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アコの部屋
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 2014.9.15-2017.5.13 (20件)

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倭琴の旅はてなブログにUP

近      況
日付 メ   モ
'22.10.24

「アイヌ族の音楽」伊福部昭 (『音楽芸術』1959年12月号「特集:東洋の民族音楽」)より



まさしく伊福部先生から幾度もお聞きした言葉です。
作曲家 神津善行(1932-)氏も繰り返し書いておられますが、
ピアノの鍵盤にはドとレの間に一つしか鍵盤が無く、それを半音と呼びます。
そのため、ピアノの鍵盤上の1オクターヴには12音しか存在しませんが、
日本の伝統音楽を含む世界各地の民族音楽は12分割ではありません。
例えばトルコは54分割で、将来的に36分割になると神津氏が書いています。
これが琉球民謡やアイヌ民謡などをピアノで完璧に再現できない理由です。

伊福部先生も「半音より小さな音程で飾られることが珍しくなく」、
「彼等の音階が何の様なものであるかを決定するのを避けたいと思う。
此等に関しては更に多くの研究を要しよう」と明記されています。
反復について、アイヌ音楽は「反復と特殊な唄い方に依って生命が生れる」
と書かれている点も重要です。決して単純な反復ではないのです。

「アイヌ民族は音楽と歌詞と踊りを一人で担当する」という大前提、
それを即興で行なうという大前提を忘れてはなりません。
《ヤイシャマネナ》について、伊福部先生はこう仰っていました。

「アイヌ民族は"Yaishama nena"という"自分の心情を吐露する"歌を
即興的に歌います。一人ずつ前に出て"Yaishama nena"と繰返しつつ
即興詩を考えて歌い、自作の歌詞と"Yaishama nena"を交互に反復する
中で彫琢し、完成度を高めるのです。たまに、歌詞が思い浮かばなくて
"Yaishama nena"だけを繰り返して終ってしまう場合もあります」

これは即興性が重視されるバロック音楽にも通じますね。
同じテーマを二度三度繰り返す際、同じ演奏になってはいけません。

もし、以上の常識をわきまえていたら、ゴジラでの「ドシラドシラ」の
反復を安直にアイヌ音楽と結びつけたりは出来なかったはずです。
音楽を「ドレミ…」でしか考えられない作曲家がおられようとは…。

伊福部先生が少数民族の音楽に触発されて書いた作品を、編曲とせず
作曲と書かれた理由は上掲の引用文の最後で語られています。
彼らの音楽を熟知していればこそ、単に五線譜に移し替えたものを
演奏すればオリジナルが再現できるなどと思われたくなかったでしょう。
先生が心を尽くして創作された作品の解説を私ごとき者が書けますか…
(決して3ヶ月以上ものあいだ一字も書けなかった言い訳ではなく)。

'22.10.23

のんきに再放送できなかった事情を推測していたら、とんでもない情報が!?
とはいえ、番組をご覧になった方々も一度観ただけだし、詳細は不明です。
それでも、ちょっと看過できない内容だったのでメモしておきます。

私自身が見聞きしていないため一般論として書き残しますが、
「ゴジラ」と「アイヌ音楽」に限らず、何かと何かが似ているとか、
ヒントを得たと決めつけるのは危険だと思います。
(「ドシラ」がアイヌ音楽なら、ラヴェルの「ピアノ協奏曲」もアイヌ音楽?
フレーズの反復がアイヌ音楽の特徴なら、ラヴェルの「ボレロ」も?
1932年初演のラヴェル「ピアノ協奏曲」と「ゴジラ」が無関係なのは
1933年作曲の《平安朝の秋に寄する三つの詩》で説明可能)

伊福部先生は常々、
何世紀ものあいだ、12の音を組み合わせてメロディーを作っていれば
意図的に似せようとしなくても世界各地で似た音楽が生まれる確率が
年々高まってゆくのは当然でしょう…と仰せでした。

また、アイヌ音楽に関して質問させて頂いた時のこと。
「《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》と言われましても
《ヤイシャマネナ》はあからさまな陰旋ですが?」と申し上げたところ、
「江戸時代、松前藩との不幸な歴史の中で本州の民謡が北海道に入り、
アイヌ民謡が日本化した過程を踏まえています」と仰いました。

