──ロ・レンテ城での一件から翌日。
見やれば、大粒の雨が絶え間なく窓を叩いている。
遠くで二度雷光が弾けたのが見え、少し遅れて劈く様な雷鳴が轟いた。
(今日は流石に出掛ける気にもならないな……)
ぼんやりと窓の外を眺めながら、モモンガは溜息を溢した。
今日はリ・エスティーゼ王国では珍しい豪雨に見舞われている。モモンガの体感でも、この世界に来てから体験する最大の降雨量だ。室内のじっとりとした湿気を鬱陶しく思いながら、彼は手にしている本の頁をまた一枚捲った。
モモンガは天候を操作できる術もあるのだが、雨除けの為にわざわざそれを使うつもりはない。自然はあくまでも自然のまま、豪雨ならその成り行きを楽しむ程度には心の余裕はある。むしろこの世界にきたときは、人体に害のない雨模様の美しさに見惚れていたこともあった。
「モモン様、お茶菓子を用意しました」
「ありがとう」
牛酪の香りがふんわりと立つ焼き菓子を盆に乗せて、ツアレがやってきた。彼女のメイド姿もそこそこに板についてきたものだ。家事全般を熟せるツアレがいるおかげで、モモンガはこの屋敷での暮らしをそこそこに気に入りはじめていた。
ツアレの作る料理は『黄金の輝き亭』のものと比べると明らかに家庭的で派手さはないが、自分が雇った可愛いメイドの手料理というのはまた乙なものである。これだけ大きな屋敷を構え、しかもうら若いメイド付きの生活というのは中々に自尊心を満たしてくれるものだ。
これはあの頃……ヒエラルキー最下層の鈴木悟であった時ならば、絶対に望めなかった生活だった。
「良ければツアレさんも一緒に食べませんか」
「え……い、いいのですか……?」
「もちろん。主人の私がよいと言っているのですから。食べながら、少しお喋りでもしましょう」
ぱぁ、とツアレの表情が華やいだ。
それが何だか犬の様で、モモンガの気持ちも仄かに暖かになる。
ツアレはこの屋敷にきた当初はおどおどとした態度が顕著に見られた。心の傷に加え、緊張もあったのだろう。しかし彼女は時間を重ねるたびに、先程見せた様な朗らかな表情を次第に見せる様になった。
「……え、えっと……?」
ツアレが気恥ずかしそうに顔を赤らめる。
モモンガはそんな彼女の顔をずっと眺めていたようだった。
「すみません。ツアレさんの笑顔が可愛らしいというか、なんというか」
「え?」
「ここに来た日と比べると本当に表情が明るくなったな、と」
「そ、それは……モモン様が、いつも私に優しくしてくれますから……」
気恥ずかしそうに焼き菓子を食むツアレを見ながら、モモンガは微笑ましく思う。彼のツアレに対する愛着も、この生活の中で確かに育まれていた。ニニャやエンリ達との絆とはまた違う、保護者としての側面が強い愛情だ。
できることなら、ツアレの自立をできるだけ支援してやりたいとモモンガは思っている。それは拾った者としての責任というより、彼自身が本意から手助けしてやりたいからだ。
「…………」
ざあ、と暴風に吹かれた雨粒が、ひと際大きく窓を叩いた。それを見やりながら、モモンガは目を細める。
(『八本指』と『蒼の薔薇』の抗争の日は近い……できればその前に王都を離れておきたいんだが……)
焼き菓子を摘むモモンガの脳裏に過るのは、昨日の王城での件だ。
できることなら事態に巻き込まれる前に行動したい。
王都で見るものは見れたし、何より『黄金』と称される姫を間近で見ることができた。事件の当事者になりたくないモモンガにとって、これ以上この王都に留まるメリットはないと言ってよい。
それに、はっきり言ってモモンガはそろそろリ・エスティーゼ王国を出たいと思っている。王国の全てを観光できたとは言えないが、抑えておくべき王都は観覧できた。そろそろ新しい世界も見てみたいというのも事実。彼は近いうちに──アインザック達に泣きつかれる前に──隣国のバハルス帝国へ行くことを計画していた。
(だけどなぁ……)
王都……ないしは王国を出るにあたって、懸念点が一つある。
「どうされましたか? モモン様」
「いえ……」
……そう、ツアレの存在だ。
彼女の存在が、現在のモモンガの旅の足枷となっていた。
別に彼女のことを鬱陶しく思っているわけでは決してない。しかし、それでも彼女が要因でフットワークが重たくなっているのは事実。
