それははっきりしていると思います。どこにいくかというと、具体的には分からないけれど、一種のカタストロフィにまで行き着く可能性が高い。
それでも現代社会は、資本主義――経済システムとしては自由市場経済というのがいいんですが――を取り払って、オルタナティヴを置くことはできない。
なぜかというのを詳しく言うと30分くらいかかりますが(笑)、民主主義と自由競争の相互承認による競争の経済というのが、切り離せないからです。
もし取り除いたら、昔のような大帝国の時代にまた戻るほかはない。それが普遍闘争原理と覇権の原理です。
なぜかというのを詳しく言うと30分くらいかかりますが(笑)、民主主義と自由競争の相互承認による競争の経済というのが、切り離せないからです。
もし取り除いたら、昔のような大帝国の時代にまた戻るほかはない。それが普遍闘争原理と覇権の原理です。
ともあれ、もし、人々が政治的自由を確保して民主的な国家体制でいこうとするのなら、「自由の相互承認」の原理が、だんだん成熟していくような方向へ進まない限り、資本主義はどこかでカタストロフィに陥ってしまう。するとまた絶対専制的支配が戻ってくる可能性がある。
でも、相互承認の原理をしっかり中心にして、ひとつずつ課題をクリアしてゆけば、人間社会には未来がある、むしろ新しい未来がある。
ニーチェの場合と同じ構造です。古いキリスト教的、伝統的な人間の価値を新しい人間的価値で置き換える。すると新しい人間社会の可能性が見えてくる。苫野くんが出しているのは、つまりそういうメッセージですね。
でも、相互承認の原理をしっかり中心にして、ひとつずつ課題をクリアしてゆけば、人間社会には未来がある、むしろ新しい未来がある。
ニーチェの場合と同じ構造です。古いキリスト教的、伝統的な人間の価値を新しい人間的価値で置き換える。すると新しい人間社会の可能性が見えてくる。苫野くんが出しているのは、つまりそういうメッセージですね。
私の言い方は、確かにちょっと「反ポストモダン!」みたいなところがあるし、哲学の認識論とかあれこれいろんな問題が絡まっているから、苫野くんからは、先生それはもっとシンプルに行きましょう、そのほうがきっと新しい世代に届きますよ、ということなんだと思います。もう旧世代だから、なかなか聞く耳持たないところがあるんですけどね……(笑)
苫野: 僕は包容的・抱擁的なんですよ(笑)。竹田先生は意外に戦闘的なんですよね(笑)。それはまあ、竹田先生が置かれた時代状況がそうだったわけで。やっぱり戦わなきゃいけないときだったとは思うんですけど。
僕は、竹田先生に切り捨てられたものの中にも、けっこういいものあるよとやってきたところもあるんです。
「原理と実践理論の区別」って言ってるんですが、原理はさっき言ったように、「自由の相互承認」しかやっぱりないと思うんです。
ほかにどんな考え方があるかっていったら、超強い奴が社会を全部支配するっていう原理か、これはすごくユートピアですけど、今よくいわれてるのが、自分の自由を大事にするんじゃなくて、みんなが他者を思いやって、「他者様、他者様」といえと。
ちょっと極端にいってますが、今、他者の思想、正義の思想が非常に流行っていて、「他者様、他者様」といえば、みんなで思いやり合っていい社会になるとかいわれてるんですね。
「原理と実践理論の区別」って言ってるんですが、原理はさっき言ったように、「自由の相互承認」しかやっぱりないと思うんです。
ほかにどんな考え方があるかっていったら、超強い奴が社会を全部支配するっていう原理か、これはすごくユートピアですけど、今よくいわれてるのが、自分の自由を大事にするんじゃなくて、みんなが他者を思いやって、「他者様、他者様」といえと。
ちょっと極端にいってますが、今、他者の思想、正義の思想が非常に流行っていて、「他者様、他者様」といえば、みんなで思いやり合っていい社会になるとかいわれてるんですね。
でも、これって原理的にやっぱり難しいんですよね。みんなが自由に生きられるためには、やっぱり「自由の相互承認」の原理を基盤にするしかない。とすると、次に考えるべきは、この原理をどうすれば現実にできるかという、「実践理論」の展開なんですね。
で、「原理」としてはダメなんだけど、この「実践理論」としてなら、竹田先生が切り捨てたいろんな思想家たちの考えにも、「ここは使える!」っていうのはあると思うんですよ。そうやって、いろんな敵対する思想のコラボができたら、素敵じゃないですか?
