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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本の伝統風習

2021年07月17日 | open


日本人は家ごとに家紋を持っている。
英語ではファミリークレストと呼ぶ
「家」を単位とする日本独自の血脈
を示す看板の紋章だ。
日本人の苗字は約6000、家紋は2万
5000ほどあるといわれている。

歴史の中で武家が台頭するに至り、
吾と他を区別するために家紋は発達
し、一気に増加したとされる。
武家は本紋のほかに替え紋という
複数の家紋を持つのが常だった。
近世江戸期以降は、武士以外にも
有力者等は家紋を持つようになった。
明治以降、一般庶民も家紋を普通に
式服などに使用するようになった。

日本にはしきたりがある。
現行法では一切規定されていない。
それは、家紋についてはいくつかの
絶対に日本人として守るべき律が
ある事もそのしきたりのひとつだ。

一、家紋は勝手に新たに作れない。
一、やむなく新たに家紋を新設する
 場合には、徳川葵、太閤桐、仙台笹
 の三種だけは絶対に使用しない。
一、家紋は家主が着けるものであり、
 「家」に付随する。したがって、当主
 の紋は正妻であろうと側室であろう
 着用は赦されない。


現代においては法的規制が何もないの
が家紋に関しての約束事という現状だ。
それゆえ、勝手に徳川将軍家の三つ葉葵
を使用したり、柳生家の家紋を無断使用
して自派のPRに使ったりしている全く
以て武士の世界とは程遠い事を為しな
がら武士をコスプレする興行師たちも
いたりする。

また、男紋を妻は使用できない。
子にあっても、女子は父の家紋を使え
ない。これは今でも西日本を中心に
この風習が継続している。
日本は差別の国で、女性は「〜の女(むす
め)」としてしか記録にさえ残されなかっ
た。
明治新政府の創作した法律でさえ、女性
は法的に無能力者扱いだった。昭和23年
までは。
そうした差別主義日本の男尊女卑の時代
のルールが現在でも家紋の世界では生き
ている。
「腹は借り物」などという、女性を生殖
機能保有生物としてしか見ない女性差別
意識が現在でも存在する。
裏返すと、男は偉いとする馬鹿な男たちの
男根主義がその女性差別を今の時代に
あってさえも温存させている。
男と生まれた事はたまたまであり、自分の
意思や手柄とは無縁であるのに、それを
自慢したり誇りに思ったりして人に上下
をつけようとする。
これこそが差別の実体だ。
そしてそれを制度的に補完しようとする
のが社会における差別制度であるのだ。

最近夫婦別姓を叫ぶ人たちが多く、その
主張のほとんどが「男女同権」を言う。
江戸期、武家社会にあっては夫婦別姓
のままであった事を知らないのだろう。
日本においては夫婦別姓は男尊女卑の
男中心の社会構造の体現であり、支配者
階級である武士たち(全日本人3千万人
のうちの約8%の人口比率。日本は平安
時代から幕末まで総人口は3000万人で
横這いだった)はその男社会を代弁する
第一人者としての立場を堅持していた。
善し悪しの問題ではない。そのような
ものとして日本はあったのだった。

今、夫婦別姓を唱える人たちは、夫婦
別姓にあった日本の幕藩体制の武家社会
の有様を知らない人たちが別姓を主張し
ているのではなかろうか。
たぶん、明治以降の新政府が創作した
新戸籍制度の「家制度」にのみ着目して。
それはまるで私にあれを想起させる。
看護婦という呼称を撤廃しようという
社会PRが蔓延した時の革新勢力の主張だ。
それは「医師のみは師の文字を使うが
看護婦たちは婦のままだ。医師はナース
を見下している。ナースたちにも師の
文字を使用すべきだ」と。

アホかと思った。
そもそも医師とは江戸期の価値観に
おいては非常に身分の低いものだった。
それゆえ武士の士(さむらい)という
文字は与えられない。師だ。詐欺師と
同じ師が使われた。医士ではない。
さらに江戸幕府以前の日本においては、
医師は全員いわゆる「」が医者だっ
た。現在の看護師にあたる役職も、助産
婦もすべて「」階級が担っていた。
そもそも病院という施設運営が「」
とされた社会の最下層に自分の意思に
関係なく置かれた人たちによって
運営
されていた。そのように上から
された。
京都に「病院」の原初が存在する。
貴賤差別のピラミッドの頂点は天皇だ。
「貴」の存在は「賤」なくば存立しない。
自己以外を下なる者として見下して踏み
しだくのが貴賤の差別であり、その頂点
に君臨するのが天皇であった。政権は途中
から武士階級が簒奪して天皇親政を骨抜き
し、天皇を持ち上げる形式上の体制を創
作し、そして差別による体制を乗っ盗って
日本を実効支配をしてきた。
とにかく、公家も武家も人の生と死に関
与する仕事はすべて「」に担当させ
てきたのが日本の階級社会だったのだ。
医師や歌舞伎役者が上級国民であるか
のような勘違いは、明治以降の富裕層
と重なる状態が発生して以降の事だ。

