豪雨に穿たれる王都。
窓を叩く暴風の風切り音は思わず身を竦める程で、落ちる雷の嘶きは家の中に居ても直ぐそばに感じられるほどの存在感だった。
出歩こうなどとは誰も思わない。
平時は活気ある王都の往来は、今は当然ながら人の影など見当たらない。
……しかし驚くことに、街を走るメイドの姿が一つあった。
彼女は上等なメイド服に身を包み、手提げの籠を一つ持って走っていた。ガラス玉の様な雨に打たれ、暴れ狂う風に吹かれ、彼女はどこかを目指してひた走る。
ぐずぐずに雨を吸った服が重いのか、視界が優れないのか、メイドの駆け足はどこか覚束ない。
メイドの表情は悲壮感に満ちていた。想い人の死に目に会うかどうかというような、後ろめたい鬼気を感じさせる。少なくともただ雨宿りの場所を探しているようなものではない、ただごとではない何かを予感させる表情をしている。
メイドは駆ける。
誰もいない、暴風雨に曝されている王都をたった一人で。
息を切らして、雨に体温を奪われ、それでも彼女は走る。
「……あっ!」
メイドの足が、濡れた石畳の上をずるりと滑った。結果として彼女は泥で濁った雨溜まりに、顔から突っ込んでしまう。
手を離れた中身のない籠が、遠くへ転がっていく。メイドは呻くと、鈍重な動きで何とか上体を起こした。
頬と両の掌の皮が擦り剥けたようだ。剥けた箇所からは、鮮やかな血がじんわりと滲み出している。
メイドは痛みに顔を顰めながらも、よたよたと籠を取りに行く。唇を噛み締めて、痛みと寒さに彼女は耐えていた。
籠を拾ったメイドは、再び走り出した。
雨の勢いは、一層強くなるばかりであった。
モモンガは窓の外を睨んだ。
この嵐の中、ツアレが一人で飛び出したとなると命の危険すらある。
「どうして……」
唇を噛みながら、モモンガは窓を閉じた。その際、雨粒が彼の体をいとも簡単にずぶ濡れにしたのだが、それほどの風と降雨量ということだ。
ツアレが何を思ってこの屋敷を飛び出したのかはモモンガには分からない。しかし今彼が為すべきことは、ツアレを捜索・保護することだろう。何かあってからでは遅い。
モモンガは滴る雨水を意にも介さず、アイテムボックスから適当なスクロールを数本取り出して、それらをテーブルの上に転がした。
ぷにっと萌え考案の誰でも楽々PK術……の、探知妨害を考慮しない超簡易版だ。いくつかの魔法を組み合わせることで、ツアレの所在を鮮明に掴むことができる。
「無事でいてくれよ」
祈るように呟いて、卓上に転がるスクロールの一つを宙に放る。魔法発動と引き換えに、それらは空中で燃え尽きた。そして、それの繰り返しだ。
「ん……」
次第に見えてくる。
脳内に直接映像が流れ込んでくる感覚だ。
モモンガに今見えているのは、王都の本通りから少しそれた脇道だ。解像度が次第に上がっていき、映像は明瞭になりはじめていく。
そして、ツアレの姿が確認できた。
モモンガは彼女が無事なことにホッと胸を撫でおろした。全身ずぶ濡れなのは目も当てられないし、体のあちこちに擦り傷を作っていることも気にかかるが、それでも彼女は生きている。
ツアレは走っていた。
壁に細身をぶつけながら、必死に。その表情はどこか鬼気迫るものがある。彼女は時折振り返ると、恐怖の感情を露わにしていた。
何だ、とモモンガが映像を引きで見てみると、強面の男がツアレに差し迫っているのが見えた。剥き身の肌には刺青が彫られ、顔には傷を縫い合わせた跡がある。ひと目で堅気ではないと分かる風貌だ。家屋内から一人でいるツアレを見て、しめしめとターゲットにしたのだろう。通り魔か、人攫いか、いずれにせよこの男にツアレが捕まれば、どうなるかなどは想像に難くない。
ぞわ、とモモンガが総毛立つ。
脳から、一切の思考が立ち消えた瞬間だった。何よりも早く、体が動いていた。彼は装備を整える間も無く、部屋着のまま気づけば無詠唱化した転移魔法を行使していた。
目の前の景色が切り替わると、そこは目を開けているのも躊躇うほどの嵐。肌を冷たい雨粒が容赦なく叩き、鼓膜を揺する風音は低く太い。
前方には悪漢。
背後にはツアレの気配。
突如現れたモモンガに、男は面食らった様に踏ん詰まった。
両者の間に転移したモモンガは、歯を食い縛って一歩踏み込む。雨水を吸ったルームシューズから、ぐじゅりと水気の多い音が立ち上ぼった。
「うちのメイドに……!」
ひゅ、と小気味良い風切り音が発生する。
鞭を思わせるそれは、地から離されたモモンガの右足から奏でられたものだった。
「何してくれとんじゃあああああ!!!」
雨粒を裂くハイキック。
綺麗な半月を描いたそれは、吸い込まれるように男の顔面に突き刺さった。
卵の殻を潰したような、そして水を吸った紙を握ったような音が、炸裂する。
モモンガの怒りと
「ツアレ!」
モモンガが振り返ると、目を丸くしたツアレが尻餅をついていた。男に迫られていた緊張と、主人に窮地を助けられた緩和が入り混じった表情だ。早鐘を打つ心臓を抑え、彼女は吐息を震わせて主人を見上げていた。
そんなツアレにずんずんとにじり寄ったモモンガは、彼女の手を強引に引っ張って抱きしめる。冷えた体温と、ぐずぐずに水分を吸ったメイド服に顔を顰めて、彼は息継ぐ間もなく『
