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降谷零が警察庁を去って七年が経った。 退職の理由も、その後の行方もわからない。一晩のうちに、ふだんから殺風景な程に整頓されていた降谷のデスクから何もかもが消え去り、名簿からは名前が消えた。 例の組織が壊滅し、潜入捜査を終えてすぐのことだった。 上に探りを入れても、降谷の行方に関する情報は得られなかった。 新たな潜入捜査に身を沈めた可能性は低いだろう。 原則として、長い潜入捜査期間のうちに精神にゆがみが生じていないかを精密に検査し、三重生活によって染みついた生活習慣を捨てるための期間が設けられるはずだ。 それに、黒の組織という大規模な国際的犯罪組織に潜っていた時でさえ警察に籍を置き、密かに、しかし誰よりも辣腕をふるって公安の職務をまっとうしていた降谷が籍を抜くとは、一体何事だろうか。 何か兆候がありはしなかったか。 降谷の手足として奔走し、彼の三重生活を間近で見てきた風見裕也は、組織壊滅後、降谷と最後に顔を合わせた夜の記憶を手繰り寄せた。
降谷が黒の組織に潜入していたことを知る者は少ない。 そのため、潜入捜査の終了を知ったのも、降谷に潜入を命じた上層部と、風見のように降谷の手足となって動いていたごく一握りの人間だけだった。ゆえに、長く背負っていた重荷を下ろした彼を公に労うことは許されなかった。 降谷の無事を手放しに喜ぶこともできず、なんとも消化不良な思いでいたところ、風見は降谷本人からの誘いを受けた。 彼と食事を共にすることは特段珍しいことではなかったが、今回ばかりはおのずと気持ちが上擦った。降谷の命を賭した大仕事が終わった直後の食事はやはり特別な意味を持つだろうし、なにより降谷率いる優秀な部下のなかから自分が選ばれたことが誇らしかった。 「店へは私の車でいいですか?」 降谷の愛車は例によってかなりの無茶をさせられたようで、長い修理に出していたはず。 しかし、降谷は風見の申し出を断り、「タクシーで行くぞ。今日は飲むからな」と答えた。 何度か食事を共にした風見でも、降谷が酒を飲むところを見たことがなかった。
降谷が指定した行き先は、和食を取り扱う居酒屋であった。 木造の平屋は決して豪勢とは言えないものの、そのたたずまいには一種の高潔さが滲み出ていた。経年による汚れすら容易には見当たらぬ白塗りの壁に、流麗な字体でしたためられた店名が浮かぶ藍染の暖簾が映える。主張少なな「商い中」という札と、黄みがかった光をもらす提灯が、腹を空かせた客人を物静かに迎え入れている。洗練された店構えに、料理やサービスへの期待を煽られた。 降谷が気負いなく戸を引くと、すぐに「いらっしゃい」という落ち着いた声に迎えられる。 一目見ただけで、この人はきっと丁寧に年を重ねてきたのだろうと思わされるような、品の良い容貌の老齢の女性に導かれ、ふたりは店の一番奥にある個室に通された。 「僕は彼女の目尻の皺のファンなんだ。皺というのは、持ち主の人格を、その辿ってきた歴史のなかにうまく落とし込んだものだ。特に目尻の皺というのは、そのひとの歴史のなかでも一際美しく、尊い思い出と情が集まってできている」 風見にそう耳打ちして、降谷は彼女に恭しく頭を下げた。 論理的な、悪く言えば理屈っぽい言動が目立つ降谷にしては、珍しく情緒的な物言いだ。 その場で思いついたジョークというにはあまりにも深い感慨を含んだ声音で、風見にはかえって本心からの言葉にきこえた。 「珍しいですね、降谷さんがそういった空想的なことを言うなんて」 「僕程のロマンチストもそういないさ」 風見の言葉に、降谷はネクタイを緩めながら少しくたびれた笑みを返した。 女性ならば、この仕草に、表情にさまざまな情を強烈な具合にくすぐられたかもしれない。 何かを得るための手段として用いる計算尽くの優しさよりも、こうした、無意識のうちに出る人たらしの一面が一番怖い。 彼のそばに身を置くうちに風見が学んだことのひとつだ。 風見はいつも以上に恐縮しつつ、降谷の向かいに腰を下ろす。 個室には畳が敷かれていて、降谷は愛着深げにそれを撫でた。少し暗い部屋に柔く落ちる暖色の照明がなんとも心地いい。柱に用いられているヒノキのにおいに、郷愁をくすぐられる。 老婦がふたりの前に、箸とあたたまったおしぼりを、心を込めて置いてゆく。 食卓の準備を整えた彼女が、自身の温厚な性格を象徴するように厚いまぶたを押し上げ、もの問いたげな視線を降谷に寄せると、彼は丁寧な口調でビールをふたつ頼んだ。 「下戸ではないよな?」 「はい、人並みに飲みます」 「良かった。……ここは肉じゃがとか、生姜焼きとか、そういう気取らない家庭料理がうまいんだ」 既に風見の嗜好を把握している降谷は、目前に座る部下に特段の確認をとることもなく、ビールとお通しを持ってきた老婦に慣れた調子で注文した。 老婦はメモを取ることなく降谷の矢継ぎ早の注文を受け、ひとつももらすことなく復唱し、厨房へと戻っていった。 