事務室の鍾声~学校事務職員の発信実践

伊藤拓也 全国学校事務労働組合連絡会議(全学労連)、学校事務職員労働組合神奈川(がくろう神奈川)・川崎支部で学校事務労働運動に参加 川崎市立学校事務職員 Twitter→@it_zgrr

全国学校事務労働者交流集会~3年ぶりの全交流は頼もしい皆さんに助けられ、とにかく楽しいものでした

f:id:it_zgrr:20221009135624j:image

 

9/30~10/1にかけて、私も事務局メンバーを務める団体・全学労連の主催する「全国学校事務労働者交流集会」通称「全交流」が開催されました。

一昨年・昨年はコロナ禍を受けて中止を余儀なくされましたので、3年ぶりになります。

 

特に昨年は東日本大震災原子力災害から10年という節目ということで、かなり早い段階で「21年は福島で」ということが決まっていました。

全学労連の中でもっとも勢いのある組合が福事労(福島県学校事務労働組合)で、それだけにいろいろおんぶにだっこになりがちなところもあるのですが、「21年は福島で」は福事労の側からお誘いいただいたところ。

積極的にお招きいただく集会がうまくいかないわけはありません。

 

それだけに2年連続開催断念は(昨夏の感染拡大状況を思い返せばやむなしとはいえ)残念でした。

 

そんな経過もあり、1年遅れたけれど開催にこぎつけたのが今回。

ついでに言うと、私が事務局長という任を仰せつかってからは初めての全交流でした。

 

集会の中身の話は、追って全学労連ニュースで報告があります。HPにも掲載されますので、見てくださいね。

gakurou2006.web.fc2.com

 

また取り急ぎ、がくろう神奈川の情宣紙「連帯」掲載の報告記事がこちらで読めます。(実はこの記事をまとめたのは私です)

 

gakurou.gjpw.net

 

ここではそういうのに書かれないことを。

 

全交流会場から望む二本松城

 

全交流はその名の通り、「交流」が重要な要素を占めるものだと考えています。

そうした点で、とにかく受け入れ組合・福事労の皆さんにはたいへんお世話になりました。

 

先述の通り私は事務局長になって初めての全交流ということで、運営面について相当程度に責任を負う立場なわけですが、後手に回ることやそもそも手が回っていないところが当日多数出てきます。焦るしへこむし疲弊します。

でもそんなところは、福事労の「コンシェルジュ」Aさんが大いにフォローしてくださいました。

 

おかげで元気に飛び込むことができた懇親会。そこでも、福事労委員長のSさんや全学労連事務局でもご一緒した(している)Hさん・Kさんをはじめ、本当に多くの方々と楽しい時間を過ごすことができました。

……あまりに楽しい夜を過ごしすぎた結果、翌日の集会プログラムに支障を生じさせる失態を犯したのですが……それはまたそれ……(汗

 

もちろん、全国から集まった参加者の皆さんとも大いに交流することができました。

これらも、運営の多くの部分を福事労の皆さんが担ってくれたおかげだと思います。

 

そして何より、泊りがけになるまとまった時間をとって交流しながら議論する。

そのことがいかに貴重なことであるか、強く感じました。

 

とにかく楽しかった!

諸々の責任や役割がありはっきりいってかなり疲れましたが、一番の思いはそれに尽きます。

ご参加の皆様、お世話になりました。

 

10/1夜・二本松市で行われた提灯祭り

 

デジタル化社会における学校での生き方 ~「個別最適」と「ウェルビーイング」とは異なる価値観を~ 2021年11月26日・全学労連交流集会基調

思い返すとこの基調を書くのには、かなりの時間と労力をかけました。

今年の人事院勧告に「ウェルビーイング」の語が入ったのは、個人的にはショックでした。

1年近く前の文書ですから今から見れば修正したい点もありますが、それでもあの日の集会でとどまらずもう少し多くの方に目にしていただきたいと思い、敢えてそのまま掲載します。

 

===

 

デジタル化社会における学校での生き方

~「個別最適」と「ウェルビーイング」とは異なる価値観を~

2021年11月26日・全学労連交流集会基調

伊藤拓也(いとう・たくや 全学労連事務局長)

 