看護師呼称の主張者たちの中身は、
私には非常にオソマツに思えた。
差別撤廃を口にしながら、日本の差別
の歴史についてあまりにも疎すぎる。
そして、それの主調の中心幹は、差別

撤廃としての主調ではなく、自分たち
ナースの待遇改善要求の域を出ない
ものだった。
それはあたかも、歌舞伎役者が江戸期
に訴訟により弾左衛門の支配を外れる
事を願ったように。
歌舞伎界は訴訟に勝利し、日本の歴史
の中で稀有な例として「脱賤」した。
以降は「梨園」と呼ばれ、あたかも
上流階級であるかのように振る舞う
ようになった。
だが、歌舞伎のオハコの真骨頂は演目
「助六」
にみられる差別撤廃のその
精神性なの
だが、自分たちのみ脱賤
して、社会
構造としての差別構造を
糾弾する地点
まで到達しなかったのは
当時の歌舞伎
役者たちの限界性だ。
結局は自分らのみの待遇改善要求で
しかなく、全人民的な幸せを願う
視点での行動とは位置づける事は
できない。
「歌舞伎界は君らは脱賤できてよかっ

たね。でもね、未だ社会に多く残る貴賤
の差別はどうするの?」という話なのだ。
だが、提訴≒死罪という時代において、
命を賭けて決起して自分たちへの差別
支配を脱する事を公に勝ち取った事は
賞賛に値するし、歴史的偉業であり、
人の世に光を灯した大きな功績である
といえる。
以前に歌舞伎役者たちが命がけ
で世に未来の光を照らした。

江戸時代などは、そうした階級差別、身分
差別こそが全
社会の全システムの骨子だっ
たのだから、
本当に幕藩体制時代という
ものは非人道的な社会構造だったのだ。
貴賤とは読んで字のごとく、貴がある

から賤がある。人を人としてまっ平に
しないのがそれだ。
何が良くないって、生まれた時から
その階級や身分や職業が本人の意思を
無視して固定されてされている事だ。
そして、生まれ出自血脈によって人を
差別
する社会構造の上に人々の意識も
あった。

それが差別を主軸とするピラミッド型
の社会構造であり、日本は国家開闢以来
なんと1948年までその構造にあったの
である。

ちょうどナース問題と同じ頃、国政選挙
があった。

小泉総理が国民に黒白判断のステレオ
投票を迫った時だ。
多くの意図的な立候補者が野党潰しの
ために捨て駒の得票分割を狙って各地
で自民党の後ろ盾で立候補するに至った。
彼らは「刺客」と俗に呼ばれた。
広島六区三原地区からはホリエモンが
立候補して金権ホリエモン節をのたま
わっていた(落選)。
その国政選挙の時、社民党(当時)の
女党首が「女を刺客に使うな~」と
宣伝カーの上で演説していた。
まだ社会党に入る前、東京地裁前で
「最近テレビばっか出てて
タレント
みたいだね」とからかった時
「いや
だぁ。やめてよ~」とニタついて

いたのは遥か昔の弁護士時代。その
国政選挙の頃
には弁護士稼業ではなく
政党の党首が主たる仕事だった。

だが、「女を刺客に使うな~」である。
これあかん奴と思った。
男女同権ではなくフェミニズムなのか。
自衛隊員だろうと米軍だろうと、職務
に差異はない。それが本物の男女同権
だろうに。
大昔、私の先輩が、某大学で修羅場
状態になった時、日本共産党民主青年
同盟(日共の学生部隊)と揉めて対峙
した。学内のタテカン前で、こちらの
話をまったく聞かないでわめきちらす
日共の女をぶん殴った。
すると、その女は「女を殴った~!」
と言って大騒ぎした。
学生運動のヘルメットを被った武装集団
同士のゲバルト寸前の対峙の修羅場現場
で男も女も
あるもんか。何を日共民青は
寝ぼけた
事を。
しかし、リベラルを気取る日本共産党や
日本社会党は得てしてそのような感覚
だった。
男女同権を口にしながら、「女性は庇護
されるべき存在」としての権利のみを
言うのだ。この矛盾。
権利とは義務との連鎖であるという
民主主義の精神さえ忘却している。
だから私は、日共代々木とソ連の手先の
日本社会党(特に党内向坂派)が大嫌い
だった。

理由はニセモンだから。本当の本物の
ニセモンだから。

善し悪しの問題とは別な存在として
日本の家紋は現在も存在している。
私は自分の妻の事を「嫁」と人に言う
事は一切ない。
法律用語には存在しないし、慣習とし
ても前時代的な悪しき女性蔑視の因習
を代弁する単語でしかないからだ。
なので、地方の田舎に21世紀の今でも
残存する旧弊である
自分の妻の事を
「嫁」と呼称して
なんの疑問も抱かない
土地柄や人も私は大嫌いなのだ。
さらに、てめえの妻の事を人様に
「奥さん」とか言ってる間抜けは、
嫁呼称の上を行く論外だ。
日本人が話す敬語について一切無知
なのだろう。
「うちのかみさん」という表現と
「うちの奥さん」という表現では、
中身内実意味合い使用目的に雲泥の
差があることをもっと日本人は熟考
べきだろう。



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