「とりあえず、乾杯」 「……あ」 風見はいくつかの労いの言葉を考えてきていたのだが、浮かれた様子の一切ない降谷がもたらした気負いない乾杯の言葉につられ、なんとも間の抜けた具合にジョッキを掲げた。 ジョッキには乾杯の衝撃でこぼれた泡と、飲み頃を告げる幾筋もの水滴が伝った。喉の渇きを誘うように琥珀色が揺れる。 風見がようやくジョッキに口をつけた時には、降谷は既に一杯飲み干してしまっていた。 「あー、うまい!」 「降谷さんでも、酒を飲むとおやじっぽくなるんですね」 「何を言っているんだ、僕も立派に三十路だよ」 三十路。改めてそうきいても、目前の男は二十代の後半に差しかかった青年にしか見えない。ひとの何倍も苦労しているだろうに、その面差しは老いを感じさせず、ひとを惹きつけてやまない甘さを含んでいる。年はひとつしか変わらないというのにこうも違うものかと、風見は老けて見られがちな自身と目の前の上司を比べて苦笑した。 「晩酌相手が私で良かったのですか。他にも降谷さんと飲み交わしたい奴らは大勢いるはですのに」 「お前が良かったんだよ」 風見としてはかなりの勇気を振り絞った末の問いだったのだが、降谷はこともなげにそう答えた。あまりにもあっけない問答であったので、風見は自身が「なぜ地球は青いの?」というふうな、幼い問いかけをしてしまったかのような心地になる。 お通しはきゅうりともずくの酢の物だった。お通しとしては珍しいものではなかったが、この日だけはその緑がなんとも瑞々しく見えた。絶妙な塩梅で酢がきいていて、舌にさわやかな電流が走る。きゅうりの食感も小気味良い。 ふたりぶんのジョッキとお通しの皿が空になったところで、見計らったように料理が運ばれてきた。 先程の降谷は気に入った料理を無造作に頼んでいるように見えたが、その実深い計算をしていたようで、見事に栄養バランスが整った食卓が完成された。 つやつやとかがやく白米、あさりと菜の花のお吸い物、肉じゃが、だいこんとしいたけの煮物、鰆の塩焼き……。 ふたりぶんにしては多すぎる品数が並んだが、降谷はかなりの健啖家なので、足りないということはあっても食べきれないということはないだろう。 春菊のごまあえや若竹煮といった食卓を控えめに彩る小鉢は季節を感じさせ、季節感とは縁遠い都会の中枢に身を置くふたりに春の風を吹き込んでくれる。 「どうだ」 「うまいです、なんだか、おふくろの味を感じさせるような」 「おふくろの味、か」 風見の言葉を受けて、降谷は顎に手を当てた。思考を巡らせるとき、彼は決まってこのポーズをとる。その姿は名探偵然としていて、事実迷宮入りも危ぶまれるような謎をも涼しい顔で解決してしまうのだから、彼のこの姿を見るといつも、風見は自身がミステリー小説のなかにとり込まれたような気分になる。 「降谷さんの作る料理は、慣れ親しんだおふくろの味というよりは、ちょっと張り切ってやっと手が届くような、上等な味がします」 「食材は余程のことがない限りスーパーで買える手頃なもので揃えているんだけどなあ」 「やはり腕が違うんでしょうね。私は降谷さんが作る料理のおかげで舌が肥えました。以前は値引きされた惣菜や冷凍食品を平気で食べていたのに、この頃は受け付けなくなって」 「嬉しいことを言ってくれる」 酒が入ったせいか、降谷はいつにも増して饒舌で、本格的な夏が来る前に露天風呂に浸かりたいだとか、どこどこの酒がおいしいらしいといったとりとめのない話を絶えず語った。結局のところ、組織壊滅に関する話は一度も出ず、降谷のペースにのまれた風見はいくつも考えてきたはずの労いの言葉をかけ損ねた。 「明日、早朝から会議が入っていたな。もう少ししたら出るか」 「ではタクシーを呼びますね。少し失礼します」 そう告げて、風見は席を離れた。タクシー会社に電話をかけ、車を一台手配する。 この一分にも満たないわずかな間に、降谷は姿を消していた。 老婦に降谷の行方を尋ねると、彼女は温和な声音で歌うように「お連れ様はお会計を済まされて先に出られましたよ」と言った。 明日改めて礼を言おう。そう腹に決めた数時間後、降谷の失踪を知った。
降谷の行方がわからなくなってすぐにポアロを訪ねてみたが、安室は降谷が警察庁を去った前日に辞職したとのことだった。 安室の不在を確認したものの、そのまま帰るのも気が引けた風見は、コーヒーと、彼が考案したという半熟のケーキを注文した。 「安室さんが辞めるってきいた時には、JKのお客さんが減っちゃうかもと思ったんですけど、意外にも引き続き通ってくれているんですよね」 ポアロの看板娘は、相も変わらず人の良さそうな表情でそう話してくれた。 そばで彼女と風見のやりとりをきいていた女子高生が、自然と会話に加わる。 「あむぴがいなくなった時は寂しかったけど、なーんか居心地良いんだよね、ここ。ケーキもおいしいし……あ、ねえ!チケットとれたよ!」 「嘘!お洒落して行かなきゃじゃん、帰りに服買いに行こうよ!」 かつて安室に好意を寄せていたであろう女子高生は、わずか数日のうちに興味の対象を最近話題のアイドルに変えたようだった。 