纏った衣を脱ぎ捨てて、常日頃、淑やかを心掛ける手足を思い切りに伸ばす。
「――――」
強く、地面を蹴って、しなやかな体を前へ飛ばす。颯爽と金毛が風を切る感覚が心地よくて、草を踏み、駆け抜ける胸中で自分を戒める。
ここは戦場で、大勢が命をぶつけ合う場で、散りゆく命の終着点なのだ。
それを頭でわかっていながらも、鼻腔から滑り込む血の香りが、空気を伝って届いてくる数多の闘争心が、獣と化したフレデリカの心を昂揚させようとする。
「嫌になりますわね……」
その昂揚感から目を逸らさず、フレデリカは本能と切り離した感情で呟く。
幸いというべきか、不幸にもというべきか、陣営の一員として大きな渦の傍らに控えていながら、フレデリカは目立った災禍に見舞われてはこなかった。
それこそ、ガーフィールと十数年ぶりの再会を果たした燃える旧ロズワール邸、あのときのメィリィと、その相方の女性との戦いぐらいのものだろう。本当の意味で、自分の命を危うくするような、そんな絶望的な戦場は。
そんな、ある意味で安穏とした時間を過ごしてきたから、嫌でも思い知る。
自分の内に流れる血、人と獣の性質が交わったそれが偏ったものであるのだと。そう自覚と意識を保たなくては、いとも簡単に自分は大事なモノを見失ってしまうと。
フレデリカを悩ますのは、半獣の身に紐づけられた宿命のようなものだ。
弟のガーフィールが無意識に、高度なところで制御している本能の訴え。それを御し切れない自分の性を、フレデリカはとても煩わしく思う。
己を形作る血の源流がひどく浅ましく、無慈悲なものに思えて――。
「――などと、自分を憐れんでいる場合ではありませんわ。ガーフとエミリア様、それにペトラとオットー様が頑張っておられる状況で」
内なる己との対話を切り上げ、獣化した四肢を唸らせてフレデリカが前を向く。
自分を振り回す昂揚も、先が見えない状況に対する不安も、どちらもフレデリカ自身の身の置きどころ、陣営における立場の不安定さが誘引した負感情だ。
――当然だが、フレデリカたちの代表はエミリアだ。
一行の方針はそれぞれ意見を出し合うが、最終的にはエミリアが決断する。その上、エミリア自身も強力な精霊術師であり、乱戦においても頼れる存在。
ガーフィールは武官として申し分ない実力を備え、オットーは戦争状態に突入した隣国にあっても、その優れた判断力で道を示してくれる。多少、ガーフィールもオットーも、スバルの不在で気負い過ぎているきらいはあったが、前者は発散の機会を戦場に求め、後者にはペトラがうまく対処してくれた。
「あまり頼もしくなりすぎると、わたくしも寂しくなりましてよ」
そう拗ねたように呟くものの、妹のように可愛がっている少女の成長はフレデリカにとって誇らしい。寂寥感が伴うのは、甘えのようなものである。
『言霊の加護』を用い、この戦場を取り巻くあらゆる生き物の声を聞いて、おそらくはこの大乱で最も多くの情報を獲得しているだろうオットー。
彼の傍らに控えるペトラは、覚えたての陽魔法――傾向として、心身の機能を向上させる魔法を自分とオットーにかけ、加護の過剰使用による反動を軽減しつつ、情報の取捨選択にも力を貸しているはずだ。
この一年、自分の下で新米メイドとして学んできたペトラは、その物覚えと要領のよさに加え、本人のたゆまぬ努力で信じられない成長を遂げてきた。
その成長度合いで言うなら、エミリアやスバルさえも抜き去って陣営一位だろう。
まだ幼く、未成熟であることが理由で戦場に踏み込むことを禁じられながら、彼女は腐ることなく役割を探し、危ういオットーを支え、自分だけの役目を果たしている。
誇らしい。同時に、我が身を振り返ってしまう。
エミリアやガーフィールのように戦うことはできず、オットーやペトラのように駆使する知略も支援する能力も持たない。
ただ、滾る本能を抑え込んで、獣化した身で戦場を駆ける自分は、何をと。
「――――」
