2021.3.25記
結構重大な表記ミスをしていたので修正しました!誤解を生む表現になってしまってごめんなさい。詳細は本文中にて。

本記事は2020年11月に鹿児島に旅行した際にレポートしたものに、2021年4月に再度訪れた内容をふまえて再編集しています


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先日、鹿児島にゴールデンカムイ聖地巡りに行ってきました!

鹿児島の聖地と言えば、樺太編の途中で描かれた鯉登少尉の14歳の頃の過去回ですね。
鹿児島は北海道と違ってゴールデンカムイの聖地としての観光地は多くないので、個人的シュミ全開で、幕末~明治維新・西南戦争辺りの史跡を巡ったり、桜島に渡って大自然のエネルギーを浴びたり、鹿児島のうまかもんをたらふく食べたりしたんですけど、今回は

鹿児島-1→リアル聖地レポ
鹿児島-2→妄想レポ(鯉登さんが暮らしていた頃の鹿児島に想いを馳せるの巻)&食レポ

の2本立てでお伝えして参りたいと思います。

特に、鯉登さんが三輪車でバブバブしていた学校のモデルが「私学校跡」だとわたしも思っていて、一般にもそういう説が主流じゃないかと思うのですけど、 実 は 違 っ た ということに現地に行って初めて気付いた…しかも帰りの新幹線で…というステキな事件については、詳述せねばなるまい…と思っています。

お付き合いいただけましたら幸いです!

↓合わせてコチラも


↓半年後に仙厳園コラボで再訪した際の追加記事





よろしければ鹿児島の観光マップを見ながら読んでいただけると分かりやすいかと思います。

ちなみに現地でめちゃくちゃ活用したマップは↓の一番左上の「鹿児島市観光ガイドマップ」。


裏面が全面マップになって地図のツギハギがないので見やすいのと、史跡・カゴシマシティビュー(観光用の巡回バス)や市電の経路なども描かれていて分かりやすいです!PDFでWEB上でも見られるので、参照なさってください。
こちらでパンフレット送付を5種×1冊ずつほどお願いしたところ、びっくりするほど色んな種類を送っていただき、予定を組むのにも現地で見るのにもとても助かりました…その節はお世話になりました



鹿児島の金カム聖地は大きく分けると、

①鯉登少年14歳が三輪車を乗り回していた学校*→私学校跡
②鶴見さんと出会った道端→西南戦争の銃弾跡が残る石垣
③西郷さんのお墓→南洲墓地

となります。
先ほど申し上げた通り、ゲンミツには①は私学校跡ではないのですけど、理由は後述するとして、「会いに行ける聖地」としては私学校跡に行かれるのがいいと思います!

【追記】
*当初①を「鯉登少年14歳が通っていた海城学校」と表記していましたが、作中で描かれている学校が海城学校ではない可能性が高いため、表記を改めました(理由は後述)。誤解を生む表現となり申し訳ありません


①私学校跡

作中では…
20巻197話で鯉登少年(14)がド ディオン ブートンでバブバブしていた校門(によく似た史跡)


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「私学校」自体は明治維新で明治政府の要人になられた西郷隆盛さんが、政変に敗れて鹿児島に戻った際、後進の育成のために作った学校。西南戦争を起こしたきっかけがここの生徒さんでした。

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校門の中から見た景色。鯉登少年(14)がバブバブしながら駆け抜けた時に見えた景色がこんな感じかも…?


【追記】
この学校が鯉登少年14歳が現役で通っていた海城学校ではないとした理由について。
当時の学制や海城学校のことを深く考えずに結び付けてしまったのですが、件の学校には女の子がいるし、年も鯉登少年より若く小学生くらいに見えることから、作中で補足されている「海軍兵学校に進む海軍予備校」とは異なるのでは、という結論です。

鯉登少年14歳当時(明治33~34年)の学校制度は義務教育の尋常小学校4年間、以降義務教育ではない高等小学校が2~4年だそうで、海城学校は恐らく高等小学校より上の教育機関になると思われ、また海軍予備校という性質上女子は通えなかったのではと思います。

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↑参考資料:明治村 三重県尋常師範学校・蔵持小学校の展示より