「安室さん、お父様の具合が悪いから帰って来てくれって、急に実家から連絡があったんですって。辞めるってきいたのは本当に辞めちゃう前日だったんで、私も突然だなあって思ったんですけど、安室さん、いつの間にかストックの整理とか一週間分の下ごしらえとかをしてくれてたみたいで……。でも変ですよね、まるでもっと前からここを辞めるのがわかってたみたい」 「梓さーん、食器用洗剤の予備ってどこにありましたっけー?」 奥から彼女を呼ぶ声がした。安室と入れ替わりに採用された新人だろうか。 「あ、はーい!……すみません、失礼しますね」 名を呼ばれて返事をし、再びこちらを振り向いて律儀にそう断った彼女からは、以前から備えていた柔らかさだけじゃなく、店の営業を支え、新人を引っ張っていくにじゅうぶんな頼もしさを感じられた。 安室が考案したケーキは今も変わらず作り続けられ、彼が人知れず行っていた居心地のいい空間づくりも引き継がれている。それにもかかわらず、安室に向けられていたさまざまな感情は綺麗に霧散し、人々の心から彼の足跡は既に消えつつあった。 喫茶は安室がいなくなってもなお、滞りなく、穏やかに営業している。
七年。 風見を取り巻く環境を一変させるにはじゅうぶんな年月だった。 なにより私生活の変化が大きかった。学生時代から交際を続けていた女性と結婚し、ひとりの女の子を授かった。ひとり娘はそれはもうかわいくて、日に日に成長していくその姿から一時も目を離したくないと思えた。 しかしながらそうもいかない。仕事は相も変わらず命を削るような案件が多く、帰宅できない日もざらにある。 その着信があった日は激務の末やっとつかみ取った非番で、まだ自力では歩けない娘を腹に乗せ、小さな鼻を眺めたり、ふわふわとした産毛を慈しんだりして穏やかに過ごしていた。 きっと職場からの呼び出しだ。緊急事態か、できれば日付が越えないうちに帰れる案件であってほしい。 そう願いながら、腹に乗ったままの娘を起こさぬよう慎重に持ち上げて横に寝かせ、液晶に表示された名前をよく確認もせずに電話に出た。 「あ、やっと出た……」 電話口からは同僚のものでも上司のものでもない、甘くハスキーな青年の声がきこえた。一瞬だけスマホを耳から離し、改めて画面に表示された名前を見る。工藤新一。思わず背筋が伸びた。 「降谷さんの居場所が、わかったんですか」 「……このままお答えしても大丈夫ですか?」 探偵は電話を受ける風見の周囲の環境や、盗聴の類を危惧しているようだった。 風見はかつての失態を思い起こしながら、ふたりの会話が周囲にもれる恐れはない旨を口早に伝えた。 「では……。その前に風見さん、ひとつだけ確認してもいいですか?半年前、依頼を受けた時にもお尋ねしたことですが……。あなたはどういうつもりで、彼の居場所を知りたいんですか?」 彼にこの口調で問いかけられると、気分はさながら、練りに練ったトリックを目の前で華麗に紐解かれ、追いつめられる犯人のそれだ。 相手の顔が見えないこの状況においても、あの透徹した目は鮮明に思い出される。 「警察庁に連れ戻すとか、籍は戻さずとも、捜査協力を依頼するとか……ありていに言えば、彼を都合よく利用するつもりなんじゃないかと危惧しているんです」 利用。その言葉をきくと同時に、どうにも可笑しくなってきて、風見は思わずふっと息をもらした。 その気配を敏感に感じ取った探偵は、品定めするように黙り込み、風見の出方をうかがっている。 「あの男を利用するなんて、そんな恐ろしいことができるのは、君か、彼くらいだろう」 そう返すと、通話相手がすっかり警戒をといた様子が電話口からも伝わってきた。 「すみません、試すようなことをして」 「いや、構わない。……なにも小難しいことじゃあないんだ。彼にはただ、一言礼を言いたくて」 「礼?」 「いい居酒屋を教えてもらったお礼だよ」
探偵が告げた場所には、小さな食堂がぽつりとたっていた。 といっても暖簾が出ているわけではなく、一見するとただの民家のように見える古ぼけた平屋である。 店先には、「今日の献立」を知らせる看板が置かれているものの、それこそ探偵にきいておかなければそのまま通り過ぎてしまいそうな、こぢんまりとした食堂だ。 「ぶりの照り焼き、小松菜のおひたし、だし巻きたまご、かぶととうふの味噌汁……」 看板に書かれた文字を声に出して読んでみると、つい先程遅い昼食をとったばかりなのに、不思議と腹が減ってきた。小学校の教師が書くような美しく親しみやすい文字に、沁みるような懐かしさを覚える。 隣には広いグラウンドがあり、こどもたちがサッカーに興じていた。小学生だろうか。 身体の大きな子も小さな子も入り混じり、もみくちゃになりながら溌剌と走りまわっている。年齢も性別も関係なしに同じ遊びに興じることができるのは、この年頃のこどもだけの特権だ。 しばらく彼らを眩しそうに眺めた後、風見は意を決して食堂の戸を引いた。 