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I Love Shimo-Ochiai in the Summertime。 [気になる下落合]

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 拙ブログがスタートして18年、初めて横文字でタイトルを書いてしまった。実は、下落合を散歩していると、ときどき子どもじみた夢想をすることがある。それは何年も、いや何十年何百年も前に消えてしまった風景が、とある街角を歩いているときにフッと脳裡をよぎるからだと感じている。以前の記事でも書いたが、六天坂Click!を上っていくとオレンジの鮮やかな屋根の中谷邸が見えはじめ、丘上にたどり着くと黄色いモッコウバラが咲き乱れる赤い屋根のギル邸Click!が姿を現す……というような幻想・幻視のたぐいだ。
 こういう幻(まぼろし)は、親父Click!アルバムClick!にある写真類、地元の写真集、地誌本、地図や絵図、江戸期の浮世絵Click!などを見つづけてきたせいか、「おや、あすこの女連としゃべりながら蒲焼き屋Click!を出て水菓子の千疋屋Click!に入るのは、文紗のうす物を着た芝居帰りのうちの祖母(ばあ)さんじゃないか?」……というように、故郷の日本橋地域ではよく起きていたが、どうやら下落合に住み、やがて拙ブログを長期間つづけているうちに落合地域の古写真や昔の空中写真、さまざまな画家たちが描いた風景などを見つづけてきたせいか、この地域でもそのような幻覚や幻視が起きるようになったらしい。
 ちょっと余談だけれど、拙ブログでは落合地域あるいは落合町と書いて、ときに「新宿区の片隅にある離れのような地域」と表現しているので、落合町をかなり狭い街だと勘ちがいされている、特に東京地方以外の方が多いようだ。「小さな町内に、ずいぶんいろいろな人が住んでいたのですね」は、いつも聞かされる言葉のひとつだけれど、確かに新宿区全体からみればわずか15%余の面積であり、東京全体から見ても他の大きな街に比べれば相対的に小さな街にすぎないのだが、別の地方の方々にもわかりやすく書くとすれば、たとえば落合町(落合地域)は横浜駅のある西区の面積の38%ほどに相当する。たいがいの方が訪れている京都を例にとれば、京都駅のある下京区の40%ほどの広さだ。大阪市でいえば、通天閣に隣接した天王寺区の約56%ほどが落合町の面積だと比定すれば、およそ感覚的におわかりいただけるだろうか。だから、「新宿区の片隅」といってもけっこう範囲が広く、隅々までていねいに見て歩くとすればとても1~2日ではまわりきれない。
 さて、そんな落合地域で近道をしようと林泉園Click!の谷間を歩いていて、晴天の日がつづくにもかかわらず、マンホールの中からいまだ枯れない激しい水流の音が聞こえたりすると、たちどころに豊かな湧水源だった当時の様子を、清水多嘉示Click!『風景(仮)』(OP595)Click!とともに思い浮かべたりする。すると、東邦電力が建てた赤い屋根のシャレた社宅群やテラスハウスに囲まれているような、あるいは中村彝Click!のスケッチ『林泉園風景』Click!と同様に、林泉園住宅地の中に足を踏み入れているような、どこからか目白林泉園庭球部Click!の練習音が聞こえてきそうな錯覚におちいることがある。
 薬王院の旧・墓地前Click!久七坂Click!筋を歩いていて、背後から急に足音が聞こえたりすると、キャンバスと画道具を抱えた汚らしい身なりの佐伯祐三Click!がフラフラとついてきて、「きょうも制作ですか?」と声をかけると「あのな~、ここな~、わしの散歩道Click!でんね、……そやねん」とつぶやいて通りすぎるような気がする。山手通りの工事で、現在は一ノ坂に面した2階家の窓からニコッと笑いかけ、ガラス越しに「ヤ・タ・サ・カ」(矢田坂Click!)と口唇のかたちがいってる矢田津世子Click!が見えたり、林芙美子Click!の自宅前を通ったりすると、血相を変えた彼女が門の格子戸をガラガラと開け勢いよく飛びだしてきて、「ちょっと、待ちなさいよ! あんた、またあたしの悪口を書いてるじゃないのさ!」といきなり怒鳴られそうなので、そそくさと通りすぎたりする。
