▽出資者募りサンフレに
3時間に及ぶ熱闘だった。1954年のサッカー天皇杯全日本選手権の決勝。東洋工業(現マツダ)が挑んだ相手は、慶応大の学生とOBでつくる慶応BRBだった。PK戦のない時代。甲府市での一戦は延長戦を4度繰り返した。
脚がつって動けない選手もいる中、ゴールキーパーの下村幸男さん(88)=広島県府中町=はげきを飛ばし続けた。しかしイレブンは力尽き、3―5で敗北。初の栄冠とはならなかったが、思わぬ収穫があった。
当時の東洋工業は三輪トラックが主力。「バタンコ」と呼ばれ親しまれたが、会社名は浸透していなかった。「何を造る会社なのかと遠征先で聞かれたほど。この試合が東洋の名を上げた」と下村さん。熱闘は語り草となり、チームには全国から選手が集まるようになった。
これを機に蹴球部は全盛期へ向かう。日本リーグが発足した65年は無敗で優勝。監督になっていた下村さんは「前評判は高くなくても東京の連中に負けるものかと一丸になった」。70年まで4連覇を含めて5回優勝し、天皇杯も3回制した。
▽練習後また仕事
本業も波に乗り始めていた。60年に乗用車の生産を開始。67年にはロータリーエンジンを世界で初めて実用化した。下村さんたちは夕方まで働き、練習へ。忙しさのあまり再び仕事に戻る人もいた。試合で職場を抜けることが多く、社業との両立に悩んだ。
下村さんはその後、他チームの監督を経て79年から1年間、日本代表を率いた。「選手がサッカーに全力を注げる環境が必要だ」。プロ化への思いを募らせた。
サッカー界がプロリーグ発足へ動きだすのは80年代後半になってから。後のJリーグだ。かつて「サッカー王国」と呼ばれた広島の代表格として、マツダの加入は有力視されていた。だが会社は「弱いチームでは企業イメージが悪くなる」と慎重な姿勢を崩さない。当時の古田徳昌社長は後に「選手獲得、資金面などでためらった」と明かした。
ただ、チームは既に一企業のものではなくなっていた。県民や県、広島市などから参加を求める声が巻き起こった。署名活動も広がった。マツダは翻意した。地元の熱意に押され、リーグへの参加を表明した。
それでもプロは未知の世界だ。マツダの総務部長だった橋本英彰さん(82)=東区=はプロチームの設立準備室に異動した。同僚に「かわいそうに」と慰められ「10年は赤字が続く」との声も聞こえてきた。
▽初年度で黒字に
クラブ創設に向け、出資者を求めて奔走した。4カ月で地元の45社から協力を取り付けた。92年、マツダを筆頭株主にサンフレッチェ広島が誕生。翌年のJリーグ開幕はサッカーブームをもたらし、観客が殺到した。クラブは初年度に黒字を達成。橋本さんは専務として、94年の第1ステージ制覇を見届けた。
当時の選手と交流を続ける橋本さん。OBで日本代表の森保一監督(51)からは「サンフレをつくってくれてありがとうございます」と感謝された。あらためて、地域の協力で生まれたクラブに思いをはせる。「マツダは地元企業との関わりで成り立っている。その地元をもり立てることは大きな務めだ」
下村さんはスカウトとして初期のサンフレを支えた。東洋工業時代には役員に「景気が悪い時こそスポーツが引っ張って」と鼓舞されたことを思い出す。企業スポーツには近年、経営資源の見直しによる休廃部の動きも広がる。だが地域を元気づけ、一体感をもたらす力があると信じる。
マツダのラグビー部や陸上部は今も、広島の競技界をリードしている。車づくりとともに歴史を積み上げたスポーツ分野でも、マツダにしか果たせない役割がある。(村上和生)
<クリック>サンフレッチェ広島 1992年4月設立。母体のマツダサッカー部は、元社長の山崎芳樹氏が38年、同好会として始めた蹴球部が起源。2007年に筆頭株主が家電量販のデオデオ(現エディオン、広島市中区)に代わった。森保一監督が率いた12、13、15年にJ1で優勝。マツダの出資は今も続く。
マツダのスポーツ活動 社内の実業団チームは陸上競技部、ラグビー部、バレーボール部がある。ラグビー部の「ブルーズーマーズ」は小学校への出張教室や地元のイベントに年30回ほど参加して競技の普及に力を入れる。坂本秀彰総監督(57)は「広島のトップチームとして、地元を元気にする役割がある。仕事は100%、ラグビーは120%で頑張る」と意気込む。
【マツダ100年 車づくりと地域】第5部 地元と共に<4>スポーツ 社名広めた蹴球部活躍
