〜現代の政治哲学を乗り越える〜

竹田: 少し前に、アメリカから正義についてのマイケル・サンデルの議論なんかが、話題を呼びましたね。

 われわれもアメリカ現代政治哲学を大分まとめて読んだけど、近代哲学をおさえた立場からいうと、だいぶピントがずれている。

 アメリカでは、乱暴にいうと、ノージックからはじまった「リバタリアニズム」(自由至上主義)マッキンタイヤーから出た「コミュニタリアニズム」の対立があって、そこで「正義」か「公正」かということが議論のキーワードになっている。

 これはじつは、ヨーロッパで「自由」か「平等」かという形で議論されていたことと、本質的に同形です。

 リバタリアンが依拠するのは、基本ジョン・ロックです。

 天賦人権論、人間は生まれつき自由の権利を神から与えられている。これが第一。第二が、汗水たらして働いて得たものについては、その人間が所有の権利を神から得る、です。

 ロックの人権の第一は、天賦の所有権で、これがブルジョア市民が王権に対抗するための理論的根拠になった。フランスの人権宣言も、アメリカの憲法も、じつはロックが理論的根拠になっている。

 でも哲学的にはこれはダメです。

 人間は生まれつき自由ではないし、神から与えられた権利でもない。天賦人権論は、ヨーロッパローカルの思想にすぎない。

 これに対して、ルソーとヘーゲルは、人間は生まれつき自由なのではなくて、もし万人が自由を確保したければ、互いに相互承認する以外にないという原理を出したわけです。

 これをヨーロッパ中心思想だという人もいるけど、分かっていません。完全に普遍的な考えです。アメリカ思想は、ヘーゲルをほとんどまともに通過していない。だからこの違いがきわめてあいまいなんです。

 リバタリアニズムの言い分は、アメリカの中で人間が競争のもとで得た富は、その人間が正当な権利をもつ。それをなぜ、新しくやってきた貧しい人間のために税金の形で分け与えないといけないのか、それは「正義」にもとる、というのです。

 これに対して、コミュニタリアン、たとえばサンデルの主張は、いやアメリカは一つの共同体なのだからなるべく平等にしようというのです。そのとき彼が依拠するのは、なんとアリストテレスです。ルソーもヘーゲルも完全に抜けてしまっている。

 ヘーゲルの社会思想のポイントは、近代の自由な競争社会じたいがまず相互承認によって成り立つ。したがって社会で生産された富はまず「普遍資産」、社会の全体が生み出したものだ。したがって、富の配分も、全員の意志によるルールで決定されねばならない、というものです。

 自由な社会の原則は、その成員が互いに他者を自由な存在として認めあう、ということが根本の基礎なので、神が与えた個人の所有権もくそもない。個々人の自由は、互いにそれを対等の権限で認め合う、ということではじめて確保されるわけです。

苫野: そうでないと殺し合いになるんですよね。

竹田: 殺し合いになったり、経済競争であれば、制約のない強いもの勝ちの競争になってしまう。

苫野: サンデルをはじめ、サンデルが批判したロールズとか、今政治哲学が流行ですが、僕たちの考えからすると、かなり不毛というか、実はヘーゲルがもう終わらせた問題を、今もぐちゃぐちゃとやってるという印象があります。

 あれ、まずい。さっき僕は包容的・抱擁的だって言ったのに、なんか批判してしまってますね(笑)。

会場: (笑)

苫野: たとえばですね、今のリバタリアニズムは、どういう根拠でそういうことを言うかっていうと、そもそも私たちは自由な人間として生まれたという、検証不可能な理屈をバーンと置くんですよ。そもそも自由だと。それが財産の自由であり、身体の自由であるというようなことをいうんです。これはロックからきてるんですが。

 ちなみにちょっとだけ言いたいのはですね、今の政治哲学の多くは、思考実験から議論をはじめるんですよ。

 たとえば、ロビンソン・クルーソー状態という実験をするんですね。人間がみんなロビンソン・クルーソーだとしましょう。みんな無人島にいます。ほら、そもそも自由だよねと(笑)。なんだそりゃと思いませんか?

