2019.08.04
# 戦争

生存者が語る…日本軍捕虜1100人「決死の蜂起」その壮絶な記憶

偽名のまま命を落とした若者たち
神立 尚紀 プロフィール

目的はただ一つ「軍人らしく、戦って死ぬ」

オーストラリア軍は、彼らに過酷なことも要求しなければ、制裁を加えることもなく、きわめて人道的に扱った。高原さんら偽船員たちは、はじめの半年はシドニーの西方約700キロのヘイという小さな町に設けられた収容所で、拘留されている約700~800名の在留邦人らとともに過ごしたが、そこの団長以外には軍人であることを隠し続けた。在留邦人は商社や銀行の関係者が多く、若い高原さんたちに勉強することを勧め、面倒をよく見てくれたという。

 

捕虜に課せられた労働は1日8時間で、その内容も、道路の補修作業や、柵を作ったり牛馬の糞を集めたり、薪集めをしたりと、簡単なことばかりだった。労働に対しては、1日8ペンスの報酬が支払われる。収容所外での作業のときには、地元住民がお茶とケーキでもてなしてくれることもあった。野山で野生のコアラやカンガルーの姿を目にすることもしばしばだった。

戦況の悪化にともない、「日本軍に捕虜はない」との建前にかかわらず、前線からは続々と日本人捕虜が送られてきた。ヘイの収容所は手狭となり、高原さんたちは、ヘイから数百キロ離れたところにあるカウラ第十二捕虜収容所(キャンプ)に移送された。

オーストラリア略地図。カウラは南東部、ニュー・サウス・ウェールズ州に位置する

ここはもともと、ヨーロッパ戦線のドイツ、イタリア人捕虜を収容するために造られた施設で、直径680メートルの大きな12角形の敷地をA、B、C、Dの四つのエリアに区切り、昭和18(1943)年末頃には、Aはイタリア人、Bは日本人、Cはドイツ人、Dは日本人将校と台湾人、朝鮮人の捕虜が、それぞれ収容されていた。そこには、水道設備も食堂、炊事場などの設備も整っていて、便所も戸外ながら水洗式、水と湯の出るシャワーもあった。キャンプの外には病院もあり、通院することもできた。

「ドイツ人は服装、規律がキチっとしていて、毎日、朝は起床ラッパで起き、行軍などの訓練をやってる。夜も消灯ラッパで寝る。いっぽう、イタリア人は、捕虜の屈辱など微塵も感じていないようで、みんな陽気で、毎日、ギターやマンドリンを弾いて歌を歌ってる。あれは戦争に弱いはずやと思いました。農園への労働にも喜んで出て、農家の奥さんや娘さんと恋仲になったりね。しかし日本人は、自分のことは一生懸命やるけど、労働に出るのを拒否したり、出てもだらしない格好をして、わざと作物を枯らしたり、アホなことばかりやりよる。『ドイツ兵は銃を持って生まれてきた。イタリア人はマンドリンを抱えて生まれてきた。日本人はわけがわからん』と、豪州軍の将校にも言われていました」

上空から見たカウラ捕虜収容所

捕虜の人数が増えるにしたがい、そこには「捕虜文化」とでも呼ぶべき独自の、不思議な文化が育っていった。捕虜のなかにはさまざまな前職の者がいるので、たいていのものは、ありあわせの材料で、自分たちで作ってしまう。

手製の花札や、木片と羊の骨を使った麻雀牌、碁石、将棋の駒。支給された煙草を金銭代わりに、勝負に熱中して鬱憤を晴らす。手製の硬球やバット、グローブで野球もする。グラウンドに白線を引くのに石灰ではなくメリケン粉を使うほど、物資は豊富である。演芸会もたびたび催されたが、そこで使われる楽器も手製で、隣のイタリア兵捕虜キャンプから借りてきたマンドリンやバイオリンをもとに、図面を起こして作ったものである。弦には蠅除けのネットをばらして使い、弓には、食糧運搬に使われる馬の尻尾の毛を失敬する。宿舎の周囲にはきれいな花を咲かせ、畑を耕して野菜を育てる。酒は禁じられていたが、米や医薬品のアルコールをもとに密造する。

――一見、何不自由のない生活。しかしそこでは、互いに過去と出身を尋ね合わない不文律が守られていた。

一緒に暮らす日本人どうしでありながら、互いの正体については何も知らない。捕虜の多くは偽名で、近藤勇や長谷川一夫を名乗る者もいた。

「厚遇を与えられれば与えられるほど、より精神的な呵責に苛まれる。また同時に、生きるということが貴重で有意義にも思えてきます。死を望みながらも、現実の日々の苦悩を克服することができない。率直に言えば、命が惜しくなってくる。捕虜になった私たちは、おそらく日本に帰れることはあるまい。そのくせ、内地の家族や友人のことが気になって眠れないことがある。豪州軍に処刑されないのなら、いつかは自らの手で自分たちの始末をつけなければと考えながら、それも実行に移せないままに、人数が増えるにしたがい、海軍と陸軍の主導権争いが起こるようにもなってきました」

はじめ、キャンプの捕虜の団長、副団長はともに海軍の出身者だったが、圧倒的に数の多い陸軍側の不満がつのり、団長の南兵曹は選挙の実施に同意せざるを得なくなった。選挙の結果、陸軍の下士官が団長、副団長に就任したが、実権は依然として、南兵曹ら、英語が話せて豪州軍との交渉ができる者の手に握られていた。数によって無理やり主導権を握る立場についた陸軍の一部勢力は、ことさらに戦陣訓や軍人精神を持ち出しては、自分たちの権威を示そうとした。

戦況は、毎日、事務室に配られる「モーニングヘラルド」と「ザ・サン」の2紙の新聞を通して知ることができる。サイパン島も敵手に落ち、収容所内の一部の捕虜の間では、このさい、潔く死を選ぶべきだというムードがだんだん高まってきた。そんな折、昭和19(1944)年8月4日午後、豪州軍より、日本人捕虜の分離、移動が伝えられたのだ。

カウラ捕虜収容所Bキャンプ(下士官兵キャンプ)の捕虜は、その時点で約1100名、21班に分かれる大所帯となっていた。豪州軍から示された移送者名簿が、下士官と兵を事実上分離させるものであったことと、語学力不足によるコミュニケーションのまずさから、下士官・兵を不可分のものと考える捕虜の一部強硬派が激高、班長会議で、2、3人の班長が、この機に一斉蜂起することを主張した。多くの者は慎重論の立場で、高原さんも、

「我々は、運命のいたずらでこんなに多くの人と暮らすようになっただけ。集合、離散はやむを得ない」

という考えだったが、

「強硬論を唱える人間に、『それでも君は日本人?戦陣訓を知らんのか?』と問いただされると、戦陣訓は知らなくても『日本人か?』には弱い。捕虜になったとはいえ、自分も日本人だ、よし、負けてたまるか、という気になるんです」

班長会議は紛糾して収拾がつかなくなったので、全員の投票で意思を問うことになった。結果は、8割の者が蜂起に賛成票を投じた。賛成でなかった高原さんも、トイレットペーパーの投票用紙に賛成の〇をつけた。

「だからそのへんはね、投票というのがいかに周りに煽られたり、声の大きい方、耳あたりのええ方に踊らされたりして、極端な方向に流されやすいかということです。いまも民主主義とは言っても、選挙には同じ危うさがつきまとうんやないでしょうか」

待遇に不満があったわけではない。脱走しても、広いオーストラリア大陸から逃げられるわけでもない。目的はただ一つ、「軍人らしく、戦って死ぬ」ことにあった。

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