第2話 脱走、野盗襲来
ボロボロの幌をかけた馬車が明け方の峠を越え、下りの坂道を進んでいた。
馬の体格が大きい、いわゆる重種が多いのは裡辺の特徴だ。この地域で見られる裡辺馬は速度こそでないが持久力には大きく優れ、昔の列車は馬が引いて県を横断・縦断するなど当たり前だったという。
そんな馬の手綱を握る御者の男は金に困っていた。
かつては士族だったが内乱の後で仕事を失い、減っていく貯蓄の穴埋めをしようと賭博に手を出したらその穴はどんどん広がって、金がぽろぽろ溢れていった。
酒で現実逃避をする中、この御者を任されたのだ。成功したら小判をくれてやる——そう言われた。
なんの荷物を積んでいるかなどどうでもいい。金さえもらえればいいのだ。
忠義も剣もいらない。金だ、金が全部だ。金があればあらゆる苦しみから逃れられる。
「動かないでいただけますか」
ふと、首筋に冷たいものを添えられた。
腐っても士族である己が不覚を取られたことにはもはや怒りはない。ただ鈍り切った自分への薄ら寒い呆れと失望を抱くのみである。
「何をしているんです? あんたは護衛でしょう。守るべき俺に刃物を突きつけてなんのつもりです」
「報酬金は支払われません。積荷の移動が終わり次第あなたを殺せと仰せつかったのが私ですので。嘘ではありません。狐ですが、私は嘘をつかないことの方が多いです」
護衛の女——三尾の妖狐はそういった。
冗談だろう! 怒りが湧いてきた。戦士として劣っていることではなく、金がもらえないことに対して。それにまた二重にうんざりし、やはり怒りが湧いた。
けれど抵抗できない。この女の噂を聞いている。元々は忍者の家系で、暗殺を生業にしていたとか、そんなことだ。
どんな手を使ってでも相手から情報を奪い、息の根を止める。ときには体を売ってまで、ひどい拷問をしてまで——。
「ここで黙って、これまでのことを忘れるのであれば些少ではありますが私が口止め料を用意します。歯向かうのなら……言うまでもないと思いますが」
女は巾着袋を差し出してきた。中でかちゃりと金属が擦れる音。いくら入っているのかは知らない。この際、銅銭でもよかった。
小遣い程度の金とはいえ、それをもらって生きていられるのなら……。
惨めな自分の考えに奥歯を噛んで、結局御者の男は袋を掴んだ。
「失せなさい。全てを忘れなさい」
「ああ、そうするよ。畜生、女狐め」
男は御者台から降り、脇の小道に入った。そこからは川辺の村に続いている。
女狐——例の女中の護衛は彼がどうなるかなどどうでもよかった。
博愛主義者が生きていけるほど、今の裡辺は平和ではない。自分とその周りのことでみんな手一杯だ。
妖狐の女にとっての自分の周りとはすなわち——、
「奏真様」
荷車の樽に声をかけると、あらかじめ緩く打たれていた釘で閉じられていた蓋を力任せに外し、中から奏真が出てきた。
青黒い髪がカットされており、右目には安物の布を巻き付けて大嫌いなその目を隠している。
癖っぽい、どこか毛皮を思わせるモフっとした毛はミディアムにすることでややワイルドに跳ねていた。長く伸ばしていた際、実験の手間だからと強引に直毛になるよう、油で整えられることもあった。
彼は肩を軽く回してストレッチした後、ゆっくりと深呼吸する。
叔父の安直な行動は度々聞いていた。この馬車の護衛で、奏真の脱走を
まさかここまで単純な策で上手くいくとはという驚きはあるが。
(穂波が裏切るなんて思ってもいなかったんだろうな。俺が生まれる前から
その穂波が別の木箱を釘抜きでこじ開けて、そこに敷き詰められている藁や細々とした物品をどけて中板を外し、奏真の着替えを取り出す。
女になって三日。奏真の衣類は穂波が急遽買い揃えていた。
「お召し物です。私は周辺の警戒を致しますので。峠故、野盗の恐れもありますから」
「助かる。ありがとう」
奏真は身につけていたボロを脱ぎ捨てて、荷台で着替え始めた。
胸の覆いは適当な、
下着を穿いて、それから狩衣らしき意匠の上衣と下衣。そして、穂波が前に見せてくれた頭巾のついた羽織。
それらは黒と青色という、奏真の髪や目を思わせる色合いで統一されていた。
諸々着込んで、奏真は穂波に声をかける。
「着替え終わった。……それにしても、ずっと目論んでた脱獄がこんなふうに実現するなんてな」
「ええ。……不幸中、不幸というには些か大きすぎる物ですが、あそこを出られたのは本当に幸いでした。お似合いですよ」
「上はぶらじゃあ? ってので、下はふんどし。なんか、こう……すっごい変わった趣味の奴に思われそうだ」