 一方、ロールズという人はどういう思考実験をしたかっていうと、ご存じの方も多いと思いますが、人間が「無知のヴェール」というものに覆われているとしましょうと。

 「無知のヴェール」というのは、そもそも生まれの能力がわからない、財産がわからない、身分がわからない、才能がわからない、と、まあ、あらゆることがわからない状態にみなさん置かれているとしましょう、というわけです。

 で、その中で、どういう社会が正義にかなっているかというのを議論しましょうと。そうすると、すごく乱暴にいうと、みんな自由で、それから、不平等は、それが恵まれない人にとって一番益になるような不平等じゃなきゃだめだよね、という正義の原理が出てくるはずだ、と。

 ところが、思考実験から始める議論っていうのは、そもそもの舞台設定がめちゃくちゃ恣意的なんですよ。自分の導き出したい答えに合わせた思考実験の舞台をつくれば、その答えが当然出てくるんですね。

 哲学で一番重要なのは、「思考の始発点」をどこに置くかです。ここからスタートした考えだったら、みんなが納得できる、という「思考の始発点」を徹底的に追いつめて考える。

 でも思考実験って、みんな納得できないじゃないですか。「なんで無知のヴェールとかいきなりいわれなきゃいけないんだ」とか「なんでいきなりロビンソン・クルーソーっていわれなきゃいけないんだ」って、これ納得できないと思うんです。

 じゃあ、どこからなら納得できるか。それは、みんな自由になりたいと思ってませんか?と。これはみんなが検証できるんですよ、自分に問う形で。みんな生きたいように生きたいと思ってるよねって。

 もちろん、自由に生きたいと思っているがゆえに、かえって不自由な生き方をしてしまうこともあります。それがたとえば、有名なフロム『自由からの逃走』に描かれたような話です。

 自由に生きたいからこそ、かえって隷属の道を選んでしまうということもある。孤独に社会をサバイバルするより、支配された方がより自由に生きられると思ってしまうのです。

 そんなわけで、人は自由を必ずしも求めない、なんて言われることがあるわけですが、それは全然違います。これはむしろ、自由に生きたいからこそ、僕たちはある意味誤って、かえって不自由な生を選んでしまうことがあるという話です。

 こんな例は山ほどあって、ヘーゲルはそれを見事に描き出しています。でもそれはとりあえずおいておいて、たしかに僕たちは、自由に生きたいと思っている。これは、だれもが自分に問う形で検証できる。つまり「思考の始発点」になりうる。

 だったら、どうすればそんな人たちがみんなで平和に共存できる社会を作れるか。そうやって、社会思想というのは練り上げられていく必要があるわけです。

竹田: そう、アメリカの政治哲学者がよくやる「思考実験」って、論理的にはごまかしが多いね。

 ロールズの原初状態は、哲学的にはまったく成り立たない。簡単にいって現実社会のゲームでは、完全に対等なスタートラインは存在しえない。完全に対等な人間関係もありえない。すでに存在しているゲームがあり、そこからいろんな矛盾が出て来る。これをどう克服するか、という課題を置くほかにはない。

 ハーバーマスの理想的発話状態も似ているね。はじめの問題設定が、本質的でないんです。それから、それに対する反論のほうも、完全に現代の分析哲学の悪弊、つまりソフィストリーで相手をやっつけるという議論になっている。

 ただ、カントの説でこういうのがあります。人間の理性の本性は、ある与件から推論を続けてある完全な状態に行き着くまで決して推論をやめないと。

 これはそのとおりです。近代人は、神やトラディショナルな権威にもはや依拠できないので、自分の頭のなかで自由な推論によってなんらかの理想状態を作り出し、その理想状態を基準にして現実の社会を批判しようとする。今の現実はこんなに間違っている、もっとこういう場所にすすめるはずだと。

 ところが、この理念を私は「理想理念」と呼んでいますが、この理想理念はけっして一つに終息しない。いくつか理想状態がでてくるんです。

 カントの理想は、万人が「道徳的」になるという状態。ポストモダン思想の理想は、みんなが多様性を保ったまま絶対的に「自由」になること。マルクス主義では「絶対平等」です。ほかにも考えられる。

 つまり、理想理念から社会思想を立てると、必然的に信念対立に陥ってそれ以上すすめなくなる。

 さっきもいいましたが、現実社会のゲームは、決してゼロ地点から出発できない。ゲームは常に続いていて、いまあるこのゲームを、少しずつよくしていけるその原理がどこにあるのかと考える以外にはない。

 その条件を取り出すという仕方で考えないと、自分の理想が正しいはずだ、という青年の理想ごっこになりますね。他者の思想も道徳の思想もそういう理想理念の思想から抜け出すことができない。