戸はずいぶんと古ぼけて見えたが、意外にもほんのわずかな力でするりと開いた。定期的に手入れがなされているのであろう。 玄関にはたくさんの小さな靴が綺麗に揃えてあった。玄関とその先は障子で隔ててあって、奥からは賑やかな笑い声がきこえる。 やはり食堂というよりは、大家族の家庭に踏み込んだような気分だ。しかし不思議と寄る辺なさは感じない。 「すみません」 奥に向かって声をかけると、すぐに足音が近づいてきた。障子が引かれ、エプロンを身につけた男が少し窮屈そうに腰をかがめながら現れる。 金髪に褐色の肌、間違いない。 「……降谷さん」 思っていたより切羽詰った声が出てしまった。 風見は口をつぐみ、かつての上司と相対する。 降谷の容姿は共に行動していた頃とそう変わっていないように思えた。目尻に皺が少し増えただけで、鍛え上げられた身体も、何もかもを見通しそうに鋭い眼光も、衰えていないようだった。 彼は一瞬だけ呆けたような顔を見せたものの、まるで近いうちに風見が訪ねてくるのを知っていたかのようにくだけた姿勢のまま黙っている。 そう言えば、この人はいつもこうだった。彼はいつも、常人の一手も二手も先に思考を置いていた。この人が知らないことはないのではないかと、半ば本気で思わされた。聡く、強靭な彼に絶対的な信頼を寄せ、自分の命を、魂を、すべてを預けた。そういう人間が大勢いた。我々のすべてを預けても、彼は揺らぐことなく立ち続けるのだと、本気で信じていた。彼だって我々と同じ、ただの血の通った人間なのに。 「降谷さん、あなたはここで一体なにを―……」 降谷が答える前に、風見の足元にサッカーボールが転がってきた。 風見はそれを拾い上げ、追いかけてきた少年に渡す。 「おじさん、誰?」 少年は素直に受け取ったが、切れ長の目に警戒の色を滲ませて風見を見た。 「ゼロの友だち?」 友だちと呼べる程気の置けない関係ではない。かといって、今や上司でもない。 風見が答えあぐねていると、降谷は何のためらいもなく「そうだよ」と答えた。 「ほら、僕は友だちと少し話をするから、お前はあっちで遊んでてくれ」 降谷の答えをきくと、少年は嬉しそうに目を輝かせ、仲間の元へと駆けて行った。 「入れよ。腹の具合は?」 奥から味噌汁のにおいが漂ってきた。情けなく腹が鳴る。 「減ってます」 降谷は、腕白な少年が新しい悪戯を思いついたような笑みを風見に向けた。 「あと三十分の辛抱だ」
「降谷さん、きいてもいいですか」 「ああ、悪いがそこにある長テーブルをくっつけて、テーブルクロスをかけてくれないか」 降谷は風見の問いかけを鮮やかに受け流し、そう指示した。 風見は指示通りに動きながら降谷の様子をうかがう。 泰然とした構えや気負ったふうでない横顔を見るに、どうやら問いかけを本気で拒んでいるわけではなさそうだ。 「私はなぜあなたが警察を辞めたのか、きかされていません」 「ぐらついた椅子がないか調べてくれ」 「しかし、有無を言わさず辞めさせられた、ということではないと考えています」 「ありがとう。後で直しておくから隅に置いておいてくれ」 「もし不本意ならば、あなた程の能力があればいくらでも上層部に噛みつけたはずです。でもあなたはきっとそれをしなかった」 「箸を並べてくれ。そこの戸棚に入ってる。上から三段目、お前から見て右側の引き出しだ。箸置きも同じところに」 「私はあなたの判断を尊重します」 「……風見」 すっかり食卓の準備が整ったところで、ようやく降谷は風見を振り返った。 「風見はそこに座れ、僕の向かいで、炊飯器の真横。きっとこどもたちがおかわりをよそってくれとねだりにくるぞ」 「……私を疑わないんですか?例えばどこかの誰かがあなたを追っていて、私を向かわせた、とか」 降谷は顎に手を当て、ふむ、と考え込むポーズをとって見せた。 グレーのスーツをまとっていた以前は様になっていたが、エプロンを身につけた姿では献立に悩む主夫にしか見えない。 「僕を恨む人間にはぱっと思いつくだけでも百程心当たりがあるが、風見と僕のつながりを知る人間はそういない……ごく限られた警察関係者くらいか。考えられるのは、警察関係者、それも上層部が、お前の推理によれば“穏便に退職した”人間の元に、何やら良からぬ腹積もりでかつての部下を派遣するという線……。違法な捜査協力の願い出か。断れば風見の地位が危うい、とでも揺すられるのかな?しかし、当の風見は脅されているようには見えないしな。それに、お前は自身の地位と僕を天秤にかける程薄情じゃない……そうだろう?」 降谷は朗々とした調子で推理を披露する。しかし、そこには風見を追いつめるような声音は含まれていない。それに、推理の根拠として最後の最後に情を持ちだしてくるのはまったくもって降谷らしくない。彼はただ、風見の気が済む方向に会話の舵を切っただけだ。まるで癇癪を起した幼いこどものままごとに付き合うように。 「それに、君はまったくの丸腰だろう。お前は何かを隠し持つと、そちら側に重心が微妙に傾く。今はそれがない。僕を警戒する誰かに指示されてここにやって来たにしては不用心が過ぎる。