〜現代の政治哲学を乗り越える〜
竹田: 少し前に、アメリカから正義についてのマイケル・サンデルの議論なんかが、話題を呼びましたね。
われわれもアメリカ現代政治哲学を大分まとめて読んだけど、近代哲学をおさえた立場からいうと、だいぶピントがずれている。
われわれもアメリカ現代政治哲学を大分まとめて読んだけど、近代哲学をおさえた立場からいうと、だいぶピントがずれている。
アメリカでは、乱暴にいうと、ノージックからはじまった「リバタリアニズム」(自由至上主義)とマッキンタイヤーから出た「コミュニタリアニズム」の対立があって、そこで「正義」か「公正」かということが議論のキーワードになっている。
これはじつは、ヨーロッパで「自由」か「平等」かという形で議論されていたことと、本質的に同形です。
これはじつは、ヨーロッパで「自由」か「平等」かという形で議論されていたことと、本質的に同形です。
リバタリアンが依拠するのは、基本ジョン・ロックです。
天賦人権論、人間は生まれつき自由の権利を神から与えられている。これが第一。第二が、汗水たらして働いて得たものについては、その人間が所有の権利を神から得る、です。
ロックの人権の第一は、天賦の所有権で、これがブルジョア市民が王権に対抗するための理論的根拠になった。フランスの人権宣言も、アメリカの憲法も、じつはロックが理論的根拠になっている。
天賦人権論、人間は生まれつき自由の権利を神から与えられている。これが第一。第二が、汗水たらして働いて得たものについては、その人間が所有の権利を神から得る、です。
ロックの人権の第一は、天賦の所有権で、これがブルジョア市民が王権に対抗するための理論的根拠になった。フランスの人権宣言も、アメリカの憲法も、じつはロックが理論的根拠になっている。
でも哲学的にはこれはダメです。
人間は生まれつき自由ではないし、神から与えられた権利でもない。天賦人権論は、ヨーロッパローカルの思想にすぎない。
これに対して、ルソーとヘーゲルは、人間は生まれつき自由なのではなくて、もし万人が自由を確保したければ、互いに相互承認する以外にないという原理を出したわけです。
人間は生まれつき自由ではないし、神から与えられた権利でもない。天賦人権論は、ヨーロッパローカルの思想にすぎない。
これに対して、ルソーとヘーゲルは、人間は生まれつき自由なのではなくて、もし万人が自由を確保したければ、互いに相互承認する以外にないという原理を出したわけです。
これをヨーロッパ中心思想だという人もいるけど、分かっていません。完全に普遍的な考えです。アメリカ思想は、ヘーゲルをほとんどまともに通過していない。だからこの違いがきわめてあいまいなんです。
リバタリアニズムの言い分は、アメリカの中で人間が競争のもとで得た富は、その人間が正当な権利をもつ。それをなぜ、新しくやってきた貧しい人間のために税金の形で分け与えないといけないのか、それは「正義」にもとる、というのです。
これに対して、コミュニタリアン、たとえばサンデルの主張は、いやアメリカは一つの共同体なのだからなるべく平等にしようというのです。そのとき彼が依拠するのは、なんとアリストテレスです。ルソーもヘーゲルも完全に抜けてしまっている。
これに対して、コミュニタリアン、たとえばサンデルの主張は、いやアメリカは一つの共同体なのだからなるべく平等にしようというのです。そのとき彼が依拠するのは、なんとアリストテレスです。ルソーもヘーゲルも完全に抜けてしまっている。
ヘーゲルの社会思想のポイントは、近代の自由な競争社会じたいがまず相互承認によって成り立つ。したがって社会で生産された富はまず「普遍資産」、社会の全体が生み出したものだ。したがって、富の配分も、全員の意志によるルールで決定されねばならない、というものです。
自由な社会の原則は、その成員が互いに他者を自由な存在として認めあう、ということが根本の基礎なので、神が与えた個人の所有権もくそもない。個々人の自由は、互いにそれを対等の権限で認め合う、ということではじめて確保されるわけです。
