もう死にたいと思うときの生き延び方

小さなことに喜ぶ

 人間にとって幸福とは、人並み外れた成功とか、栄光、賞賛、勝利ではありません。

 では、何か。幸福とはきわめて主観的なものです。今日、息をして生きていること。これは、すごく恵まれたことです。周囲の景色をみてみること。今日の空気の匂いをかぐこと。

 孤独でいられること、または、家族のいること。

 望まない環境、思い通りにならない状況。でも、手があり、目があり、考えることもできます。じっと手を見てください。長い間、働いてくれた手です。

深呼吸をする

 まず、この記事を読む前に、深呼吸をしましょう。吸って吐く。吐く時間を長くしましょう。できれば立って、ゆっくり 7秒間吐きましょう。体に力が入っていませんか? 顔の筋肉の力を抜きましょう。肩も楽にしましょう。脱力しましょう。

 世界はあなたにそんなに多くを要求していません。

 深呼吸を 3回繰り返しましょう。

他人と比較するのはやめよう

 あらゆる成功、あらゆる勝利、賞賛、多大なる成果、卓越した能力、たぐい稀な美貌、貯えた財宝、それが消えるのは時間の問題だ。そのようなものはむなしい。たとえ、人々の記憶に残ったところでいったい何になろう。

 逆に、意味のない人生だとか、無為だとか、役立たずだとか、ごくつぶしだとかいわれても、それが後でどうなるというのか。同じような人間に、自分はもっと立派だという自尊心や優越感を与えるだけではないか。そういった意味では他者に貢献しているのかもしれない。

 他者の成功や他者の失敗に、みんなそれほど関心を持っていない。

 だから、他者と比較して自分はだめだと思うことで苦しむのはやめよう。ただ、他者と比較して自分は優れていると考えるより、だめだと考える方が優れているかもしれない。

孤独と友達

 友達がいるか、いないかが問題になることがあります。友達がいない人は、何か問題があるのではないかという風潮があります。しかし、そんな迷信は気にしなくてよいです。友達はどうしても必要なものではありません。

 気を遣うことのない孤独はいい。他者に対しては、肯定的な関心を少し持つ程度でいいです。誘われないことは、わすらわしくなくて最高です。拒む労力もはぶけます。

 友達がいない原因が自分の性格や振る舞いにあるのではないかと思って落ち込むのはやめましょう。それは誤った認識です。友達のない、優れた孤独、煩雑さのない生活を喜びましょう。

精神科、心療内科を受診する

 死にたくなったら精神科の治療を受けましょう。適切な治療を受けることにより、自殺を防ぐことができます。近年の自殺数の低下は、大いに抗うつ薬が影響しているのではないでしょうか。うまく使えば、あんなちっぽけなものが、人の命を救うということがありうるのです。精神科の診療所、病院、精神科医を上手に利用してください。

 生物学的なことがうつ病に作用するもう一つのことをお話ししましょう。躁うつ病の治療で、リチウムの薬を用います。元素記号はLiです。

 各地の水道水に自然に含まれているリチウムの濃度は異なります。米国の研究で、リチウムの濃度の高い(といっても微量)の水道水を飲んでいる地域の自殺率は、リチウム濃度の低い地域の自殺率より有意に低かったのです。これは、九州でも確認されました。水源の影響を受けるのです。

 余談ですが、ある現象とある現象との間に関係があるということを見出すことほど面白いことはありません。その現象同士がとても常識では遠く離れているというとき、さらに面白くなります。また、私事で恐縮ですが、水中毒が天気が悪い時に起こりやすいことを見出して論文にしたことがあります。これも不思議ですね。因果関係は本当にわかりにくいものです。大変に面白いものです。

 人間は、気がつかないものに支配されています。面白いことに、人間は違った原因を見つけ、その原因と格闘しているうちに、気が付かない過程が進行していて、結果的に事態が変わっていったりします。その時、人は自分が見つけた原因が解決したためだと思うこともあります。

死ぬのを待て

 人にもよるが、死にたい気持ちは、高まったかと思うと、しばらくするとおさまったりします。それは、波のようでもあります。

→時間経過

 死にたくてどうにもならなくても、翌日には何とかおさまることがあります。このように波があります。死にたいということが意識の中から薄れていきます。また、死にたいの波が来たら? また、時間の経過をまちましょう。ただし、その間に、何らかの対策、治療を開始することをおすすめします。

死ぬのは正当か?

 自死は、誤った認識の上に起こることだと思います。たとえば、喪失。身近な人の死、恋人にふられた、経済的に絶望、とりかえしのつかない失敗。いや、そのどれもが、死に値するものではありません。ところが、人間は、もう一生報われないから死んだほうがましだと考えてしまいます。これが認知の誤りです。簡単に絶望の方に振れてしまいます。人間のどのような失敗も喪失も、人生を断ち切るのに相当するほどのことではありません

 喪失は新たな出発でもあります。取り返しのつかない失敗はありません。つまり、正当な自死というものはどこにもありません。

自分だけが苦しんでいると思っていないか

 徳川家康は言っています。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したるときを思い出すべし」。

 天下の大将軍にしてこうです。ですから、凡人が、軽々と生きられるはずはない。不自由でも当たりまえ。自分だけが苦しんでいるとか、自分だけが運がないと考えるのは認識の誤りだ。

 また、家康はこの世ようにも言っています。「及ばざるは過ぎたるより勝れり」。足りない、能力が足りない、成果が足りない、美貌が足りない、金が足りない、才能が足りない。運が足りない。そっちの方が本当は良いのだ。長い目で見ればその方が良いのだ。