苫野: 僕は、哲学というのは、物事の、あるいは問題の「本質」を洞察することで、じゃあその問題をどう解けるかという考え方、つまり「原理」を出すものだ、といっています。

 こうした考え方がなければ、手すりなき、地図なき社会論になるんですね。そうした「本質」「原理」を、現代の哲学者はもっともっと追いつめて考えないといけない。

竹田: そうですね。ただ、哲学の原理は、基本的に長いスパンで考えないといけない。

 たとえば自由の相互承認という近代国家の原理は、200年ぐらいかかって、少しずつ進んできた。まだ十分とはいえないが、それでも長いスパンでみると、原理が示しているとおりに少しずつ前進している。

 私がルソーの話をすると、ほんとに「自由の相互承認」なんて実現できる? それって絵に描いた餅じゃないのか? という疑問を出す学生が必ずいる。

 もちろんそういう疑問は健全です。でも、哲学をやっていると、哲学者たちが立てた原理は、それが根本的なものなら、必ず少しずつ前進していることが理解できる。

 「自由の相互承認」は、はじめはごく一部にしか実現しなかったけど、200年たってみるといまは確実に拡がっていることが分かる。でも、もっと自覚されないといけない。

苫野: ただ、資本主義は、どうも世界の2025%くらいしか豊かにしないということが、今ではかなり実証的に分かっています。

 それどころか、経済学者のスティグリッツが言うように、「世界の99%を貧困にする経済」が、今では目に見えて本当のことになっている。だから、「自由の相互承認」は、少しずつ広がってはきたけれど、今きわめて大きな限界に行き当たっていると思います。

 ヘーゲルは、人類の歴史は自由が少しずつ現実化する歴史だと言いましたが、それは今のところ、ある一部の人たちにとってしか事実ではない。

 だからこそ、もう一度「自由の相互承認」の原理に立ち返って、できるだけこれを叶えられる社会を、どうすればつくっていけるかと考える必要があると思います。

 ちなみに、僕たちがよく使う「原理」という言葉について、ちょっとだけ補足させてください。

 「原理」って聞くと、絶対の真理とか、あるいは原理主義みたいなイメージをしちゃうんですが、哲学でいう「原理」っていうのは、全然違います。

 それは、できるだけみんなが、「なるほどそうだ」って言える「考え方」のことなんですね。だから、原理主義とはむしろ正反対で、「これが真理だ」と強弁するんじゃなくて、哲学の言う「原理」っていうのは、みんなの納得が得られてはじめて「原理」と呼べるんです。

その⑥へ)



相互承認の社会を目指して

苫野 最後にやはり念を押しておきたいと思うのですが、僕はもう、道徳の基底的本質は「相互承認」にあると言ってしまっていいと思っています。

そこを欠いてしまったら、もうどんな道徳も道徳とは言えないと思うんですよね。それは単なる「徳の騎士」です。

竹田 それは本当にその通りですね。ただひとつ言うと、「相互承認」という概念を考えるとき、二つのレベルがある。

近代社会は個々人の自由の相互承認の基礎の上に成立している。互いに自由な競争を認め合いその成果も認めあう。つまり社会的な普遍承認ゲームにおける相互承認で、これは「法」というレベルで確保されている。

しかし相互承認のもう一つのレベルは、具体的な生活の中での人間どうしの相互承認です。

ニーチェがうまく言っているけれど、相互承認は対等な力関係がないところではなかなか成立しない。(→ニーチェ『道徳の系譜』『権力への意志』『ツァラトゥストラ』等の解説ページ)

すなわちわれわれの社会的な実生活では、優越感をもったり、ルサンチマンを抱いたり、敵対したり、挫折したりする。法の上では対等だけど、人間生活ではさまざまな力関係の中で競争しており、親和的な共同性の中で成立するような共感、同情、憐憫はとても限定的です。これはむしろ人間的な「相互了解」ですね。

要するに、社会的「相互承認」は普遍競争の相互承認であって、これは、互いにゲームの仲間として了解しあう「相互承認」とは、社会的な競争原理が強くなるほど背立的な関係になる。

われわれは互いに自由な競争のゲームを承認しあっている。しかし同時に、みなの一致した意志で、暴力原理を排除してこの自由な競争ゲームを営んでいる。これがメンバーシップとしての相互承認、いわば「友愛」の相互承認です。

