酒瓶を呷る。
床に腰を下ろしているブレイン・アングラウスは、たった今
部屋の中にはアルコールの匂いが充満しており、彼が如何にこの部屋で酒に入り浸っているかを表している。
「……クソ」
小さく悪態を吐いたブレインは、肘掛けに使っている木箱の中からまたもう一本酒を取り出すと、躊躇なくコルクを抜いた。ぽんと鳴った音と共に、葡萄酒の豊潤な香りが鼻腔を撫ぜる。この香りと酔いだけが、彼の今の唯一の心の拠り所だった。
「……あなたがブレイン・アングラウス?」
若い女の声。
いつの間にかそこにいた訪問者にブレインはぎろりと視線を投げると、興味がないとでも言わんばかりに酒瓶を呷った。アルコールを胃の中に流し込む様な、無茶苦茶な飲み方だ。
そんなブレインを見て、フードを目深に被った訪問者は肩をすくめる。
「……ふーん。私が言うのもなんだけどさぁ、見事に落ちぶれちゃってんねぇ。ガゼフ・ストロノーフと肩を並べられるような男には全然見えない」
「失せろ。女を呼んだ覚えはない」
「あはっ。もしかしてー、私を娼婦かなんかだと勘違いしちゃってる感じ? いやーん、へんたーい、えろすけべー」
「……チッ」
ブレインは分かりやすく舌を打った。
相手にしても仕方がないという理性と、ふつふつと湧く苛立ちが鬩ぎ合っている。とっとと失せろというのが、彼の正直な気持ちだった。それ以上神経を逆撫でされると、思わず殺してしまいそうだから。
しかしブレインは目の前の女が只者ではないことも既に察知している。それは女がこの部屋を訪れる直前からだ。
「お前みたいな娼婦がいてたまるか」
「んー?」
「血の臭いがぷんぷん香ってきやがる。何人か殺してきたな」
「……せーいかーい」
女はへらへらとそう返すと、フードを脱いで見せた。
痩せた顔に、病的な白髪。白髪は頭から被ったかのように、血が滴っている。その血が女のものでないというのは言うまでもない。返り血だ。
目は焦点が合っておらず、ぎょろぎょろとブレている。明らかに、健常的ではない。
「……気狂いの
「んー? いんやー、用って程でもないんだけどサぁ。噂のブレイン・アングラウスがいるって聞いたから、面くらい見ときたいじゃん」
「サインでも欲しいのか」
「ぎゃは。あなた面白いこと言うね」
「……用が済んだなら失せろ。俺は今、虫の居所が悪いんだ」
「それなら好都合」
「あ?」
胡乱気な目で返すブレインよりも速く、女の手が動いた。僅かな手の返しで、彼女の手にはいつの間にか刺突武器……スティレットが握られており、それを一切の躊躇なくブレインの顔に突き立てる──
「……おいおい、行儀が悪いじゃねぇか」
──が、それはブレインの返しの刀で受け止められた。
達人同士でなければ見切ることもできぬ、刹那の間の殺し合い。きりきりと拮抗する互いの凶器が、殺気を纏って陽炎の様に揺らめいた。
「行儀の良い
「……ふん、愚問だったな」
粘着質な笑みを浮かべる女に、ブレインは挑戦的に口角を上げる。しかし彼はそうしながら、愛刀から伝わる女の一撃の鋭利さに舌を巻いていた。
(……間違いなく、強者。低く見積もっても俺と同等──いや、俺なんかと同等の存在を『強者』と見做すのはおかしな話か)
自嘲気味に笑む。
ブレインの網膜には今尚、自らを下した真の強者のシルエットが焼きついて離れない。彼は自分程度を強者と呼ぶことが、今は恥ずかしくて仕方がない。
そんなブレインの表情を見て、女は小首を傾げた。
前髪に滴る鮮血が、ぽつりと床に落ちていく。
「こんな素敵なお姉さんを前にしてさぁ、考え事?」
「……くだらないと思ってるだけだ。お前も相当ならしてきたらしいが、俺達どっちが強ぇかなんて力比べをしたところで、現実を見ちまったら虚しいだけだぞ」
「あぁ?」
「上には上がいる。俺ら程度なんてな、所詮は井の中の蛙だったのさ。あのガゼフ・ストロノーフだってその枠を超えちゃいない」
「お前……」
「おい、アダマンタイト級冒険者『漆黒の美姫』……モモンを知ってるか?」
ブレインは溜息を零す様にその名を口にした。
彼の武技……『神閃』と『領域』を併せた奥義とも言える、秘剣『虎落笛』を鬱陶しそうに手で払いのけたあの化け物の姿を思い浮かべながら。
当時の自分を思い出しただけで、ブレインは滑稽に思う。
自分を強者だと思い込んでいた鼠が、意気揚々とドラゴンに噛みついていったようなものだ。あの時、彼の自尊心や強さへの自負は粉微塵に打ち砕かれた。