モモンガはツアレの今後をどうするか、現在決めあぐねていた。
(ツアレさんのトラウマが軽減されるまではこの屋敷で雇っているつもりだったけど、この子の社会復帰ってかなり難しいんだよな……)
実はツアレは未だに屋敷から一歩も出ることが出来ていない。
敷地外に出ようとすると、足が竦んで動かなくなるのだ。発汗や動悸、喘息など、夥しいストレス反応も見られ、社会復帰どころの話ではない。
男性恐怖症の極致というのもある。
男に嬲られ続けた人生を救ったのが、女性の美の頂点にいる
男に不信感を募らせ、女神に心酔しているなら当然の結果ともいえよう。仮にツアレを救ったのが心優しい老紳士であったならば、彼女の男に対するトラウマも多少なりとも軽減されていたはずだ。
(……カルネ村へ連れて行っても、馴染むのは難しいかもしれないな)
そもそも男がいる環境が無理だとどうしようもない。そうでなくとも、ツアレはこの屋敷とモモンガのことしか信用できないでいる。
つまりモモンガがただちに王都を出るとなると、ツアレに対する非情な決断も迫られてくる……ということだ。
(……少し無責任かもしれないけど、やはりあの手段を取るしかないか)
このまま思考を巡らせていても堂々巡りだ。モモンガはあることを渋々取り決めて、ゆっくりと口を開いた。
「……ツアレさん、私は近いうちに帝国へ出立しようと思っています」
唐突とも言える宣言。
モモンガの言葉に、ツアレの顔色が二度三度と目まぐるしく立ち変わっていく。
「え……? あ、わ、私は……」
「……残念ながら、ツアレさんを連れていくつもりはありません。この屋敷も引き払います」
「え……」
「ツアレさんとは、ここでお別れです」
「え……?」
不安げなものから、突き放された様な絶望の表情へと変わる。涙が零れる間もない、衝撃だった。ツアレは信じられないものでも見ているような、そんな表情をしている。
「ツアレさんはよく働いてくれました」
「え……あ……」
「料理も美味しかったですし、屋敷の清掃もこんなにきちんとして頂いて、ツアレさんを雇って本当に良かったと思っています」
「モ……モモン……さ、ま……?」
ツアレを置き去りにして、モモンガは淡々と言葉を並べていく。事務的に述べられるそれらはどれも突拍子もなく、ツアレにとっては今から断頭台へと上がれと言われているようなものだった。
それにこの薄汚れた世界で、モモンを失くした自分はどう生きればいいというのか、とツアレは思う。浅く考えただけでも、彼女の頭には自害の文字しか浮かんでこない。天涯孤独のツアレが、たった今から心酔する
「……安心してくださいツアレさん。貴女の心配は尤もです」
そんなツアレの憂いを慮ったモモンガの声は、酷く優しかった。残酷すぎるほどに。彼は長い睫毛を蓄えた瞼をゆっくりと落とした。
「ツアレさんが抱えている心の傷……その全てを、記憶ごと消し去りましょう」
ツアレにとってそれは衝撃的な一言だった。
記憶を消し去る。人智では到底不可能なことではあるのだが、主人の言葉ならそれが実現可能なことであるともツアレは感じていた。
しかし狼狽するツアレは、その言葉の真意を推し量れない。
「……そ、それは……ど、どういう……」
「こういうことです」
モモンガは静かにそう口にして、おもむろに立ち上がった。
遠くで雷が落ちる。
僅かな時を置いて、モモンガは自らに掛けた魔法を解いた。
「あ……」
ツアレの目に映るモモンガの姿が、たちまち変容した。
「……驚いたでしょう」
モモンガの背中から、漆黒の両翼が大きく広がった。
頭には角が現れる。瞳孔は縦に割れ、翡翠のメッキが立ち消えた目は金色に変わっている。人と言うより、爬虫類をすら思わせる異様さがそこにはあった。
その身に現れた全ての要素は、人外たる悪魔の証明。異形種の身体的特徴に他ならない。
私は人間ではない──暗にそう突き放つモモンガの意図を汲めぬツアレではない。
主人の真の姿に目を丸くしたツアレは動揺すると共に、はっきりとした納得感も同時に得ていた。これほど美しい女性が自分と同じ人間なはずがないという、ある種の答え合わせをされたようだった。
そんなツアレを見据えながら、モモンガは囁くように言葉を紡ぐ。