私はヘーゲルの「人倫」の概念は、このメンバーシップとしての相互承認として考える

ルールの本質とは

苫野 そのルールの話で思い出したのですが、最近の教育界でホットな話題の一つが、大阪府立高校で起きた黒染め強要問題です。

これはもともと地毛が茶色い女子生徒に、染髪は「生徒心得」で禁止されているからといって、ずっと髪を黒に染めさせ続けたという問題なのですが、もうこれは完全に習俗のモラルでやっているわけですよ。

竹田 それって、外国の子が来たら、どうするのかね(笑)

苫野 報道によれば、その高校が生徒の代理人弁護士に対して言ったのは、「金髪の外国人が来ても染めさせる」だったそうです。これは完全な人権侵害ですね。

こんな、習俗の慣習に染まりきった学校がモラル教育なんてできるわけがない、と暗澹たる気持ちになります。

竹田 そう、モラル教育ではなくて、ルールの本質を少しずつ教えていくことが根本だよね。

この社会がフェアなルールという原則のもとで成立していること、このことは近代社会の教育の基礎であり、この土台の上に様々な教科もある。

近代教育のカリキュラムの哲学的な前提は、まず特別な道徳的や宗教的学科ではなく、誰もが検証できる実証主義的学を教えること、これが、個々

道徳は学べるのか、教えられるのか

竹田 少し基本にもどって考えると、道徳というものの最も基本の契機は、共同生活の中で、われわれが必ず必要としている、同情とか憐憫、共感、困ったときに助け合う、といった感性をいかに育てられるかということだよね。

これは万古不易のことで、人間の社会は大昔からこの感受性を少しずつ育ててきた。

親和的な共同生活においてこの道徳的感受性、道徳感情を欠けば、人間の生活はひからびてぎすぎすしたものになる。それがなければ誰も豊かに生きられない必須のものです。

ただ難しいのは、それは教えられるか、学ぶことができるか、ということだね。

プラトンの『メノン』(→解説ページ)で同様の議論があるんだけれども、私の答えは、道徳は共同体的な同情や憐憫、共感という感情性は、ただ関係のうちで育てることができるだけで、知識として教えることはできない。

それを育てるのはやはりまず家庭、そしてつぎによい友だちの関係です。道徳は掟を教えることではなく、道徳感情の育成の問題です。

このことを、ルソーも『エミール』(→解説ページ)ではっきり言っている。

ただ、教えるべきことがまったく

小学校では平成30年度、中学校では平成31年度に全面実施となる「特別の教科 道徳」。

しかし、そもそも道徳とは何か、道徳を学ぶとはどういうことなのか、と聞かれたら、答えられるだろうか。

まずはそこをきちんと押さえることから始めよう。これから、現場での実践を力強く進めていくために――。

※このページは、『授業づくりネットワーク』第28号(2017年)の巻頭対談を、編集部の許可を得て転載したものです。

竹田青嗣(たけだ・せいじ)

1947年大阪府生まれ。早稲田大学国際教養学部教授。哲学者、文芸評論家。主な著書に、『現象学入門』(NHKブックス)、『人間の未来』(ちくま新書)、『完全解読ヘーゲル『精神現象学』』(共著)『完全解読カント『純粋理性批判』』(いずれも講談社選書メチエ)。近著に価値と意味の原理論『欲望論』第1巻・第2巻(講談社)がある。

苫野一徳(とまの・いっとく)

1980年兵庫県生まれ。熊本大学教育学部准教授。哲学者、教育学者。主な著書に、『教育の力』(講談社)、『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』(NHK出版)、『子どもの頃から哲学者 世界一おもしろ

〜シュタイナー教育を取り入れる〜

苫野 最後に、いかにもシュタイナー教育らしい実践についてお話をお聞きしたいと思います。

まず「オイリュトミー」について。シュタイナー教育では、これはどのような意味を持つものなんでしょう?

井藤 オイリュトミーは、動きを通して言葉を可視化する、目に見える形にするというものですね。

不二 シュタイナーは、音と音との間にあるもの、つまりインターバルにこそ意味があると言っています。そしてそのインターバルを、肉体を通して具現化したのがオイリュトミーです。

この宇宙が創り上げられた時の動き、それは音だったとシュタイナーは言うんです。この音を、肉体を通して具現化する。

井藤 オイリュトミーには、まさに、マクロコスモスとミクロコスモスの照応という意味があるんですね。オイリュトミーの動きで、母音や子音などを表現することもできます。だから、ある詩をオイリュトミーで表現したりということも可能なんです。

苫野 すごいですね。じゃあ子どもたちは、「あ」はこの動き、「い」はこの動きって、覚えているわけですか?