お前はお前の意思で、ここまで来たんだろう」 「……はい」 観念した風見に、降谷は人当たりの良い笑みをこぼした。冷蔵庫から冷水筒を取り出し、いくつものコップに緑茶を注いでいく。にごりと澄んだ部分が混ざり合って、なんとも霊妙に美しい様相を呈している。 その間温めていた鍋が頃合いになったのを確認すると、すぐにコンロの火を止めた。手早く、しかし丁寧に味噌汁をすくい上げ、お椀ひとつひとつに流し込んでいく。 「僕はここで、家族と食事をとる機会に恵まれないこどもたちに、食事を提供している」 隣の部屋からきこえるこどもたちの声が、いっそう耳に染み込んできた。 「未来の日本を担う世代を育てることで、間接的にだが日本を守ることにつながる……まあ単純に、好きなだけ料理を作ってそれを残さず美味しく食べてもらうのが楽しくて仕方がない」 話しながら、あっという間に食卓に料理を並べてしまった降谷は、夕日を背負い、穏やかに風見を見据えた。逆光となり陰った顔は、しかしながら後ろ暗さは感じさせず、ただ溢れんばかりの慈愛を湛えていた。 「……質問は、これだけにします。どうか、答えてくださいませんか」 降谷は風見の言葉のその先を、目で促した。 「後悔は、していませんか」 「……自分の選択に、後悔はしていない」 彼は面はゆそうに微笑んで、そう答えた。
食卓とこども部屋とを仕切る襖がすらりと開いた。 小さな少女が飛び出してきて、今まで読んでいたのであろう絵本を抱えたまま降谷に走り寄る。 「ゼロ、ごはんまだ?」 黒髪を肩のあたりで切りそろえた少女が、降谷のエプロンの裾を引いた。 降谷はその丸い額にはりついた前髪を分けてやりながら、「もうできたよ。外で遊んでいるやつらを呼んできてくれ」と指示した。 少女は、はあい、と柔らかく返事をして、外へと駆けて行った。丸く聡い目をしていた。
降谷が指定した席に座った風見は、案の定、外から帰って来たこどもたちによる質問攻めにあった。 さまざまな声音で誰?だれ?ときかれ、答えようとすればまた質問を重ねられる。 「ゼロの友だちだよ!」 ここに来て最初に顔を合わせた少年が、風見の代わりにそう答えた。 どこか誇らしげに口角を上げる少年の答えをきいて、こどもたちは更に色めきたった。 ゼロの友だち?ゼロとはどこで出会ったの? 同い年?はじめてゼロと会ったのはいつ? ゼロとは何して遊ぶの?サッカー? 質問の嵐はやまない。 「こら、おじさん困るだろ。みんな手は洗ったか?」 ゼロもおじさんでしょ! 風見の横に座る少女がそう言うと、こどもたちは割れんばかりに笑った。 降谷は逃げようと身を捩る少女をつかまえ、その頭をかき混ぜるようにして撫でた。 「じゃあ、手を合わせて、いただきます!」 いただきます! 降谷の言うとおりに手を合わせたこどもたちは、彼に続くようにして快活に声を揃えた。 そうして、思い思いに食事を楽しみ始めた。 「箸はちゃんと持つ!教えてやっただろ」 食事が始まってからも、降谷は正しい箸の持ち方を教えてやったり、味噌汁をこぼしたこどもの世話を焼いたりと忙しく動きまわっている。 こどもたちに接する彼の態度は、安室というには手厳しく、自分の知る上司としての降谷より柔らかい。きっとこれが、降谷零という人間の素に近い姿なのだと思えた。 風見は目前に並べられた料理に目を落とす。 まず、味噌汁のお椀を手に取った。立ち上る湯気が、張り詰めていた心を淡くとかしてくれる。合わせ味噌のかおりに食欲を刺激され、無意識に喉がごくりと鳴った。ひとくち飲むと、胸のあたりに染み込んでいくような心地がして、じわりと身体があたたまった。かぶは口内で柔らかくほぐれ、ほんのりとした甘さを残して溶けていく。 次いで、ふっくらと盛られた白米をいただく。降谷がよそってくれたのだが、漫画から飛び出してきたような見事な大盛りで、風見は食べ切れるものかと危ぶんだが、ひとくち口にしただけで食前の危惧は杞憂と知ることになった。かたすぎず柔らかすぎず、噛むごとに甘みが出る。きっと自分が同じ米を炊いてもここまでうまくはならない。もちろんおかずとの相性も良く、味噌汁と白米だけで延々と食べ進めることが出来そうに思えた。 ぶりの照り焼きはこどもの好みに合わせて少し甘めに煮つけてあった。箸を入れてもぼろぼろと崩れることはなく身が引き締まっていて、食材選びにおける降谷の審美目の鋭さを感じさせる。 「うまいか?」 「うまい!けど肉も食いたい」 「明日の夕食は豚の生姜焼きだからな」 「本当!?」 食事をしながらも既に明日の夕食にまで思いをはせて目を輝かせるこどもたちは、嗜好はあれど嫌いなものはなさそうだ。 魚も野菜もためらうことなく口に運び、しあわせそうに味わっている。 「私がこどもの頃は、トマトが苦手で、鼻をつまんで食べてましたよ」 そう打ち明けると、降谷は眉を下げて「ぜひともこどもの君に会って、トマトがたっぷり入った野菜スープでもごちそうしたいよ」と笑った。 「だし巻きのたまごは、僕がたまに手伝っている小さな牧場からもらったものなんだ。