苫野: そうでないと殺し合いになるんですよね。
竹田: 殺し合いになったり、経済競争であれば、制約のない強いもの勝ちの競争になってしまう。
苫野: サンデルをはじめ、サンデルが批判したロールズとか、今政治哲学が流行ですが、僕たちの考えからすると、かなり不毛というか、実はヘーゲルがもう終わらせた問題を、今もぐちゃぐちゃとやってるという印象があります。
あれ、まずい。さっき僕は包容的・抱擁的だって言ったのに、なんか批判してしまってますね(笑)。
会場: (笑)
苫野: たとえばですね、今のリバタリアニズムは、どういう根拠でそういうことを言うかっていうと、そもそも私たちは自由な人間として生まれたという、検証不可能な理屈をバーンと置くんですよ。そもそも自由だと。それが財産の自由であり、身体の自由であるというようなことをいうんです。これはロックからきてるんですが。
ちなみにちょっとだけ言いたいのはですね、今の政治哲学の多くは、思考実験から議論をはじめるんですよ。
たとえば、ロビンソン・クルーソー状態という実験をするんですね。人間がみんなロビンソン・クルーソーだとしましょう。みんな無人島にいます。ほら、そもそも自由だよねと(笑)。なんだそりゃと思いませんか?
たとえば、ロビンソン・クルーソー状態という実験をするんですね。人間がみんなロビンソン・クルーソーだとしましょう。みんな無人島にいます。ほら、そもそも自由だよねと(笑)。なんだそりゃと思いませんか?
一方、ロールズという人はどういう思考実験をしたかっていうと、ご存じの方も多いと思いますが、人間が「無知のヴェール」というものに覆われているとしましょうと。
「無知のヴェール」というのは、そもそも生まれの能力がわからない、財産がわからない、身分がわからない、才能がわからない、と、まあ、あらゆることがわからない状態にみなさん置かれているとしましょう、というわけです。
で、その中で、どういう社会が正義にかなっているかというのを議論しましょうと。そうすると、すごく乱暴にいうと、みんな自由で、それから、不平等は、それが恵まれない人にとって一番益になるような不平等じゃなきゃだめだよね、という正義の原理が出てくるはずだ、と。
「無知のヴェール」というのは、そもそも生まれの能力がわからない、財産がわからない、身分がわからない、才能がわからない、と、まあ、あらゆることがわからない状態にみなさん置かれているとしましょう、というわけです。
で、その中で、どういう社会が正義にかなっているかというのを議論しましょうと。そうすると、すごく乱暴にいうと、みんな自由で、それから、不平等は、それが恵まれない人にとって一番益になるような不平等じゃなきゃだめだよね、という正義の原理が出てくるはずだ、と。
ところが、思考実験から始める議論っていうのは、そもそもの舞台設定がめちゃくちゃ恣意的なんですよ。自分の導き出したい答えに合わせた思考実験の舞台をつくれば、その答えが当然出てくるんですね。
哲学で一番重要なのは、「思考の始発点」をどこに置くかです。ここからスタートした考えだったら、みんなが納得できる、という「思考の始発点」を徹底的に追いつめて考える。
でも思考実験って、みんな納得できないじゃないですか。「なんで無知のヴェールとかいきなりいわれなきゃいけないんだ」とか「なんでいきなりロビンソン・クルーソーっていわれなきゃいけないんだ」って、これ納得できないと思うんです。
じゃあ、どこからなら納得できるか。それは、みんな自由になりたいと思ってませんか?と。これはみんなが検証できるんですよ、自分に問う形で。みんな生きたいように生きたいと思ってるよねって。
もちろん、自由に生きたいと思っているがゆえに、かえって不自由な生き方をしてしまうこともあります。それがたとえば、有名なフロムの『自由からの逃走』に描かれたような話です。
自由に生きたいからこそ、かえって隷属の道を選んでしまうということもある。孤独に社会をサバイバルするより、支配された方がより自由に生きられると思ってしまうのです。
