天堂星は老人の星です。老境がもたらす落ち着いたさわやかな理性、知性です。落ち着いた知性は行動にも現れ、容易に動こうとしません。それが性情になると引込み思案で、自制心を備えた態度、出所進退を弁えた行動となります。それは他の人に迷惑をかけることを嫌う態度にもなり、何事も自分で行おうとし、黙々と行うことから無言の行動となります。無言の行動は人間との交流よりも、自然との交流を好むようになり、動物や植物を好きになるとか、芸術の世界に没頭するようになります。更に無形のものへの憧憬となり、思想、試作、哲学、宗教学等の精神の世界に入ります。それは無の世界に自分を置こうとする自然の姿です。

天堂星は有意識の星です。無の世界へ導く姿は有の中で求めているもので、有中の無と言えるものであり、有限の中の無の追求です。それは肉体が衰え精神が枯れてきて、初めて出来るものです。有中の無を追求するのは、肉体の一部や手足が衰え機能を失っていくのを精神の枯れと共に、心の中に刻み付けるようで、そこに薄皮を剥ぐように無の境地が現れます。それは人間としての悟りの境地です。その境地が、こだわりを忘れた人生観となり、老若男女の別を抜きにした心の交流となります。若くして老成の風を見せるかと思えば、老いて幼児のような無邪気さを見せ、子供から老人にまで好かれます。しかし無言の態度が不愛想の性格になりやすいので、本当に理解されるには長い年月を必要とします。そして理解されれば交際は死ぬまで続きます。交際範囲が広くなる半面、長く交際できる友人は限られます。議論をする場合でも進んで発言することは少ないですが、意見を求められれば全体的観点と双方のバランスに合う発言をして、最終的には精神的なことを主としてまとめます。したがって物事に対処する姿勢も、外見より内容、現実より精神を重視して、しかも現実に合う判断を下します。現実と精神の接点を探してぎりぎりの線まで追求します。寒中に滝に打たれながら悟りを開く修験者のようなもので、有の極限を追求する姿でもあります。有中の無を人間関係の中で見ると、有を集団、無を個人と考え、集団の中の自分を知って自分を無にすることです。それは集団に同化する個人であっても良いです。そのためには集団生活も必要です。有中の無の追求ができない天堂星の場合、性格は温厚さがなくなりぎすぎすしたものとなり、自己中心の人間となります。自分は老人なので、周りの者が面倒を見てくれて当たり前という態度をとり、老人であることを特権として老人特有の利己主義の塊のような人間に成り下がってしまいます。

集団の中で自己を無にすると、自制心が備わり、精神的優位に落ち着きます。その場合、老いても老いを感じさせず、爽やかなさっぱりした人間性となり、誰からも好かれます。山野に咲く一輪の花のようなもので、その花が無くても景色に影響はないのに、花が無いと間の抜けたようになるのと同じで、その人がいなくても体制に影響はないのに、実際にいないと困る人で、舞台でいうと脇役で、その脇役の演技次第で主役が生きる名脇役といった位置にいるような人です。そのためには早くから教養の積み重ねが必要です。