 上落合郵便局の近くにいけば、大江賢次Click!の借家に潜伏した小林多喜二Click!が変装しながら出てきて、特高Click!が張りこんでいそうな中井駅ではなく、また特高が駅前の交番に大きな鏡をすえつけていつも改札口を見張っている東中野駅でもなく、東の高田馬場駅Click!方面へ抜けようとするので、「あなたも西武線の新井薬師前駅のことを、つい笙野頼子Click!と同様に新井薬師駅Click!といっちゃったりするんですね」と訊くと、シーーッと指を鼻にあてながら細い路地を選んで消えていく、うしろ姿が見えたりする。近くの中野重治Click!宅に寄れば、連れ合いの原泉Click!白装束Click!に榊の枝葉をふりまわしながら、「あだぁん!(うわっ!) こらまたなんだら、おみゃなにかに憑かれとる。明神様の祟りじゃ~!」と出雲弁で飛びだしてきそうでおっかない。
 下落合にもどると、目白中学校Click!の跡地あたりで伊藤ふじ子Click!を見かけたので、急いで追いついて「ぜひ、“彼は”のあとの手記を完成させてください」とお願いする。夏の七曲坂を下っていると、夕闇にまぎれて乱れた浴衣姿で駈け上がってくるのは、奥さんをうまくまいて上落合の自宅から下落合の旧宅方面へ逃げてきた、原稿用紙が入っているらしい封筒とカバンを重そうに抱えて息切れしている吉川英治Click!だ。
 八幡公園Click!の近くで大型家電店のトラックを見かければ、家電マニアの村山籌子Click!がまたなにか高価な製品を注文し、どこかで「もう、しようがねえな、しようがねえな」とぼやく村山和義Click!の声が聞こえてくる。落合第二小学校のあたりを歩けば、大きな野々村邸に臨時の憲兵隊分署が置かれたのは、やはり上落合にプロレタリア作家や美術家が多く住んでいたからだろうなと想像し、北隣りの吉武東里邸Click!の前を通れば、関東大震災Click!のとき帝国議会議事堂Click!大蔵省の設計プロジェクトClick!は、ここでなんとか事業が継承できたんだと、霞が関の国会議事堂の姿が浮かんでくる。
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 寺斉橋をわたって下落合側へ帰ろうとすると、橋の手前で白いミグレニンの錠剤をラムネのようにポリポリかじりながら、着物姿の尾崎翠Click!がフラつく足どりで前を横切ったりするし、寺斉橋北詰めの喫茶店の前を通ると、「ワゴン」Click!萩原稲子Click!が色っぽい流し目をしながらドアの前でタバコを吸っていて、背後のドアが急に開くと安ウヰスキーで酔っぱらった檀一雄Click!太宰治Click!が、なにかヘラヘラ笑いながら肩を組んで出てきて、稲子ママに手をふったりする。中ノ道(下の道)Click!に出ると、もぐら横丁から辻山医院Click!へ寄ろうと歩いてきた尾崎一雄Click!と、第二文化村から振り子坂Click!を下りてきた片岡鉄兵Click!とがバッタリ、一瞬足を止めてにらみ合いをしている。
 坂道をのぼって目白文化村Click!に出ると、近衛町Click!もそうだけれど、どこにどのような意匠の邸が建っていたのか、古写真や絵画、空中写真などからかなり見えてきているので、すぐに「誰々さんち」といい当てられそうだ。変なじいちゃんClick!社交ダンス教室Click!を開いていた、アビラ村Click!にある赤い屋根のアトリエClick!が跡形もなく消えても、どこからか蓄音機が奏でる佐渡おけさClick!が風にのってかすかに響いてくる。六天坂Click!を下っていると、右手のバッケ(崖地)Click!から「この玄室には、玉砂利の上に碧玉の勾玉Click!鉄刀Click!が残ってるぞ!」という声が聞こえてくる。のぞくと、守谷源次郎Click!鳥居龍蔵Click!の考古学チームが、古墳のひとつを発掘しているようだ。