自由に生きたいからこそ、かえって隷属の道を選んでしまうということもある。孤独に社会をサバイバルするより、支配された方がより自由に生きられると思ってしまうのです。
そんなわけで、人は自由を必ずしも求めない、なんて言われることがあるわけですが、それは全然違います。これはむしろ、自由に生きたいからこそ、僕たちはある意味誤って、かえって不自由な生を選んでしまうことがあるという話です。
こんな例は山ほどあって、ヘーゲルはそれを見事に描き出しています。でもそれはとりあえずおいておいて、たしかに僕たちは、自由に生きたいと思っている。これは、だれもが自分に問う形で検証できる。つまり「思考の始発点」になりうる。
だったら、どうすればそんな人たちがみんなで平和に共存できる社会を作れるか。そうやって、社会思想というのは練り上げられていく必要があるわけです。
だったら、どうすればそんな人たちがみんなで平和に共存できる社会を作れるか。そうやって、社会思想というのは練り上げられていく必要があるわけです。
ロールズの原初状態は、哲学的にはまったく成り立たない。簡単にいって現実社会のゲームでは、完全に対等なスタートラインは存在しえない。完全に対等な人間関係もありえない。すでに存在しているゲームがあり、そこからいろんな矛盾が出て来る。これをどう克服するか、という課題を置くほかにはない。
ハーバーマスの理想的発話状態も似ているね。はじめの問題設定が、本質的でないんです。それから、それに対する反論のほうも、完全に現代の分析哲学の悪弊、つまりソフィストリーで相手をやっつけるという議論になっている。
ハーバーマスの理想的発話状態も似ているね。はじめの問題設定が、本質的でないんです。それから、それに対する反論のほうも、完全に現代の分析哲学の悪弊、つまりソフィストリーで相手をやっつけるという議論になっている。
ただ、カントの説でこういうのがあります。人間の理性の本性は、ある与件から推論を続けてある完全な状態に行き着くまで決して推論をやめないと。
これはそのとおりです。近代人は、神やトラディショナルな権威にもはや依拠できないので、自分の頭のなかで自由な推論によってなんらかの理想状態を作り出し、その理想状態を基準にして現実の社会を批判しようとする。今の現実はこんなに間違っている、もっとこういう場所にすすめるはずだと。
これはそのとおりです。近代人は、神やトラディショナルな権威にもはや依拠できないので、自分の頭のなかで自由な推論によってなんらかの理想状態を作り出し、その理想状態を基準にして現実の社会を批判しようとする。今の現実はこんなに間違っている、もっとこういう場所にすすめるはずだと。
ところが、この理念を私は「理想理念」と呼んでいますが、この理想理念はけっして一つに終息しない。いくつか理想状態がでてくるんです。
カントの理想は、万人が「道徳的」になるという状態。ポストモダン思想の理想は、みんなが多様性を保ったまま絶対的に「自由」になること。マルクス主義では「絶対平等」です。ほかにも考えられる。
カントの理想は、万人が「道徳的」になるという状態。ポストモダン思想の理想は、みんなが多様性を保ったまま絶対的に「自由」になること。マルクス主義では「絶対平等」です。ほかにも考えられる。
つまり、理想理念から社会思想を立てると、必然的に信念対立に陥ってそれ以上すすめなくなる。
さっきもいいましたが、現実社会のゲームは、決してゼロ地点から出発できない。ゲームは常に続いていて、いまあるこのゲームを、少しずつよくしていけるその原理がどこにあるのかと考える以外にはない。
その条件を取り出すという仕方で考えないと、自分の理想が正しいはずだ、という青年の理想ごっこになりますね。他者の思想も道徳の思想もそういう理想理念の思想から抜け出すことができない。
さっきもいいましたが、現実社会のゲームは、決してゼロ地点から出発できない。ゲームは常に続いていて、いまあるこのゲームを、少しずつよくしていけるその原理がどこにあるのかと考える以外にはない。