あと、その小松菜も近くの農家で手伝いをしたお礼にもらったものだ……ああ、小松菜はその子たちに切るのを手伝ってもらった。切り方がばらばらなのも、味があっていいだろう」 降谷の言うとおり、小松菜のおひたしは長さも切り口もまちまちで、なんとも言えぬ愛嬌があった。その見た目と降谷のプロ顔負けの味付けとのアンバランスさもまた面白い。 だし巻きたまごは色、形ともに目を見張る程美しい。焦げもなく均一に広がる黄色、愛らしさすら感じさせるまるみ。食卓に並ぶそれらにはひとつも形崩れしたものはなく、どれも完璧な美しさを誇っていた。 こどもたちにも大人気のメニューと見えて、食事の序盤で既に平らげてしまっているこどももいる。期待を抱きつつひとくち噛むと、幸福な食感に満たされると同時にだしが滲み出てきて、自身の期待を大きく飛び越えた喜びに見舞われる。添えられた大根おろしとともに口に運ぶと、また違った味わいに浸ることができ、かつての上司の腕に感服した。 「うまいか、風見」 食事に夢中で髪が皿に入り込んでしまいそうな少女のそれを耳にかけてやりながら、降谷が問う。 以前も何度か降谷が作りすぎた料理を食べたことがあった。技術はその頃からプロの域にあったが、家庭料理というよりは、どこかよそ行きの味わいがあった。しかし、今の降谷が作る料理は、血の通ったあたたかさのようなもので満ちている。 「おいしいです。おふくろの味に近い気がします」 風見がそう答えると、降谷は呆気にとられたように瞬きした後、蕩けるように相好を崩した。見ているとどきりとする程、父性を感じる微笑だった。 「僕の思惑通りだ」 降谷は父性を滲ませた目尻はそのままに、かつての探り屋を思わせるあくどさを口角に宿らせた。 風見にはその言葉の意味がわからなかったが、降谷の機嫌がすこぶるいいらしいことだけは感じ取れた。それでじゅうぶんだ。彼の幸福の片りんに触れることなど、一生かかっても不可能なのだと思っていた風見にとって、大きすぎる収穫だった。 「おじさん、ごはんよそって」 「おれも!大盛りね」 「あ、ああ……」 何度よそってやっても、際限なく茶碗を持った手が伸ばされる。 茶碗を受け取り、渡す作業を繰り返していると、くつくつと笑いをこらえている降谷が目に入った。 自分の選択に後悔はない。彼の言葉がよみがえる。 降谷が望む幸福の形がどう在るのかはわからない。けれど、こんなふうに少しでも長く、打算も偽りもない微笑みで目尻に皺を刻む日々が続けばいいと思う。
「ゼロは、わたしたちが帰った後、寂しくないの?」 食卓の活気が少し落ち着き、ようやく降谷も腰を落ち着けて食事に手をつけ始めた頃、彼の横に座る少女が、遠慮がちにそう尋ねた。 先程、降谷に言われて外に声をかけに行った少女だ。 きけば、この少女はいつも降谷の隣に座るという。この食堂にやってくるこどものなかで一番幼い彼女に、特等席を譲る。こどもたちの間で、暗黙の了解があるのだろう。そのことに異議を唱えたそうにしているこどもは、風見が見る限りいないように思えた。年齢も家庭環境も様々ではあるが、ここで食事をとるこどもたちはみな、情緒が安定しているように見える。譲り合い、尊重し合って生きている。 「どうして?」 降谷は少女の頭のなかにわだかまる思いを丁重に引き出すべく、彼女の目を覗き込む。さながら姫に跪く敬虔な騎士のようなまなざしは、まだ小さな彼女の心にも十二分に作用し、そのふっくらと愛らしい頬を染めた。 「わたしは家に帰ると寂しくなるの。おうちにはみんなもゼロもいないから。きっと、ここにいる時がとっても楽しいからそう思うの。だから、みんなが帰っちゃった後、ゼロは寂しい思いしてないかなって」 口調こそたどたどしいものの、知性の色を湛える目に違わぬ鋭い指摘だった。 降谷零は孤独な男だ。他者と心が近づくかと思われたその瞬間、姿を消す。 きっと、彼の心に至るまでには何重もの扉が立ちはだかっているのだ。降谷自身も、開錠するための鍵を見失ってしまったかもしれない扉だ。 その扉の奥にいる降谷がどのような表情をしているのか。きっと誰も知ることはない。 「寂しくないよ。君たちが帰った後、大量のお皿を洗いながら、今日はよく食べてくれたな、あの子はこの食材が苦手なのかなって考える。そして夜眠る前に、みんながここで話していたことを反芻する。しあわせな気持ちになれるよ、寂しくなる暇なんてない」 降谷はゆっくりと、噛み砕くようにそう答えた。 少女は心底安心したように、母性すら感じさせる微笑みをこぼし、「よかった」とつぶやいた。
「ほら、お前はこれから塾だろ。あっ、ボタン掛け違えてるぞ。ああ、君もピアノ教室だったな、教材は持ったか?この前は忘れて先生に怒られたんだろ。なんで知ってるのって、僕は何でもお見通しだからね。上着はちゃんと着て行けよ、この季節、昼は良くても夜は冷える。歯はしっかり磨く。虫歯になるのは嫌だろう。こら、自分の皿は下げて行く!」 夕食後、食堂は一気に慌ただしくなった。これから家に帰る子、習い事へ行く子、宿題を済ませる子、さまざまだ。 降谷の頭にはこどもたちのスケジュールがすべて入っている。ひとりひとりに的確な指示を与える姿に、かつての部下である風見は自然と背筋が伸びた。
