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吉田清治 (文筆家)


吉田清治 (文筆家)




吉田 清治(よしだ せいじ、本名:吉田 雄兎〈よしだ ゆうと〉、1913年〈大正2年〉10月15日 - 2000年〈平成12年〉7月30日)は、日本の文筆家、活動家。

1980年代に、太平洋戦争中に軍の命令を受け、朝鮮で若い女性を慰安婦にするために自身が強制連行したとする証言を数多く行い、自らそれについての出版物を出した。 坂東忠信によると、その証言は吉田の虚偽・創作だったとされるが、朝日新聞・北海道新聞がこの「吉田証言」を真実として報じたため、後の日韓外交問題(慰安婦問題)の大きな原因となった。

1996年(平成8年)になって吉田自らが証言は主張を織り交ぜた創作であることを認めたとする主張も元々吉田の証言に否定的・批判的な者からは行われたが、その後十数年の間『朝日新聞』は記事を訂正することはなかった。しかし、2014年(平成26年)に18本の記事を取り消し謝罪した。吉田を担いだ北海道新聞も、裏付け取材ができていなかったことを認めて謝罪し、8本の記事を取り消した

吉田は韓国やアメリカでも講演を行ない、海外メディアも報道した。

2014年になって2000年7月に死去していたことが判明した。

彼の経歴については不明な点が多い。

本名

本名は、吉田雄兎。長男によれば、本来は雄治という名だったが、役所の手違により雄兎となった。

吉田本人は、吉田清治の名を、朝鮮人の通名のようなもので、自分が強制連行した人々の親族などから報復される事を恐れて、この名を名乗っていると話していた。

長男は、父が雄兎の名を気に入っておらず、その為、清治をペンネームにしたのではないかと述べている。

略歴

1937年(昭和12年)、吉田の自著には、この年、東京の大学を出て、に満州国地籍整理局に就職したと記されている。

同年4月30日(当時の吉田は23歳独身)、朝鮮人男性「李貞郁(リ・ジョンウク)」を養子としている。

1939年(昭和14年)、吉田によれば、翌年にかけて中華航空上海支店に勤務したことになっているが、上杉千年の調べでは1992年(平成4年)5月の中華航空社員会で吉田を記憶する者がいなかったという。

吉田の自著によれば、1940年(昭和15年)6月、吉田は朝鮮独立運動の首領で日本民間人を殺害した金九を輸送したかどで憲兵に逮捕され、軍法会議で懲役2年の刑を受けたという。これによれば、1942年(昭和17年)6月に諫早刑務所(別書には南京の刑務所)を出所している。ただし、吉田本人は1996年(平成8年)秦郁彦に対し、金九ではなく中華民国重慶軍の大佐だったと訂正、罪名についても阿片密輸にからむ「軍事物資横領罪」であることを告白している。

1942年(昭和17年)9月には同郷の先輩の世話で労務報国会下関支部動員部長になったということだが、これについては疑問の声があがっている(後述)。 吉田が労務報国会下関支部に在籍していたことは事実で、これについては、複数名、吉田の勤務を記憶している者がいたという。吉田が済州島で慰安婦狩りをしたというのはこの時期のことである。

終戦後の1947年(昭和22年)に、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補。129票を獲得したが落選した。

1963年(昭和38年)、週刊朝日で公募された手記「私の八月十五日」において、吉田東司名義で書いた下関での労務調達風景が佳作となり、賞金5000円を得る。他にも、栄司の別名がある。

1970年(昭和45年)頃には福岡県の日ソ親善協会役員に就いた。

1977年(昭和52年)、新人物往来社刊『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社刊)を出版。そこでは、慰安婦狩り(強制連行)の話は出てこず、朝鮮人地区の女性が慰安婦を中継ぎする話になっている。慰安婦狩りの話が出てくるのは1982年(昭和57年)の講演であり、同年9月2日の朝日新聞大阪版では、吉田が慰安婦狩りの内容を講演した旨が採り上げられている。

長男によると、『朝鮮人慰安婦と日本人』執筆の際、出版社とのやりとりの中で本名「雄兎(ゆうと)」ではなく、ペンネーム「清治」を使うこととなった。

翌1983年(昭和58年)、二作目となる三一書房刊『私の戦争犯罪』を出版。そこでは、1943年、西部軍の動員命令によって下関港から出発し、朝鮮の済州島で205人の婦女子を慰安婦要員として強制連行したとしている。

1983年(昭和58年)12月23日、吉田は、韓国忠清南道天安市を訪問し、彼本人の名前と謝罪文が刻まれた謝罪碑の前で土下座した。当時、吉田は、韓国のある組織(「KCIA」と推測される)から借金をしていた。

1992年(平成4年)5月25日、朝日新聞は、吉田清治が韓国に「謝罪の旅」に出る予定と紹介した。8月13日には、吉田は韓国で元慰安婦の金学順と面会し、土下座して謝罪した。吉田は訪韓し、韓国のマスコミに在日韓国人慰安婦5,000人に民族的誇りを与えるため大統領選投票権を与えてほしいと請願した。