「松前藩の役人は鮭やシシャモの取引で、日本語がわからないと踏み、
一から数えて三桁から二桁に戻すなど数をごまかしたと伝わります。
そんな不平等な関係ながら音楽的交流の中で《ヤイシャマネナ》が
陰旋化したとも言われます。日本民謡の影響をどこまで認めるのか、
また、アイヌ語の歌は、屈斜路アイヌ、十勝アイヌ、樺太アイヌなどで
発音が異なるが、どの発音を基準にするのか、一筋縄ではいきません」
と問題提起されていた作曲者の見解を知ろうとも掘り下げようともせず、
安直に伊福部作品を解釈し、結論づけられたと知って驚愕しています。

'22.10.22

「グレーテルのかまど」でしたっけ? 結局、再放送はなくなってましたね。
これは…、勝手に想像するに、私が一度も聴いたことがない
「クラシックの迷宮」と同じ理由しか考えられないのですが?

しかし、もしそうだったとしたら、再放送のスケジュールを発表したり、
NHKプラスで配信し始めてから中止したのはあまりに迂闊すぎるため、
そのような愚行が罷り通るとは考えづらく、私の思い過ごしなのでしょう。

ただ、近年はどのジャンルでもプロフェッショナルが減っているので
チェック機能が働かず、うかうかと配信してしまった可能性もある、かも?

いやはや、こうした騒動と無関係でいられる現状は有り難い限りですが、
伊福部先生のお仕事が穢されるようなことがあってはなりませんので
誰方かが目を光らせて下さっていることを期待するばかりです。

昨夜撮った最後の2品。変わりご飯好きの家人なのに、炊き込みご飯は
何ヶ月ぶり? 昨日は原木椎茸など4種類のキノコを買ったので、
久しぶりに素晴らしい香りのキノコご飯を炊きました。
'22.10.21
 歯を抜いたあと、"おばあちゃんの野菜コーナー"で、春菊とパクチーを買いました。私はいつも一番小さいものを選びます(←約20cm)。毎日が虫との闘いですが、コンパクトで虫食いだらけの野菜はすごく美味しい!!
 痛みに強い私は前回と同じく痛み止めを飲まず、普段通り料理をして晩ご飯を終えたものの、電池切れのオモチャみたいにバタンと倒れ、顔も洗わず(!?)寝てしまいました。
 「国際放送って何?」の質問が届き、調べたらN響の歴史的演奏を海外に紹介する番組のようです(日本語翻訳をクリックしたら「守秀」に!?)。帰宅時間に合わせてご飯を作る私は、ここ数年、1年に何度か「今日は国際放送の収録だから帰宅が○時になる」と言われただけ。本人も私も観ることはないし、先日はまた地上波に出てたと人様から教えて頂きました。
'22.10.20

家人も私も自分が出演した番組すら見聞きしたことがないため、
観たいと思った番組があっても見逃してしまいがち。
10/17の夜、伊福部先生に纏わる番組が放送されたようなのですが、
その日、定期的に出演している国際放送の収録を終えて帰宅した家人に
「今日、伊福部先生の番組、観た?」と訊かれ、TVをつけようとしたら
「もう23時だから終わってると思うよ」と言われました。

「23時からご飯だから、21時過ぎからもち玄米を研いだり、下拵えしてた」
「再放送が水曜日にあるけど、大学だから、観ておいて」と言われたものの
水曜は11時からアーニャのトリミングなので出かけなくてはなりません。
行く前にTVの番組表を見ても、該当する番組は見つけられませんでした。
もともとこういうことが苦手とはいえ、耄碌してしまったのでしょうか。

家人の帰宅に合わせて、いつものように前菜だけ作って並べておきました。
「今日は観られた?」「う~ん、番組表に無かった」「じゃあ国会中継してた?」
「してた」「そういうことでよく番組がとぶんだよ」「ふう~ん」
というわけで、「次は金曜日にあると思うよ」と言われましたが、
今日奥歯を抜きに行くため、明日まで覚えていられるかどうか…!?

