23日投開票の那覇市長選で「オール沖縄」が擁立した翁長雄治氏(故・翁長雄志前知事の二男)が、自民・公明推薦の知念覚氏に敗れたことで、県紙は、「オール沖縄 自壊」(24日付琉球新報)、「オール沖縄 退潮拍車も」(同、沖縄タイムス)と報じています。
「オール沖縄」で那覇市長になった現職の城間幹子氏が知念氏支持に回ったことが勝敗の大きな分かれ目となり、同時に「オール沖縄の自壊」を印象付けました(写真左は知念氏と城間氏=朝日新聞デジタルより)。
「オール沖縄」とは何だったのでしょうか。
それは沖縄のみならず日本の政治史においても大きなテーマであり、さらに追究される必要があります。
このブログでも、翁長前県政(2014年11月16日~18年8月8日=死去)を詳細に見てきました。ここではあらためて2つのことを強調したいと思います。
1つは、「オール沖縄」は翁長前知事(写真右)が推進したというイメージがありますが、実は翁長氏が知事になる前からあり、それは本来、翁長氏が前面に立った「オール沖縄」とは違うものだったということです。
2013年12月27日、翁長氏の前の仲井真弘多知事が県民を裏切って「辺野古埋め立て」を承認しました。当日、県庁ロビーで抗議集会が開かれ、沖縄平和運動センターの山城博治氏は、「保革を超えたオール沖縄という財産を知事はぶっ壊した」と怒りをあらわにしました(写真中)。
当時、「オール沖縄」はどのようにとらえられていたか。『沖縄現代史』などの著書がある故・新崎盛暉沖縄大名誉教授は、こう指摘していました。
「『オール沖縄』というのは、単に、政治的な保守・革新を超えて、という意味ではない。さまざまな多様性を持ち、内部矛盾を抱えながらも、抑止力とか、負担軽減とか、軍事的な地政学上の優位性とか、沖縄振興策という言葉の持つ欺瞞性を実感し始めた人たちが、社会の大多数を占めてきたということである。それは、沖縄戦を起点とする沖縄現代史の、民衆抵抗闘争史の集積の結果である」(2013年12月28日付沖縄タイムス)
新崎氏が指摘した「抑止力とか、負担軽減とか、軍事的な地政学上の優位性とか、沖縄振興策という言葉の持つ欺瞞性」とは、日米安保条約に基づいて自民党政権が推し進めてきた沖縄政策そのものと言えるでしょう。
その「欺瞞性」を、沖縄の人々が「保守・革新を超えて」実感し始めた。それは自民党政権・国家権力にとって大きな脅威でした。
ところがその後、「オール沖縄」は新崎氏の指摘とは大きく異なるものとなっていきました。
その目標は「辺野古新基地反対」の1点に集約され、日本共産党はじめ「オール沖縄」の革新勢力は肝心の日米安保(軍事同盟)への言及・批判を控えるようになりました。「保革を超えて」といいながら、実態は「革新」が「保守」に取り込まれたのです。その先頭に立ったのが翁長前知事でした。
改めて強調しなければならない2つ目の問題は、「辺野古新基地反対」を唯一の目標として結集した「オール沖縄」であるにもかかわらず、翁長県政は、辺野古新基地阻止に逆行するものでしかなかったことです。
そのことを示す典型的な問題は、翁長県政の最大の課題だった「辺野古埋め立て承認撤回」を、3年9カ月の任期中(存命中)ついに実行しなかったことです。
翁長氏の死去後、保守・経済界は相次いで「オール沖縄」から離れていきました。今回の那覇市長選でも顕著になった「オール沖縄の自壊」とはこの現象にほかなりません。それは、保守(自民党支持勢力)にとって、「オール沖縄」は役割を終えたということです。
紙幅の関係で結論を急ぎます。
沖縄は新たな「民衆闘争」を構築すべきです。それは、多様性をもちながら、諸悪の根源である日米安保条約(軍事同盟)廃棄の旗を堅持し、それが多数派になることを目指す運動であるべきです。
もちろん沖縄だけの問題ではありません。沖縄の「民衆闘争」と連帯しながら、「本土」も新たな「民衆闘争」をつくりあげねばなりません。それは日本にいる市民・民衆全体の最重要課題です。
※ご参考までに、このブログで直接「オール沖縄」をテーマに書いたものの日付を挙げます。
①2013・12・29②14・6・10③同12・18④15・12・15⑤同12・17⑥16・1・18⑦同4・30⑧同5・2⑨同5・3⑩同6・9⑪同・8・2⑫同11・24⑬17・1・14⑭同2・7⑮同3・28⑯同4・1⑰同8・13⑱18・4・10⑲同9・10⑳19・3・28⑳①同7・2⑳②21・1・19⑳③同11・6
この中では、①③⑦⑱⑳⑳+②が比較的まとまっています。
このほか、翁長県政当時書いた県政にかんするものはすべて「オール沖縄」の記録ともいえます。