「……私は、人の記憶をすら塗り替えられる恐ろしい悪魔です。人間とは決して相容れない存在だということはもうお分かりですね……?」
女神の如き淑女は、悪魔だった。
モモンガ自身にそう告げられ、ツアレの目が見開かれる。
両翼の存在感は決して作り物ではない。
モモンガは敢えてその翼を動かして、自分が悪魔であるという印象を強めた。自分が恐ろしい悪魔だと分かれば、自分やこの屋敷での日々への未練が薄まるだろうという考えからだ。
「あの娼館で植え付けられたトラウマごと記憶を全て消します。ツアレさんは生まれ変わって、どこか遠くでひっそりと幸せに暮らしなさい」
そう言って、虚空から取り出したのはパンパンに中身が詰まった金貨袋だ。モモンガはそれをツアレの前に置いた。口紐が緩んだそれから、僅かに中身が見える。慎ましく暮らせば一生を賄えるほどの白金貨が、ツアレの瞳に映った。
「……い、いや……」
ツアレは、震えながらふるふると顔を横へ振った。
それはモモンガの命令に対して、初めての拒絶の意思だったかもしれない。
「記憶を、消すって……モ、モモン様のことは……」
「……当然、忘れます。次にツアレさんが目を覚ました時は、私達は赤の他人同士です。しかしその方が互いの為でしょう。何故なら私は、悪魔なのですから」
静かに告げられ、ツアレは自身の体が罅割れたかの様な衝撃をその身に受けた。ぐらりと地が撓み、目に映る色彩の全てが暗転した。
(モモン様のことを……)
……嫌だ。
ツアレは今にもそう叫んでしまいそうだった。
「ツアレさん、こちらに」
モモンガが手を差し伸べる。
主人のその言葉は嬉しいばかりのはずであったのに、今のツアレにとっては恐怖でしかなかった。彼女はふるふると顔を横へ振るのみ。
「い、や……嫌ああああああああああああッ!!!!」
「……ツアレさん!」
ツアレは逃げ出した。
椅子を蹴倒して、脱兎のごとく部屋を出ていく。
モモンガはその背中を見送っていた。
大人しいツアレが、あれほど過剰な反応を見せると思っていなかったからだ。
慌てて追いかける。
廊下へ出ると、ツアレが自分の部屋へと入っていくのが見えた。
「ツアレさん!」
間違っていたか、とモモンガは思う。
伝え方、もしくは方法を違えたと、俄かに後悔が滲み出す。
有無を言わさずに記憶を奪っていた方が結果としては丸かっただろう。
しかしそれをしなかったのは──。
「ツアレさん……」
モモンガは、だらりと垂らした拳を握り込むしかなかった。
それからしばらくの時間を置き、モモンガは再びツアレの私室の前へ訪れていた。
時間にして、一時間は経過している。
ツアレが冷静になるには、十分な頃合いだろう。
モモンガは静かに、扉をノックした。
「……」
中から返事はない。
モモンガはもう一度、扉をノックした。今度は、先程よりも強めに力を込めた。
……しかし反応はない。
拒絶の意志を見せているのか、それとも泣きつかれて寝ているのか。
(……信用していた人間が悪魔でしたなんて、余程ショックだったのかもしれないな)
ツアレからすれば見当違いも甚だしい解釈で、モモンガは溜息を零した。ツアレはモモンガに幻滅もしなければ、怒りもしていない。
さてどうするか、とモモンガは廊下で腕を組む。
こうなってくると扉を腕力でこじ開けてもよいのだが──
「……ん?」
──と、彼はあることにはたと気が付く。
部屋の外からでも分かる。
部屋の中の様子が、明らかにおかしい。
「……ツアレさん!」
モモンガは気がつけば、扉を蹴破っていた。
──部屋の中は、無茶苦茶だった。
……それもそうだ。
この大嵐の中、窓を大きく開いていたらそうもなる。
大きく振り込んだ雨粒に部屋の中は水浸しの状態だ。暴風は飛び込んで、テーブルや調度品などを容赦なくひっくり返している。
「ツアレさん!」
名を呼んでも、周りを見ても、ツアレの姿はこの部屋のどこにもなかった。
モモンガの背筋に悪寒が走る。
いつからいなかった。
何故気がつかなかった。
後悔してももう遅い。
モモンガは拳を握り込んだ。
視線の先には、ツアレが飛び出していったのであろう大きく開け放たれた窓が、暴風雨の煽りを受けて軋んだ悲鳴を上げていた。