ナムルは19日が春菊、18日がツルムラサキ、17日が大根菜…と
その日"おばあちゃんの野菜コーナー"にあった無農薬野菜で作ってます。
三原市の椿き家さんの山芋とうふサラダ(+とろろ)も定番になりました。
'22.10.19

広島県から大きな段ボールが2箱届きました。
玄関前に置かれたものの重くて簡単には動かせません。
伝票を見たら古書でした。そういえば三原へ行ってましたね。
うちから出かけるときは「古本市へ行くから」と言うので覚悟(?!)が
できてますが、何の前触れもなく置き配されてしまったら大変です。
20cmほどの段差をテコの原理でクリアしてドアの中へ入れました。

今回は2箱だったので余裕で玄関に置けましたが、先週だったか
5箱届いて玄関に入れたら出入りするたびにうんざりしました。
箱を重ねる体力がありませんので。
帰宅した家人に「古本が届くなら教えてくれないと…」と言うと
スルーされました。何を言ってもムダだとわかってはいますが。

本当に人使いが荒いというか、上手く人を使うんですよね…。
同じ料理を作りたくない私に、月に4回は麻婆豆腐を作らせますし。

蛎殻町に住んでいた頃は近所でピーシェン豆板醤を買ってました。
「黒い麻婆豆腐」時代です。
花山椒もそうですが、あるとき中国産調味料を国産に切り替えました。
そこから自己流麻婆豆腐の追求が始まったのです!?
ちょうど調味料の購入時期だったので以下にリンクを張りました。

鉄鍋にゴマ油と八角を入れて加熱。
香りが出たら、ぶどう山椒と、豆鼓の代わりに浜納豆を刻んで加え、
段階的に、ニンニク、ショウガ、辛み玉を加えたら
豚ひき肉、長ネギを炒め、XO醤を入れて味を調える。
隠し味として、杉桶底引きたまり粒味噌を加えて仕上げる。

最後に木綿豆腐を入れますが、私は豆腐を加熱しない派です。
↓は包丁を使ってますが、普段は手でちぎって入れ、ざっくり混ぜるだけ。
豆腐のあとに入れて混ぜていたへんこごまらぁ油山椒唐辛子「二味」
盛り付けたあとがベストだとようやく気づきました↓。

'22.10.18
 昨夜、再挑戦しました。基本的な味付けは変えずに、器に移してから最後に京都へんこ山田製油ごまらぁ油と、山椒唐辛子粉激辛二味(ふたみ)をかけてみました。これまでは火を止める直前に入れ、ざっくり混ぜていたため加熱されていたのです。色を比べたら、調味料を入れるタイミングがいかに重要かがわかりますね。香りも良く、段違いに美味しくなりました。色目を見るため、パクチーをトッピングする前に撮っています。
 ちょっと考えればわかりそうなものですけどねぇ…。何となく、辛さの調節をラー油任せにするのは安易な気がしていましたが、勉強になりました。


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日付過 去 の メ モ
'22.01.21
 昨夏からずっと煩わされてきた《平安朝の秋に寄る三つの》の違法録音
 東京音大での演奏時と同じ《平安朝の秋に寄る三つの》の誤記のまま発売された後、
 2022年1月21日に販売中止になったので、その経緯をブログに永久保存することにしました。

 ブログ 伊福部昭と《平安朝の秋に寄する三つの詩》
 ブログ 《摩周湖》《蒼鷺》のレコーディング
 ブログ 伊福部昭の歌曲作品

'21.07.27

 

CD「エッケルトの仕事」
 7/26より『日独交流160年展』が始まりました。
 ドイツ連邦共和国大使館による『日独交流160年展』トップページはhttp://www.germanyinjapan160.com/です。
 私がフランツ・エッケルトに関する原稿依頼を引受けたのは、かつてRNB南海放送が《君が代》の取材でドイツ在住のエッケルトの遺族を訪ねた際、「父は日本の国歌を作曲した」と言われ、ドイツではそれが疑問視されていなかったと耳にしたためです。
 なぜそのような誤解が生じたのかは簡単です。
 大日本帝國海軍が各条約国に送付した「大日本禮式」(National hymn)の表紙に「composed on an OLD JAPANESE AIR by F.ECKERT」と記載されていたからです。
 実際には明治13年に宮内省が募集したメロディーの審査に関わったエッケルトが当選作を吹奏楽曲として編曲したわけですが、作曲したと誤解されているのなら訂正しておきたいと考えました。
 読みづらい文章で恐縮ですが、このページでお読み頂けます。
'18.10.07
"雅楽"というと笙や篳篥を想起される方が多いのではないでしょうか。
そのため、コト一面で神楽歌を演奏する私のスタイルに疑問をもたれることがあるかもしれません。
けれど神楽歌は諸外国からやってきた音楽や楽器を融合させつつ構築した"雅楽"とは違います。
神楽歌は純国産ですし、コトも縄文時代や弥生時代の遺跡から出土しています。