 これらの幻視や幻想は、酔っぱらっているからでも、別に変なクスリをやっているからでもない。先年、吉屋信子Click!の姪にあたる吉屋敬様と、甲斐仁代Click!の甥にあたる甲斐文男様と楽しくおしゃべりしていて、COVID-19禍が収まったら下落合2108番地(現・中井2丁目)の吉屋信子邸Click!跡から、彼女が作品のファンだった下落合1385番地(現・中落合3丁目)の甲斐仁代・中出三也アトリエClick!まで、当時の目白文化村コースどおりに散歩しましょうとお約束したが、作家の吉屋敬様は吉屋信子に髪型から雰囲気まで似ているので、シェパードClick!でも連れ歩いたらめまいを起こしそうな錯覚におちいるだろう。
 いや、落合地域を往来する“有名人”ばかりでなく、もう一歩踏みこんだ幻視・幻想を見ることもある。妙正寺川の谷間を通れば、低空をドーリットル中佐が搭乗するB24の<2344機>Click!がフルスピードで飛んでゆく爆音が聞こえ、「日本の戦闘機はどうした、対空砲火はどうした!?」と叫ぶ防護団員Click!の男が、ムダとは知りつつ爆撃機を追って走っていく。聖母坂の下を歩けば、大正期のハイカーによるタバコの火の不始末Click!で、西坂・徳川邸Click!斜面の林から青柳ヶ原Click!の草原一帯まで燃え拡がり、落合消防組Click!が小型の蒸気ポンプを重そうに引きずりながら、手に手に鳶口を持って駆けつけてくるのが見える。
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 箱根土地Click!堤康次郎邸Click!の斜向かいで強盗傷害事件Click!が発生し、若妻がひとりで留守番をする家へ隣家の資産家のドラ息子が強盗に入り、ナイフを突きつけてカネを出せと脅したところ、逆に若妻にナイフを奪われ顔や手をむやみに切りつけられて逃げだし、駆けつけた警視庁の等々力警部が「よしっ、わかった! 犯人はおまえだ」と血濡れのナイフを手にした若妻を逮捕しようとしたら、「あんた、バッカじゃないの? 強盗に入られたのはわたしのほうだってば!」といわれ、「よし、わかった! 犯人は隣りの息子だ」と隣家へドカドカと踏みこんでいく、そんなおかしな情景が浮かんだりする。
 中村彝アトリエの近くを夜に歩けば、戦争を終結に導くために、ひそかに画策をつづける米内光政Click!が、夜目にも白い着流しのままとある屋敷から散歩にでたところを、陸軍の徹底抗戦・一億玉砕を叫ぶアタマのおかしい「亡国士官」たちに雇われたスパイの尾行が明らかなので、「そろそろ隠れ家を、別の場所に変えたほうがいいですよ」と、すれちがいざま囁いたりする。高田馬場2号踏み切りClick!をわたれば、特別編成の軍用列車の通過を見送りに、指田製綿工場Click!を中心とした軍国少年・少女たちClick!が線路土手に集まっている光景が浮かび、警備する在郷軍人会の男に「軍用列車が通りすぎたあと、すぐに品川方面からやってくる貨物列車が向こう側の貨物線を通過するので、絶対に子どもたちを線路内に入れちゃダメだ」と、しつこく念を押したりする……。
 そう、文学好きならお気づきかと思うが、このような幻視・幻想は米国のジャック・フィニイが見ていた幻視・幻想とそっくりなのだ。フィニイが見ていたのは、イリノイ州のゲイルズバーグやニューヨークのブルックリンの街並みだが、それと同じようなことが東京の落合町の街角でわたしにも起きているようだ。米国のたいへん有名な小説なので、読んだ方も多いのではないだろうか、『I Love Galesburg in the Springtime』(Jack Finney/1963年)で、邦訳は福島正実・訳『ゲイルズバーグの春を愛す』(早川書房/1980年)だ。ちょっと、英国のR.ウェストールに似た作家の米国タイプで、こういう表現やテーマをもつ作品を描く小説家は、きっと各国にひとりやふたりは存在しているのだろう。
 街角を歩いていると突然、過去の情景とつながってしまったり、ゲイルズバーグらしい街並みや自然が破壊されたり消滅しそうになると、どこからともなく過去から“復元力”のようなものが働いて、もとの姿や風景にもどそうとする……というような、少なからずノスタルジーを含んだ妄想のたぐいの作品だ。もちろん、現実には妄想がそのまま実現することなどありえないが、そんな妄想を抱く人物がひとりでも多く街中に増えれば、すなわちその街の歴史やアイデンティティをよく知る住民が増えれば、主体的に取り組むなんらかの活動を通じて現実的な力となり、無秩序な破壊や消滅を止められるかもしれない。そう、従来は単なる世迷言などといわれてたはずなのに、日本橋の上に架かるぶざまな高速道路を取っぱらう事業Click!が、今年からようやく始動したように……。