吉田は、1998年(平成10年)頃を最後に消息不明だったが、2014年(平成26年)になって2000年(平成12年)7月に既に死去していたことが判明した。

経歴を巡る疑問

吉田の地籍整理局への就職については裏付けがとれているが、学歴については朝日新聞が法政大学卒業と報じ、1990年(平成2年)の『著作権台帳』にも法大卒とあるが、吉田自身、秦郁彦に対しては法大中退と述べ、1996年(平成8年)3月27日、勤労しつつ法政大学専門部法科に在籍したことを秦に対して説明している。しかし実際には、法政大学の在籍記録には吉田の名は掲載されていなかった。

養子について、著書によると1938年(昭和13年)9月1日に戦死したとのことであるが、秦らの調査によって、この男性は1917年(大正6年)生まれで、1942年(昭和17年)に結婚し、戦後九州で労組運動の幹部として活動した後、1983年(昭和58年)に死亡したことが明らかとなっている。

1942年に労務報国会下関支部動員部長になったということだが、これについては中川八洋が、2年間刑務所にあった「前科者」が出所後すぐに内務省系団体の動員部長に任用されることはありえないと主張し、もし彼が中華航空の社員であったのならば、民間人である吉田が軍人・兵士を対象とする軍法会議にかけられるはずがないとして、その説明が虚偽であると主張している。ただし実際には、戦時乃至事変中においては全くの民間人であっても軍法会議で裁かれることがあること、また、軍関係の企業である中華航空では社員も業務次第では軍法会議の対象となる軍属とされたことを、この主張者は知らなかったものと思われる。また、吉田が労務報国会下関支部に在籍していたことは事実で、これについては、複数名、吉田の勤務を記憶している者がいたという。

1983年に出版した『私の戦争犯罪』では、1943年(昭和18年)5月15日付の西部軍動員命令によって5月17日に下関港を出発し、翌日済州島に着いて、兵士10人の応援で205人の婦女子を慰安婦要員として強制連行したとし、その要点(吉田メモ≒動員命令書)は妻の日記に記載されているとした。しかし、吉田が結婚したのは翌1944年(昭和19年)5月のことである。その点を秦によって指摘されると「事実上の結婚と入籍が異なる」と釈明し、事実上の結婚はいつだったのかと指摘されると「昭和16年(1941年)かな」と答えたという。しかし、昭和16年は自著によると服役中であることも指摘されている。肝心の吉田メモが記されているはずの妻の日記は、そもそも実在しないことが、後に明らかとなった。

長男の証言

2014年8月28日付けの読売新聞は、吉田の長男(朝鮮人の養子とは別人物。吉田の実子。以下、同人物)によると、1977年(昭和52年)の『朝鮮人慰安婦と日本人』出版により「これで家計が楽になる」と語ったのを記憶している、などと報じている。

吉田は「元日本軍人」という肩書で公の場に出ていたが、労務報国会は日本軍とは関係なく、吉田の長男の証言によると、「当時、軍人でもない父に、軍刀は支給されていなかったのです」「労務報国会の下関支部は朝鮮人男子の労務というか、下関市内の大工、左官、土木工事の方々を雇って日当で払う仕事の現場監督みたいなものですから、従軍慰安婦とは何の関係もない」「(1943年〈昭和18年〉当時)父は済州島には行っていません。それは父から聞いています。それで父は、済州島の地図を見ながら、原稿用紙へ(慰安婦狩りの)原稿を書いていました」という。ただし、当時、軍人でなくとも軍属が自分で軍属刀を用意して所持することはしばしばあった。また、今田真人の調査で、労務報告会が後に芸伎・酌婦も扱うようになったことが判明している。当時まだ子供であった吉田の長男が、これらのことについてどれだけ分かっていたか、疑問である。

報道ステーションが長男に取材した結果によると、吉田は戦後、下関市で肥料会社を興し、朝鮮戦争の特需もあって一時期は羽振りがよかったという。しかし、10数年後には会社をたたんで生活が苦しくなり、そのような中で原稿用紙を買ってきては週刊誌に投稿するなど執筆活動を始めたという。吉田の人生の大半は定職につかず、その生活費は息子達(長男)が賄っていたという。

長男によると、「石碑を建てたり、韓国に行ったりするお金は、うちにはありませんでした。あれはいろいろな人からの支援だと思います」「韓国から戻ってきた後、父のパスポートを見てびっくりした記憶があります。日本からの出国と帰国のスタンプはあるのですが、韓国への入国、出国のスタンプが押されていない。なぜかと聞いたら、韓国の空港につくやいなや韓国政府の人がやってきて特別室に案内され、そのままソウルの街に出たんだそうです」。