701年に雅楽寮ができた時には、現在の宮内庁楽部のように内外の楽が一堂に会していました。
それが百年も経たないうちに分かれ、純国産の歌舞は大歌所として独立します。
そして大歌所には、かの大伴家持(718?-785)をはじめとする歌人たちが通いつめていたのです。

(あらた)しき 年の始めの 初春の 今日(けふ)降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
この、家持が詠み、『万葉集』の掉尾を飾った和歌は非常に有名な大歌の本歌取りでした。
本歌は『古今和歌集』巻第二十の大歌所御歌にも収められた《大直毘(おほなほび)の歌》です。

(あらた)しき 年の始めに かくしこそ 千歳(ちとせ)をかねて たのしきをつめ
ただし『古今和歌集』の末尾↑「をめ」は「をめ」の間違いだと契沖や折口信夫博士らが指摘。
(もちろん「をめ」の写本もあります)

大伴家持が大歌所で修得した大歌神楽歌を、いま私が歌っているかと思うとわくわくします。
その時代、純国産の古代歌謡と 8世紀以降の"雅楽"がはっきりと一線を画していたことも重要。

さて、宮中の御神楽は貞観元年(859)11月の清和天皇の大嘗祭に発しているとか。
そのスタイルは「琴歌神宴に終夜歓楽し御衣を賜った」とあるように""と""が基本でした。
『神楽目録』第八「神楽修法之次第」に
阿知女、本末之ヲ一人歌、間拍子之曲也、和琴之ヲ弾、笛、篳篥、之ヲ用ヒズ、餘此倣
とあるのが、和琴の弾き歌いというスタイルを貫く私の拠り所です。

'17.05.01
古代歌謡の発音については江戸時代の国学者富士谷御杖(1768-1823)の言を拠り所としています。
これまで何度か書いてきた『北邊随筆』(1819)初編三「音の存亡」中の一節です。

いにしへ、神楽、催馬楽などをうたふが如くに、こひ(恋)は子火と聞えてこゐとはいはず、
あふ安婦ときこえておうとはきこえざるべし。


国語の授業では和泉式部の和歌「今ひとたびの逢ふこともがな」を「おうこともがな」と習いました。
が、戦後詠まれた和歌ではないので、「あふ」と発音した方がよいのではないでしょうか?

また『万葉集』の最後を飾る「今日ふる雪の」は「けふふるゆきの」ですから指を7つ折ります。
現代かなづかいで「きょう」と書いた場合、指は幾つ折ればよいのでしょうか?
読むだけならともかく、和歌披講では1音に1フレーズがあてられるため曖昧なままでは歌えません。

『古事記』に関しても、私は富士谷御杖の日本神話のとらえ方に興味を持っています。
琴曲にも秀でた富士谷御杖は、古代人の心を言霊(ことだま)の霊妙な力によって様々な説話として
表現したものが『古事記』であると考えていました。
それゆえ『古事記』の内容を事実としてとらえる本居宣長の解釈を不合理だと批判しました。

ただ、世に種々の学説があり、時代ごとに国語が変化したとしても、記紀歌謡の歌詞は変わりません。
万葉仮名で書かれた歌詞を現代かなづかいに変えて歌う必要がないのと同じく、現代かなづかいの
発音をイメージして書かれた歌詞をわざわざ古代の発音で歌う必要もありません。

催馬楽を習い始めた頃、私は平安時代のサ行が「シャ・シ・シュ・シェ・ショ」だったとの実感が乏しく、
「さきむだち」を「シャきんだち」と発音することに驚きましたが、次第に各時代の言葉に寄り添って
そこから発音を導き出すことで楽に自然な発音で歌えるようになるのだと腑に落ちました。