風見は残っているこどもたちに「ゼロという人間は、君たちにとってどういう存在なのか」とさりげなくきいてまわった。 降谷と行動を共にしていた頃と比べ、柔らかく人好きする笑顔をつくるのがうまくなっている自負があった。もちろん、手本はポアロでの安室の笑顔だった。 ゼロは年が離れた兄のようだ、何でも知っている先生のようだという印象が多い一方で、口うるさい母親みたいだときいた時には、少し笑ってしまった。 最後に、あのサッカーボールの少年に印象をきいてみた。 少年は少し考え込み、黙ってしまった。人なつこい表情に隠れていたが、少年は端正な顔をしていた。表情の選択を誤れば、他者に冷たい印象を与えてしまいかねない顔立ちだ。 「ゼロはヒーローだよ。悲しいことがあっても嬉しいことがあっても全部お見通しで、困ったことがあればすぐ助けてくれる」 自身の評に狂いはないと言わんばかりにきっぱりと言い切った。そこには盲信的な憧れも、かつて風見をはじめとする部下たちが寄せていた降谷を押しつぶしかねない過剰な期待もない。少年がその澄んだ目で見通した、純然たる事実だけがある。 「俺たちはみんなゼロのことが大好きだし、ゼロのことをもっと知りたいと思ってる。でも、ゼロは自分のことをあんまり話さないんだ。だから、俺たちの知らないところで泣いたり、悩んだりしてないか心配だったけど、友だちがいるなら大丈夫だね」 ゼロはきっと、寂しくないね。 少年は泣き顔にも似た笑みを湛え、風見を見上げた。 思いがけないその表情に心揺さぶられ、声を詰まらせる風見の後ろから、降谷が少年に声をかけた。 「ヒロ、宿題は終わったのか。お前の学校はもうすぐテストがあるだろう。わからないところがあったら早く言えよ」 「わからないところなんてないよ、ゼロはお節介だ」 「この前、テスト前日に泣きついてきたのは誰だ」 泣いてない!と反論しながら、少年は親愛を表わすように風見にわざと身体をぶつけ、荷物を取りに行った。自分の家に帰るのだろう。 「帰りに、アケミを送ってやってくれ」 「言われなくてもわかってるよ。はぐれないように手をつなぐ。両手がふさがらないように荷物を半分持ってやる。車道側は俺が歩く。でしょ?」 「よろしい。あと、面白い話をたくさんきかせてやってくれ。さっき怖いテレビを見てたから、きっと暗いのを怖がる。気を紛らわせてやって」 りょうかーい。隣の部屋から間延びした返事を寄越したかと思えば、少年はすぐにあの聡い少女を連れて戻ってきた。 少女は眠たげに目を擦っている。目が傷つくよと、少年がやめさせた。 「またね、ゼロ」 「おやすみ、ゼロ」 「ああ、また明日。おやすみなさい」 また明日。降谷が別れの挨拶を口にするのを、風見は初めてきいた。 何度一方的に会話を打ち切られ、姿を消されたことだろう。 その別れ際にはきっと、降谷の覚悟が滲んでいたのだ。 明日の無事すら保障されぬわが身の足跡を残さぬように、他者の心に住まわぬように、「また明日」の約束を破らぬように。 「さて、知りたいことはすべて探れたかな?」 すべてのこどもたちを送り出した降谷は、心地良い疲労を感じながら、壁に身体を預けた。 その壁にはこどもたちが描いたであろう絵が整然と貼りつけられている。 頭を黄色く塗られた人物がこどもと手をつないだり、料理をしていたり、絵本の読みきかせをしていたりといった様が描かれている。その人物が降谷であると知るに時間はかからなかった。これらの絵には、ここでの降谷の営みが描かれている。風見は息をするのも忘れて見入った。 風見の視線を追ってそれらに辿りついた降谷は、目を細めた。 本当に柔らかく笑うようになった。きっと彼はこの七年間、常人では抱えられない程にまで堆く背負っていた荷物を、時間をかけてひとつひとつ丁寧におろしながら生きていたのだ。 その過程で、柔らかな微笑みを、愛着に満ちたまなざしを、奪われることのない「また明日」を得た。失うばかりだった彼の人生に、かけがえのない財産が積み重なっていく。きっとこれから先、彼はとりこぼしていた幸福を丁寧にひろい集めていく。 「降谷さん」 声が情けなくふるえた。やはり、未だ平静には彼の名を呼べない。 それでも、彼は穏やかに耳を傾けてくれる。すべてを受け入れる深海のような目を向けてくれる。 このまなざしに、一体どれだけの人間が救われたのだろうか。 「もう突然、いなくなったりしませんか」 「そうだなあ、お前は放っておいてもなんとかするだろうが、あいつらは僕がいないと食いっぱぐれるからな」 風見は降谷が新たな潜入捜査に身を沈めている可能性をまだ捨ててはいなかったが、彼の言葉をきいてその可能性を手放した。 彼なら、生きるか死ぬかの綱渡りの状態で、こどもたちの生活を気まぐれに支えるような無責任な真似はしないはずだ。 