【インタビュー】奥田瑛二が赤裸々に明かす…「天知茂さんの付き人だった俺の青春」
僕の先輩に映画スターが!
将来は映画俳優になる――。小学5年生のとき、映画『丹下左膳』の大友柳太朗を観てそう心に誓った僕が、天知さんの存在を知ったのは高校3年生のときでした。部活のラグビーに明け暮れて、授業中はいつも居眠りばかり。そんな高校生活を送っていたある日のホームルームでいつものように居眠りを始めたところ、担任の先生がこんな話をしたんです。
「我が校には有名な卒業生が二人いる。一人は政治家の江崎真澄。もう一人は映画スター天知茂だ」
映画スターという言葉に、僕はパッと目が覚めました。俺の先輩に映画スターがいる! 眠気もすっかり飛んで、『映画スター・天知茂』の存在が僕の中に記憶されたんです。
映画スターになるためには、まず東京。そのためには東京の大学に進学という大義名分がないと、親は絶対に地元から出してくれないのはわかっていました。当時、僕の父は市議会議員だったので、なおさら地元への愛着は強く、案の定、名古屋の大学に行けと言う。だから僕は父に訴えました。
「お父さん、これからは中央の時代になる。だから東京に出て勉学に励み、名古屋に帰ってきて25歳で市会議員、30歳で県会議員、40歳で国会議員になるから、東京に行かしてくれ」
そんな大嘘をついて、条件付きで東京に出させてもらったんです。その条件とは愛知県出身の衆議院議員の部屋住みの書生をして、勉学と政治の世界を学ぶこと。父は息子のひそかな野望など想像にもなかったと思います。
名古屋の御園座にて。奥田が父(右)との記念撮影を頼むと天知は快諾した 写真提供/奥田瑛二
安保で大学も閉鎖、映画俳優の夢がよみがえった
上京後、まじめに部屋住みの書生奉公と大学生活を続けていましたが、70年安保で大学も閉鎖してしまい、胸の奥に隠していた映画俳優の夢がむくむくとよみがえってきました。
今がチャンスだ!と俳優座と文学座と民藝の間を駆けずり回りましたが、結果は全滅。俳優座は桐朋学園芸術短期大学という大学になっているし、文学座はその年の試験がすでに終了。民藝は隔年募集で今年は募集せず。
いきなり出鼻をくじかれて頭を抱えたとき、突然ひらめたのが高校3年のときに脳裏に刻んだ天知さんでした。僕は地元ネットワークを駆使してなんとか天知さんの自宅の住所を手に入れて、勇んで押しかけたのです。
玄関のチャイムを鳴らすと、奥さんがにこやかに出ていらした。僕は緊張しながら名前と母校の後輩であることを伝え、「天知さんの弟子にしてください」と最敬礼しました。「そうですか。 まあ、主人に報告だけはしておきますけど」と軽やかに言われておしまい。諦めずに次の日から毎日通って最敬礼して、毎日同じ返事で断られて。そしたら10日目に奥さんが笑いながら言ってくれました。
「あなたも本当にがんばるわね。パパにもあなたのことは話したから、事務所が六本木にありますから、そちらに行ってみたら?」
その足で天知プロに向かい、待つこと1時間。廊下に現れた天知さんに「安藤豊明と申します!」と大きな声で自己紹介をしました。天知さんは、「おう、君か。かみさんから聞いているよ。これからテレビ朝日でリハーサルがあるんだけれど来るかい?」とさらっと言うのです。「はい!」と答えたその日から2年間、僕は天知さんの付き人として毎日行動を共にするようになりました。
あ・うんの呼吸で過ごした毎日
付き人として採用するとか条件はこうだとか、そんな改まった説明もなく暗黙の了解でした。休みも給料もなしということも、1ヵ月働いてわかりました。給料日というものがなかったから(笑)。あの時代の付き人はそれが当たり前だったみたいですね。僕はすぐに書生をやめて東京・目黒のお米屋さんの2階のアパートに引っ越し、毎朝、天知さんの自宅に通いました。
天知さんのことは先生と呼ぶ。外で食事をするときは天知さんが親子どんぶりを食べたら付き人は玉子丼、鶏南蛮を食べたら素うどんを頼む。「先生と絶対に同じものを食べちゃダメだぞ」と兄弟子に教わりました。
座長公演の記念撮影。「出番のない僕(前列右2番目)がちゃっかり先生(後列右4番目)より前に」 写真提供/奥田瑛二
僕の仕事の一つは、漆塗りの岡持ちを持って天知さんのそばを離れないこと。岡持ちには化粧道具やタバコ、喉をいたわるレモン水や水などの飲み物、常備薬などが入っています。撮影現場では出番待ちの椅子に座る天知さんの右斜め後ろが僕の定位置。そこに立って、天知さんの指示にそなえるのです。
天知さんが右手を上げて中指と人差し指が開けば、タバコ。僕はタバコを指の間に挟む。そして口にくわえて横に顔を向けたら、すかさずライターで火をプシュっとつける。コップを持つように指を丸めたら、水。指をひらひらさせたら……、手鏡。受け取ると、天知さんはひと言、「うん」。万事この調子でした。
舞台のときの楽屋は小道具や衣装、座布団、飲み物、化粧道具などあらゆるものを決められた位置に並べておきます。浴衣に着替えた天知さんが化粧のために鏡前の分厚い座布団にどかっとあぐらをかいて座ると、僕は右斜め後ろの定位置へ。天知さんは目の前の化粧道具を自分で取ることはありません。僕が順番通りに手渡すと、鏡の中の自分から片時も目を離さず、丹念に化粧を仕上げていきます。