'17.01.15
二十歳から現代音楽を演奏していた私は作曲家は演奏されるために曲を書くのだと思っていました。
ところが、伊福部先生に御指導を仰ぐと実に驚くべき言葉が返ってきたのです。

「いやぁ…誰かに演奏されるなんてことは微塵も考えずに作曲したものですから…」
「ここをこう歌ってほしいという希望はありません。釣り針の見える音楽ほど下品なものはないので」
「下手に演奏されるくらいなら演奏されない方がずっといい」 等々(…ひたすら畏まり絶句!?)

また、先生はレッスンのマクラに、お茶を飲みながら示唆に富んだ逸話を聞かせて下さいました。
最も印象に残っているのが舞踊家 石井漠さん(作曲家 石井眞木さんのお父上)のお話です。

「地方公演へ行くと駅でよく見ず知らずの人に『先生、先生』と大袈裟に声をかけられたそうです。
すると漠さんは、ここにも幽霊弟子が居たなとピンと来て、調子を合わせてあげると言うんですね」
「私は嫌です、そういうの。はっきり『誰なんだ君は』と仰れば良いのに」
「そこが人間の幅というか思いやりと言うか、その人にも生活があるでしょ? 石井漠の弟子としての」
「でも嘘をついてるわけですから」
「ま、そこが私などにも難しいわけで、漠さんは立派なもんだと思いましたねぇ」

このお話を何十回聞かせて頂いたことか…と思ったら、先生が帰幽されたとたん幽霊弟子が!?
そして、突然、たくさんのコンサートが企画され、CDが量産されました。
伊福部先生は「皆さんにも生活というものがあるから」と仰せかしら?

'16.02.03
昨日なぜか突然前向きな気持ちになり、書かないと言い続けた本を書こうと決心しました。
いえ、決心しても書けるとは限りません。なにしろ大き過ぎるテーマなのですから。

「編年体コンサート」で「♪紀元は二千六百年~」と歌った通り、天皇家の歴史は今年で2676年
これに対し、縄文時代は約1万3000年の歴史をもつとされています。
そんな縄文時代から日本列島に住んでいた海人族の船が約5300年前の遺跡から出土しました。
シベリアとの交易の痕跡も認められた縄文人の「海の文化」の歴史は約1万年と推察されています。

世界から注目を浴びた縄文土器でもわかるように縄文文化は決して粗野なものではありません。
現代まで続く日本人の繊細な感性に裏打ちされた仕事ぶりは、その出土品からも窺われます。
日本固有のコトも縄文遺跡の出土品の一つで、板に装飾が施されていました。

ここまで書いて、ふと、多くの日本人が江戸時代にできた俗箏(おこと)を日本の楽器だと思い込みかねない
教育を受けていることに気づく(教育レベル低すぎ。フェルマータを長く延ばさせないで下さい)。
蛇足ながら、おことは雅楽で使われる大陸渡来の
楽箏を一般向けの俗箏として実用化したもの。

日本固有のコトは、紀元前後、日本に百余りの小国があったことから弦の本数が異なっていました。
それを6本に統一したのは、日本に律令制度を導入しようとしたヤマト王権です。
統一国家を目指すヤマト王権は、縄文時代からあったコトを「天皇の楽器」と決めました。
『梁塵秘抄口傳集卷第十四』に"和琴は和國の器にして、日本の音曲の頭としるべし"とあり。
また、天武天皇は日本列島各地の国主たちが伝承してきた歌を舎人や采女に献上させました。
そうして宮中で保護された歌舞は一般民衆がその存在を忘れるほど遠いものとなったのです。
言い換えれば、天皇家の保護により楽器や楽譜が現代まで形を変えずに残ったのかもしれません。

この世界最古の現存音楽を演奏し、書き残すことが私の最後の仕事なのだろうと思います。
まだまだ研究が足りませんし、演奏の腕も磨かなくてはなりません。
足腰を鍛えるためにも、時間を見つけて山へ登り、演奏修行を続けたいと思います。



Yumi Aikawa a Segesta - 2015/10/01放送分 →youtube.com