とすると鯉登少年14歳が三輪車でバブバブしてた学校は、鯉登家の近所(ド ディオン ブートンに乗れるのである程度遠距離である可能性もありますが)の尋常小学校と思われ、行動面から見ても勝手知ったる自分の母校と考えるのがしっくりくるのかな、と思います

ここからは余談なのですが、原作を読んだイメージで海城学校・海軍予備校という名称を一般名詞のように思っていたのですが(陸軍幼年学校みたいな、各地にいくつかある的な)、調べると東京にある特定の学校のことを指すみたいなんですよね。海軍予備校という特定の学校を改称して海城学校とした、みたいな経緯で。

ということは鯉登さんも東京の学校に通っていて鶴見さんが来た時は里帰り中だった…?とかも一時期考えたのですが、だとしたらファンブックの質問箱のQ55の時に「東京の学校(海城学校)に通っていたので地元以外ではそれなりに標準語でした」みたいな回答になるかな~と思うので、そこら辺はやはり、海軍士官になることを目的とした教育を受けられる地元鹿児島の学校に通っていたと捉えればいいかなと思っています。あくまでわたしの推測ですが

以上、追記終わりです(長くなってすみません)


②西南戦争の銃弾跡が残る石垣

作中では…
同20巻197話で鯉登少年(14)が鶴見さんに出会った路上の背景


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「西南戦争の銃弾跡」は、西南戦争の際、鹿児島城(鶴丸城)内に作られていた私学校に撃ち込まれた銃弾の跡が残る石垣で、当時の戦いの激しさを物語る史跡です。私学校の門から続く石垣なので、セットでご覧いただけます。交差点を挟んで復元された鶴丸城の御楼門があり、戦国好きも血が沸きますね…!(思った以上に島津家の家臣感があるのでコチラもおススメです…)


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鶴見さんを跳ね飛ばした曲がり角

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顔真っ黒の鶴見さんが追いかけてくるよぅ!



★原作20巻と地図を見ながらイメージしてください…

母校で三輪車でバブバブした鯉登少年(14)が…
校門を出て右に曲がり…
西南戦争の銃弾跡が残る石垣を右手に爆走していると…
角から鶴見さんが現れ…
轢き逃げする…

ハイ、この位置関係です!

鶴見さんが来た(と思われる)方向には、西南戦争で薩軍本陣が置かれた城山、決戦直前の5日間西郷さんや幹部が身を潜めていた西郷洞窟、西郷さんの終焉の地などの史跡があるので、鶴見さんもそちらを見て回っていたのかな~なんて想いを馳せたりも出来る…そんなリアリティのある聖地なのです!


そんな感じの動画をよろしければ↓






③南洲墓地



作中では…同20巻197-198話で鯉登少年(14)と鶴見さんがお参りに行った西郷さんのお墓
日清戦争で亡くなった鯉登さんの兄 平之丞さんのお墓もある

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「南洲墓地」は、西南戦争で九州各地の戦場で亡くなった薩軍の方々の遺骨を戦後に集めて、一堂にお祀りした墓地です。なので日清戦争で亡くなった兄さあのお墓があるのは色んな意味で創作ですね。

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隣にある西郷南洲顕彰館では、西郷さんの生い立ちや明治維新~西南戦争の展示が見られます。


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「登い(のんばい)は遅かです」と言われてたのは恐らく顕彰館側の坂道

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↑あいが西郷どんのお墓ですのアングル

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↑鹿児島は何が美味しいんだいのアングル
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↑2人が座って月寒あんぱん食べてたアングル
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↑(ほとんど変わらないけど)ひどく酔うようにないもしたのアングル
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↑2人の座ってたところを月寒あんぱんで表現


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ちゃんと半分に割って食べもした

2020年11月に行った時には雨こそ降らないものの霞がかかって桜島も薄ぼんやりだったのですが…
2021年4月に無事にリベンジを果たすことが出来ました!!

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こんなに!
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こんなに!!
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こんなにキレイに見えるんだ!!!