その条件を取り出すという仕方で考えないと、自分の理想が正しいはずだ、という青年の理想ごっこになりますね。他者の思想も道徳の思想もそういう理想理念の思想から抜け出すことができない。
苫野: 僕は、哲学というのは、物事の、あるいは問題の「本質」を洞察することで、じゃあその問題をどう解けるかという考え方、つまり「原理」を出すものだ、といっています。
こうした考え方がなければ、手すりなき、地図なき社会論になるんですね。そうした「本質」「原理」を、現代の哲学者はもっともっと追いつめて考えないといけない。
こうした考え方がなければ、手すりなき、地図なき社会論になるんですね。そうした「本質」「原理」を、現代の哲学者はもっともっと追いつめて考えないといけない。
竹田: そうですね。ただ、哲学の原理は、基本的に長いスパンで考えないといけない。
たとえば自由の相互承認という近代国家の原理は、200年ぐらいかかって、少しずつ進んできた。まだ十分とはいえないが、それでも長いスパンでみると、原理が示しているとおりに少しずつ前進している。
たとえば自由の相互承認という近代国家の原理は、200年ぐらいかかって、少しずつ進んできた。まだ十分とはいえないが、それでも長いスパンでみると、原理が示しているとおりに少しずつ前進している。
私がルソーの話をすると、ほんとに「自由の相互承認」なんて実現できる? それって絵に描いた餅じゃないのか? という疑問を出す学生が必ずいる。
もちろんそういう疑問は健全です。でも、哲学をやっていると、哲学者たちが立てた原理は、それが根本的なものなら、必ず少しずつ前進していることが理解できる。
「自由の相互承認」は、はじめはごく一部にしか実現しなかったけど、200年たってみるといまは確実に拡がっていることが分かる。でも、もっと自覚されないといけない。
もちろんそういう疑問は健全です。でも、哲学をやっていると、哲学者たちが立てた原理は、それが根本的なものなら、必ず少しずつ前進していることが理解できる。
「自由の相互承認」は、はじめはごく一部にしか実現しなかったけど、200年たってみるといまは確実に拡がっていることが分かる。でも、もっと自覚されないといけない。
それどころか、経済学者のスティグリッツが言うように、「世界の99%を貧困にする経済」が、今では目に見えて本当のことになっている。だから、「自由の相互承認」は、少しずつ広がってはきたけれど、今きわめて大きな限界に行き当たっていると思います。
ヘーゲルは、人類の歴史は自由が少しずつ現実化する歴史だと言いましたが、それは今のところ、ある一部の人たちにとってしか事実ではない。
だからこそ、もう一度「自由の相互承認」の原理に立ち返って、できるだけこれを叶えられる社会を、どうすればつくっていけるかと考える必要があると思います。
だからこそ、もう一度「自由の相互承認」の原理に立ち返って、できるだけこれを叶えられる社会を、どうすればつくっていけるかと考える必要があると思います。
ちなみに、僕たちがよく使う「原理」という言葉について、ちょっとだけ補足させてください。
「原理」って聞くと、絶対の真理とか、あるいは原理主義みたいなイメージをしちゃうんですが、哲学でいう「原理」っていうのは、全然違います。
それは、できるだけみんなが、「なるほどそうだ」って言える「考え方」のことなんですね。だから、原理主義とはむしろ正反対で、「これが真理だ」と強弁するんじゃなくて、哲学の言う「原理」っていうのは、みんなの納得が得られてはじめて「原理」と呼べるんです。
「原理」って聞くと、絶対の真理とか、あるいは原理主義みたいなイメージをしちゃうんですが、哲学でいう「原理」っていうのは、全然違います。
それは、できるだけみんなが、「なるほどそうだ」って言える「考え方」のことなんですね。だから、原理主義とはむしろ正反対で、「これが真理だ」と強弁するんじゃなくて、哲学の言う「原理」っていうのは、みんなの納得が得られてはじめて「原理」と呼べるんです。