吉田証言

1982年(昭和57年)以降、吉田は戦時中に済州島などでアフリカの奴隷狩りのように若い朝鮮人女性を軍令で捕獲・拉致し、強制連行したと著書や新聞や講演などで語り、日本、韓国、アメリカなどで、何度もそのことを証言して来た。自著では当時の命令書の内容まで詳細に記載している。

これについて済州島の「済州新聞」が追跡調査し、当時そうした「慰安婦狩り」を住民が聞いたという証言を得られず、これをでたらめとして信憑性に疑問を呈する島民もいることを報道した。その後、秦郁彦らも追跡調査を行い、やはり自身が裏付けとなる証言が得られなかったことから、吉田証言を詐話とした。ただし、この調査に納得していない者もいる。

1993年(平成5年)5月、それに対し慰安婦制度を批判している吉見義明が吉田を訪ね積極的に反論するよう勧めたが、吉田は「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるのでできない」としたうえで「回想には地名を変えた場合もある」と発言したため、吉田の回想は証言としては使えないことを吉見は確認した。こうして、吉田本人も地名等について事実と変えた部分があることを認め、その後も真正な具体的内容については明かしていないため、「吉田証言」は歴史証言としては採用できないとしている。吉見義明と一緒に吉田と会談した上杉聰(日本の戦争責任資料センター事務局長)も「吉田証言」は歴史証言としては採用できないとしているものの、そのニュアンスはやや違い、1997年3月25日「教科書に真実と自由を」連絡会の記者会見で、1993年尹貞玉が済州島で一人の被害者と思われる者を見つけたが周囲からの説得と制止で証言がとれなかったという。これについて、秦は、この女性が吉田の慰安婦狩りの該当者だったのかを含め要点がはっきりしないと主張している。

1983年(昭和58年)以降、吉田証言を16回にわたって記事にしてきた朝日新聞は、2014年(平成26年)8月5日に吉田証言を虚偽と判断して、すべての記事を取り消した。

1992年(平成4年)頃より秦郁彦らから信憑性に疑問を呈する声が出たため、新聞各社も吉田証言の紹介を中止するようになった。7回にわたって吉田証言を記事にしていた共同通信は1992年(平成4年)を最後に記事として取り上げなくなった一方で、後述のように吉田証言を事実として報道を続ける新聞社も存在していた。

2014年(平成26年)11月17日には、北海道新聞が朝刊1面に「『吉田証言』報道をおわびします」と題して社告を掲載し、1991年(平成3年)11月から1993年(平成5年)9月にかけて8回(うち1回は共同通信配信の記事)を掲載したが、そのすべてを取り消すとしている。続いて、2014年(平成26年)12月23日、朝日新聞は8月の検証紙面で16本を取り消して以降、再調査でほかにも虚偽証言に基づく記事が見つかったとして吉田清治への取材から「2回ほど朝鮮半島に出かけ、“朝鮮人狩り”に携わった」と報じた記事など追加で2本取り消し、朝日新聞の一連の記事取り消しは計18本となった。

2014年(平成26年)に朝日新聞は記事を取り消したが、国際的にはこの間、吉田証言は、1992年(平成4年)の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書や1996年(平成8年)の国連人権委員会のクマラスワミ報告や1998年のマクドゥーガル報告書でも慰安婦強制連行の証拠の一つとして採用された。また、これら報告はその後も修正されていない。2006年の米下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書でも「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記された。その後、日本側の批判を受けて、2007年の改訂版では「吉田証言」が削除された。しかし、2007年2月25日の決議案審議のための公聴会の時点ではこの吉田証言に基づいた資料を判断材料としたうえで、6月26日にアメリカ合衆国下院121号決議が可決した。

さらに2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは憲法違憲」と判決した際にも事実認定としてクマラスワミ報告、マクドゥーガル報告書、アメリカ合衆国下院121号決議が根拠とされ、吉田証言も事実認定の有力な証拠のひとつとして用いられた。一方、米議会調査局のスタッフとして下院決議に関与した東アジア専門家のラリー・ニクシュ(韓米研究所(ICAS)上級研究員)は吉田証言を虚偽と認めつつも「吉田証言が慰安婦問題の国際世論に影響を与えた決定的な要素だったという主張は、ほとんど正当化されない。歴史修正主義者は、河野談話を攻撃し、慰安婦の強制的な募集がなかったと主張するために、吉田証言のウソを利用している。国際世論には、吉田証言をはるかにしのぐ複合的な証拠が影響している」と発言している。

吉田証言などを基とした朝日新聞による慰安婦強制連行報道が国際問題化に影響したかどうかについては、朝日新聞社が組織した「第三者委員会」は「影響は限定的であった」とまとめている。 また日本政策研究センターの後援で発足した「朝日新聞「慰安婦報道」に対する独立検証委員会(委員長:中西輝政)」による検証報告書では、朝日新聞の一連の報道について「強制連行プロパガンダ」と表現している。