不二 低学年のころからやって、自然と身につく感じですね

〜成長プロセスを徹底的に考える〜

不二 先ほど井藤さんが、「大阿蘇」の詩のことを取り上げてくださいました。こうした授業ができるのも、シュタイナー教育の担任制があるからだと考えています。つまり、生徒たちの成長の過程を、それまでにじっくりと共にしてきた背景があるんです。

苫野 シュタイナー教育と言えば、子どもたちの成長に徹底的に寄り添う教育が、やっぱりまず一番に思い起こされます。

不二 はい。まず低学年のころは、感情と思考がまだあまり分かれていません。ですのでこの時期の教育は、感覚や感情を耕すことを重視します。

苫野さんは今日、2年生の国語のエポック授業をご覧になったと思いますが、子どもたちは、たとえばリズムに乗りながら詩を朗読したり、小人になって文字を探しにいくといったようなことをします。体で学んでいくんですね。

それが9歳をすぎると――このころをシュタイナー教育では「ルビコン期」と言いますが――感情と思考が徐々に区別され始めます。この時になって、対象をしっかりと、論理的に理解する教育を始めます。

このころには、子どもたちからさまざまな批判的な意見も出始めますが、それを受け止

〜8年間一貫担任制〜

不二 ただ、シュタイナー教育界には、シュタイナーにぞっこんというか、信奉者のような方たちも世界中に大勢いらっしゃいますが、私はどちらかと言うと、ある程度距離を置いている方かもしれません。

それは決して否定的な意味ではなく、シュタイナーを絶対化するのではなく、冷静に、よいところを見ようという思いからです。

どんな教育方法だって、100%正しいということはないわけですから、シュタイナー教育だって、その方法については、何でもかんでもそのまま受け入れるべきだとは思いません。

ただ、それでもやっぱりシュタイナー教育は信頼できるなと思うところは、さっきも申し上げたような、その一番の核心にある人間観、世界観です。

たとえば、12年一貫の、発達過程に即した教育のあり方などは、かなりきちんと細やかに目配りされて、体系としてできあがっていると私は思います。

井藤 シュタイナー教育は初等教育段階から高校段階まで12年一貫の教育を行っています。特に1年生から8年生までは、同じ1人の教師がクラスの子どもたちを一貫して担当します。その期間担任が変わることは原則ありません。

この

〜知はつながり合っている〜

苫野 まさに「ホリスティック」な教育、ですね。

不二 人間は、ミクロコスモスでありマクロコスモスである。人間と宇宙とが、照応し合っている。これがシュタイナーの人間観です。

苫野 この人間観に基づくと、教育の本質はどのようなものになりますか?

不二 学ぶ対象は、人間と切り離されたものではなく、何らかの仕方で人間とつながり合っている、ということかと思います。それを、頭で理解するだけじゃなく、体感できるような学びの仕方を、年齢に応じて整えていく。それがシュタイナー教育の本質かと思います。

苫野 シュタイナーは「芸術としての教育」と言っていますね。私も今日学校を見学させていただいて、何と言うか、「どこにでも芸術が浸透している」という感じを受けました。歌や踊り、詩がいつでもそばにある授業や、温かな色に包まれた教室など……。

不二 特に低学年の、感覚が鋭敏な時期には、教室や校庭など、物理的な環境を整えることをシュタイナー教育では重視しています。

そして、人間同士の温かな関係。自分の居場所がちゃんとあると思えるような環境づくり。ここを常に、教師たちは考えてい

教育界に独自の存在を輝かせている、シュタイナー教育。

創設者、ルドルフ・シュタイナーの思想に基づくそのユニークな教育は、今も世界中から注目を集めつづけています。

今回、神奈川県にある「学校法人シュタイナー学園」の不二陽子先生から、シュタイナー教育の深奥にせまるお話をお伺いすることができました。

いっしょにインタビューをしてくださったのは、シュタイナー研究者の井藤元さん。

断片的な知識の集積だけでない、総合的な知の活用へ。

苛烈な競争ではなく、子どもたちの生き生きとした成長を支える教育へ。

今、教育は戦後最大の転換期にあると言っても過言ではありません。

そんなこれからの教育への、大きなヒントのつまった鼎談が実現しました。

【プロフィール】

不二陽子(ふじ・ようこ):