竹田: うん。
苫野: 思想のコラボ。
竹田: いや、今の「うん」は、全面的に賛成したわけじゃないけどね……(笑)
苫野: ええっ?(笑)
会場: (笑)
竹田: たしかに、半分はもうそれでいくしかないかな、とも思ってるんだけどね。
いま聞いて、おもしろいと思ったのは、他者の思想といったでしょ。これがなかなか問題で、哲学的にいうと、近代の他者の思想の源流は、カントなんですね。
カントのキーワードは道徳で、他者ではない。でも煎じ詰めると同じだと私は思う。
つまりこれは、道徳的な人間がどんどん増えていけば、世界は誰も争わず平和な最高善の状態になる、そういう想像力のタイプから出てきた倫理思想です。
カントのキーワードは道徳で、他者ではない。でも煎じ詰めると同じだと私は思う。
つまりこれは、道徳的な人間がどんどん増えていけば、世界は誰も争わず平和な最高善の状態になる、そういう想像力のタイプから出てきた倫理思想です。
社会批判の根拠としてこれはたいへん根強い思想で、ポストモダン思想が社会批判を推し進めるとその相対主義的性格が明らかになってくる。すると自分の「正しさ」の根拠が求められる。しかし相対主義の原理からいって、真に正しいものはどこにもない。
そこでポストモダン思想は、ある理念にその根拠を求めるようになってきた。それが「贈与」と「他者」という概念です。
「他者」の概念を強く出したのはレヴィナスですが、デリダも最後にはこのレヴィナスの思想に依拠します。
しかしこれはニーチェ的にいうと、ヨーロッパのニヒリズム、つまり正しさの根拠をつかめない状況からくる、古い倫理的根拠への反動形成です。
そこでポストモダン思想は、ある理念にその根拠を求めるようになってきた。それが「贈与」と「他者」という概念です。
「他者」の概念を強く出したのはレヴィナスですが、デリダも最後にはこのレヴィナスの思想に依拠します。
しかしこれはニーチェ的にいうと、ヨーロッパのニヒリズム、つまり正しさの根拠をつかめない状況からくる、古い倫理的根拠への反動形成です。
「他者」の思想、つまり利他主義は、いくつかのバリエーションをもつけれど、象徴的なのは、トルストイの考え方です。
トルストイは、最後の最後まで奥さんと確執を繰り広げて、ついに家出して流浪先で死んでしまった。彼は、自分自身のエゴイズムの問題をずっと考えてきて、人生の最後につぎのような思想にたどりついた。
トルストイは、最後の最後まで奥さんと確執を繰り広げて、ついに家出して流浪先で死んでしまった。彼は、自分自身のエゴイズムの問題をずっと考えてきて、人生の最後につぎのような思想にたどりついた。
なぜ人間と人間、男と女はいがみあい、宗教と宗教は対立しあい、国家と国家は戦争するのか。人間社会のさまざまな矛盾の根本をなしているのは、個人のエゴイズム、自己中心性である。人間の本性として、自分がいちばん認められたい、自分がいちばん人から愛されたいという欲望があって、これをどうしても捨て去ることができない。それが人間社会の一切の矛盾の根源である、そうトルストイは考えました。
ここまでは、ヘーゲルと同じ着想です。人間の欲望の本質は自己欲望である。そのために主奴関係が生じ、普遍支配構造が必然的になる。
ここまでは、ヘーゲルと同じ着想です。人間の欲望の本質は自己欲望である。そのために主奴関係が生じ、普遍支配構造が必然的になる。
それで、トルストイはこう考えた。この問題の解決策はぎりぎり考えて一つしかない。つまり、すべての人が無条件に他の人を愛する。これが行なわれるなら、誰もが他人から無条件に愛されることになる。このことですべてが解決する。これがトルストイの他者の思想の原理です。
トルストイの考えは、他者の思想の一つで、これだけではないけれど、しかしそのシンプルさにおいて象徴的です。
トルストイの考えは、他者の思想の一つで、これだけではないけれど、しかしそのシンプルさにおいて象徴的です。
レヴィナスの他者の思想は、もっと飛んでいて、無条件に他者を愛せよではなく、無条件に他者に対する義務と責任を追え、です。ただ、これについてはニーチェがすでに19世紀に強く反対していた。これは反動思想であると。
私なりの言い方をしてみます。他者の思想は、共同体の中ではいつでも不可欠です。しかし、自由な社会では不可能な思想です。
私はよく、99人の平和主義者と1人の戦争主義者という話をします。
ある社会で99人が平和主義者、あるいは他者の思想の持ち主でも、そこにたった1人の戦争主義者、力の論理の持ち主が存在すれば、その世の中は、必然的にその1人の人間が絶対支配する社会になってしまう。
これはルソーも別の言い方で言ってますが、利害が多様な世界では、親切な人、利他的な人が多ければ多いほど、悪人にとって好都合なんです。これ分かりますか。これが理解できないと、どんな考えも、社会思想にはならないでロマン的な理想で終わります。