○「学校事務」21年12月号に書いたこと

 まず一点反省。タイトルの「学校事務職員の生き方」はなんか説教臭くて失敗したと思っている。雑誌の性質に寄せすぎた感。ただ、じゃあ何がいいかと言われると悩むところ。それはそれとして。
 マイナンバーカードをめぐる昨今の政府の売り文句、「よくわからない人こそ」「だって便利」「みんな作ってる」。なんとも情緒的な売り文句だと思う。「由らしむべし知らしむべからず」=「為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない」。でもそれってマイナンバーカードだけ?という投げかけをした。
 以下、目下の科学技術の進化の中で特に注目されている技術=AI(人工知能)のお話を紹介しているが、AIについて細かく知ることが目的ではない(正直私も専門家の受け売り以上のことはわからない)。ポイントはそこではなく「道理をわからせることもなくただ施政に従わせればよい」という現代社会・学校教育・労働…の在り方を問題にしている。そこで用いられているのは実はAIではなく、「不安の扇動」だ。そのもとに教育体制が組み立てられ、学校労働が定義されようとしているということが問題なのだ。そうした非倫理的・非人間的な扇動に日教組事務職員部が迎合し、学校事務職員の「標準的な職務」にはAIを導入すべし、と文科省に率先して進言するような社会にあって、どう生きていくか。AIに何ができるかよりも、ただ「従わせればよい」が先に来てしまう社会とどう向き合うかが重要な論点なのだ。
 ところで、文中である経営学者の「日経新聞は54年間休まず365日『今こそ激動期』と言っている」「激動は論理的に連続しないから、結局見る対象を変えて『激動』にしている」という趣旨の言葉を紹介した。「変化」「激動」と「不安」はとても近い関係にある。そしてこのことは、「不安の扇動」とも、やはり近いことを意味する。

 

○「予測困難」「予測不可能」という「変化」の表現観測
「予測困難な時代」
16年12月21日中教審「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」=現行学習指導要領の大元 
「予測不可能な未来社会」
17年6月22日松野文科相「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(諮問)」=いわゆる働き方改革諮問
文部科学省HP「学校における働き方改革について」冒頭https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/hatarakikata/index.htm
 「予測困難なVUCA時代」(脚注:Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の略称)
21年6月3日教育再生実行会議「ポストコロナ期における新たな学びの在り方について (第十二次提言) 」 

 

○6月18日閣議決定を見る
 菅前政権が目玉に位置付けた「デジタル化」は岸田政権にも引き継がれた。デジタル化のメリットが語られる一方で、いわゆる「デジタル弱者」への対応が課題とされている。ただそれ以上に、今政府が進めようとしている「デジタル化」とは、行政上の運営や手続き・広報等はもちろんのこと、準公共部門と呼ばれる健康・医療・介護・教育・防災・モビリティ・農業・水産業・港湾・インフラ、そして民間の企業活動・商取引、生活経済活動にわたるトータルなものである。まさに「社会丸ごとデジタル化」。ただ、このあたりの詳しいことはここでは省略。
 いま、学校現場で「デジタルっぽい」動きの筆頭と言えば、なんといってもGIGAスクール構想だろう。1人1台端末配布は全国でおおむね完了し、多くの学校において教育活動に利用され始めている。しかし「社会丸ごとデジタル化」政権下におけるGIGAスクール構想は、それではとどまらない。GIGAスクール構想は、初等中等教育を良くも悪くも囲ってきた枠組みに越境をもたらしたようだ。
 具体的にそれを象徴するような、今年6月18日の4つの閣議決定を紹介する。
「経済財政運営と改革の基本方針2021」(いわゆる「骨太方針)は、初等中等教育について成長を生み出す「4つの原動力を支える基盤づくり」の筆頭に位置付け「GIGAスクール構想と連動したハード・ソフト・人材の一体改革」推進などを打ち出した。それを通じ「個人と社会全体のWell-beingの実現」を掲げると共に、データ駆動型教育への転換、EdTechの活用による個々のニーズや理解度に応じた学習、STEAM教育などにより「個別最適な学び」と「協働的な学び」の実現を謳っている。
「成長戦略実行計画」でもギガスクール構想(原文ママ)などを推進し、「発達の段階や児童生徒の状況に応じた個別最適な学びや協働的な学びを充実するため、データ駆動型の教育への転換による学びの変革を推進する」と言及。
「統合イノベーション戦略2021」では、「Society5.0の実現に向けた科学技術・イノベーション政策」と銘打った第2章のなかに「一人ひとりの多様な幸せ(well-being)と課題への挑戦を実現する教育・人材育成」という項目を置き、そこで「教育データ活用等、教育の分野におけるDXを進め、データに基づく個別最適な学びと協働的な学びを実現」と謳っている。
「デジタル社会の実現に向けた重点計画」では、教育データの利活用と教育ビッグデータの利活用を「『データ駆動型の教育』の車の両輪として推進」と謳うとともに、「ICT を活用しつつ、対面指導と家庭や地域社会と連携した遠隔・オンライン教育とを教師が使いこなすこと(ハイブリッド化)で、『個別最適な学び』と『協働的な学び』を展開することが必要」とした。そして具体的に、マイナンバーカードの活用も視野に入れた児童生徒個々の学習IDや、教育データの蓄積と流通の仕組みの構築を検討課題と明記している。
 そして共通して述べておきたいのは、これらの冒頭では必ず「変化への対応」が位置づけられていることだ。

 

GIGAスクール構想と「個別最適」
 そのうえで、先に挙げた4つの決定ではいずれも「個別最適な学び」と「協働的な学び」が挙げられている。また、21年1月には中教審が「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~」を答申しており、タイトルから一目瞭然な通り、目下の教育政策の重点がここにあることは明白だ。
 このうち特に「個別最適」は、19年12月のGIGAスクール構想においてもその旗印になった(当時は「個別最適化された学び」)。その用語の出自は、以下に詳しい。