1950年、愛媛県生まれ。お茶の水女子大学国文科卒。都立高校教師を経て、1983年~86年シュタイナー教育ゼミナール(独・シュツットガルト)留学。フリーランスのシュタイナー教育実践・普及活動を経て、2005年から学校法人シュタイナー学園・中高等部教員。著書『育ちゆく子に贈る詩』、共著『シュタイナー学園のエ

〜「やりたいこと」の見つけ方〜

苫野: ただもう1点、近代人ルソーには、たぶんあんまり見えてなかったことがある。

それは、僕たち現代人は、欲望と能力のギャップだけじゃなく、そもそも自分の欲望がわからないっていう不幸を抱えてるということです。

若者は特に、何をしたらいいのかわからないということが多い。欲望がわからないという不自由を、僕らは多かれ少なかれ抱えてしまいますよね。じゃあこれはどうしたらいいか。

竹田先生はよく、世界は欲望の網の目だって言うんですね。すごくおもしろいですよね。世界っていうのは、ありのままに、無色透明に存在してるんじゃなくて、僕たちの欲望に応じて、なにがしかの意味を持って存在するんですよ。

たとえば、僕の話でいうと、早稲田大学の大学生だったときと、大学教員になってから見える高田馬場の町の景色は、全然違うんですよ。大学生のときは、500円の定食屋しか見えない。ところが教員になったら、800円の定食屋が見えるんですよ。

会場: (笑)

苫野: 世界は欲望の網の目なんですね。で、何をやりたいかわからないってときは、この欲望の網の目が極めて荒いんです。だから何

〜どうすれば自由に生きられるのか?〜

苫野: せっかく、「どうすれば自由になれるのか」がテーマのイベントなので、その話をしないとダメですね。

そのためには2つの観点があります。

1つは、僕たちが自由になれる社会って、どういう社会か、という点。で、それは一番根本的には、「自由の相互承認」をどんどん充実させていく必要がある、ということになる。

「自由の相互承認」をより可能にする社会を、どう作っていけばいいんだろう、どういう世界を作っていけばいいんだろうっていうふうに、問いを展開していくんですね。その具体的な展開は、この本の中に書いているので、ご興味のある方に読んでいただければうれしいです。

もう1つの観点はこうです。社会がどれだけ「自由の相互承認」を充実させても、僕たち自身が自由を感じられないことがある。つまり自由のための「実存的条件」が整っていない、と。

現代はそういう時代ですよね。僕たちは、政治的自由とか生き方の自由はまがりなりにもあるわけです。でも、今の若い人たちは、むしろ自由だからしんどいんですよ。

つまり、何でも自由にしていいよっていわれると、どうやって生きていった

〜現代の政治哲学を乗り越える〜

竹田: 少し前に、アメリカから正義についてのマイケル・サンデルの議論なんかが、話題を呼びましたね。

われわれもアメリカ現代政治哲学を大分まとめて読んだけど、近代哲学をおさえた立場からいうと、だいぶピントがずれている。

アメリカでは、乱暴にいうと、ノージックからはじまった「リバタリアニズム」(自由至上主義)とマッキンタイヤーから出た「コミュニタリアニズム」の対立があって、そこで「正義」か「公正」かということが議論のキーワードになっている。

これはじつは、ヨーロッパで「自由」か「平等」かという形で議論されていたことと、本質的に同形です。

リバタリアンが依拠するのは、基本ジョン・ロックです。

天賦人権論、人間は生まれつき自由の権利を神から与えられている。これが第一。第二が、汗水たらして働いて得たものについては、その人間が所有の権利を神から得る、です。

ロックの人権の第一は、天賦の所有権で、これがブルジョア市民が王権に対抗するための理論的根拠になった。フランスの人権宣言も、アメリカの憲法も、じつはロックが理論的根拠になっている。

でも哲学的にはこ

〜「他者」の思想を克服する〜

竹田: ちょっと具体的にいうと、たとえばいまの資本主義のいちばん重要な性格は、富の格差が広がっていくという性質ですね、これが縮小していくようなシステムに代えないかぎり、資本主義にも人間社会にも先はない。