私はよく、99人の平和主義者と1人の戦争主義者という話をします。
ある社会で99人が平和主義者、あるいは他者の思想の持ち主でも、そこにたった1人の戦争主義者、力の論理の持ち主が存在すれば、その世の中は、必然的にその1人の人間が絶対支配する社会になってしまう。
これはルソーも別の言い方で言ってますが、利害が多様な世界では、親切な人、利他的な人が多ければ多いほど、悪人にとって好都合なんです。これ分かりますか。これが理解できないと、どんな考えも、社会思想にはならないでロマン的な理想で終わります。
ヘーゲルはそれを考えていた。近代社会では、個々人の自由が解放される。しかしただ解放されると、エゴイズムのぶつかりあいになり、結局、強いもの勝ちの状態になる。
たがいに他者を大事にしようという思想は、共同体内の思想であって、社会の思想とはならない。唯一の考え方は、自由の相互承認であると。つまり、そのままの道徳思想、そのままの他者の思想ではダメなんですね。
たがいに他者を大事にしようという思想は、共同体内の思想であって、社会の思想とはならない。唯一の考え方は、自由の相互承認であると。つまり、そのままの道徳思想、そのままの他者の思想ではダメなんですね。
苫野: なるほど、僕は、「原理」としてはダメでも「実践理論」としてはイケるものもある、と言いたい傾向がありますが、竹田先生は、「実践理論」にするにしても、もっともっと鍛え直さなきゃいけないって考えられるんですね。それはとても納得です。
竹田: 今の社会では、倫理の礎がないので、反動的に「他者」の思想が出てきている。でもこれには可能性の原理がない。これは、必ず理想的なかけ声だけで終わります。
かつて長く錬金術が続いていたけど、近代になってこれには原理がないことがはっきりして、錬金術が終わり、ケミストリーに変わった。永久運動も同じです。夢想は早く終わりにしてつぎの可能性を探さないといけない。
原理がないということが本当にわかると、私たちははじめて次の考え方を出そうとして努力します。原理がない場合は、それをはっきりさせることが哲学の重要な役割なんです。
かつて長く錬金術が続いていたけど、近代になってこれには原理がないことがはっきりして、錬金術が終わり、ケミストリーに変わった。永久運動も同じです。夢想は早く終わりにしてつぎの可能性を探さないといけない。
原理がないということが本当にわかると、私たちははじめて次の考え方を出そうとして努力します。原理がない場合は、それをはっきりさせることが哲学の重要な役割なんです。
苫野: 今のお話を僕なりに引き取ると、これは社会思想を「道徳」で考えるか「ルール」で考えるかってことなんですね。
実は多くの社会思想は、今「道徳」で考えるんです。つまり、人間はこうでなきゃいけない、こうであるべきだと。
人を思いやらなきゃいけない、そこから社会を作っていかなきゃいけない、とか。でもこれはかなり非現実的ですよね。
さっきの99人の平和主義者と1人の戦争主義者というお話と同じように、みんなが道徳的になればこの社会は平和になるんだという思想は、やっぱり非常に弱いんですよね。
人を思いやらなきゃいけない、そこから社会を作っていかなきゃいけない、とか。でもこれはかなり非現実的ですよね。
さっきの99人の平和主義者と1人の戦争主義者というお話と同じように、みんなが道徳的になればこの社会は平和になるんだという思想は、やっぱり非常に弱いんですよね。
一方、「自由の相互承認」というのは、ルールの思想なんですね。
みんな自由にいきたいんだよね、だったらお互いにそれを認め合うことをルールにしましょうと。そして、そのルールを一緒に作り合っていきましょうと。これしか、みんなが共存する社会のあり方の根本はないんです。
みんな自由にいきたいんだよね、だったらお互いにそれを認め合うことをルールにしましょうと。そして、そのルールを一緒に作り合っていきましょうと。これしか、みんなが共存する社会のあり方の根本はないんです。
ところがさっき言いましたように、現代の社会思想、政治哲学は、かなり多くが道徳からはじめるんです。
でも道徳観ってみんな違うんですよね。だから、弱者を絶対に助けることが道徳だと思う人もいれば、いやいや自分のやりたい放題できることこそが道徳的だとかですね。道徳をめぐる信念対立が渦巻いて、もうわけがわからなくなっている。
かなり単純化して言うと、これが今のアメリカの政治哲学の現状だと僕は見ています。でもそうじゃない。「自由の相互承認」からはじめるしかない。
