⑫ 舞浜リゾート線 沿線風景の移り変わり
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舞浜駅
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1988年12月1日 JR京葉線の 南船橋/西船橋~新木場 間の暫定開業時に開設された駅で、一部東京ディズニーランドのバックステージ部分を転用している。駅ロータリーに接する、運動公園から東京ディズニーランド・トールゲートまでの道路は、舞浜駅前広場の開設に伴い、一部東京ディズニーランド側へ移設されている。現在の、東京ディズニーランドペデストリアンデッキが、東京ディズニーランドバスターミナル入口に架かる付近から、現在の舞浜駅ターミナルの入口の信号付近までは、直線で結ばれていた。
駅前の噴水は、開業当時から。バスターミナルの待機スペースの使用開始は2000年ごろ。
建設中のIKSPIARI
1993年ごろの予定では、東京宝塚劇場が建つことも計画されたが、結局はショッピングセンターとなり、劇場はシルク・ドゥ・ソレイユ
シアターとして実現した。
オリエンタルランドのショッピングセンターへの進出、という言葉が当時よく使用されたが、1979年3月にショッピングセンター ユニモール(美浜東団地バス停そば)と、1979年9月にショッピングセンター
パークスクエア(リブレ京成前/サンコーポ西口)が、それぞれオリエンタルランド直営のショッピングセンターとしてオープンしている。オリエンタルランド交通から東京ベイシティ交通に商号変更するまで、バス車内放送でサンコーポ西口/リブレ京成前(ショッピングセンターパークスクエア前)、美浜東団地(ショッピングセンターユニモール前)と、それぞれ副名称がついていた。ユニモールにはオリエンタルランドのもう1社の株主の三井不動産の系列である、ユニマート(株式会社ユニリビングのスーパーマーケット事業
現在はマルエツに譲渡済み)がキーテナントとして入店していた。なお、両ショッピングセンターとも1994年2月にオリエンタルランド100%出資の舞浜コーポレーションの運営に移っている。
イクスピアリ建設に伴い、現在の東京ディズニーシーあたりに大量の土が運び込まれ、その後、イクスピア理建設地に移動され、土地の地盤強化に使用された。建設に伴い、東京ディズニーランド・パーク内から建設予定の建物がどのくらい見えてしまうか、アドバルーンを使用して確認作業が行われている。
なお、イクスピアリ予定地は、フラワーガーデンという名称で、本社駐車場をゲスト開放する際には従業員駐車場として活用されていた。 左 1999年ごろ 右 2009年4月13日
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第2テーマパーク/東京ディズニーシー建設に伴い、建設従業員輸送のため、東京ディズニーランドバスターミナルより、東京ディズニーシー建設現場への従業員専用の循環バスの運行が行われた。
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オフィシャルホテル/MRCC駅付近
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オフィシャルホテルは1986年7月20日開業・サンルートプラザ東京以来、シェラトングランデ・トーキョーベイ ホテル&タワーズ(1988年4月14日)、ヒルトン東京ベイ(1988年7月2日)、第一ホテル東京ベイ(1988年7月8日)、東京ベイホテル東急(1990年5月2日)、東京ベイ舞浜ホテル(2007年3月3日)の順に開業している。第一ホテル東京ベイはリージェント・パークホテル、東京ベイ舞浜ホテルは日航ホテルとして、もともとは計画されており、第一ホテル東京ベイはホテルオークラ東京ベイに2002年4月1日にフランチャイズの変更が行われている。
地区内のバス停はホテルの開業、改称に伴い、随時変更されているが、1988年12月1日開通当時と現在ではすべての停留所名が変更になっている
・現:シェラトンホテル・ホテルオークラ
1988年12月1日 第一ホテル・シェラトンホテル → 1998年5月6日 シェラトンホテル 第一ホテル (各ホテル前に分離)
→ 2001年7月27日 シェラトンホテル・第一ホテル → 2002年4月1日 シェラトンホテル・ホテルオークラ)
・現:ヒルトンホテル・東急ホテル)
1988年12月1日 ヒルトンホテル → 1990年5月2日 東急ホテル・ヒルトンホテル → 2001年7月27日 ヒルトンホテル・東急ホテル)
・現:サンルートホテル・舞浜ホテル
1988年12月1日 サンルートプラザ東京 → 2007年3月3日 サンルートホテル・舞浜ホテル
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2000年4月ごろ (他も)
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2009年10月4日