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 そんな他愛ない妄想を抱くようになったのは、わたしが高校生Click!のころから眺めていた落合地域の風景と、現在のそれとが大きく異なってきているからだろう。わたしの記憶に残る緑豊かで落ち着いた、静かな家々が建ち並ぶ街並みと、現在の個性や風情がどんどん失われてゆく街並みとの乖離が大きくなればなるほど、近くの氷川明神社Click!のクシナダヒメか、氏神である神田明神社Click!のオオクニヌシあるいは将門Click!かは知らないけれど、どこからかゲニウス・ロキ(地霊)Click!が耳もとに囁きかけ、妄想のたぐいをどこまでも際限なくふくらませるのかもしれない。
 今年の夏は、落合地域にある小中学校の生徒たちの自由研究や、このあたりにある大学の課題レポートなどに拙サイトが活用・引用されていたようなので、とっても嬉しい。

◆写真上:いまや、下落合(現・中落合/中井含む)らしい風景を探すのもたいへんだ。
◆写真中上:3葉とも、わたしの学生時代からあまり変わらない下落合の街角風景。
◆写真中下上左は、1963年出版のJack Finney『I Love Galesburg in the Springtime』。上右は、1980年に邦訳が出た『ゲイルズバーグの春を愛す』(早川書房)。は、同小説の米国版挿画。は、1913年撮影のゲイルズバーグの大通り。
◆写真下は、イリノイ州ゲイルズバーグにある大通りの現状。(Google Street Viewより) は、雪が降るとよけいなものを隠してくれるので昔の下落合風景らしくなる。は、久しぶりに手塚緑敏Click!・林芙美子アトリエを裏のバッケ(崖地)Click!斜面から。
おまけ1
 わたしが小学生になり、世間で流れる音楽が耳に入りはじめたころ、ことさら強く印象に残っている歌謡曲がこれ。別にモスラClick!にちなんでいるわけでなく、さまざまな音楽を聴いてきたいまでも、同時代の歌謡曲の中では感覚が新しく秀逸な作品だと思う。ザ・ピーナッツ『ウナ・セラ・ディ東京』は、日本につづき各国でもヒットし、次の『恋のバカンス』はほぼリアルタイムでソ連(現・ロシア)でも大ヒットを記録したと聞いている。半世紀を超える昔の曲だが、きょうの記事や拙サイトのテーマらしきものに無理やりこじつけて、歴史は教科書のように時代ごとや章ごとに都合よく区切られているのでも他所(よそ)事でもなく、きょうもまた連綿とこの地方やこの街でつづいているのであり、人々の喜怒哀楽の生を日々重ねているのだ……という意味をこめて。この曲を聴くと、かつて記事に登場した人々にからめ「(あなたたちのこたぁ)忘れちゃいないよ」と、つい返したくなるのだ。
ウナ・セラ・ディ東京.jpgClick!♬
おまけ2
 先の9月1日、岸田劉生日記をめぐる関東大震災の記事Click!を書いたが、震災の2年前、1921年(大正10)に片瀬海岸の御休み処(喫茶店)で撮影された記念写真を、熊谷明子様よりお送りいただいた。左が劉生に頼まれ、岸田一家の罹災記念写真を撮影した片瀬写真館の熊谷治純で、中央が岩手から東京へやってきたばかりの熊谷登久平、右側の前掛けをしている人物は御休み処の主人だろうか。「江ノ島やさして汐路に跡たるる 神はちかひの深きなるべし」と、鎌倉期の『海道記』に由来する短歌スタンプが押されているので、片瀬写真館のカメラマンのひとりが撮影したものかもしれない。なお、岸田一家の被災写真を撮影した熊谷治純は、『勝海舟日記』に登場する横浜の豪商・熊谷伊助の孫にあたる。
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熊谷治純と熊谷登久平.jpg
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