でも道徳観ってみんな違うんですよね。だから、弱者を絶対に助けることが道徳だと思う人もいれば、いやいや自分のやりたい放題できることこそが道徳的だとかですね。道徳をめぐる信念対立が渦巻いて、もうわけがわからなくなっている。
かなり単純化して言うと、これが今のアメリカの政治哲学の現状だと僕は見ています。でもそうじゃない。「自由の相互承認」からはじめるしかない。
実はですね、僕が竹田先生から学んだというか、一番衝撃を受けたのがここなんです。僕自身も、道徳とはいわなかったんですが、個人的な信念というか思い入れみたいなものがあって……。
竹田: 愛でしょ。
苫野: 愛。
竹田: 愛。
苫野: 愛だったんです。いや……なんかいきなり恥ずかしくなりましたけど(笑)
会場: (笑)
で、その反動から、僕は、みんな本当は愛し合えるはずだみたいな、ロマン主義者になったんですよ、10代から20代にかけて、もう筋金入りのロマン主義者だったんですね。世界は愛し合えるはずだ、愛し合うべきだ、いや、そもそも愛し合ってるんだ、みたいなふうに思ってたんです(笑)
ところが『人間的自由の条件』を読んだときに、自分のロマンはなんて浅薄な思想だったんだとショックを受けました。
人類愛とか人間愛とか、そうした考えを思想の根本に置くことを、竹田先生はこの本の中でこてんぱんにしてたんですよ。そんなの非現実的なロマン主義だと。
人類愛とか人間愛とか、そうした考えを思想の根本に置くことを、竹田先生はこの本の中でこてんぱんにしてたんですよ。そんなの非現実的なロマン主義だと。
実はポストモダン思想は、あらゆるものを相対化した挙げ句、でもそれだと社会をどうすればいいか分からないので、新しい価値を提示するようになったんですね。
それが、他者とか、愛とか、贈与とか、そういった新しい価値でした。
でも竹田先生にいわせれば、それは相対主義に疲れ果てた末の反動で、思想としては非常に弱いと。
それが、他者とか、愛とか、贈与とか、そういった新しい価値でした。
でも竹田先生にいわせれば、それは相対主義に疲れ果てた末の反動で、思想としては非常に弱いと。
竹田: 日本ぐらいの豊かな国に住んでいると、愛によって、あるいは道徳によって社会をよくするというような考えは、なんとなく可能性がありそうな気がする。
でも、戦前とか、途上国などで生きてみると、そういうのはまったくの幻想だということが分かるはずです。愛や道徳は、あくまで、共同体としての生活の中で必須の原理ですが、社会思想としては、けっして原理にならない。
でも、戦前とか、途上国などで生きてみると、そういうのはまったくの幻想だということが分かるはずです。愛や道徳は、あくまで、共同体としての生活の中で必須の原理ですが、社会思想としては、けっして原理にならない。
もし先進国で、贈与とか、愛とか、他者とかが大事だという考えを押し広げようとすると、まじめな学生はみな神経症になってしまいます。
近代社会の根本原則は、一応フェアなルールにもとづく競争であるかぎりで、自分の利益、自分の欲望を追求してよい、ということを互いに承認しあうということです。
それがもう一方で、でも自分のことよりも他人を大事にしないと人間として間違っているといわれる。私はそういう例をたくさん知ってますが、真面目な学生は二つの規範の間で引き裂かれます。父親と母親の与えるルールが違っているのと同じです。
近代社会の根本原則は、一応フェアなルールにもとづく競争であるかぎりで、自分の利益、自分の欲望を追求してよい、ということを互いに承認しあうということです。
それがもう一方で、でも自分のことよりも他人を大事にしないと人間として間違っているといわれる。私はそういう例をたくさん知ってますが、真面目な学生は二つの規範の間で引き裂かれます。父親と母親の与えるルールが違っているのと同じです。
他者や愛や道徳を、共同体の原理から拡大して社会の原理にするのであれば、自由な社会はあきらめて、何らかの共同体社会にする以外にはないんです。
他者や愛の考えをダメだというのではない。それは共同体的な生活の中では、絶対的に必要でむしろ不可欠のものです。しかし社会思想の根拠にはけっしてならない。
他者や愛の考えをダメだというのではない。それは共同体的な生活の中では、絶対的に必要でむしろ不可欠のものです。しかし社会思想の根拠にはけっしてならない。
苫野: ヘーゲルが非常に優れているのが、道徳主義者は大きな矛盾を抱えるということを、はっきりいっている点ですね。
つまり、道徳主義者は、生き方はこうでなければならないって、人に押しつけるんですね。で、それができないお前はダメだと攻撃する。他者を認めるはずの思想が、他者を否定するんです。
これをヘーゲルは「徳の騎士」と呼んでいます。騎士は攻撃するんです。
これをヘーゲルは「徳の騎士」と呼んでいます。騎士は攻撃するんです。
(その⑤へ)