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2022年、虎年が幕を開けた。転機の年になることを願ってやまない。オミクロン株が猛威でその収束は見えないが、今年こそ閉塞感を打破することを願い、「古くて新しい魅力的な古代史」の旅を今年も始めたい。虎と言えば、キトラ古墳で、高松塚古墳に続き日本で
2番目に発見された大陸風の壁画古墳を思い出す。その名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎(キトラ)古墳」と
呼ばれたという説がある。西壁で伸びやかに跳ぶ白虎(写真)。だれが、何のために壁画をここに描いたのだろうか。キトラ古墳は明日香村の檜前の集落を越えて阿部山に向かう山の中腹にあり、二段築成の円墳で、上段が直径9.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さは4mを少し超える(写真)。このキトラ古墳、生きをのむ極彩色壁画、その中でも世界最古の天文画の知識(写真)、その星図に修正を加えて描けるのは、天文技術職の関係者だけと考古学者はいう。それでは被葬者は誰か所説がある。古墳の所在地が阿部山であることから,703年(大宝3)69歳で没した右大臣阿倍御主人(みうし)とする説が多くの学者から提唱されている(白石太一郎他)。特に、金象眼が出土したことから身分や地位の高い人物であるが、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測されると説く研究者もいる。一方で、天武天皇の皇子の高市皇子説を主張するのが猪熊兼勝、更に千田稔は百済から渡来した百済王昌成を被葬者に挙げる。まだ確定していないが、もう一つの問題、どんな人が壁画を描いたのか。「日本書紀」推古12(604)年に黄文画師、山背画師という、高句麗から渡来の公認の画家集団を置いたことが記されてる。 こうした高句麗系の絵師を継ぐ黄文連本実(きぶみのむらじほんじつ)という人物が有力視されてきた。天智8(669)年の第7回遣唐使とともに唐へ渡り、仏教絵画など共に高松塚古墳やキトラ古墳の壁画原図を持ち帰り、その黄文集団が壁画を描いたという。更に注目すべきはキトラ古墳の天文
図も当時の高句麗の地域から見た天文配置図(写真)と一致するという興味ある説がある。高松塚古墳やキトラ古墳の被葬者には一種のパラドックスがある。日本最初の風刺的な物語、平安時代初頭の「竹取物語」に「かぐや姫(輝夜姫)」に恋をし、姫から難題を与えられた5人の貴公子が登場する。一人は高松塚古墳の有力候補者である左大臣石上麻呂(物部氏の後継)で、彼も難題出された五人組の一人である。そしてキトラ古墳の被葬者である阿部御主人(みうし)にかぐや姫が出した難題は「火鼠の皮衣」で、石綿のような燃えない衣服だった。当時の阿部家は大金持ちであったらしく、唐の商人から金を出してそれを買う。偽物と知らず持参するも火をつけるとあっさり燃尽きる。やり遂げられなかった恋に陥る、「あへ(阿倍)なしのオチが付く。最後に登場するのが世代的に一番若い藤原不比等、当時の政権のトップに立つ身分で傲慢な貴公子で登場、これもかぐや姫の難題「蓬莱の玉の枝」を受けた。一見苦労して得たことを歌を込めて
贈呈、だがたちまち虚実暴かれるて恋は未達に。という「おわとはよろしいようで」の風刺劇に装飾古墳の人物が二人も登場す。
さてキトラ古墳被葬者である阿部御主人(みうし)とはどんな人物であったのか。阿倍御主人の祖は孝元帝の第一皇子である大彦命(オオヒコノミコト)であり、阿倍他七族の始祖との記載がある。具体的には飛鳥時代~奈良時代からの有力氏族としての顔である。この時代には阿倍比羅夫(蝦夷征伐で活躍するも、白村江の戦いの敗将となる)や阿倍仲麻呂(第9回遣唐氏で吉備真備らの留学生で、唐に渡り科挙に合格、従三品まで出世。百人一首「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の作者)が活躍している。阿倍御主人の父である阿倍内麻呂(倉梯麻呂)は大化改新時の左大臣である。その息子の御主人も壬申の乱における大海人皇子(天武天皇)方で活躍、その功臣で、天武朝から政治に携わると、持統・文武朝で高官に昇り、晩年には右大臣として太政官の筆頭に至った。また平安時代に天文博士であった陰陽師である安倍晴明を祀る京都市上京区の晴明神社も同じ阿倍氏族である(平安時代にはいつのまにか阿倍⇒安倍にかわっている)。
安倍晴明の誕生地もキトラ古墳にゆかりがある桜井市の安倍文殊院(写真)だという。このように古代の中央集権の上層部に登りつめた人物を輩出した阿倍氏の本拠地には桜井市に拠点を置いていたようだ。まず安倍寺跡の発掘調査によると、法隆寺様式の伽藍配置とわかり、大化の改新時の左大臣阿倍倉梯麻呂の建立との伝えがある氏寺として創建された最古に属する氏寺であるという。この安倍寺跡北東300mの所にある安倍文殊院は日本三代文殊院の一つで、昨今は入学祈願のこの安倍文殊院は賑う。
そしてこの大和国十市郡安倍の一帯にはもう一つ大きな特徴である古墳スポットがある。その代表例は文殊院西古墳(写真)であり、当時の最新の技術を駆使した非常に精美な切石を用いており、レンガ積上げ式のあたかも一枚巨石のように仕上げ、他に類がない日本最古美の切石造りだ。またそれ以外にも大きな横穴式石室を持つ古墳である、谷首古墳(7世紀前半)、艸墓古墳(7世紀中頃, 写真の
刳抜型石棺には阿倍一族の誰が眠るのか)を「築き、文殊院西古墳(世紀後半)を含めこの3基はいずれも大型の石材を用いて石室が築造されており、まさにこの一帯は阿倍一族の奥津城なのだ。これらの3基の古墳は、築造時期が7世紀代という点から、その被葬者は安倍寺に関わった人物で強大な権力を持っていたことが分かる。キトラ古墳の被葬者が右大臣・阿部御主人(みうし)と想定する説には納得できるのである。もう一つ、阿部氏に関わるエピソードがある。それは中央豪族阿倍氏との関係である。この阿部氏の出身地は伊賀阿拝(あはい)郡であり、その後に大和十市郡に進出し勢力を得たという説がある。壬申の乱の勃発当日(672年)に大海皇子が吉野山を出て伊賀盆地を駆け抜けた古東海筋には、三重県最大の前方後円墳である御墓山古墳や美旗古墳群が存在し、交通の要所には伊賀国分寺・国府など、この阿部豪族に関する史跡類が数多く残されている。
以下のブログ参照ください。『大塚先生と行く:渥美半島から伊勢路への旅-3(伊賀の古墳) https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-10960209825.html。