「感性は人それぞれ、妖それぞれです。私は奏真様の御心に惚れ込んでおりますので、外見などどうでもいいのです」
聞き方によってはとんでもないほどに熱烈な恋愛感情を込めた告白であるが、決してそうではない。
穂波は二五〇年近く生きてきて、三尾となった五〇年ほど前に八雲家に来た。奏真の両親が当主の座にいた頃に忠誠を誓ったのだとか言っていた。
「私にとっての主人は、今は奏真様ただ一人。二君には仕えませんし、そんな嘘を突き通せるほど器用ではありません。狐としてはいかがなものかと、というところですけど」
「素直な狐だっているだろ? ……さて、ここからどうする?」
周りは岩がちな峠道。時間は明け方を過ぎ、海の向こうはもう朱色に染め上げられている。
眼下に見える港街を目指すとのことで、聞かずとも分かっていたが確認のためにそう問うた。
遠く、ここを降った先に見える巨岩。穿たれた天井や壁面の穴からは炎の輝きが見えていた。
「
「そうだな。お前が鍛えてくれてたから、体力はそこそこ自信あるし。……ほんとにありがとうな」
「主人にここまで感謝されるとは……術師冥利につきます。あ、っと。そちらの木箱、失礼しますね」
そそくさと別の木箱をこじ開ける穂波。三本の赤みがかっている金色の尻尾が嬉しそうに上下している。なんてもふもふしているんだろう……。
触りたいが、許可も心の準備もしてもらっていないので、我慢した。
妖狐をはじめ、妖怪の尻尾は神経が集中した感覚器官の側面と、妖力の循環・放射器官も兼ねる敏感な部分だ。
性感帯とはまた違うが、過敏に反応してしまう。
「こちらを」
「刀……? こんな立派なのどこで……」
刃渡は二尺三寸五分。時代によりけりだが、打刀の中でも長い部類の一振りである。
簡素な作りだが、穂波が適当なものを用意するとは思えない。
「ここだけの話、宝物庫からくすねて参りました。狐に鶏小屋の番をさせた方が悪いんですよ」
しれっと泥棒発言をするが、奏真は聞こえなかったふりをした。
「帯はこちらに。それから札もございますので、道具袋や装備帯などもどうぞ」
「しっかり準備してたんだな。三日でここまで……」
「千載一遇といえる機会でしたから。あれを逃せば次はないだろうと思ったのです」
穂波に手伝ってもらいつつ、奏真は諸々の装備品を身につけた。
基礎的な体づくり、体力強化、そして武具の扱いはほぼ全て穂波による手ほどきだ。
叔父は長年仕えてきた穂波を盲目的に信用し、あわよくば一発……などと考えていたらしく、彼女には甘いということを他ならない当事者から聞いていた。
その甘さにつけ込み、穂波はうまく騙して奏真を鍛えていたのである。
美貌で籠絡し、言葉で巧みに誘導するのはなんとも狐らしい手練手管である。二君に仕えぬ純真さはさておき、この辺りの立ち回りの上手さは妖狐の面目躍如だろう。
「様になっております。……馬を逃し、荷車を燃やしましょう。事故と偽るなり時間稼ぎにするなり、放置するよりはマシでしょうから」
「そうだな。焼き払ったらすぐ燦月の里へ急ごう」
内心わくわくしていた。牢獄から出たことは実験のため以外にはない。何度か外にも出たことはあったが、屈強な叔父の側近に囲まれていて、とても楽しめたものではなかった。
荷台から降りて、間も無く馬を逃し、穂波が紅色の狐火で荷車を焼く。相当な火力だ。遺体さえ残らぬほどに焼くことで、生死不明というさらなる時間稼ぎと、逃げ延びたことを隠そうということだろう。
ややあって、ぶすぶすと音を立てる木材が炭化していった。
「さて、これでいいでしょう。奏真様、この場を離れましょうか」
「ああ。早く外の世界を——」
はっとした顔をした穂波が奏真を突き飛ばした。同時に彼女も横に飛び退く。
たった今いた場所に、ぶんっという風切り音がして石が飛んできた。岩がちな道にあたったそれが跳ねて、後ろへ転がっていく。
すぐに起き上がった二人は石が飛んできた方を見て、息を合わせたかのように舌打ちした。
「よぉ別嬪さん方! 迷子になっちまってんのか?」
「おいおい、こんな上玉見たことねえ!」「おい見ろ、一人は狐だぜ!」「俺は黒髪の子がいいわ! おい、手ぇ出すなよ!」
野盗——絵に描いたようなはぐれ者がそこに数人ほど立っていた。一人の手には弩が握られ、投石はあれによって行われたのだろう。
奏真は思わぬ初陣に生唾を飲んで、それから冷静に呼吸を意識した。
人数的には不利。相手に術師がいなければ、あるいは——。
穂波も同じように、状況を見定めるように間合いを探っていた。
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