下関条約(読み)しものせきじょうやく

日本大百科全書(ニッポニカ)「下関条約」の解説

下関条約
しものせきじょうやく

1895年(明治28)4月17日、下関で日本と清(しん)国との間に締結された講和条約日清戦争で圧倒的勝利を収めた日本に対し、清国は欧米列強の斡旋(あっせん)に頼って事態を収拾しようとした。日本はドイツ、アメリカなど、列強の斡旋による講和を拒否したので、清国側はついに北洋大臣・直隷総督(ちょくれいそうとく)李鴻章(りこうしょう)を講和使節全権として日本に派遣した。日本側全権は、首相伊藤博文(ひろぶみ)、外相陸奥宗光(むつむねみつ)で、講和交渉は下関の春帆楼(しゅんぱんろう)で開かれた。清国側は休戦条約を優先させることを主張したが、日本側は応ぜず、講和条件を提示、李はこれに難色を示した。ところが宿舎近くで李が狙撃(そげき)され、負傷する事件が起こり、日本側は列強の非難を恐れて李の要求どおり、休戦条約を先に締結した。引き続いて11か条からなる日清講和条約が締結された。その内容は、清国は(1)韓国が独立国であることを承認し、(2)遼東(りょうとう)半島、澎湖(ほうこ)島、台湾を日本に割譲し、(3)2億(テール)(約3億円)の賠償金を支払い、(4)清国内の蘇州(そしゅう)、杭州(こうしゅう)、重慶(じゅうけい)、沙市(さし)を開市し、開市・開港地において日本人が商工業活動を行うことを承認する、(5)日清通商航海条約を新たに西洋諸国と同じ条件で結び、日本の治外法権、片務的協定関税率を承認する、というものであった。調印直後、ロシア、ドイツ、フランスのいわゆる三国干渉がなされ、日本は遼東半島を清国に還付した。講和条約の批准書交換は、清国側の延期要請を拒否して、5月8日芝罘(チーフ)で行われた。

[田中時彦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「下関条約」の解説

下関条約
しものせきじょうやく

日清戦争の講和条約。 1895年3月 20日,下関の春帆楼で,清国全権李鴻章と日本の伊藤博文,陸奥宗光両全権との間に第1回会談が開かれた。 24日の第3回会談の帰途,李鴻章が狙撃され負傷する事件が起ったため日本側は休戦に応じ,同 30日休戦条約が締結され,次いで4月 17日日清講和条約 11ヵ条が調印された。その内容は,(1) 清国は朝鮮が独立自主の国であることを確認すること,(2) リヤオトン (遼東) 半島,台湾全島,ポンフー (澎湖) 列島を日本に割譲すること,(3) 2億テールの賠償金を支払うこと,(4) シャーシー (沙市) ,チョンチン (重慶) ,スーチョウ (蘇州) ,ハンチョウ (杭州) の市港を開くこと,(5) 揚子江航行権を与えること,(6) 最恵国待遇を与えることなどであった。批准交換は5月8日に行われたが,その間に三国干渉がなされ,日本はリヤオトン半島を清国に還付することになった。

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百科事典マイペディア「下関条約」の解説

下関条約【しものせきじょうやく】

日清戦争の講和条約。馬関(ばかん)条約とも。1895年日本全権伊藤博文陸奥(むつ)宗光,清国全権李鴻章,李経芳が下関の春帆(しゅんぱん)楼で調印。おもな内容は,1.清国は朝鮮の独立を認める。2.清国は遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲する。3.清国は日本に庫平銀2億テール(約3億円)の賠償金を支払う。4.新通商条約の締結と最恵国待遇条款その他沙市重慶等の開市・開港など。5.条約履行の担保として威海衛の一時占領。条約調印直後の三国干渉で日本は遼東半島を放棄し,その代償として3000万テールを得た。償金は軍備と工業化の資金となり,また金本位制度に移行する資金ともなった。
→関連項目三国干渉台湾日清通商航海条約

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旺文社世界史事典 三訂版「下関条約」の解説

下関条約
しものせきじょうやく

日清戦争の結果,日本側全権伊藤博文・陸奥 (むつ) 宗光,清国側全権李鴻章 (りこうしよう) により,1895年4月17日下関で結ばれた条約
これによって清は朝鮮の独立を承認したほか,遼東半島・台湾・澎湖 (ほうこ) 諸島の割譲,賠償金2億テール(両)の支払い,西欧列強と同等の片務的最恵国待遇の承認,沙市 (さし) ・重慶・杭州・蘇州の開港,そこでの日本人の企業権の承認などを約した。調印直後に三国干渉が起こり,日本は清に遼東半島を還付した。

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旺文社日本史事典 三訂版「下関条約」の解説

下関条約
しものせきじょうやく

1895年4月に調印された日清戦争の講和条約
日清講和条約ともいう。清国は李鴻章,日本は伊藤博文・陸奥宗光 (むつむねみつ) を全権として,山口県下関で調印,1895年5月批准。内容は,(1)朝鮮の独立の確認,(2)清国の遼東半島,台湾・澎湖列島の割譲,(3)賠償金庫平銀2億両 (テール) (約3億円)の支払い,(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開市,などを規定している。のち三国干渉によって日本は遼東半島を清国に還付した。

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精選版 日本国語大辞典「下関条約」の解説

しものせき‐じょうやく ‥デウヤク【下関条約】

明治二八年(一八九五)四月、下関で日本と清国との間に締結された講和条約。日本側全権は伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権は李鴻章・李経方。その内容は、朝鮮の独立確認、遼東(りょうとう)半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金二億両(テール)、沙市・重慶・蘇州・杭州で日本が商工業活動を行なうことなどを清国に承認させた。日清講和条約。馬関条約

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デジタル大辞泉「下関条約」の解説

しものせき‐じょうやく〔‐デウヤク〕【下関条約】

明治28年(1895)日清戦争講和のため、下関国の全権大使李鴻章りこうしょうと日本の全権大使伊藤博文陸奥宗光むつむねみつとの間で調印された条約。清国は朝鮮の独立、2億テールの賠償金の支払い、遼東半島台湾澎湖諸島の割譲などを承認。馬関条約。

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世界大百科事典 第2版「下関条約」の解説

しものせきじょうやく【下関条約】

日清戦争の講和条約。1895年4月17日,日本側は伊藤博文,陸奥宗光,清国側は李鴻章,李経方を全権とし,下関の春帆楼の会談により調印され,5月8日発効した。この条約により,(1)清国は朝鮮が完全無欠な独立自主の国であることを確認する,(2)遼東半島,澎湖島,台湾を日本に割譲し,(3)軍費賠償金として庫平銀2億テール(邦貨約3億円)を支払う,(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開市と,開市・開港地における製造業従事権の承認,(5)日清修好条約をヨーロッパ諸国と同じ条件で結ぶこと,を定めた。

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世界大百科事典内の下関条約の言及

【日清戦争】より

…会議は日本が過大な条件を固守したため難航したが,李全権を狙撃・重傷を負わせる事件が起こり,国際世論の非難をおそれた日本の条件緩和をへて4月17日調印をみた。この講和条約は下関条約といわれるが,その内容は,(1)朝鮮の独立承認,(2)遼東半島,台湾,澎湖諸島の割譲,(3)軍費賠償金2億両(約3億円)の支払い,(4)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権を日本に認める新条約の締結,などであった。通商上の特権中にはイギリスが希望していた開港場における製造業従事権が含まれているが,これは予想されるロシアの干渉にイギリスの参加を阻止する含みから挿入されたといわれる。…

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