朝鮮人慰安婦の強制連行証言

1977年(昭和52年)に、『朝鮮人慰安婦と日本人 元下関労報動員部長の手記』を新人物往来社から出版。そこでは主に自己の朝鮮半島での出張時の体験談が中心で、慰安婦については触れているものの、強制連行ではなく、話をつけて中継ぎする話になっていた。

1982年(昭和57年)頃から、慰安婦の強制連行を講演し始める。東京地方裁判所における在樺コリアンの樺太残留者帰還請求訴訟では、済州島での朝鮮人奴隷狩りの証人として出廷・証言した。なお、このとき、被告の日本政府代理人は反対尋問をしなかった。

1983年(昭和58年)に、済州島で200人の女性を拉致したと証言する『私の戦争犯罪』を上梓。いわゆる従軍慰安婦問題の発端となったともいわれ、1989年(昭和64/平成元年)には韓国語版も出版された。

1983年(昭和58年)11月10日には朝日新聞が「ひと」欄で吉田清治を「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる吉田清治さん」と紹介した。同年12月23日に天安市に私費で建てた謝罪碑の除幕式に出席するために訪韓し、サハリン残留韓国人の遺家族であるとされる人物の前で土下座した。歴史家の家永三郎も『戦争責任』(岩波書店、1985年)で吉田の著作を賞賛した。

その後も朝日新聞・しんぶん赤旗などで自身の「戦争犯罪」の告白を展開。韓国にも赴き、講演と謝罪を繰り返した。このような告白、謝罪を行った吉田は当時「勇気あるただ一人の告白者」とされていた。だが、秦郁彦によって済州島での「慰安婦狩り」に疑問が出されることになる。

吉田証言における連行人数の細かな異同

  • 1992年1月23日、朝日新聞で吉田は連行した朝鮮人女性は950人と証言。
  • 1992年1月26日、赤旗で吉田は連行した女性は1000人以上と証言。
  • 1992年3月13日と3月16日、秦郁彦のインタビューで吉田は「女子挺身隊の名目で慰安婦を調達した。計950人と記憶しているが、部下は2000人といっている」と答えた。
  • 1992年5月24日、朝日新聞で「男女6000人を強制連行した」と吉田は発言。
  • 1992年8月8日、ニューヨーク・タイムズは吉田は2000人の朝鮮人女性の「狩り」をしたと報道。
  • 1992年8月12日、毎日新聞は吉田が1000人徴用したと報道。
  • 1992年8月15日、読売新聞は吉田は100人の朝鮮人を海南島へ連行したと報道。
  • 1992年11月14日、赤旗は吉田が最低950人、多くて3000人の朝鮮人女性の強制連行をしたと報道。
  • 1997年3月31日、朝日新聞は吉田証言の真偽は確認できないと報道。

朝日新聞は、1982年(昭和57年)9月2日、1992年(平成4年)1月23日、同年5月24日に吉田証言を詳しく伝え、これらの記事は2014年(平成26年)5月の段階においても訂正記事を出していなかったが、同年8月5日になって「事実関係の誤りがあった」「裏付け取材が不十分だった」などとして、吉田の関連記事を撤回した。

吉田証言を巡る議論

吉田が済州島で慰安婦狩りを行ったと語っている事について、当時の朝鮮総督府管内には、朝鮮労務協会や内地の労報に相当する労務報国会があったため、労務調達のため内地の労報支部員が直接出向いて徴集しなければならない理由はなかったはずだと主張されている。また、吉田の陳述では、西部軍 → 山口県知事 → 下関警察署長 → 吉田のラインで労務調達の命令が下されたとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定していると、秦は述べている。一方、今田真人は、軍の要求で県が行う指示要求系統が出来たとしている。

吉田が所属した労務報国会は荷役業務や土木作業に従事する日雇い労働者の動員業務に従事する民間の組織であり、軍の命令で業務を行う指示系統はなく、労務者を集める日本内地の地方支部組織が朝鮮総督府の管轄下にある地域に出動して直接人員を集めることはないと、秦や東大教授の外村大らから主張されていることに対して、今田真人は、思想国策協会『決戦下の国民運動』(1944年11月)に、外地労務の移入斡旋を労報〔労務報国会〕が担当することになったとの記述があることを発見した。これについて外村は、資料を確認し、労務報国会が朝鮮半島からの労働者の動員に関りを持っていたことを認めた上で、労務報国会が「担当する」業務内容とは、朝鮮に職員を常駐させて事務手続きを行ったり、会員である事業主が朝鮮人労働者の要員確保を行おうとする際に、職員を労務補導員として派遣するというものだと述べている。

元赤旗の記者、今田真人は、吉田の語るような軍からの命令系統は存在しないという秦郁彦らの反論に対し、国会図書館で吉田証言の裏付けとなりうる資料を発見したとしている。また、済州島での慰安婦強制連行を目撃したという証人も現れたとしている。