それははっきりしていると思います。どこにいくかというと、具体的には分からないけれど、一種のカタストロフィにまで行き着く可能性が高い。

それでも現代社会は、資本主義――経済システムとしては自由市場経済というのがいいんですが――を取り払って、オルタナティヴを置くことはできない。

なぜかというのを詳しく言うと30分くらいかかりますが(笑)、民主主義と自由競争の相互承認による競争の経済というのが、切り離せないからです。

もし取り除いたら、昔のような大帝国の時代にまた戻るほかはない。それが普遍闘争原理と覇権の原理です。

ともあれ、もし、人々が政治的自由を確保して民主的な国家体制でいこうとするのなら、「自由の相互承認」の原理が、だんだん成熟していくような方向へ進まない限り、資本主義はどこかでカタストロフィに陥ってしまう。するとまた絶対専制的支配が戻ってくる

〜ポストモダン思想を乗り越える〜

竹田: 私の『人間的自由の条件』という本の力点を自分なりにいうと、近代哲学者たちが考えた哲学的原理をもういっぺんすべて掘り出して、その意味をはっきりさせることで、社会論を一からやり直そうということでした。

その背景をちょっとだけ言います。

私は二十歳代の頃、マルクス主義者でした。当時は、マルクス主義の思想が、世の中の矛盾を克服してその先に進める唯一の希望の考え方だと、ほとんどの人が思っていたんですね。

けれども、だんだん、マルクス主義は資本主義を克服することもできないし、マルクス主義国家をも克服することもできないことがはっきりしてきて、非常に困っていたときに、フランスからポストモダン思想が入ってきました。そして今度はこの思想が、私の世代だけではなく、少し下の世代にとっても新しい希望の星になった。

マルクス主義の、いわば教条主義的、権力主義的なところを批判するだけではなくて、資本主義をも違う仕方で徹底的に批判するような考え方を出してる。これはすごい、というので、私も30ぐらいからその思想にかなりのめり込んだ。

ただ、私の場合、ちょうどそのころ

〜「自由の相互承認」という原理〜

竹田: 今回の苫野くんの本について、議論したいんですが、じつは、8、9年間、ずっといっしょに、ここで書かれているヘーゲルやフッサールを中心として勉強してきたので、あんまり異論がなくてちょっと困ってるところなんですが(笑)。

基本の考えはそんなに違わないんですよ。違うところはあとでまた話をしたいと思うんですが。

まずこの本の感想を言わせてもらうとですね、やっぱり一番中心にあるのは、「自由の相互承認」というキーワードかな。

これは元はヘーゲルの『精神現象学』の「相互承認」といういちばん大事なキーワードですね。それを私がちょっとヘーゲルの意を強調して、「自由の相互承認」というふうに言い直しました。

彼は、この「自由の相互承認」に焦点を当てて、ここに、いわば未来の哲学の、あるいは未来の人間社会の一番大事なキーワードがあるとマニフェストした。

このことについては、私も多少言ったんですが、苫野くんは非常に声を大きくして、いまこれを根本原理として立てて哲学を展開していけば、現代社会がもっているいろんな問題も解けてくるということを、ハッキリと言ったと思いま

2014年 7月12日、哲学者の竹田青嗣氏と苫野一徳のトークイベントが、リブロ池袋本店にて開催されました。

「自由」になるための哲学~ヘーゲルから社会構想まで~

以下では、今回が初となった、スリリングな公開師弟対談の一部始終をお届けします。

〜哲学はこう修行する!〜

苫野: 今日は、僕の新刊『自由はいかに可能か――社会構想のための哲学』の刊行記念と、NHKブックスの創刊50周年記念ということで、このようなイベントを開催していただきました。

まず、竹田先生との出会いからお話したいと思うんですが、2004年に『人間的自由の条件』(講談社)という竹田先生の本が出たんですね。

これを読んで、非常な衝撃を受けました。ちょっと大げさな言い方なんですが、今まで自分の積み上げてきたものが全部崩壊するという、ひどい自己崩壊が起こりました。

ただ、最初は「くそー」と反発したんですね。「いつか必ず竹田青嗣を論駁してやる!」と思って、それから先生の本を全部読んだんですが……最終的には、「すみません、私が悪うございました」となりました(笑)。

そして2005年、僕は早稲田大学大学院の博士課程の院

~これからの「教育」の話をしよう~

苫野 せっかくですので、今日お越しいただいた皆さんからのご質問やご意見などもうかがいましょうか。

――先ほどの「学び合い」について質問なのですが、「自由」がキーワードになっていましたが、たとえばデューイは、「自由」になるための「力」には2つあるといってるんですね。1つは目的を設定する力、もう1つは、その目的に向かってあらゆる手段を構成していく力。その観点からいうと、「学び合い」には、1つめの目的を設定する力、その自由って、どういう形で取り入れられてるんでしょう?