 自分だけが不幸か? 否。ほとんどの人は大して幸せではない。幸せのようにみえてもたいして幸せを感じていない。それが普通だ。

弱者なら死んだほうがましか

 弱者であることは良いことです。強者は弱者に支えられている。優秀と言われる人は、非優秀な人に支えられている。経済的な強者は経済的な弱者に支えられている。盗むものは盗まれるものに支えられている。

 あくせく働く人とあくせく働かない人は、互いに支え合っている。補い合っている。

 成果を出す人は、成果を出せない人によって、自分の価値が明らかになっている。

「いのちの電話」に電話する その他の支援

 いのちの電話に電話してみましょう。訓練された方々が、話を聴いてくれます。

 その他の厚生労働省のホームページにある電話相談。いくつもあります。

 保健所、保健センター、精神保健福祉センターなどの公的機関。

抗うつ薬をのむ

 抗うつ薬の売り上げの年次推移(増加)と自殺率の減少との間には、有意な関係があります。交絡因子というのがあるのかもしれませんが、「死にたい」の原因が生物学的な問題を背景にしたものだとすると、抗うつ薬を正しく用いることによって、回復する可能性が高いです。いやほとんどの自殺には、最終的には生物学的な問題が重なってきますので、正しい対処が望まれます。精神科や心療内科を受診しましょう。

 抗うつ薬は、原則として一種類の薬を十分量、十分期間使用することが大切です。効果が出てくるまでに数週間かかるのが普通です。適正な使用であれば、効果が認められる確率が高いです。

 その間は、「待つ」という姿勢が大切です。

仕事を休む 家事を休む

 仕事がある人ならば、仕事を休みましょう。人との付き合いも無理してすることはありません。具合が悪いことを周囲に伝えましょう。理解してくれる人と理解してくれない人がいるのが普通です。理解してくれない人がいても当然だと考えるようにしましょう。それをあれこれ悩む必要はありません。医師からは診断書をもらいましょう。

偉人から学ぶ

 アーカイブで紹介しましたように、偉人といわれるような人のほとんどがうつを経験しています。うつを乗り越えた偉人たちに生き様を学びましょう。

 死にたくなったら、自分が偉人と近い性質があるのだと思うことにしましょう。そして、偉人たちがどのようにうつと付き合っていったか、「偉人のうつ病」などこのアーカイブをご覧ください。

新しいことでなく、修理・修繕を行う

 うつ状態の時に、新しいことをするのは負担です。いろいろな「なおし」をしましょう。補修、修理、推敲、修繕、その他。掃除も元に戻すという意味で修繕でしょう。それも大きなことでなく、小さなことでいいです。

非生産的に生きる

 生産性が高いのは、良いことでしょうか。良いことかもしれまっせんが、いつでも良いこととは限りません。非生産的であることは割ることではありません。非生産性を目指しましょう。生産的な人が評価されるのは、非生産的な人がいるからです。つまり、非生産的な人は生産的な人を支えていることになります。

 価値観が間違っていませんか? 何かができる人間だけが偉いのではありません。持っている人間だけが偉いのではありません。

寝る

 寝てしまいます。よくあるのは、通院している人の過量服薬。過量服薬は決してよいとはいえませんが、その気持ちも分からないわけではありません。眠れなくても寝よう。じっとしていよう。休息は回復につながり、疲労は悪化につながる。

逆説的・ノブレス・オブリージュ

 ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)という言葉があるらしいです。フランスで生まれた言葉で、「noblesse(貴族)」と「obliger(義務を負わせる)」を合成した言葉だそうで、財力、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことをさすそうです。とネットで知りました。

 恵まれたものは、それに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという欧米社会の道徳観だそうです。

 しかし、何か、少し思い上がった印象を受けます。恵まれた人間だけに義務が伴うというのは。

 恵まれた人間は、恵まれなかった人間が多数いることで、自分が恵まれた人間になっているということです。だから、恵まれた人間が恵まれた人間としてあるのは、恵まれなかった人間がいるという貢献のためです。

 ですから、恵まれた人間がいるのはその人の努力も才能もあるかもしれませんが、恵まれなかった人間が存在しているというのが一番大きい気がします。

 恵まれなかった人間には、より高貴な義務があるように思います。それは上記のように正しく眺め、自分を卑下したりしないことです。たぶん。

自分の存在意義

 自分に存在意義がないから生きていても仕方ないと考える人がいます。しかし、存在意義のあるといえる人間がいますか? 自分の存在意義が欲しいというのは、求めすぎではないでしょうか。源左などの妙好人に言わせれば、そのような考えは「浅ましい」ということになります。

 存在意義のあるのは偉人でしょうか? そうかもしれません。偉人は偉人だと言われることによって偉人になっています。偉人を作るのは、非偉人です。偉人が存在意義を噛みしめて生きているのは普通です。存在意義がないと思っている人が今日も生きているのは偉大なことです。

役に立たない

 役に立つ人間は重宝です。世の中に貢献しています。自分は役に立っていると思っている人が生きているのは楽なことです。普通のことです。

 役に立たない、何の取り柄にもならない。むしろ、皆の負担になっている。世の中には役に立つ人間とや役に立たない人間がいるとして、役に立たない人間が偉いのは当然のことです。どちらかのパートを担わないといけないとすれば、役に立たない、格好の悪い、恥じ入りそうな役に立たない人間というパートを受け持った人間が偉いに決まっています。平静を保っている役立たない人間がもっとも偉いのです。

 役に立つ人間は、役に立つことを自分の支えにして生きている弱い人間です。役に立たない人間は、何も自分の支えになるものを持たずに生きている強い人間になる可能性があります。