自由への長い旅
1989年の東ベルリンで、冷え込み始めた11月の夜の街を、ひとりの若い女の物理学者が、いつものようにサウナに入った帰り途、火照った身体が初冬の大気のなかで落ち着いてゆく感覚を楽しみながら自分のアパートに向かって歩いていくところだった。 通りは、いつもの静けさと打って変わってざわめいていて、群衆が詰めかけて、口々に、なにごとか叫んでいる。 なんだろう?と訝りながら、近付いてみると、たいへんな数の、老若男女の大集団が、少しずつ、押しあいながら、もみあいながら、検問所へ向かって動いている。 やがて、だんだん圧力を増した水のちからでダムが決壊するように、どっと流れ出したひとびとの群についていった。 「気が付くと、わたしは西ベルリンの明るい通りに立っていました」 と、後の統一ドイツ首相、アンゲラ·メルケルは述べている。 周りには抱き合って歓声をあげている無数のひとびとがいて、夜空に拳を突き上げて、意味をなさない喜びの叫びをあげている若者達がいて、自然と足がステップを踏み出して踊り始めたひとたちがいる。 若いメルケルは、ひとりで、夜空を見上げて、なんだか茫然としていたが、 そのうちに、涙があふれてきて、周りの情景が、なにも見えなくなっていったそうでした。 生まれてからずっと、シュタージの影が至るところにある生活だった。 10分以上の電話での会話は、ほぼ自動的に盗聴される。 突然、隣人がいなくなる。 現在のシンガポール社会や、少しふざけていえば日本語ネット社会に似て、近所の数軒にひとりは、パートタイムの密告者を務めていて、ありとあらゆる些細な発言が、そのまま命取りになる。 子供のときから、極めて高い知能に恵まれていたメルケルは、最もロシア·東ドイツ共産主義に干渉される可能性が小さい職業に自分を導いてくれるはずの物理学を修めて、念には念をいれて、防御を重ねるためにロシア語を習得して、コンクールでチャンピオンになる。 後年「わたしは、当時、すべての情熱をあきらめた、からっぽの人間でした」と述べているとおり、一方で、メルケルにとっては、折角の研究も、見せかけの最低限の社交性も、ただの「自分という最愛の友だち」を社会から守り通すための鎧でしかなくて、わずかに防備を解いて、自分自身に帰っていけるのは、東ドイツの森林を自転車で駆け抜ける休日のひとときだけだった。 ベルリンの壁は、なんだかこうやって書いていてもバカみたいで、当たり前だが、ひとりで勝手に壊れたわけではありません。 シュタージの監視と、東ドイツ共産党の教条主義による支配に対するドイツ人たちの長い、血でまみれた、抵抗と抗議の行動の結果として、まるで「自由」そのものの圧力で決壊するように、初めは検問所の周辺から、やがては全面的に東西市民たちの手によって破壊された。 象徴的なことに、市民が求めた「自由」は、具体的には「旅をする自由」だった。 周囲の東欧諸国が、全体主義と親和性が高すぎる共産主義に見切りをつけて、次第に自由化に向かって進んでいくなかで、オーストリアへの脱出通過国になっていたハンガリーの国境が閉鎖され、ポーランド国境が閉じて、 ついに、ゆいいつ開いていたチェコスロバキアへの旅行も禁止されることが決まって、東ドイツ人の不満は爆発する。 あれほど温和しく従順だった東ドイツ人が、この年の秋のライプツィヒでは、 9月に8000人 10月2日には15000人 10月9日7万人 10月16日15万人 10月23日には30万人 と、あっというまに通りに出る人の数が膨れあがって、政府はほとんど社会に対するコントロールを失ってしまう。 ホーネッカーに泣きつかれたゴルバチョフは、東ドイツ人共産党幹部を集めて「遅れてくる人間は人生に罰せられる」と述べて、「頭が古い」東ドイツ政治家たちへの軽蔑を隠そうともせず、なんだかびっくりしてしまうが、舌打ちまでしてみせた。 背景には、東ドイツ政府が、幹部たちに対してさえひた隠しに隠していた崩壊寸前の東ドイツ経済があったでしょう。 経済/財政政策上、失敗に失敗を繰り返したあげく、失敗を成功といいくるめて、つみあがった国の借金は、到底、返済の見通しを立てられるような金額ではなくなっていて、強権政治もなにも、そもそも国家の経営が困難になっていて、政府の「経済政策」そのものが、いかにして見かけの経済を少しはまともに見せるか、内部に対してさえ統計のインデクスを操作して、絶望的な病状を、回復可能であるかのように粉飾すること以外には、なにも出来なくなっていた。 そのあとに起きたことは、歴史的に有名で、よく知られた顛末で、シャボフスキーが旅行許可·出国規制緩和政策への変更について、マヌケとしか言いようがない記者会見を行った席で、イタリア国営通信ANSAのリカルド·エールマン特派員が、ただ官僚によって用意された資料を読み上げるだけの会見発表に馴れていたシャボフスキーが会見の目的であったはずの旅行許可の具体的変更点について触れるのを失念していたことを衝いて、 許可の変更は、いつからなのか、具体的にはどういう形で行われるのか、と質問すると、渡された紙に書かれていなかったのでしょう、 「よく判らないが、たったいまから遅滞なく発効する」と応えてしまう。 この回答の重要性に気付いて驚愕したアメリカNBCのトム·ブロコウの「西ベルリンに東ドイツ市民が行けるようになるということですか?」と述べた質問に答えて、慌てて役人が作成した文書に眼をおとしたシャボフスキーは、文脈をつかめないまま、そこに書いてあった 「東ドイツ人は、ベルリンの壁を含む、あらゆる国境通過地点から出国が認められる」という部分を読み上げてしまう。 あれほど頑なに弾圧してきた個人の外国旅行を、ほぼ完全に自由な形で認めてしまった。 会見を、日常的に視聴されていたフランステレビ局のニュースで知った東ドイツ人たちは、三々五々、ベルリンの検問所に詰めかける。 アンゲラ·メルケルが後々まで「夢のなかの出来事のようだった」と述べた 西ベルリンへの「徒歩旅行」は、長い闘争のはてにしては、硬直した官僚主義でボケた政府の、マヌケという以外には表現のしようもない失敗で、あっけなく実現した、このベルリンの壁の崩壊の第一日目だったのでした。 このときメルケルたちが手に入れた自由が、いかに東ドイツ人たちにとってかけがえのないものであったかは、おもしろい形で見ることが出来ます。… Read More ›