今田は、他にも自身が発見した公文書が市民団体の運動の結果、公表されたところ、慰安所の女性についても、その雇入認可の権限を厚生大臣から地方長官(労務報国会を管轄する)に委譲することを記載した通牒等があることも判明したとしている。

吉田証言の実地調査

吉田清治は、関係者に迷惑をかけないためとして加害者の名前や肩書については変えてあり、被害者についても慰安婦であったことを取り沙汰されないためとして個人名や具体的な地名についても伏せるとしており、今田は、吉田が済州島については語ったのは、済州島四・三事件での虐殺や島外脱出のために当時の人々は多くが替わっており、済州島の古老は実際には後から移住してきた人ばかりで問題がないからだと、聞いたとしている。実際に、秦が済州島に行ったのも、具体的な日付と地名を出したのが済州島だけだからとしている。

許栄善(済州新聞記者)による取材

吉田の著書の韓国語版が出版された1989年、現地紙済州新聞の許栄善記者は、8月14日付の記事の中で、済州島で「慰安婦狩り」の話を裏付け証言する人はほとんどいないとし、城山浦に住む85歳女性の「250余の家しかないこの村で15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」という証言を紹介した。済州新聞のこの記事は、1992年に秦郁彦によって現地の図書館で発見され、日本に紹介された。

なお、韓国仁徳大学の講師である言語心理学者 吉方べきによれば、許栄善記者はその後会った他の取材者らに「自分は何人か(の島民)に話を聞いただけで、これが吉田氏の告白全てを否定する証拠のように扱われるのは不本意」と語り、「記事が日本で予想外の注目を受け不自由な思いをしたため、これ以上関わりたくない」と吐露したともされる。一方で、遺族会の抗議に許栄善記者は従来の見方を引っ込めるしかなかったとの見方も韓国にあることを、吉方は伝えている。

金奉玉(郷土史家)による調査

許栄善記者は、済州新聞の記事の中で、済州島の郷土史家である金奉玉が「1983年に日本語版が出てから何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した」とし、吉田の著書について「日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨していると伝えている。

秦郁彦による済州島現地調査

1992年(平成4年)3月には秦郁彦が吉田の証言について済州島に現地調査に行き、現地図書館で前述の済州新聞の記事を発見したほか、城山浦の老人クラブで5人の老人と話合って、男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかったらしいことを確認したとする。

また秦は、当時、吉田証言のテレビ番組を企画したが、結局番組が制作されなかったというNHK山口放送局にもその理由を問い合わせたところ、番組担当者が吉田証言の裏付けがとれず、さらに吉田の著作を刊行した出版社が「あれは小説ですよ」と述べたので企画を中止したとの証言を得た。

姜貞淑(挺身隊研究所元研究員)による済州島現地調査

2014年、韓国挺身隊研究所の元研究員、姜貞淑は、朝日新聞の検証チームに、1993年の6月に「(済州島の)数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」と語っている。

朝日新聞(植村隆)による済州島現地調査

朝日新聞は、1997年の慰安婦問題の特集記事に先立ち、植村隆記者を済州島に派遣した。植村は、済州島の記事を書いた許に取材した他、現地調査を行った結果、社に 「いわゆる人狩りのような行為があったという証言は出てこなかった」とのメモを提出した。

西野瑠美子による調査

西野瑠美子は、吉田が軍からの命令書交付の場に吉田を立ち会わせたと言う当時の下関警察の労務課長の部下に、労務報国会が済州島に慰安婦の狩り出しに行ったという話を聞いた事があるかと尋ねたところ、「いやぁ、ないね。(略)しかし管轄が違うから何とも言えませんがね」との回答を得たが、さらに(吉田証言によると)下関の大坪からも在日の朝鮮人女性を集めたようですがと尋ねたところ、「(略)やったかもしれん。やったとしたら、特高でしょうなぁ。県の特高の出張所が下関署内にありましたから」と言われた。今田真人、林博史、前田朗らは、秦が西野の聞き取りのこのくだりを無視していると批判している。

朝日新聞による第二次済州島調査(2014年)

朝日新聞の検証チームが、一週間をかけ、島内の70代後半から90代の40名の老人に話を聞き、吉田の著書に登場する場所を探して聞き取りをしたが、吉田証言に対し否定的な反応しか得られなかった。

吉田が干し魚の製造工場から数十人の女性を連れ去ったと証言した町でも、該当する唯一の施設で「女性の連れ去り」を否定された。

梁順任による現地調査

吉方べきによれば、太平洋戦争犠牲者遺族会の梁順任は、済州島の吉田証言と地理的特徴が合致する地区で聞き取り調査を行い、6、7人が慰安婦として徴用されたという証言を得たという。ただし、これらは吉田式の人狩りではなく、村ごとに割り当てられた候補者を、後日担当者が連れて行くという方式だったという。また、証言したのは被害者本人ではなく、「難を逃れた」女性によるものだった。