杉山 なるほど。そこは実は僕が「学び合い」について学んでいく中で、最後まで腑に落ちなかったところではあります。

提唱者の西川純教授は、目標の設定は教師の仕事だと。そしてそれは学習指導要領に則るわけですが、そこに少し疑問をもちました。僕もデューイの言う「目的を設定する力」を育成するために、目標や目的を、もっと子どもたち自身でつくるところがあってもいいんじゃないかと思っています。

それでいうと、このtablerでは、最初の段階ではこちらである程度子どもたちに目標を提案したりはしますが、

~プロジェクト型学習の可能性~

苫野 杉山さんはこうした「学び合い」を軸としたmanabiai schoolを続けてこられたわけですが、今回開校されたtablerは、それに加えて「プロジェクト型学習」も軸にされてますね。

杉山 はい。tablerでは、学びをもっと自然な形のものにしたいと思っています。大人の社会では、同学年、つまり近い年齢の人たちだけで構成される集合体って普通あんまりないですよね。なのに子どもだけ、同じ学年で集められ、同じように学ばされる。それってなんか不自然だな、と。

自分の仕事に誇りを持って、いきいきと働いている人たちって、だいたいどんな職業であっても、多様な人たちと繋がりを持ちながらその中で日々学びながら働いていると思うんですが、子どもだって、そういった大人たちと同じような学び方でいいんじゃないか、と考えています。

tablerでのプロジェクト型学習というのは、色んな学年の子どもたちが、大学生もいっしょになって、一定期間、3ヶ月とか場合によっては1年かけて、1つのことを探究していくというものです。国語、算数、理科、社会……といった教科でなく、たとえば宇宙だ

~「学び合い」との出会い~

苫野 こうした「交響体」の考え方と、杉山さんが本業とされている「教育」、どうつながってきますか?

杉山 「交響体」の考えを知った半年くらい後に、上越教育大学の西川純教授が提唱・実践されている「学び合い」に出会いました。で、この「学び合い」なら、まさに「交響体」としての教育のあり方が目指せるんじゃないかと思ったんです。

「交響体」は、共通の目標・目的があって、且つ親密で個人的な関係で成り立っている集合体。そして「学び合い」は、「全員が◯◯出来るようになる」といった共通の目標に向かってみんなが頑張る中で、自然に親密な関係になっていく、というものです。

苫野 杉山さんの実践の核ですね。せっかくですのでこの「学び合い」について、少しご説明いただけますか?

杉山 じゃあ僕がいうよりうちのスタッフのよっちくんによかったら……(笑)

苫野 おお、こういうところも「助け合い」(笑)

福田葉一 え、僕が説明するんですか…?(笑)

実は僕、杉山と一緒に、2月に上越までいって西川純先生の『学び合い』を見てきたんですけども、ほんととにかく感動したんですよね。普通の授

【対談】杉山史哲(教育事業家)×苫野一徳(教育哲学者)

よりよい教育のあり方を探究し続けている、(株)FREED代表取締役・杉山史哲さん。学校教育と深くかかわりながらも、あえて民間企業の立場から教育の可能性を追求している、注目の教育事業家のお一人です。

「学び合い」を中心にした学習塾manabiai schoolを手がける一方、教員を目指す学生や教育に関心のある若者たちに、普段なかなか出会うことのない仲間やゲストたちとの交流・議論の機会を提供する「教育フェスタ」なども各地で主催し、このイベントにはこれまでのべ3000人以上の若者たちが集まっています。

2013年夏、「プロジェクト型学習」「学び合い」「リテラシー」の3つを柱とする、新しい学びのあり方を提案する教室tablerを開校した杉山さんと、教育の未来の具体的な構想について語り合いました。

杉山史哲プロフィール:1983年生まれ。大阪教育大学在学中に参画した国際NGOでの活動をきっかけに、地方自治体や大学を巻き込んだ教育事業を立ち上げる。貿易会社を経た後、FREEDを創業、2010年法人化する。

~交響体をつくりたい!~
ブログ アーカイブ
自己紹介
自己紹介
読み込んでいます
「動的ビュー」テーマ. Powered by Blogger.