平和祈念公園

沖縄県営の平和祈念公園に行ってきた。

園内を歩いて平和祈念資料館へ。

だだっ広い公園には、平和の丘モニュメント、平和祈念堂(蝶々園、仏像などがあるらしい)などがあった。着いた時間が遅く、寄っている暇がなかったので、平和祈念資料館へ直行した。

平和祈念資料館はゴージャスな県営施設。

館内は撮影禁止なので、メモを取りながら回った。

沖縄戦のことだけでなく、琉球王国時代から本土が沖縄に行ってきた差別、沖縄の戦後史、復帰運動も網羅して展示されていた。

○江戸時代、琉球王国は薩摩との戦争に破れ、その支配下に入った。
○明治12年、琉球王国解体。沖縄県設置。
○琉球は古来から中国のものである、と清国が主張。日本側から、宮古以西を清国に割譲する案もあったが、廃案になった。
○沖縄では法整備が日本本土に比べて遅れた。明治6年に他県で徴兵令がしかれたのに、沖縄では明治31年にやっと施行。宮古・八重山諸島で人頭税が廃止されたのは、明治36年(1903年)。こんな状況だったので、「沖縄県民は日本国民としての自覚が乏しい」と考えられていた。
○大恐慌の時、沖縄ではソテツの実(毒抜きが必要)を食べて生き延びるしかない状態で、ソテツ地獄と言われていた。そのため、南洋移民が行われた。太平洋戦争中、南洋諸島で犠牲になった住民15000人のうち、沖縄県民は13000人である。
○沖縄県民の皇民化をすすめるため、標準語励行政策を行った。方言を話した者に方言札をつけるなど、迫害を行ったのだ(与那国民俗資料館の館長さんも、標準語励行で嫌な思いをしたと言っていた。)。
その他、御獄に神社を建立する、ユタの取り締まり、大和ふうの名前に変更するなどの策が取られた。
改名の例として、
知念→本田
島袋→島、島田、島副
平安名(へんな)→平安
高江洲(たかえす)→高安
など・・・。改名するほどの問題じゃないと思うのだが、当時は真剣にこんなことが行われていた。

○戦時中、方言を使う者はスパイだ、という通達が出された。

○民間人による特務組織(国士隊)、防衛隊、義勇隊が組織され、本島内での疎開が行われた。
○戦力不足をおぎなうため、木などでおとり飛行機、おとり戦車が作られた(写真展示)

ガマの中で母子を脅す兵士、子供の口を塞ぐ母親の実物大模型が怖かった。壁のように積み上げられた砲弾や鉄兜の山が凄かった。

ブースには膨大な分量の映像資料があった。八重山の戦争ネタに絞って何本か見てみた。

○石垣島のみのかさ部隊。
住民が徴用され、石垣島・白保飛行場建設に動員された。制服などは支給されなかったので、自前のみのかさを着て仕事をしたので、「みのかさ部隊」と呼ばれた。
○石垣島事件の証言。
1945年4月、石垣島に米軍機が不時着し、捕虜3名が惨殺された事件。目撃者の証言。ちなみに、戦後、米兵を殺した日本兵のうち41名が死刑を宣告されている。その中には、徴用され、逆らえずに上司の命令に逆らった民間人も多数いた。減刑活動が行われ、その結果、全員が死刑を免れた。
○竹富島から西表に疎開した人の証言。
由布島に疎開したので、マラリアとは無縁。楽しい思い出話をしていた。波照間の疎開話とは大違いだ(波照間の悲劇については、八重山平和祈念館レポを参照)。
○石垣島島内で北部に強制疎開をくらった住民の証言
もともと北部にいた人は大丈夫だったが、南部から疎開した人がのきなみマラリアにやられた。かなわんということで、南部の自宅に戻ったら、兵隊に占拠されていた。

時刻は4時半近く。もっと見てみたかったが、時刻がおしてきたので、沖縄の戦後史コーナーをさらっと見た。沖縄の昭和30年代の商店などが再現されたコーナーは興味深かった。写真撮影禁止が本当にうらめしい。

売店に寄ったら、沖縄の戦争慰霊碑を網羅した本が出ていた。沖縄に住んでいたら、この本一冊買って、全部回ってみるのもいいなぁ。

●沖縄県平和祈念資料館
糸満市字摩文仁614-1、
9~17時、12/29~1/3休、300円
公式サイト

資料館の海側に回ってみたら、太平洋戦争時の兵器群が展示されていた。

左画像は旧日本軍の酸素魚雷、右は不明。

米軍戦車のキャタピラ。

正式名称はわからないが、砲の類。

綺麗な海。

戦争末期、日本軍や住民がこの海辺まで追いつめられたのだ。

周辺は犠牲者名の書かれた石碑の林立する霊地。都道府県別だったが、ハングルで書かれた朝鮮人犠牲者の名前もあった。合掌。

★平和祈念公園公式サイト