梁は、四・三事件事件の後遺症よる萎縮に加えて島の恥になることは口にしたくないとの雰囲気が強く、関係者の口が固いと述べている。

吉田の反論

吉田は、戦後生まれの許栄善に昭和19年ごろの済州島の実態が分かるはずはなく、彼女が紹介した老婆の話についても裏取りされていないと反論している。また、韓国の公共放送、KBSが吉田と共に現地を回り、事実を確認したとも言っている。ただし、吉田はこの時、住民に迷惑がかかるとして、慰安婦ではなく女子挺身隊の徴用の体験を証言するという形にして現地を回ったと述べている。

調査結果に否定的な意見

今田真人は、朝日新聞の調査について、同時期に同社の社長と安倍晋三首相が会食しており、何らかの取引がなされた可能性があると考えている

また、島民の多くが、済州島四・三事件で殺され生き残った者は日本に逃れている事から、朝日新聞が取材した住民は弾圧に手を貸した側かもしれず、よって裏づけは困難だと主張している。秦の調査についても、歴史研究者として(強制連行の)証拠を見つけられなかった「研究失敗」の事例だとしている。

西野瑠美子は、性の問題の聞き取りは簡単ではなく、現地へ行って「強制連行の証拠」集めをしようとしても誰も心を開かないと、朝日新聞の調査を批判している。

吉方べきは、許栄善が1989年の記事の4年後にも慰安婦狩りについての署名記事を書いており、その中で吉田証言を取上げていながら、これを否定的に扱っていないと指摘している。

朝日新聞の慰安婦報道

1991年(平成3年)5月22日朝日新聞大阪版で吉田の「木剣ふるい無理やり動員」発言が紹介され、同年10月10日朝日新聞大阪版では「慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供をひきはがして連行」したという吉田の証言を掲載した。

同年8月11日に朝日新聞が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(植村隆韓国特派員・ソウル発)記事で元慰安婦の金学順について「女子挺身隊の名で戦場に連行され」たと報道する。

同年10月10日には朝日新聞大阪版が再度、吉田清治へのインタビューを掲載する(井上祐雅編集委員による)。

内閣総理大臣宮沢喜一訪韓後の1992年(平成4年)1月23日、夕刊コラム「論説委員会から-『窓』、従軍慰安婦」では、北畠清泰朝日新聞論説委員による吉田の紹介記事が掲載されたが、それは以下のようなことばで結ばれている。

新聞各紙による吉田証言の取消し

朝日新聞による吉田証言の取消し

朝日新聞は1997年3月31日に吉田の「著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」との記事を掲載したが、訂正記事は出さなかった。しかし、その17年後の2014年8月5日付記事『「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断』で朝日新聞は、吉田証言は虚偽だと判断し、吉田証言に関する16の掲載記事を取り消した。

2014年朝日新聞は検証記事を掲載し、1992年4月30日、吉田に取材面会を申し込むが拒否され、その後朝日新聞として吉田のことは取り上げていないとしている。「2014年4月から5月にかけて済州島内で70代後半から90代の計約40人から話を聞いたが強制連行したという吉田の記述を裏付ける証言は得られなかったとして『「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断』とした」。また「読者のみなさまへ」として「当時、虚偽の証言は見抜けませんでした。」としている。

同年9月11日、朝日新聞社社長木村伊量や取締役編集担当らが過去の記事の訂正に関して謝罪会見を行った。

また、朝日新聞は記事以外でも吉田証言から謝罪までの間に天声人語で15回、声の欄で朝日新聞の主張に沿ったもののみ480回慰安婦問題を取り上げており、2014年9月13日付けの天声人語、社説でも謝罪している。

12月23日、吉田清治に関する記事など追加で2本取り消した。

北海道新聞による吉田証言の取消し

朝日新聞に続き北海道新聞も、2014年の11月17日の朝刊に「『吉田証言』報道をおわびします」と題した社告を掲載し、吉田証言に関する記事を取り消した。同紙は、特集記事の中で、1991年から93年までの間に8回、吉田証言に関する記事を掲載していた事実を明らかにした上で、「証言内容は信憑性が薄いと判断した」と読者に説明した。

赤旗紙による吉田記事の取消し

2014年9月27日、しんぶん赤旗も朝日新聞の8月5日の特集記事を機会に検証し、1992年から93年に3回「吉田証言」や著書を取り上げたが信ぴょう性がなかったとして取り消し・謝罪記事を掲載した。

吉田清治本人による証言否定?