本物の高みを知った以上、もうブレインには気力が湧くことはなくなった。ガゼフ・ストロノーフを超えるという目標でさえ、陳腐に感じてしまって仕方がない。
本物の強者の存在を知らない、目の前の憐れな女を諭そうとして──
「──う、ぼえええええええええええ!!!!」
「うわぁ!?」
──女は吐瀉した。
突然の奇行。
胃の中の全てを引っ繰り返した量の吐瀉物が、床にぶちまけられた。ブレインは悲鳴を上げて飛びのくと、女の突然のそれに目を白黒させる。
「きったねぇ……お、おいお前、大丈夫か?」
「う、お、げええええええ……」
ぼたりと、またひと塊の液体を口から吐き出した。
女はえずきながら、膝を折って吐き気に喘いでいる。
(なんなんだ、こいつは……)
どうしたものかとブレインが判断にあぐねていると、部屋の扉がぎしりと悲鳴を上げて開いた。二人目の訪問者だ。
「アングラウス──クレマンティーヌもここにいたか。酷い有様だな」
げぇげぇと胃液を吐き続ける女──クレマンティーヌを見下げながら、ゼロが部屋へと入ってきた。墨が入った巌の様な顔を分かりやすく顰めている。
部屋にはアルコール臭に加え、クレマンティーヌが吐き出した吐瀉物のすえた臭いも充満し始めている。ゼロはずんずんと窓に歩み寄るや大きく開け放ち、ブレインに向き直った。
「元気そうだなアングラウス」
「元気だったんだがな。お前が寄越したこのイカレ女の所為で最悪な気分だ」
「勘違いするな。クレマンティーヌがお前を訪ねた理由に『六腕』も『八本指』も関わっちゃいない。お前に興味があっただけだろう。この破綻者の制御は俺達も持て余しているからな」
「狂犬だと分かっているなら放し飼いにするな」
「そうしたいのはやまやまだが、残念ながら俺達はこいつを釣れる餌は持っていても、檻の持ち合わせはない。殺されない様にだけ気をつけるんだな」
何だそりゃ、とブレインは言いたくなるが、瞬時に薬物中毒と黒粉の点と点が結びついた。
「それはそうと、アングラウス。こいつの前でモモンの話でもしたか?」
「あ? なんで知ってるんだ」
「こいつもお前と同様にモモンに敗北して豚箱にぶちこまれていた身分だ。何があったかは知る由もないが、奴の名はこいつにとっちゃトラウマそのものらしい。次はクレマンティーヌの前で奴の名を出さぬことだな。今回は『当たり』を引いたようだが、我を忘れて暴れる可能性もある」
クレマンティーヌはゼロの足元で、蚊が鳴くような喘鳴を繰り返している。意識は殆どなさそうだ。ストレス反応の着火点次第では、次もこうなるかは分からない。王都中の人間を殺し尽くすまで狂い続ける可能性すらある。
「アングラウス、モモンはそれほどの強者か。このクレマンティーヌをここまで精神的に追い詰めるほどの戦士なのか」
「……強者なんてものじゃないぜ。御伽噺に出てくる様な英雄達を束ねてもあれに勝つのは無理だ。断言できる」
「それほどか……」
毛のない頭を撫でながら、ゼロは渋い顔をした。
少し考え込むような彼に、ブレインは質問を投げ掛ける。
「……で? お前は何をしにきたんだゼロさんよ。俺を訪ねにきたんだろう」
「近々お前の手を借りようと思ってな」
「俺はお前に協力するなんて一言も言っちゃいないぞ」
ぶっきらぼうに返すブレインに、ゼロはくつくつと笑う。
「ブレイン・アングラウスという男は、脱獄ばかりか衣食住の世話まで賄ってやってる相手に不義理を働く様な男なのか?」
「助けてくれなんて言ってないさ。お前達が勝手に俺に纏わりついてきただけだろう」
ブレインはそう言い放つと、ケースの中から一本の酒瓶を取った。クレマンティーヌの吐瀉物を跨いで、彼はゼロとすれ違う。俺はお前に飼い慣らされるつもりはないと言わんばかりに。
「……だが、いいぜ。酒代くらいは働いてやる。まあ、俺が手を貸すのはこれっきりだと思え」
「……ふん、物分かりが良くて助かるぜ。仕事の依頼内容は後日また報告させてもらう」
返事はない。
ブレインは何も返さず、その部屋を後にした。
部屋には血と、吐瀉物と、アルコールの臭いが未だに溜まっている。
「……問題児どもが」
ゼロは吐き捨てると、小さく舌を打った。
王国を引っ繰り返す手駒は揃った。
しかしその駒達の操縦性の悪さに、不満は溜まる一方だ。
「まあ、いい。存分に利用させてもらう。『八本指』が……いや、俺が成り上がる為に、お前達には礎になってもらうぞ」
ぎらりと笑むゼロは、獰猛な獣をすら思わせる気迫だ。
王都中が彼が起こす騒乱に巻き込まれるまで、幾ばくの時間も無い。