己の加護を全力で使い、この戦場を支配する。
それがオットーの覚悟であり、事実、そうなりつつあるとフレデリカは考える。ペトラの補助に寄りかかり、後先を考えるのを最低限にしたオットーの活躍により、集められた情報は次々と本陣のアベルの下へ運び込まれる。
その、現在進行形で起こる出来事と変化を把握したアベルにより、組み上げられる戦術が拡大し、反乱軍の戦いが変化していく。――確実に、有利な方へ。
無論、アベルの指示が反乱軍の全てに行き渡るわけではない。
城郭都市から参戦したエミリア一行を含んだこの一団の到着を待たず、戦いを始めてしまった他の叛徒たちは、連携や協力といった姿勢をまるで見せない。
ただ、そのもどかしい状況も永遠には続かないというのがオットーやアベルの見立てであり、すでにそうなる予兆は見え始めていた。
反乱の勢いに乗せられ、一気呵成に帝都に攻め上がった叛徒を迎え撃ったのは、この帝国を支配する皇帝の直下、選び抜かれた精鋭である『怪物』たちだ。
それらの実力を真正面からぶつけられ、叛徒たちも頭に水を浴びたことだろう。
目前の敵とその先の栄光、それしか目に入らなかった状態から抜け出しさえすれば、こちらの言葉に耳を傾ける期待が持てる。
そうなるまでのもどかしい間、フレデリカができるのは――、
「――見つけました! タリッタ様!」
「――ッ!? なんでス!?」
刹那、目まぐるしく変化する戦場の中、目当ての相手を見つけて駆け寄るフレデリカ。
猛然と草を蹴って走る四足獣の姿に、振り向いた相手――タリッタが目を丸くする。しかし、その動揺も束の間、彼女は恐ろしく冷徹な目で弓を構え、つがえられた矢の先端が躊躇なくフレデリカへと――、
「待テ、タリッタ。味方ダ」
と、危うく射抜かれかけたフレデリカを救ったのは、妹の弓を上から押さえたミゼルダだった。その姉の言葉に目を見張るタリッタを見て、フレデリカは「申し訳ありませんわ!」と大きな声で謝りながら着地し、
「こんな姿で失礼いたします。わたくしはフレデリカですわ」
「なるほド、お前だったカ。――美しい獣化だナ。お前でなけれバ、毛皮を剥いで集落に飾っておきたいほどダ」
「ほ、褒め言葉として受け取っておきますわね? おほん、お伝えすべきことが。――本陣の、アベル様からのお達しです」
腕を組んだミゼルダの称賛に、フレデリカは困りつつも本題へ。
フレデリカが獣化し、剣林弾雨の飛び交う戦場を駆け回っていたのは伝令が目的だ。ペトラの支えたオットーが集め、アベルの精査した情報を伝えにきた。
「アベルからノ……彼はなんト?」
星型の城塞、その五つの頂点を守護する敵の存在を警戒し、また先んじて仕掛けた叛徒と乱戦になることを恐れ、攻めあぐねていたタリッタが前のめりになる。
『シュドラクの民』の戦闘力は脅威だが、あくまでその実力の本質は集団戦に、それも狩猟と言えるほどの状況を用意してこそ真価を発揮する。
開けた土地の野戦では、その強みを活かし切れない。
彼女たちに壁を乗り越えさせれば、帝都の防衛力は一気に低下するだろう。そのために攻め落とす壁の選定、それが重要視されていた。
そしてそれは――、
「――第三頂点、本陣の判断ではそこが最も突くべき穴であるとのことでした」
「第三……あっちカ」
渡された伝言を受け、ミゼルダが件の城壁に目を向ける。
遠く、先陣を切った叛徒の集団は次々と壁に取りつき、帝都ルプガナを守る堅牢な城壁の突破を試みる。しかし、その熱を断ち切るような衝撃音と悲鳴は、ただ闇雲に飛び込むだけの姿勢を嘲笑い、切って捨てる容赦のなさを窺わせた。
五つあるいずれの頂点にも、帝都を守護する強力な存在が配置されていることは間違いない。だが、第三頂点がどうして穴として機能するかは――、
「――。石ノ、
「鋼人カ? だガ、『九神将』は一人のはずだろウ」
「――――」
淡々と、遠方にある城壁を眺めながら会話する姉妹に、フレデリカは絶句する。
