【壱】

第1話 尊厳を失った日 (2022/11/09 差替)

 カビの匂いがした。


 剥き出しの石材に滴る水が異様なほどにその残響をあちこちに伸ばしていき、湿気た空気を助長するように溶けていく。

 路傍の丸石の表面には苔が繁茂し、亀裂やつなぎ目からは蔦の類が生えていた。

 管理の手が届いていないことは明々白々で、この場を擁する連中からでさえ関心を向けられていないと見える。


 通路の左右には鉄格子。ここが牢獄なのは確かだ。罪人がいない街に築かれ放置されているだけの牢屋――というのは、やはり楽観が過ぎるか。

 一定の間隔で並んでいるのは妖力機巧——妖巧あやくり式のランプではなく、松明。しかし火が灯るのはわずかに一つだ。


 その暖かなはずの火が寂しく灯された房にいるのは一人の若者。

 よく見れば深い藍色である、一見すると黒い髪がボサボサに伸びており、長い前髪が右目を覆い隠している。

 ぱっと見は人間であった。この裡辺に最も強い影響をもたらしながら生息する生命であり、支配階級に手を伸ばしかけている存在だ。


 長い前髪が覆い隠す右目がちらりと覗きかけ、しかし青年は深く俯いてしまう。松明の炎が彼の顔に深い陰影を落とした。

 彼の右目が嫌いだと言う者が多く、そして彼自身も己の目を嫌っていたので常に隠していたし、他人に目を合わせることもしない。


 だから、誰かを見ることのできない、己でさえ見るにたえない——自分でも愛せない異質な右目を何度となく抉った。

 けれど少し眠るとなぜかまた右目が蘇っているのである。それは彼の育ての親も知っていて、そういったこともあって青年は閉じ込められていた。


 かつ、かつ――と聞こえてくる靴の鋲の音。どうせまた何かの実験に付き合えとか言われるのだろう。

 彼の持つ異様な治癒力は、心臓にあるコアさえ守っていれば頭の一部を欠損しても一時間から二時間で再生させてしまう。

 その呪わしい肉体を、この家の連中は体良く使っていた。


「奏真様」


 声の主は女のもので、青年は顔を上げた。

 そこにいたのは女中メイド服の意匠を持つ外套を纏い、金属プレートで最低限の急所を守る程度の軽鎧を着込んだ若い女だ。

 美しい赤みがかった金の髪と翡翠の目が、青年の藍色の目を射抜く。妖狐特有の長くて太い、一メートル近い三本の尻尾をわずかに垂らし、それでも耳はきりっと立たせている。

 耳というレーダー——匂いだけでなく音で敵の位置を知ることもまた、妖狐の……獣系種族の強みだ。


「旦那様がお呼びです。なんでも新薬の――」

「いい、わかってる」


 新薬のテストはラットを経て青年――奏真へ回ってくる。時々ラット試験さえせずに奏真が実験体になることもあるが、もう気にしていなかった。

 拒否権などないし、たとえ抵抗しても殴られて蹴られ、縛られて薬を飲まされる。ならば初めから黙って薬品を飲むなり打つなりした方がいい。そっちの方が何倍も楽だ。


 女中風の護衛は申し訳なさそうに目を伏せたあと鉄格子の鍵を開き、青年の足枷を外した。

 本当は手枷も外したいと妖狐の女は思ったが、それは禁止されている。いっそここから逃げ出せばと思っても、たった二人で大勢の衛兵なんて相手にできない。戦闘技能に秀でたものが多い獣系妖怪、その筆頭格の妖狐といえど無理なものは無理だ。


 そんな言い訳と、どうにもならない現実を前に女中は歯噛みした。一方の奏真は平気な顔である。

 どんな末路であれ、もう変えようがないのだからと諦めていた。


 地下牢が並ぶ廊下を出ると両脇を甲冑を着込んだ衛兵に挟まれて連れていかれる。奏真の足がもつれようとも構わずに引きずりながら。


 入れられたのはやはり地下にある実験室であり、妖術の式が描かれている式符に、西洋文化の一つで、この土地であらわせば呪術に近しい形態をとっている錬金術の数式が書かれている紙きれなんかがテーブルに乗せられている。