衣装部さんと一緒に着物の着付けもします。ちなみに舞台のときは、付き人の僕たちも楽屋着は真新しい浴衣に角帯。そういうものだと思っていたら、他の役者の付き人さんに言われたんです。「大変だね。いつも着物で」って。確かに僕たち以外は普通に洋服を着ていました(笑)。
当時の天知さんは、映画はもちろん『非情のライセンス』などのテレビドラマも絶好調。名古屋の御園座や大阪の新歌舞伎座などで座長公演の舞台も必ずおやりになっていて、めちゃくちゃ忙しかった。でもイライラしたり声を荒げたりということは一切ありませんでした。
僕ら付き人は天地さんの指示通り、あ・うんの呼吸でお世話をし、天知さんご自身も自宅を出てから帰るまで、すべてルーティン通り。平常心でこなしていくのです。
天地さんは誰に対しても口数が少なく、必要なこと以外はしゃべらない人でしたが、芝居のことでもなんでも聞けばすべて教えてくれました。
時代劇の立ち回りのコツを聞くと、天知さんはその場で壁に向かって30センチのところに立ち、やおら刀を右に左に振り抜いてみせてから、おっしゃった。
「いいか、最初は壁から離れていてもいいから、刀が壁に当たってはダメだぞ。これを繰り返して覚えろ」
「芝居というのはどうやって覚えたらいいんでしょうか」と聞いたときは、「うん、俺を見てればいい」。これだけ。その教えの通り、僕は舞台のときは天知さんを花道から送り出すと、天知さんの一挙手一投足、まばたきもせずにじっと見続けました。
天知さんのセリフも立ち回りも全部覚えて、アテレコのように一緒にセリフを喋り、楽屋から勝手に持ち出した刀で立ち回りを真似した。だから僕の世界観では、天知さんの役はいつも僕です(笑)。
夜逃げ同然で飛び出した僕に
こうして天知さんのすごさ、かっこよさを毎日間近で見ながら、着物の着付けから所作、あらゆる芝居の小道具の名前や扱い、芸能界の行儀作法など、覚えることは全部覚えました。
また、天知さんの元に来る前に代議士の書生として培っていた、徒弟制度の心得や人を見てものを学ぶというコツを、全身全霊で天知さんのために発揮しました。それはもう天才的な付き人だったと思いますよ、我ながら。
さらに言うと、当時の僕は顔もかわいかった(笑)。おかげで「安藤はよくやってる」と天知さんが周囲に言ってくれたり、端役で舞台に出させてもらえるようにもなり、充実して楽しい日々でした。
しかし2年目の半ばを過ぎた頃から、僕は毎日「このままでいいのか?」と自問自答するようになり、ついに夜逃げ同然で天知さんのもとを飛び出しました。若かった僕は付き人を続けるよりも、早く役者として一本立ちしたいと逸る気持ちを押さえられなかったんです。
その後、天知さんと言葉を交わしたことが一度だけありました。付き人をやめたものの、結局食べていけなくてアルバイトをしていた深夜スナックに、突然天知さんが兄弟子を連れてやってきたんです。そして何ごともなかったように僕にたずねました。
「俺は酒が飲めないから。ここは何が食べられるんだ?」
動揺しながらメニューを渡すと、天知さんは生姜焼きとごはん、みそ汁を注文。無言できれいに食べ終えると「それじゃあ」と言って帰っていきました。
たぶん、僕の様子を見に来てくれたんでしょうね。相変わらず何も言葉はなかったけれど、天知さんのやさしさを感じました。
共演したら、土下座して謝りたかった。なのに……
それから15年。僕が映画で急に売れてテレビドラマにも出ていた頃のことです。
NHKでドラマの撮影をしていたとき、天知さんもNHKのドラマに出ていることを知りました。主役でなく、脇に回った役です。天知さんは俳優として自分の門戸を広げている。だったら僕も共演のチャンスがあるはずだ!と心が躍りました。
そのすぐ後です。天知さんがくも膜下出血で倒れたというニュースが飛び込んできました。知り合いのマネージャーさんに、「奥田くん、天知さんは日赤の集中治療室に入っている。私も一緒に行ってあげるから、今から行こう」と促されて、僕は日本赤十字社医療センターに駆け付けました。
15年ぶりに再会した天知さんはすでに意識がなく、いろんな管がつながれていました。でも、とんでもなくいい顔をしていたんです。「先生、安藤です」と心の中で呼びかけながら、無言のお別れをしました。
数日後に執り行われた葬式にも、参列しました。僕が天知さんにしてきた恩知らずなことを考えたら顔を出せるはずもなかったのですが、病室に連れて行ってくれたマネージャーさんが、天知さんの事務所の社長さんに話をつけてくれたんです。
思えば奥田瑛二という芸名を付けてくださったのも天知さんでした。本音を言うと、売れた時に父を喜ばせるため、本名でやりたかったんです。でも結果として奥田瑛二の名で一本立ちすることができ、今の僕があります。
天知さんと共演ができたら、僕は土下座して「あのときは本当に申し訳ありませんでした」と詫びるつもりでした。でもそれは叶わなかった。集中治療室のお別れと葬式。この二つが『映画スター・天知茂』を僕の記憶に刻む最後の儀式になりました。
(取材・文/桜井美貴子)