フレデリカも半獣、それも獣化した状態の今は通常時より高い視力を持っている。それでも、二人の眺める城壁には立ち込める土煙以外の何も見えない。
狩猟を生業とする種族とはいえ、またしても及ばぬ自分に辟易としてしまう。
「フレデリカ、アベルたちは人形についてはなんト?」
「――ぁ、ええ、その、アベル様のお話では、それは『九神将』の一人であるモグロ・ハガネの手勢であると」
「『九神将』……」
その単語を耳に入れ、遠見をするタリッタが頬を硬くする。
彼女の呟きにわずかに混じった不安の色、その理由はフレデリカにも痛いほどわかる。
当然、タリッタも帝都決戦へ参じる以上、『九神将』とぶつかる可能性は考えていたはずだ。だが、可能性を考えていても、拭えない不安は存在する。
いるとわかっていたところで、『剣聖』への恐れは消えてなくならないのと同じだ。
「心配するナ、タリッタ」
「姉上……」
だが、そんな妹の気負う様子に、にやりと笑ったのはミゼルダだ。彼女はその目力の強い双眸を爛々と光らせ、威勢よく妹の肩を叩いた。
「たとえ相手が『九神将』であろうト、もう二度と遅れは取らなイ。あの『九神将』ならば雪辱を晴らシ、違う『九神将』なら腹いせダ。問題があるカ、ン?」
肩をすくめ、ミゼルダは自分の右足――膝下を木の棒に代替したそれを見せ、タリッタへとそう問いかける。
それが本心からの狂気の言葉なのか、あるいは妹を励ますための発言なのか、フレデリカには判断がつかなかったが――、
「――いいエ、問題ありませン」
大きく一度、二度と瞬きをしたタリッタが頷いて、次の瞬間、目にも止まらぬ速度で抜いた矢を弓につがえ、自分たちの真上に射出する。
直後、頭上で聞こえた苦鳴にフレデリカが顔を上げると、三人から少し離れた大地にくるくると回転しながら飛竜が落ちてきた。
その飛竜の顎下に命中した矢が、その頭部まで先端を達して絶命させている。その圧倒的な弓術にフレデリカが瞠目する傍ら、タリッタは息を吐くと、
「頃合いを見テ、私たちで壁を越えましょウ。城壁を抜けれバ、私たちの勝ちでス」
「それでこソ、シュドラクの長ダ。――フレデリカ、お前はどうすル」
覚悟の決まった顔のタリッタに、満足げに頷いたミゼルダが振り向く。姉妹の空気に呑まれかけたフレデリカは、その言葉に我に返り、
「今お伝えした話を、他の方々にも伝えてまいりますわ。聞く耳を持ってくださった方々が一ヶ所へ集えば」
「一穴が堤を崩ス、カ」
「ええ。――風穴が開きますわ」
それこそが、エミリア陣営の方針であり、フレデリカが為すべきことだ。
いまだ、自分が陣営の中で半端な立ち位置にいるとわかっているからこそ、せめて託された役割の範囲で、できるだけのことを果たしたい。
「タリッタ様、ミゼルダ様、どうかご武運を。決して、命をみだりに投げ出すようなことはなさいませんよう」
「はイ、フレデリカも気を付けテ」
「お前が死ねバ、お前の毛皮はシュドラクで代々継いでいク」
「生憎と、お渡しする予定はございませんわよ!」
ほんの少しの強張りを解かれ、フレデリカは姉妹の見送りを受けて走り出した。
疾風の如く草地を蹴り、駆け抜けた先へアベルの指示を伝える。ペトラとオットーの連携を無駄にはできない。
ひいてはこれが、ガーフィールとエミリアの奮戦に、そして帝都にいるかもしれないスバルとレムの二人にも貢献できるよう。
「ただ、今はひたすらに走るのみですわ」
△▼△▼△▼△
揺れる草と残影にわずかな余韻を残し、獣化したフレデリカの姿が消えた。
金色の女豹、元の長身の美貌とは似ても似つかない、しかして狩猟民族としてはその美しさを褒め称えなければならないほど、洗練された四足獣だった。
件のフレデリカがもたらしてくれた情報、それに従い、タリッタたちはシュドラクを結集し、第三頂点の攻略へ臨む心持ちだ。
と、そう心を決めたところへ――、