吉田は自著の虚偽を指摘された後も韓国での謝罪行脚や朝日新聞での証言を続けていたが、秦郁彦によれば、秦に1995年に「自分の役目は終わった」として著書が自身の創作であったことを認めたとされる。

1996年(平成8年)5月2・9日付の週刊新潮インタビューでは、吉田は以下のように語った。

秦郁彦によれば、1998年(平成10年)9月2日に、秦が吉田に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めたところ、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら……このままにしておきましょう」との返事だったという。

これに対して、今田真人は、新潮への回答は、元々の吉田の説明通り、明らかに関係者をまもるため、名前等の具体的内容を変えた部分があることへの説明であるのに、秦がこれを吉田が全くの詐話をしたかのように曲解していることを指摘、さらに、①なぜ、この種の重要なインタビューを電話で済ますのか、②吉田を詐話師呼ばわりしていた秦に吉田がそのようなことを本当に話したのか、そもそも対面で会ってすら貰えないから電話だったのではないか、③回答を都合良く編集してあるのではないか、との疑問を呈示している。

吉田清治本人が、その著書中から事実と主張する部分と変えたとする部分とを分離修正せずに放置したまま死去したため、発言をそのまま真正の証言として扱うことは出来ず、現在では吉田証言が強制連行の存否そのものの信頼できる直接証拠として採用されることはない。

影響と評価

現在の所、脅しや権力を利用した強制はあっても、直接の肉体的・物理的な暴力あるいは実力行使により、日本の官憲が本人の意思に反して女性を慰安婦にすべく連れ去ったという公になされた「加害証言」は、スマラン慰安所事件の舞台となったインドネシアなどでは存在するが、朝鮮では、吉田証言のみとなっている。その吉田証言はその信憑性が疑問視され、慰安婦問題を批判する側からも採用されなくなりつつあるが、2012年にも朝鮮日報が強制連行の証拠として報じている。

吉田証言は初めての、朝鮮半島での加害証言として旧日本軍の慰安婦に対する強制連行の有力な証言として、扱われてきたが、秦郁彦、中村粲、板倉由明、上杉千年らの歴史研究者の検証によって、その証言をはじめ、吉田の語っていた軍の命令系統から本人の経歴に嘘や矛盾があると主張されたため、旧日本軍による「強制連行」は捏造だと批判された。これに対して日本軍による強制連行があったとする吉見義明が反論したらどうかと吉田に奨めたところ、すべてが事実ではないと吉田が語ったため、吉見も証言としては採用できないと確認した。また同じく強制連行に肯定的な姿勢をとる日本の戦争責任資料センター事務局長の上杉聰も同じく証言として採用できないとした。

李栄薫ソウル大学教授は2009年6月1日に、吉田証言は今日の韓国人の集団的記憶形成に決定的に寄与したと語っている。歴史学者の安丸良夫は吉田の著作が「従軍慰安婦」「強制連行」の典型的なイメージを作り出すとともに、その後「この書物の記述が事実でないことが明らかにされて、『強制連行』をめぐる事実認識が重要な争点となる原因をつくった」と2009年に語っている。文筆家である但馬オサムは「吉田本をよく読むと、彼の個人的なサディズム妄想を軍隊と絡めたエロ小説かのようです。女狩りというのはそれこそサディズム小説の古典的パターンのひとつです。まるでポルノのような小説が“旧軍関係者の勇気ある告発”ともてはやされ、大手を振って出版されていた。」と述べている。

上杉聰・吉見義明による見解

1993年(平成5年)5月に、慰安婦制度を批判している吉見義明が吉田を訪ね、秦らの批判に積極的に反論するよう勧めたが、吉田は「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるのでできない」としたうえで「回想には日時や場所を変えた場合もある」と発言したため、吉田の回想は証言としては使えないことを吉見は確認した。

また、上杉聰も吉見義明とともに吉田と面談した結果、「吉田の証言を嘘と断定することはできないが、「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない」としている。

国際社会への拡散

朝日新聞に掲載された吉田証言は同じく同紙記者だった植村隆の慰安婦強制連行記事とともに韓国メディアに取り上げられ、1990年代後半には国際社会へと拡散されていった。吉田証言を採用した国際的な決議や報告には1996年の国連人権委員会のクマラスワミ報告、1998年のマクドゥーガル報告書、2007年のアメリカ合衆国下院121号決議などがある。国際問題化する過程では、朝日報道を韓国メディアが引用して取り上げることで、韓国世論で日本への批判が高まり、今度は朝日がそれを再び報じるということが繰り返され、朝日と韓国のメディア、世論による一種の「共鳴」とも言える状況がみられた。

1992年7月31日の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書でも吉田の著書を証拠として採用し、その後も修正していない。また1996年の国連のクマラスワミ報告でも吉田証言は強制連行の証拠として採用されている。

米国下院対日謝罪決議案の報告書における証拠採用

2006年に米国下院が慰安婦問題で対日非難決議(アメリカ合衆国下院121号決議)案を審議する際の資料(memorandum)とされたアメリカ議会調査局の報告書(2006年4月10日付)でも「従軍慰安婦システムの報告(Accounts of the Comfort Women System)」の項目で「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」も明記されたが、日本側の調査と報告を受けて、2007年の改訂版の報告書(2007年4月3日付)では「吉田証言」が削除された。しかし、産経新聞の古森義久によれば、2007年2月25日の決議案審議のための公聴会の時点ではこの吉田証言に基づいた資料を判断材料としていた。