警察庁から去る決断を下した七年前の降谷に、思いを巡らせる。 長年精神を蝕み続けていた因縁を断ち切り、過去と向き合った末自身に三重生活を強いていた組織の壊滅を迎えた彼が、何を思ったのか。 情念に突き動かされるまま己の命すら顧みず走り続けた人間は、その並々ならぬ熱量を注ぐ先を失ったとたん、自身が存在する理由をも見失い、自暴自棄になることがあるという。 降谷もそうであっただろうか? 本懐を遂げて自身の疲労を自覚し、その類い稀なる広さを誇っていた視野を狭め、なにもかもが億劫になった結果、逃げるように警察組織に背を向けたのだろうか? 答えはきっと、否である。 降谷零は、消去法で動く人間ではない。 どれだけ切迫した状況に置かれても、今この時、最善な手段を選びとる。そこに妥協は許さない。決して向う見ずなわけではなく、誰よりもその先を冷静に見通した上で、現時点で考えうる今後の可能性をも包括した決断を、恐ろしいまでに迅速かつ正確に下す。 身震いする程怜悧な眼光を未だ失わずにいる彼が、負の感情に支配され、重大な決断を誤ったとは考えられない。 決断の理由を、知りたくないわけではない。 けれど、今ここで、彼は大勢のこどもに必要とされ、慕われ、間接的にではあれど日本を守るという信念を曲げずに生きている。 その事実だけで、勝手に救われたような心地がするのだ。 「夕飯、おいしかったです。ごちそうさまでした」 やっと絞り出せた言葉は、何の変哲もない、上司と部下であった頃にも何度か述べた、礼の言葉だった。 降谷は頷き、満足げに肩を揺すった。 あと、これだけは、と風見は言葉を継いだ。 「結婚して、こどもがうまれました。女の子で、もうすぐ一歳になります」 「……本当か?」 降谷は泰然とした姿勢を崩し、よろこびを隠そうともせずに表情に出した。 思考や策略を悟られることが文字通り命取りとなる公安警察にとって、己の感情をさらけ出すような真似はご法度だ。かつては降谷も、公安の職務にあたる際は常に腹の読めない能面のような表情をはりつけていた。彼は血も涙もない人非人だと評されているのをきいたこともある。 公安の職を離れて数年、喜怒哀楽を惜しみなく表現するこどもたちと過ごすうちに、彼の表情もまた豊かになったのだろうか。 「それは、めでたいな……うん、素晴らしいことだ、これ以上によろこばしいことはない……おめでとう。……そうだな、こどもの名前をきいてもいいか?」 答えると、降谷は何度も口ずさんで、そうか、いい名前だなあと繰り返した。 彼の目尻にまたひとつ、皺が刻まれる。彼がかつて、あの居酒屋の老婦の目元にみとめ、慕わしく眺めていたものと同じ皺だった。彼の歴史のなかでもとびきり美しい情と思い出とが折り重なったそれは、なるほど神秘なまでに美しい。 「ここに連れてくるといい。奥方も一緒に。好き嫌いの改善は保証する」 「まだ好きも嫌いもないですよ、手当たり次第口に放り込む悪食です」 「積み木やらおはじきやらをか?」 「おままごとに使うおもちゃのにんじんやら、妻が作ったうさぎのぬいぐるみやらをです」 「それは確かに、悪食だな。僕の腕でも敵わないかもしれない」 降谷は、堪えきれない、といったふうに身を捩って笑った。 そうしてひとしきり笑った後、長く息を吐き、風見の耳に届く前にとけて消えてしまう程小さく「ありがとう」とつぶやいた。
こどもたちの靴が消えてすっかり寂しくなった玄関で上着をまとう風見の横には、行きにはなかった荷物が増えていた。 若草色に染まる風呂敷に包まれたタッパーのなかには、降谷が手際よくつめた料理が何品か入っている。 妻が喜ぶ、と思ったが、胃袋を掴まれたらどうしようか、とも危ぶむ。 我ながら可笑しいことを、と思う。 身支度を終えて立ち上がり、降谷が持たせてくれた料理を大切に抱えた。 「風見!」 見送りはないものと思っていた風見は、ふいに降谷に呼び止められ、一拍遅れて振り返った。 皿洗いを途中で切り上げてきたのか、降谷は腕をまくったままの姿でそこに立っていた。 「今度来た時はお前の好物を作ってやる。また近いうちに来い」 「……はい、必ず」 ひらりとあげられた降谷の手に、風見も己の手をそっと振りかえす。幸福が胸にじわりと広がった。こんなにも美しく澄んだ「また今度」は初めてだった。
玄関を出て、駅の方に向かおうとした足を、ふとした思いつきでもって台所に通じる裏口に向ける。 裏口にまわると、ちょうど降谷が皿洗いを再開した音がきこえてきた。 皿が擦れ合う音のなかに、わずかに鼻歌が溶け込んでいる。少し調子が外れた鼻歌だ。思わず笑ってしまう。 季節は秋で、まもなく冬が来る。降谷はきっと、寒さに比例してもくもくと厚さを増してゆくこどもたちの身支度に苦労する。誰が一番長く白い息を出せるかを競う。食卓に鍋料理がのぼることが増え、各々が好きな具材の取り合いをする。 風見は思わず口元を緩めた。美しい季節の予感がする。
CP要素は特にありません。
・降谷が警察を辞めている
・風見が妻子持ち
以上の設定が出てきますのでご注意ください。