「――ちっ、斬り込めねえ! 邪魔な連中が多すぎだ!」
粗野な声を上げながら、空から落ちてくるのは双剣を手にした眼帯の男だ。
その両手の長剣を器用に扱い、飛竜の翼を斬り払った男が、一緒に落ちてきた飛竜の傍らへ飛び込み、噛みついてこようとする竜の首を刎ねる。
鮮やかな剣撃、それを放って振り向くのは――、
「ジャマルカ。お前の顔は見ても満たされなイ」
「わけわかんねえこと言ってんな! クソ、じれってえ! どうにか帝都に乗り込めねえと、カチュアの無事がわからねえ……トッドの野郎、ちゃんと守ってんだろうな」
ぐちぐちと悪態をこぼしながら、焦げ茶色の癖毛を掻き毟ってジャマルが吠える。
城郭都市で捕虜になった帝国兵であり、アベルの素性を知ってこちらについた稀有な立場の人物だが、その立場に見劣りしない力量の持ち主――生憎と、その野卑な性根が表れた顔は、面食いのミゼルダのお気に召さなかったようだが。
ともあれ、帝都に家族を残しているらしい彼だけに、そのあくせくする心中はタリッタにもわからないではない。
なにせ――、
「私たちはともかク、他の叛徒は取れるところから取るでしょウ」
「わかってんだよ、んなことは! だから、一刻も早く偽閣下の首をぶった斬って、このふざけた茶番を終わらせてやるんだ」
「やる気のお前にいい報告があるゾ。私たちはこれかラ、第三頂点に向かウ。そこが狙い目だと話があっタ」
パタパタと足踏みするジャマルに、ミゼルダが先のフレデリカの伝言を明かす。それを聞いたジャマルは胡散臭そうに、「あにぃ?」と顔をしかめた。
「狙い目だぁ? どこの誰がそんな話……」
「アベルだそうでス」
「それを早く言え! おい! お前ら、準備しろ! 第三頂点にいくぞ!」
切り替えの早いもので、ジャマルは荒々しくそう声を上げると、すぐに自分と同じ境遇――城郭都市でこちらに加わった兵をまとめ始める。
声が大きく、意思が明白で、真っ当に腕っ節が立つ。案外、『将』の器だろうか。
そのジャマルの背を見て、遅れは取れないとタリッタも動く。
「姉上、私たちモ、クーナとホーリィを呼んで準備ヲ……ァ?」
そう声をかけたところで、タリッタは思わず息を詰めた。
目を丸くして、ちらちらと目の前を揺らいで落ちていくものに手を伸ばす。そっと伸ばしたタリッタの手の上、ほんの一秒ともたずに消えたのは白い何かだ。
それはゆっくりと、猛然と戦火が燃え盛る戦場の空を舞い踊る、白い光――否、冷たい氷の粒、雪の結晶だ。
「何故、こんナ」
「――。そうカ、お前は見ていなかったナ、タリッタ」
「姉上?」
生まれて初めて目にする雪の存在に、唖然とするタリッタの横でミゼルダが頷く。
訳知り顔のミゼルダは、どういうわけかタリッタと違い、この光景に心当たりが、それどころか見覚えがあるらしかった。
「エミリーダ」
「エミリー……」
ミゼルダの出した名前は、フレデリカと同じ陣営にいる銀髪の少女の名前だ。
自らがハーフエルフであると語ったのが記憶に新しい彼女が、この雪を降らせている張本人だというのか。いったい、何のためにそれをするのか。
想像の外の出来事を体感したせいか、タリッタはわずかな震えを覚え、自分の肩をそっと抱きしめた。
「まったク、世界というのは広いものだナ。シュドラクの族長と元族長が揃っテ、やられっ放しになることが多すぎル。この雪もそうダ。それニ」
雪の落ちてくる空を見上げていたミゼルダが、その視線を別の方へ向けた。それは先ほどまでフレデリカの踏んでいた草、そして彼女が消えた方角。
この広い戦場を息も切らさず、アベルからの生きた情報の鮮度を保ったまま縦横無尽に運び続ける、とんでもない伝令役を思い――、
「――美しい獣が私たちを生かス。どこまでモ、狩人の冥利に尽きるものダ」
と、自らの過小評価が過ぎる相手を称えたのだった。
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