうか。
「彼女」は「彼」にたくさんの質問を浴びせる。「彼」はそれにひとつひとつこたえる。しかし、どれだけ「彼」が答えたとしても、「彼女」の質問はつきることがない。
彼女は質問することによって愛を確認しようとしているけれども、どれだけ確認したところで心から納得し安心することができない。
最後に「彼」は、「彼女」を決して置き去りにはしない、と誓う。でもそれを聞いた彼女は沈黙し、その後、また同じ質問をくりかえします。彼女の寂寥感やなんともいえない不安感は、言葉によって満たされることのできない深淵なものなのです。
***
この詩集に描かれている人々やその会話が「病的」であるということは、ほかの詩をよめば一目瞭然です。
たとえば「つぶやき」と題された詩からの一節。(以下太字引用)
わたしにはそれが信じられなかったわたしにはただもうそれが信じられなかったただもうそれを信じることができなかったわたしにはわたしにはわたしにはただもうそれが信じられなかったそれが信じられなかったそれが信じられなかったわたしにはただもう信じられなかったそれが信じられなかったそれが信じられなかったわたしにはわたしにはただもうわたしにはただもうできなかったわたしにはただもうそれが信じられなかったそれを信じることができなかったわたしにはそれが信じられなかったそれが信じられなかったそれが信じられなかった
先の詩にも強迫観念的な怖さが垣間見れたけれど、この詩の「病的」さは尋常ではないですね。
作者R・D・レインは1927年イギリス生まれの精神科医で、若干28歳のときに、『分裂された自己(The Divided Self)』という研究書をだし、一躍有名になりました。
| ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究 (1971/09/30) R.D.レイン 商品詳細を見る |
その著書の中で「分裂病」(統合失調症)の前段階というべき「分裂病質」(スキゾイド)についての研究を明らかにしていますが、その「分裂病質者」のことをレインは次のように述べています。
精神分裂病質者というのは、その人の体験の全体が、主として次のような二つの仕方で裂けている人間のことである。つまり第一に世界とのあいだに断層が、第二に自分自身とのあいだに亀裂が生じているのである。このような人間は、他者と<ともに>ある存在として生きることができないし、世界のなかで<くつろぐ>こともできない。それどころか、絶望的な孤独と孤立の中で自分を体験する。その上、自分自身をひとりの完全な人間としてではなく、さまざまな仕方で<分裂>したものとして体験する。たとえば身体との結びつきが多少ともゆるくなった精神として、あるいはまた、二つ以上の自分として――等々。
「分裂病質者」という言葉はあまりききなれないものですが、それの意味するところは、正常と狂気の境界である、今でいう「境界例」に近いものかと思います。
彼らは、存在論的に不安定さを抱えており、確固たる自己を成り立たせることができない。
ふつう、存在論的に安定している人間というのは、一貫した自分というものをもっているので、外の世界に触れても自己存在が揺らぐことはありません。
一方、自身の存在の核に不安定さを内包している人間は、自己が曖昧であるために、外界の事象とふれあったとき、それがささいなものであっても自己存在を脅かすほどの衝撃としてうけとってしまいます。
「わたしにはそれが信じられなかった」と言いつづけている語り手は、「それ」という事実をうまく自分の中で消化することができない。というのも、その語り手にとってはひとつひとつの出来事が、自己存在を揺るがすほどの影響をもっているからです。
安定の悪い足場の上に立っていれば、ちょっと押されただけでも、風が吹いただけでも、崩れ落ちそうになってしまう。
それと同じように脆弱な自己を抱え生きている人にとっては、ちょっとした言葉や出来事が自己を破壊する存在となりえる。あまりにも繊細な彼らが世界のなかでくつろげるわけもなく、感じるのはいつも居心地の悪さと不安です。
そうした彼らは、自己という足場を持ちながら相手と「ともにある」という人間関係を築くことも困難で、なんとなく感じる不安感を言葉や行動をもちいて表面的に対処しようとするけれども、それがまた不安を助長するという悪循環をもたらす。
「好き? 好き? 大好き?」と尋ね続ける少女は根源的な自己存在に不安を抱えているために、いくら言葉という理性で愛を確認したところで不安がふたたび浮き彫りになるだけで、いつまでも漠然とした不安を払しょくすることができないのです。
***
こういったいわば症例は、「境界例」という言葉が示すように、「正常」と「狂気」の間というものに存在するのですが、「正常」と「狂気・病」といったものの線引きは非常にあいまいなものです。