 その机には紫紺の液体を詰められた試験管が一本。側には屋敷が抱える錬金術師の、年齢不詳な顔立ちをした耀路巴ようろっぱから流れてきた金髪の女。


「毎度お呼びして申し訳ありません」


 錬金術師は慇懃無礼にそう言った。奏真の顔には嫌悪が浮かぶ。

 その嫌悪は錬金術師にではなく、彼女のさらに奥にいる偉丈夫に向けられていた。

 外見年齢五十代後半の豊かな白髭を蓄えた、恰幅の良い男だ。この屋敷の主で、下町を支配する領主。奏真の現在の育ての親だ。血縁的には叔父である。


「押さえろ。

 ……残念だ、奏真。この薬の副作用は死をもたらすと言われていてな。……息子と思っていたお前との別れがこんな場所なのはいささか不本意だが――」

「さっさとしろ。お前の声は癇に障る」


 睨む奏真の目を、領主であり叔父の八雲忠久やくもただひさは憎むように睨み返す。

 彼は顎をしゃくって下知を送り、奏真は衛兵に羽交締めにされてもう一人の衛兵に試験管の中身を飲まされた。

 強引に飲まされ咳き込んだが、結局奏真は抵抗などしない。何度も言うが、無駄だからだ。


「変化がないぞ、レフィ」

「服用後、早ければ数分で変化が出ます。もう少しお待ちを、八雲様」


 レフィと呼ばれた女錬金術師はうっそりと微笑む。


「最期になるんだろ。……だからいい加減答えろ。父さんと母さんはどこに行ったんだ」


 沈黙の中、奏真はそう口をきいた。忠久が鼻で笑う。


「出来の悪い兄貴とその女中ごとき・・・・・の分際で子供がどうとか喚いていたが……さて、な。私に歯向かったのだ荒れ果てた海へ放り、流罪としたが……はて」

「とんだクソ野郎だ。数えきれない女に手を出して山ほどガキこさえて、自分の身の保身に必死で醜聞の生き証人になりかねない俺を捨てように捨てられず、地下牢に入れてケチ臭い実験の材料にしてやがる。

 ――見下げ果てたエテ公だ!」


 ガツッ、と頬を打たれた。

 忠久が握っている拳が頬を打ったのだ。しかし親指をしっかりと握り込められていないパンチのせいで、彼自身もダメージを負っていた。

 素人め、と奏真は内心吐き捨てる。


 と、体が熱くなってくる。内側から何かが盛り上がる感覚、そして今ある熱が縮む感覚。

 なんだ、と思っていると激しい頭痛と気持ち悪さが押し寄せてその場にうずくまった。えづきはじめてその場で嘔吐して、胃液を滴らせながら奏真はレフィを睨む。


「クソアマ……っ、何を飲ませた!」

「我ら燦天道における絶対神は女神にして太陽神の陽光ひのみ様。

 女の身こそ神の座へ至るにふさわしいもの。これはそのための薬ですよ。奏真様はこれより女となります。男としては、失敗するにしても成功するにしても、死にます」

「ふざけやがって……イカれ野郎が!」


 この薬、妖術的な処理も行われているのだろう。この女には錬金術だけでなく妖術の才能もあるのか。

 もっとも与えてはならない者へ二物を与えた神が絶対的に完成されているとは到底思えない。

 少しすると、文句を心の内で吐き出し続ける奏真の体には確かな変化が起きはじめていた。


「うっぐぅ――ァ……がぁっ……!」


 骨格が少しずつ、激痛と軋みをもたらしながら変わっていく。肉が剥がれねじれるようにして丸みを帯びた体になっていき、体の中に気が触れそうになりそうなほどの熱がのたうつ。

 そうしてどれほどの時間が経ったか。


 息がまともにできる頃、奏真は体の異様さを自覚していた。

 胸の重み、腰回りの感覚の違い。それに付随した全身の変化と妙な頭痛。

 しかしなによりもおかしいのは股で、肝心なそれが消えていないのだ。


「様子が変ですね。脱がしなさい」


 命令された衛兵が奏真の囚人服を脱がした。

 顕になる女体。大きく膨らんだ乳房にくびれた腰、安産型の臀部。しかし視線が股ぐらに向かうと、彼らは嫌悪を顕にした。


「なんと面妖な……!」


 奏真もわかっていたが、改めて見た。

 女の肉体に、男根。


「っ……なんだよこれ!? っ、ざけんな! 戻せよ!」


 レフィは半笑いだ。まあ失敗するだろうと、そう思っていたに違いない。

 彼女は忠久に耳打ちし、そうして血の通わぬ鬼畜でしかないような領主が吐き捨てる。


「実験は失敗だ。何処へなりとも去るがいい、偽女め」


 奏真は敵は作るまいと必死に抑えていた怒りを、おそらくはここ数年で初めて口に乗せて怒鳴った。


「ふざけるな俺は男だ! 絶対に男に戻ってやるからな!」

「無駄な足掻きですよ。呪術的な処理を施しています。ええそうですとも、呪術においては古典的な、呪詛の類。解呪にどれほどのコストがかかるか――ああ、考えたくもありませんね」


 ふざけやがって、イカれたクソども。

 悔しさと惨めさ。己の中にあった性自認という当たり前だが大きな柱であったそれが、まるで大量のシロアリにたかられたかのように蝕まれ、ぼろぼろにされていく。

 けれどもその食われ腐った柱の中にある芯は、まだ確かにあった。


 必ず男に戻る。

 この家がどうなるかなど知ったことではない。自分の行動八雲家が崩壊したっていい。


「商人に紛れさせ馬車を用意しろ。樽にでも詰めて荷とともに海へ捨ててこい。事故はどうしても起こるからな」


 忠久が吐き捨てるように指示する。奏真はそれでさらに怒鳴った。


「クソ野郎、父さんと母さんのこともそうやって海に捨てたんだろ! 殺してやるっ、この野郎!」

「準備が済むまで牢へぶち込んでおけ。形見わけだ。髪くらいは切っておこう。……しかし耳障りだな、奏真、お前の声は。あの安い女の声にそっくりで気分が悪い……癇に障る声だ」


 奏真はなおも暴れたが衛兵の力に敵わず、そのまま剣の柄で殴られるまで恨み言を叫び続けていた。


×


 そうして、ある年の春の終わりに若い男の、男としての尊厳と未来は完全に潰えた。

 けれどもこの実験の失敗こそが、来たる厄災への前触れでもあったのである――。

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ゴヲスト・パレヱド — 闇夜に吼えれば月魄は踊るか — 雅彩ラヰカ @N4ZX506472

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