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↑南洲墓地の案内板に載ってる右下の鹿児島市街と桜島の写真、当時のものとして有名なんでしょうけど、197話の回想シーンの入りにある鹿児島遠景の元ですね。船の位置なども参考にされてる模様。




★再び原作20巻と地図を見ながらイメージしてください…


石垣の前で鶴見さんにビンタされた鯉登少年(14)は…
西郷さんのお墓に行きたい鶴見さん(視線要チェック)を案内して…
来た道を戻る感じで進み三輪車に鶴見さんを乗せて南洲墓地へ向かう…
「登い(のんばい)は遅かです」…
そしてたどり着いた墓地で…
景色がいいから月寒あんぱんを一緒に食べるよ~…

そんな感じの動画↓





現代の道で、比較的早歩きなわたしは徒歩15~20分くらいでした。後半は坂or急な階段なので歩きが苦手な方は「カゴシマシティビュー」という観光地巡り用のバスに乗るのがいいと思います。銃弾の石垣の近くから南洲墓地まで1本で行けます。



鹿児島金カム聖地の良さは、道のり含めてたどれるところですね!北海道の聖地はそっくりそのままな建物がある〜!って感じだったけど、鹿児島は地域として見て回れて楽しめますし、この道を鯉登さんも通ったのかな~とか考えるとどこでも聖地になっちゃいますwそんな感じの妄想レポは別記事をご用意するとして…




私学校跡は実はモデルではなかった問題について…

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結論としては、上の写真の鹿児島県立高等女学校(明治35年創立、同43年に鹿児島県立第一高等女学校と改称)という学校の校門及び校舎で、所在地も私学校とは全くの別物です。その頃の所在地は鹿児島市加治屋町で、昭和24年に他の学校と合併し鹿児島県鶴丸高等学校と改称、更に同39年に鹿児島市薬師町に移転…という感じ。他方元々校舎のあった加治屋町跡地には鹿児島県立鹿児島中央高等学校が新校舎で創設され、これはこれで今も残っています。鯉登さんが通ったのとほぼ同時期(ゲンミツには数年遅い)に鹿児島に実在した学校ではあるのですが、校舎は建て替えられ、「会いに行ける聖地」としては残っておりません。

その点、私学校跡は周辺聖地の位置関係も含めて楽しめるので、聖地として大変優秀是非コチラを訪れてみてください!
あるいは、まだ間に合うご年齢の方は鹿児島県鶴丸高等学校鹿児島県立鹿児島中央高等学校に通うのもいいかもしれませんw(ヤンジャンを読んでいい世代が高校受験前なのか?という問題はありますが…)

ちなみに、当初学校のあった加治屋町は西郷隆盛・従道(明治村にある函館の鯉登家の本来の持ち主)、大久保利通、東郷平八郎等々の幕末~日露戦争の歴史上の偉人を数多輩出した土地なので、そういう意味ではご縁がある…のかな?


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2021年4月の仙厳園コラボにて鹿児島に訪れた際には、コチラの鹿児島県立鹿児島中央高等学校に行ってきましたwフツーに当たり前にフツーの県立高校なのでご迷惑にならないように気を付けて…ただ加治屋町という土地柄もあって、学校の周りをを1周するだけで何か所も「〇〇生誕の地」とか名所的なものがあるので、観光の一環で訪れてもいいとは思います。

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正門には鹿児島県立第一高等女学校だったことを示す記念碑が立ってました。明治ではないものの、昭和に建てられた当時の校舎なので(わたしが行った時は一部工事の幕がかかってましたが)レトロ建築としてもステキな学校でした~!

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あとびっくりしたのが、生徒さんがみんな校門を出るときに学校に向かって一礼して帰ってゆかれるの…!加治屋町という場所で、先人に敬意を持ってみたいなことなのか、分からないんですけど、きちんとした学校なんだなって思いました…!さすが鯉登さんの母校!(…と言っていいのか分からないけどw)


一応、どうしてモデルでないと気付いたかというお話を致しますと、わたしも、旅行前に鹿児島について色々調べている際に私学校の門構えの写真を見て、「これは…!鯉登さんの学校の門に似ている…!」と思ったのです。柱部分の凸凹が省略されてるとか、違いはあったのですけど、その後のコマで西南戦争の銃弾跡の石垣も描かれているので、位置関係的にも私学校跡で間違いないだろうと。調べてみると私学校跡を聖地としてレポートされてる記事もいくつか出てきたので、大丈夫かなって。

