立憲民主党の打越さく良氏(参院新潟選挙区)が19日の参院予算委員会で、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との接点が次々と発覚している山際大志郎経済再生担当相に対し、旧統一教会の信者かどうかをただす場面があった。「信教の自由」は憲法で保障されており、国会審議の中で個人の信仰に関する質問が出るのは極めてまれだ。
 立民・打越さく良氏、国会審議で山際担当相の信仰をただす 参院予算委で質問-産経新聞
 この件です。統一教会擁護派もとい極右と自民党は、この打越議員の質問を「憲法違反」と吹き上がっていますが、これを憲法違反とするのは困難でしょう。(そもそも現行憲法を変えたがっている人々が、自分に都合が悪いと現行憲法を持ち出すというのが噴飯ものですが)

 この件に関して、「就職の面接で信仰を聞かれたら」 などという例えで、あたかも質問に問題があるかのように論じる人々もいます。しかし、本件の2つの特殊性を考慮すれば、これは信仰の自由という観点で論じることがそもそも妥当ではないと言えるのではないかと思っています。

特殊性その1:対象が破壊的カルトである

 まず、本件で問題となっているのが破壊的カルトであるという点を考慮しなければなりません。端的に言えば、統一教会はその他の一般的な宗教団体とはその性質が異なるため、その信者であるかどうかを尋ねる意味も変わってきます。

 破壊的カルトとは、心理学などの研究分野においては『自 らの利益追求のためにあからさまな欺瞞を行う集団』と定義されています(『破壊的力ルト脱会後の心理的問題についての検討: 脱会後の経過期間
およびカウンセリングの効果
』などを参照)。この定義に則れば、統一教会が破壊的カルトであることは論を待たないでしょう。

 いうまでもなく、破壊的カルトは様々な犯罪行為、反社会的行為、倫理的あるいは通俗的に許されない行為に手を染めています。その信者であるということは、単に信仰や宗教的な考え方がその団体と近いことを意味しているのではなく、信者としてそのような行為に加担しているのではないか、ということを質しているのです。

 なにより、統一教会については岸田首相自らが『「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)との関係を絶つことを自民党の基本方針にする』と言っているのです(『岸田首相が会見、旧統一教会の関係絶つことを自民党の基本方針に-Reuters』参照)。首相が関係を断つとまで発言している団体と関係があるかどうか質すのは、野党議員として当然の行為でしょう。

 仏教やキリスト教などの一般的な宗教であれば、少なくともそうした反社会的行為は宗教と関連しているわけではありません。犯罪者の仏教徒はもちろん存在しますが、それは犯罪者が仏教徒だっただけで、別に仏教徒になったから犯罪を犯すようになったわけではありません。このような場合、その人の信仰を(批判する意図で)尋ねることがいいことだとは思えません。

 一方、統一教会の信者は、彼らが霊感商法や押し売り、虚偽による宗教勧誘といった反社会的行為を行うのであれば、それは間違いなく「統一教会の信者になったから」です。現在問題となっているこれらの行為と「信者であること」は密接に関係しています。

 このような背景から、統一教会の信者かどうかを確認することは純粋に信仰心を尋ねる質問であるというよりは、こうした反社会的勢力と関係があるかを確認するものであり、信教の自由を害するものだとは言えないでしょう。

特殊性その2:国務大臣が尋ねられている

 もう1つの特殊性は、この質問が国務大臣である山際大志郎経済再生担当大臣に対してなされたものであるという点です。

 統一教会が破壊的カルトであり、その信者であるかを尋ねる質問が信教の自由を侵害するものではないとしても、やはり一般の信者に尋ねるのは躊躇われます。一般の信者が仮に反社会的行為に手を染めていたとしても、それは統一教会が強いた側面が強いためです。また、彼らは教会に寄付金などを搾取される被害者としての側面もあります。

 一方、山際担当相は国務大臣です。国家の行政に強い影響を与えうる立場の人間が、反社会的な集団と関係しているかどうか、しているとすれば具体的にどういう関係があるかを知る権利が市民にあると考えるのが不当なことだとはさすがに思えません。仮に、その質問が信仰心に踏み込んだとしてもです。

 強い立場にあるということは、同じ質問に晒されても人権侵害となりにくいということも意味しています。一般の信者であれば、質問を受けやすいだろう就職の面接などでは、就職の可否を決定する権力に対してはあくまで弱い立場です。そのような力関係で信仰心を尋ねることには問題があるかもしれません。

 反面、山際担当相は国務大臣という、国の中でも上から数えた方が早い地位にあります。質問されたのも野党の議員からであり、少なくとも対等の立場、実際には下から突き上げを食らったかたちです。大臣には質問の回答を拒否する自由もあり、そうした場合に受ける不利益も限定的です(回答を拒否したらマスコミが騒ぐ、というのはあくまで当人のこれまでの癒着のせいです)。

 このような権力者に対しては、権力の健全性を確認する意味で、多少踏み込んだ質問も許されると解釈すべきではないでしょうか。少なくとも、本件で質問を受けている側を一般市民にすり替えて妥当性を検討するのは、問題の本質を見誤っているとしか言えません。

信教の自由は無制限ではない

 そもそも、本件や統一教会関係の問題で「信教の自由」が持ち出されることに違和感があります。ここで自由が持ち出されるのは、ネット上での「表現の自由」の使われ方と共通しているでしょう。つまり、自由であるから何でも許されるし、批判すらも人権侵害であるという無茶な考え方です。

 もちろん、信教の自由も人権の一種である以上、制約を受ける可能性があります。人権は他者の権利を侵害しない限りにおいて認められるものですから、信教の自由も他者の権利を侵害する範囲では認められないと考えるべきです。

 そして、国務大臣という立場で破壊的カルトの信者になるのは、明らかに信教の自由から逸脱すると考えてもいいのではないでしょうか。より正確な表現をするなら、破壊的カルトの信者になる信教の自由があったとしても、そのまま国務大臣の座につく権利はないというべきです。破壊的カルトの信者でいるか、脱会して大臣になるかどちらかを選ぶべきでしょう。

 国務大臣は行政に影響を与える立場です。行政がすべての人に対し平等であるべきことや、法に則って行政が行われるべきであることを踏まえれば、その上層に位置する人間が平等や法に真っ向から反する考え方を持っていないかどうかを確かめるのは重要です。ましてや、統一教会は不平等かつ反法的な教義を「実行」までしているのですから。

 ここまで論じても、いや憲法違反だと強弁する人はいるでしょう。しかし、国務大臣が破壊的カルトの一員になる権利があるのに、市民が大臣と破壊的カルトとの関係を質す権利がないとすれば、それは果たして「権利がある」と言える状態なのでしょうか。甚だ疑問です。