実際、村上春樹のいうように、すべての人間はある程度病んでいる(『ひとつ、村上さんにきいてみるか』)、のであり、健常者と病人というものをあえて明確に分けることは
不可能であり、その必要もありません。
100パーセント確立された自己を持っている人間など存在しないのだし、すべての人間がある程度はこのような「狂気」に蝕まれる可能性をもっているわけです。
ただ生きていくなかでそうした狂気に飲み込まれないために大事なことは、自分にとって不快なものも排除しようとせず、あらゆるものを受け入れるという姿勢です。
もし不快なものが、具体的な形を持った対象として自分の外に存在している場合には、それを排除することはある程度可能ではあります。
たとえば、虫が嫌いだったら、殺すことによって排除したり、はじめから虫のいそうな場所には近づかないといった別の形の排除をとることもできます。
しかし、不快なものが多く増えてしまったとき、人は自らの居場所を削ることになります。
あの人も嫌い、この人も嫌い、と言い続け、嫌いな人たちとのかかわりを排除していくということは、その人自身の居場所を狭めているということにもなります。
生きづらさを感じたとき、外に原因を求めるのではなく、自分の中に一度柔軟性を植え付けてみると、案外うまくやっていけるものです。
そして何よりも問題なのは、自分の中に不快なものをみつけてしまったときです。
不快なものが自分の中に生じてしまったとき、多くの人はその不快さから逃げようとしますが、そうしつづけると遅かれ早かれ人は正気を保てなくなってしまいます。
強迫観念というものは、その一つの例といえるでしょう。
手を何回洗っても、なんとなく不快感がなくならなくて、洗うことをやめることができない。何回確認しても、家の鍵をかけたかどうか不安になってしまう。
こういった強迫観念は、自分の中にある根源的な不安感から目を背けるための一時的な行為でしかないので、いくら手を洗ったり、確認して不安を除去しようとしたところで、根っこの取り残された雑草のようになんどもその不安はよみがえってきます。
これが悪化すると日常生活を送れないほど支障をきたすことになるのです。このときの唯一の対処法は、確認行為によって不安を排除し逃げようとするのではなく、その不安という不快な感情をありのまま感じる、ということです。
こういった、嫌な感情にふたをしてしまう、という行為は多くの人にみられるものです。
感情というのは自分の中から生じるものなので、虫を殺すようにはうまく消すことはできません。
にもかかわらず、人は嫌な感情を、隠したり、麻痺させたりすることによって感じないようにしてしまいがちです。
怒り、嫉妬、やましさ、悲しみ、恐怖、軽蔑、不安。
これらの感情はしばしば不快感を伴うため、なるべくなら感じたくないな、と思うのですが、悲しみがあっての喜びであり、怒りがあっての楽しみなので、どれかを排除してなにか特定のものだけをピックアップするということはできません。
レインの詩の中で、次のようなものがあります。
49
デイジー、デイジー
ぼくたちこれからどうしたらいい?
ぼくはなかば狂ってるよ
恋してしかも憎んでるよ きみのことを
ぼくはこんなにちぐはぐなのに
とにかく妖精ではない
ぼくたち もし別れたりしたら
ぼくの心臓は割れちゃうだろうな
もうとっくに二つに裂けているよ
ここに描かれている「ぼく」は、恋しいという気持ちを抱きながら憎しみという感情をも抱く自分の心の状態を「もうとっくに二つに裂けている」という。
恋しさと憎しみという、相反する感情は、彼にとっては同居すべきものではないため、併せ持つことができません。
「分裂症」のことをいまでは「統合失調症」というけれども、こうした相容れない要素をうまく「統合」することができなくなったとき、人は正気をうしなってしまうのでしょう。
あらゆる感情の引き出しをもち、自分にもあらゆる面があるのだという認識をもっておく。狭い足場の上で、「これは自分のもつべきものではないから排除しなくては」、と自分が倒れないように躍起になるのではなく、自分の足場それ自体を広げていく。そうすれば自己は次第に安定し、いかなる危機にも対処できるような柔軟性をもつことができるようになります。
強くなろうとするのならば、自分の弱さを認めて受け入れること。
自分の中にある不快なものをうまく受け入れ、統合することができるようになったときにやっと、人は狂気という落とし穴を無数にはらんだ世界の上をも自由に歩けるようになるのかもしれません。
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