朝鮮日報による評価

2012年9月5日に朝鮮日報は、社説で吉田の著書『朝鮮人慰安婦と日本人』を取り上げ「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行が立証されるのに十分である」として強制連行の証拠であるとしている。

安倍晋三首相による発言

2007年に安倍晋三首相は「虚偽と判明した吉田証言以外に官憲の関与の証言はない」と答弁している。

2014年10月3日には、衆議院予算委員会で「『日本が国ぐるみで性奴隷にした』といういわれなき中傷が世界で行われている。(慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の虚偽証言を巡る)朝日新聞の誤報でそういう状況が生み出されたのも事実だ」との認識を示した。

吉田証言を真実として記載した著作物

  • 朝日新聞等、各新聞
  • 家永三郎『戦争責任』岩波書店、1985年。
  • 佐藤和秀『潮』1992年3月号で吉田証言の読後感として「涙をおさえることができない」と記す。
  • 鈴木裕子『朝鮮人従軍慰安婦』岩波ブックレット、1992年。
  • 杉井静子『文化評論』1992年4月号で「慰安婦はまさに銃剣をつきつけて強制連行された」ことを吉田が生々しく証言していると書く。
  • 日弁連国際人権部会報告「日本の戦後処理を問う」シンポジウム、1992年。
  • 石川逸子『「従軍慰安婦」にされた少女たち』岩波ジュニア新書、1993年(2005年、十五版)
  • 高木健一『従軍慰安婦と戦後補償』三一書房、1992年。
  • 倉橋正直『従軍慰安婦問題の歴史的研究』共栄書房、1994年。
  • 幣原広『法学セミナー』1997年8月号で紹介。
  • 曾根一夫『元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦』白石書店、1993年。
  • 吉田邦彦『都市居住・災害復興・戦争補償と批判的「法の支配」』(北海道大学大学院法学研究科叢書19)有斐閣、2011年。161頁で、狭義の強制性に関して「仮に公式の文書がなくても、その関連の多数の証言を排して、そうした事実はないとすることは、無理で飛躍がある」と述べて日本政府の見解を批判し、その脚注(167頁)の中に「加害当事者による証言」として吉田清治の著書2点を挙げている(初出は判例時報1976号・1977号、2007年)。
  • 飯沼二郎編著『架橋-私にとっての朝鮮』麦秋社、1984年「対談-日本人の朝鮮観をめぐって」鶴見俊輔 飯沼二郎241-p243

広辞苑掲載の強制連行の記述と批判

広辞苑4版(1991年)では「従軍慰安婦」項目が登場し、最新の版でも吉田の証言に沿った内容になっている。

吉田本人について

猪瀬直樹は1996年に「それにしてもたった一人の詐話師が、日韓問題を険悪化させ、日本の教科書を書き換えさせ、国際連合に報告書までつくらせたのである。虚言を弄する吉田という男は、ある意味ではもう一人の麻原彰晃ともいえないか」と述べている。窪田順生も、吉田の主張していた「経歴」に虚偽が多いことを挙げ、単なる詐話師レベルではないほど怪しい人物であると述べている。

有村治子は、2021年3月の参議院文教科学委員会にて、教科書における従軍慰安婦問題の記載に関する質問の中で吉田に言及し「そもそも、吉田清治なるウソにウソを重ねた詐欺師が、朝鮮半島で暴力の限りを働いて、幼子から母親を引っ剥がし、千人近い慰安婦の人狩りをしたなどという完全な作り話の数々を創作し、これらの情報が朝日新聞によって長年にわたり何度も喧伝されてきました」と発言した。

主な著作

  • 『朝鮮人慰安婦と日本人 -- 元下関労報動員部長の手記』 新人物往来社 1977年(昭和52年)3月
  • 『私の戦争犯罪 -- 朝鮮人強制連行』 三一書房 1983年(昭和58年)7月

脚註

注釈

出典

参考文献

  • 秦郁彦『昭和史の謎を追う』(文藝春秋1993年3月)
  • 秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』新潮社〈新潮選書〉、1999年6月。ISBN 978-4106005657。 
  • 坂東忠信 『在日特権と犯罪未公開警察統計データからその実態を読み解く!』青林堂、2016年10月8日。ISBN 978-4792605674。 

関連項目

  • 慰安婦
  • 日本の慰安婦
  • 強制連行
  • 国連人権委員会
  • クマラスワミ報告
  • マクドゥーガル報告書
  • アメリカ合衆国下院121号決議
  • 植村隆
  • 朝日新聞
  • 日本共産党

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 吉田清治 (文筆家) by Wikipedia (Historical)