でも、「じゃあこの校舎は何なんだ…?特に校庭を走り回ってるコマの方の校舎は創作っぽい感じがするんだけど、野田先生は現代でも残ってる建物を上手く取り入れることが多いし、ここだけ創作するのはなんか違和感」って思って、日本に残る古い校舎を探したりしていたんですよね。


とはいえ、私学校跡が校門のモデルであることには間違いないと思っていたので、そのつもりで聖地巡礼してたんですけど、私学校跡の道を挟んだお向かいに「かごしま県民交流センター」があって、その一角に「県政記念館」というレトロな建物があるのです。コチラかつて鹿児島県庁舎本館として建てられた建物の正面玄関と階段部分だそうで、国の登録有形文化財にも指定されているんですけど、わたしは余りの建物のステキさにフラフラと寄って行って、入っても良さそうだから…と中に入ってバシャバシャ写真を撮っていたんです(本当に外観も内装もステキな建物なので皆さん是非お立ち寄りください…!)

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この県政記念館、現在は主にビストロがあるのですが、店舗とは別で鹿児島県政が始まって以降の歴史を紹介した無料の展示室が見られるのです。たまたま入った建物で、たまたま展示を見ていただけなんですけど、明治後期を紹介するパネルを見ていて「ファッ!?」となったのです。あの、探し求めていた校舎っぽい写真があるぞ?!と。

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その場では資料として写真を撮っただけで、じっくり原作と比較して~とかはしなかったので気付かなかったんですけど、帰りの新幹線で見返して、「これ、校舎ってゆうか…校門もその脇の木の板みたいなのもまんまるそのままやん…っっっ!!!てことは私学校モデルちゃうやんwwわたしの聖地巡礼の意味wwww」ってなってしばらく絶望してたんですけど、まあそれはそれ、私学校だと思ってた方が楽しかったのでいいんですw

この写真だと色が薄かったり周りがフェードアウトしてたりで分かりにくいと思うのですが、かなりレアな写真らしく、旧学校名で検索してもほとんど写真が出てこないんです。
唯一出てくるのが戦前に絵葉書として発行された際の写真で、オークションに出品されたようなのですが、そのオークションサイトも既にログが消えているのでリンクも貼れないし、拾い画をここに転載するわけにもいかず…

おそらく鹿児島の郷土資料的な書籍などで見られるのでは?と思いますが、手持ちの情報ではご紹介出来ず申し訳ないです。分かりにくいかもしれないですけど、鯉登さんがバブバブして校門をくぐっていたあの背景、ほぼそのままの写真です。校舎の方のコマはこの写真に写ってる校舎から創作したか、繋がるように他の建物と融合したのではないかと思います。



ここからは完全にわたしの予想ですが…
野田先生が、私学校のことを何も考えず、ただ鯉登さんと同じ時期に鹿児島にあった学校だからとこの写真を背景に使った…という可能性は低いような気がします。前述のとおり、他の聖地との位置関係が素晴らしいですし、私学校でなければ銃弾跡の石垣を背景にする必要がないと思うし、西南戦争という共通項もあります。

多分だけど、私学校の門のことは頭にあって、それとよく似た校門を持つ校舎が当時の写真で残っていたから、ダブらせてモデルとしたんじゃないかな?って思います。

だから!
わたしは!
間違ったところを聖地だと思い込んで!
巡礼してたわけじゃないんだと!

…自分に言い聞かせていますw
ショックはありましたけど、現地に行ったからこそ気付けたことに違いないので(ネットで検索してただけじゃ絶対にたどり着かなかった情報ですね)、無駄じゃないです!鯉登さんの聖地が増えたんだ~と思って、次に鹿児島に行くときは加治屋町の学校にも寄りたいと思いますw←そして行きましたw



以上、リアル聖地レポでした!
長々とお付き合いくださりありがとうございました

次記事の妄想レポ&食レポは、オマケ程度に、軽い気持ちで、ご覧いただけると助かります…w