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シェラトンホテル・ホテルオークラ ~ 東京ディズニーシー
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この区間は、1998年05月06日 ~ 2001年7月26日 第2テーマパーク(現在の東京ディズニーシー)の建設工事が行われ、既存の道路が敷地内にかかってしまうため、海側に外周道路が付け替えられており、旧区間は現在は東京ディズニーシーの敷地内にあり、当時をしのぶものはまったくない。
東京ディズニーシーは1980年台中旬にはすでに構想が出されていたが、海側の土地が浦安市の墓地公園が予定されていたため、構想からパークオープンまでは時間がかかった。浦安市墓地公園の予定地を除くと現在の東京ディズニーシーの3/2~2/1程度の敷地であり、集客が見込めないとの理由で計画されていた浦安市墓地公園の移転が計画、実行され現在の姿になった。浦安市墓地公園は、現在の③浦安東団地線の終点、日の出南に位置している。
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2000年4月ごろ
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2008年4月12日
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1991年8月28日
この道路は、新浦安方面からの若潮通りが途中でオフィシャルホテルを挟む形で分岐し、ヒルトン東京ベイと東京ベイホテル東急の間の交差点で合流していた。当時はバスが通る道ではなかったが、1988年5月~1988年11月30日まで、各ホテル共同の従業員輸送バスが、舞浜車庫とを結んで運行されていた。
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2006年9月2日
東京ディズニーシー建設に伴い、外周道路が付け替えられ、現在⑫系統をはじめ、ホテルに発着する空港行きバスも通過するようになった。
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1991年8月28日
当時の⑫は、この写真中央付近にある交差点を曲がっており、左がオフィシャルホテル、右正面方向が若潮通り/新浦安駅方向
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2000年4月ごろ
左の写真の現在地 若潮通りの突き当たりは、東京ディズニーシーホテルミラコスタのドライブウェイへ続き、袋小路となった
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1990年11月24日
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東京ディズニーシーの建設に伴い、旧来のルートは東京ディズニーシーの敷地内になることから、現在の外周道路へと付け替えられた。この写真の撮影地点は、現在では東京ディズニーシー・パークの インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮 が建っているあたり

2009年11月8日
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1991年8月28日
遠く千鳥地区を望み、北海道の原野を彷彿させる風景が広がる。浦安市の墓地公園は、こ現在の運動公園の南側から、現在の東京ディズニーシー トールゲート付近~SSコロンビアあたりに計画されていたが、運動公園の敷地形状を変更し、墓地公園を日の出地区に移転し、現在の土地を捻出した。
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2006年9月2日
左の写真の同一地点。
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1991年8月28日
ポツンと、千鳥地区最南端にある航空灯台が目立つ。当時進出企業はほとんどなく、現在の千鳥車庫前の道路も片側1車線の簡易舗装であった。
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東京ディズニーシー内のアトラクション ディズニーシー・トランジットスチーマーラインの船舶は、隅田川造船(JR京葉線が東京駅方面から潮見駅手前で地上に上がる付近にある造船会社)にて建造されたが、東京ディズニーシーへの回送は、東京湾を自力で回送された。東京ディズニーシー内のトランジェットスチーマーライン航路と東京湾はつながってはおらず、当時この間を開削して船を通したという話が残っているが、実際に開削されたのは排水用の水門を作るためであった。この写真左側のコンクリートは古いままであることから、実際にはクレーンにて釣りあげられたであろうと思われる。2009年9月26日
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