渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

懐かし写真 〜湘南の玄関 神奈川県藤沢〜

2020年09月01日 | open


うおー!懐かしい。
この町は1962年から住んでいた。
この階段が懐かしい。
さいか屋の向かいの名店街には「こくや」
というラーメン屋があって、そこのタン
メンが最高だった。

これはさいか屋の屋上遊園地。
オープンカーでもハングオフだいっ!
(ダメなベレー被りの見本。4才時。
これは幼稚園の制服ではなく、普段
街に出かける時はいつもこんな格好
だった。野外遊びではキャップ)


さいか屋の最上階の大食堂(という名の
レストラン)から見る夕陽と富士山が最高
だったのです。
ビバ湘南!


この風景を毎日見ていた。




何と!驚き桃の木!
56年後の今も屋上サーキットがある!
まじすか?
ビル建て替えてないの?
でも、外周の汽車ポッポはもう無い
みたい。


あー、よく見ると違うなあ。
おいらの頃はミューの高いコンクリ路面
の右周回のオーバルコースになってて、
結構、ガキンチョがイケイケでレースを
やってた。
見知らぬ奴が来るまで待って、勝負だ!
みたいな。幼稚園児や小学生が。
なので、当然、おいらの乗り方も4才の
ガキであれ。インに体重移動しないと、
そのままの速度ではコーナーをクリア
することができなかった。だからちゃん
と目線も出口を見てるでしょ?
あと、ステアは当てたままだとくるりと
マシンが回ってしまうことを知ったので、
ちょんちょんとインに当て舵するように
しておいらは走らせていた。
同世代ではおいらとシュンちゃんという
おない歳の奴が速かった。ダントツ。
他の同世代や年上の小学生たちはドカン
ドカンとコーナーをクリアできずに衝突
しまくっていた。
今のちびっ子カーのようなモタモタでは
なく、結構速度出るエレクトリックカー
でしたよ。おもろかった。一人で乗るの
も、人待ちでの勝負も。
あ!風切る速度だから、ベレーが後ろに
引っ張られてキノコになってるのか!(違
一人の時は練習みたいな感じだった。
「あんた車ぶつけないからもう一周乗ら
してあげる」
と切符のおばちゃんが言ってくれてオマケ
周回を乗ったのをよく覚えている。
あの時の受付のおばちゃん、何か、紺色
のクリームパンのような形の帽子を被って
た。1964年の事である。
東京オリンピックの年ですね。
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