(神奈川県三浦市)
念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。
そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。
たとえ法然(ほうねん)上人にだまされて、念仏をとなえつつ地獄におちたとしても、わたしは断じて後悔などしません。
(中略)
要するに、わたしの念仏とは、そういうひとすじの信心です。
ただ念仏して浄土に行く。
それだけのことです。
―親鸞の言葉『歎異抄』(訳・五木寛之)―
昨日、浄土真宗のことをやや批判めいて書いてしまったので、寝る前に五木寛之の『歎異抄の謎』を読んでみた。
この言葉は、以前から知ってはいたが、あらためて読んで衝撃を受けた。
浄土真宗は、
ひたすら念仏を唱えて、西方浄土の阿弥陀如来に救っていただく。
というものだ…と思っていた。
別の言い方をすれば、
念仏を唱えれば極楽へ行ける。
という教えだと思っていた。
ところが親鸞は、
念仏が極楽へ行ける道かどうかは私は知らない。
と言い切っている。
「おい、おい…マジかよ…(苦笑)」という感じもするが、ある意味、「正直」な言葉とも言える。
「本当に極楽に行けるかどうかは私にとって大きな問題ではなく、私は法然先生の唱えた『念仏』をただ信じるだけだ」と言っている。
正直、私には不可解な考えだが、読んでいて「親鸞の迫力」を感じたのも確かだ。
ところで、高濱虚子は熱心な浄土真宗信者だった。
昨年、亡くなった深見けん二さんから聞いたエピソードを紹介したい。
以前にも書いたが、要約して紹介する。
深見先生がお若い頃、師である高浜虚子と句会をした。
その時、虚子は、
明易や花鳥諷詠南無阿弥陀
(あけやすや かちょうふうえい なみあみだ)
という句を出した。
「明易」は「短夜」とほぼ同義で、夏の季語。
深見先生は、虚子に向かって、
この「花鳥諷詠」と「南無阿弥陀」は並列と考えてよろしいですか。
と質問した。
つまり、虚子先生は「南無阿弥陀仏」(念仏)を信仰するように、「花鳥諷詠」を信仰する…、そういう解釈でいいか、と尋ねたのである。
虚子は、
そのように考えていただいて結構です。
と答えた。
感激した深見先生は、
われわれも同じ考えです。
と言うと、虚子は笑って、
それはどうかな、本当かな。
と答えた、というのである。
私は深見先生に二度、インタビューをさせていただいたが、この話を二回ともされていた。
おそらく、このことは先生にとって大きな出来事だったのだろう。
そして、虚子のこの言葉こそが、先生にとって生涯のテーマであったのだ、と思う。
虚子は私などより、よほど浄土真宗関連の本を読んでいただろうし、『歎異抄』も深く読んでいただろう。
以上のエピソードから、私は虚子のこんな言葉を想像した。
花鳥諷詠が本当に俳句の真実の道なのか、どうかは私は知らない。
そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。
たとえ花鳥諷詠が間違っていたとしても、私は断じて後悔などしません。
(中略)
要するに、わたしの俳句とは、そういうひとすじの信心です。
ただただ花鳥諷詠の心にしたがって俳句を作る。
それだけのことです。
この「覚悟」というのはやはり大したもの、と言わざるを得ない。
また、親鸞はこうも言っている。
念仏というものは、あれこれ理屈をつけて論じるものではない。
それは自分勝手な想像や知識をこえた、大きな他力の呼びかけだからである。
―同ー
これも「虚子風」にしてみると、
俳句というものは、あれこれ理屈をつけて論じるものではありません。
それは自分勝手な創造や知識を越えた、大きな花鳥風月の呼びかけなのです。
ここで、ふと思ったのだが、この言い回しは虚子の著作の書き方によく似ている。
虚子の文章の書き方は「歎異抄」の言い回しによく似ている。
北千住よみうりカルチャー「じっくりと読む奥の細道」
YouTube第21回「大正時代の俳句②」をアップしました! NEW!
チャンネル登録よろしくお願いします!
【俳句アトラスHP】 UP! http://haikuatlas.com/ ! ←クリック