……瞬間、切り替わる景色。
先程まであった鼓膜を揺する雨音や風切り音は無くなった。暖炉から薪が爆ぜる音が時折聞こえ、暖かな空気がずぶ濡れの二人の体を包んでいく。
屋敷に、帰ってこれた。
「……何をやっているんですか、あなたは」
静かな声が、ぽつりと部屋の中へ溶けていく。
怒りや安堵が入り混じった、複雑な声だった。それでも自分に心を砕いてくれた言葉だと理解できるツアレは、涙をはらりと流した。頬を伝うそれは、擦り向けた傷口に滲む血と入り混じって、淡い紅色になって床にぽつりと落ちていく。
「……申し訳、ありません」
「こんな大嵐の日に勝手に飛び出して、襲われそうになって……取り返しのつかないことになっていたかもしれないんですよ」
「……ごめんなさい」
素直な謝罪の言葉は、叱られた子供を思わせるものだった。俯くツアレの両頬に手を添え、モモンガは強引に視線を交わらせると、眉根を顰めた。ツアレの擦り傷が痛々しい。
「どうしてこんなことを……? 怪我までして……私が悪魔だと知ったからですか? そんなに怖かったでしょうか」
ツアレはぶんぶんと顔を横へ振った。滅相もないと言わんばかりに。
「ほら、モモン様……」
「え?」
ツアレは持っていた籠を、胸の前で小さく掲げて見せる。中には、いっぱいの果実が入っていた。
「これって……」
それはモモンガが気に入ってよく買っていた果実だった。王国の名産品で、彼が好んでいたのをツアレは覚えていたのだろう。
「もしかして、買ってきたんですか? この大雨の中……」
モモンガの問いに、ツアレはこくりと頷いた。
「えへへ……私……一人でお使いが、できました。無理を言って店を開けてもらって、お店の方は……男性の方で、怖い人だったんですけど……」
ぽつり、ぽつりと、ツアレは涙ながらに言葉を紡いでいく。声は震えていて、たどたどしく、未だに緊張の余波があるのが伝わった。
この嵐の中。
硬貨をポケットに突っ込んで、籠を提げて、あのどこにも行けなかったツアレがたった一人でお使いに走った。並々ならない覚悟で飛び出したはずだ。それはモモンガにも容易に想像がつく。
何故そんなことをしたのか。
……ツアレは証明したかったのだ。自らの足で、嵐にもトラウマにも立ち向かっていけるのだと。記憶を奪う必要などないと、モモンガに結果で示したかったのだ。
「ツアレさん……」
「えへへ……わ、私……私、がんばりました……」
ツアレは疲れ切ったような微笑みを浮かべている。彼女は、震える手でモモンガの手を握った。その手の温もりを、確かめるように。
「モモン様は、とてもお優しい方です……私の記憶を消そうとされたのは、きっと私が自立できるようにとお考えになったからでしょう……? 悪魔だと打ち明けたのは、私に未練を残さない様にと思ってくれたからなのでしょう……?」
震える体。震える声。
ツアレは言葉を選びながら、懸命に自分の気持ちをモモンガへ伝えようとしている。あまりにも真っすぐで純粋な言葉達に、モモンガは目を逸らしてしまいそうになってしまった。
「モモン様が御伽噺に出てくるようなとてもわるい悪魔だと仰られるのであれば、私は魂を取られてもいいんです……モモン様に殺されるなら、死んだって構いません。心の傷も、消えなくたっていいんです」
はらりはらりと涙が落ちていく。
ツアレは大好きな主人の目を真っすぐに捉えて離さない。
「だから……だから、どうか私の大好きなモモン様の記憶だけは、消さないでください……! どうか、モモン様が大好きな私を殺さないでください……!伏して……伏してお願いします……!」
膝を折り、縋る様に嘆願するツアレはボロボロと涙を流した。握られた手からは、震えが伝わってくる。
モモンガは胸にじくりとした痛みを覚えて、ようやく全てを理解した。自分が如何に愚かなことをしようとしていたのかということを。
「ツアレさん……」
そんなツアレに、モモンガも膝を折る。
優しく抱きしめて、心からの言葉を吐露した。
「ありがとう……そして、ごめんなさい」
感謝と謝罪。
自分を好きでいてくれてることへの感謝。そしてそんな相手の記憶を軽率に消そうとしていた自分を許してほしいという謝罪。
これは、自己肯定感の低いモモンガだからこそ招いたすれ違いだった。『アインズ・ウール・ゴウン』のギルド長でもない自分の価値を、彼は見い出せないでいた。自分を慕ってくれる王国の人間達は、鈴木悟ではなく肉体のスペックが見せた虚像を好いてくれているのだと、ずっと後ろめたい気持ちを抱いていたのだ。
その気持ちの全てを拭えたわけではない。
しかし今こうして自分に好意を曝け出している相手にくらい、目を逸らさずに向き合っていく必要はあるのだと、彼は胸の痛みと共に自覚するのだ。
「うぇ、うう、うえええええ……ん……!!!」
とうとう涙腺が瓦解したツアレを、モモンガはきつく抱きしめる。
雨音と薪が爆ぜる音が、温かく二人の身を包んでいた。
ツアレとの絆レベルが上がって四章終了です。
次章ようやく八本指が動きます。
ちなみにモモベドさんとツアレはずぶ濡れなのでこの後流れで二人で仲良く(?)お風呂に入りました。結果は鈴木悟です。