 「個別最適化学習」の始まりは18年6月、文部科学省の「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」省内タスクフォース(特別作業班、TF)報告と、経産省「『未来の教室』とEdTech研究会」第1次提言だった。というより経産省主導の色合いが濃かったことは、GIGAスクール構想も含めたその後の経緯を見れば明らかだ。
 もともと個別最適化学習の「学習」は、昨年10月の中教審教育課程部会で溝上慎一・桐蔭横浜大学長が発表した通り人工知能(AI)のアルゴリズム(処理手順)のことである。つまりは「教育の言葉」ではない。そこまで明らかにされながらも中教審、というより文科省事務局は一部委員の懸念を聞き置き「個別最適」で通した。しかもイソップの言葉を捨て去ってもよさそうな時期に、である。

渡辺敦司「中教審初中答申 時期逸した「文学」の言葉」2021年2月7日
http://ejwatanabe.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-e6635b.html

 

「令和の日本型学校教育」答申では、「学習履歴(スタディ・ログ)や生徒指導上のデータ,健康診断情報等を蓄積・分析・利活用する」ことが重要としている。これら教育データの利活用により、特に個別最適な学びが実現する、という考えだ。
 先述の6月18日閣議決定でしきりに「データ駆動型教育」という用語が出ているが、これは以下のように説明されている。文中「堀田氏」とは、教育データ利活用推進の第一人者である堀田龍也・東北大教授のこと。

学習者の属性、学習履歴、成績といった教育データを活用することで、学習者一人ひとりに最適な学習環境を提供したり、ビッグデータ解析によって授業や教育行政を改善したりできると言われる。こうした客観的なデータ基づいて日々の授業を改善し、教育行政の方向性を見いだしていくのがデータ駆動型の教育だ。
データ駆動型教育の具体例として、堀田氏は2つの例を挙げる。一つは「例えば、世帯収入や地域の高齢化率と学力の関係といった、さまざまなデータを組み合わせて分析すれば、何か分かることがあるかもしれない。そうしたエビデンスを踏まえ、児童・生徒の努力とは関係なく恵まれない状況にある子供たちを支援する予算を付けるような施策に役立つ」(堀田氏)という。もう一つは、「学習履歴などのデータを基に、その児童・生徒に最適な学習方法や指導方法を見つけることができる」(堀田氏)ことだ。 

日経パソコン・江口悦弘 「GIGAスクールの次は「データ駆動型教育」に向かう 教員にはデータに裏打ちされた指導が求められる時代へ」2021年5月19日
https://project.nikkeibp.co.jp/pc/atcl/19/06/21/00003/051700226/

 

 要はデータ駆動型教育も、教育データ・ビッグデータの利活用による個別最適な学びの実現と部分的に同義である。
 教育データ利活用がしきりに語られる背景には、GIGAスクール構想による1人1台端末と通信環境の整備がある。このことが、デジタルデータの収集・蓄積を飛躍的に可能にした。
 構想をめぐっては、教育におけるICT機器の利用がOECD最下位であることがしきりに強調された。しかし実際の動きを見ると、単純に他国に負けない教育環境を整備しようというだけの話ではないことが日々明らかになっている。デジタル教科書とて児童生徒の登下校に際して重たい教科書を何冊も背負わなくて良いようになる、などという素朴な話ではない。デジタルドリルとて採点・集計の負担から教員を解放する、などという単純な話ではない。よしんばそうした副産物はあるにせよ、真の狙いは学習データの幅広かつ効率的な収集にある。
 教育データの利活用は、社会的コンセンサス(合意)のないまま進められているのではないだろうか。そもそもGIGAスクール構想自体がそうであったが。由らしむべし知らしむべからず。

 

○「個別最適」は本当か
 そうはいっても、教育データ・ビッグデータの分析・解析とその根拠に基づく教育指導が本当に「個別最適」であれば、歓迎する人も多いかもしれない。人間(この場合教員)が持つ偏見やバイアス、あるいは教育手法や教育思想、経験の差を排除し「公平」「平等」な教育につながる、と考える人もいるかもしれない。
 しかし実際には、データの収集は個別に行われていても、その分析と適用まで個別化できるとは現状では言えないようだ。「個別最適」の判断を下す背景にあるのは、あまた収集された大容量の教育ビッグデータの解析の結果であるが、それの意味するところは「プロファイリング」=類型化であって、ビッグデータと個別のデータを突き合わせて導き出される類型的な個人像に対する適用でしかない。個別データとビッグデータ一般の関係はそうであるという。だとすれば教育データにおいても同じことが言える。
 それでいて、教育データ利活用ありきの施策は教育データ・ビッグデータエビデンス(根拠)としての地位を向上させ、類型適用への確信を強固なものとする。そうするとどういうことが考えられるか。「個別最適化した結果、君にはこの程度が妥当なのだよ」というネグレクトと、「個別最適化した結果その能力止まりなのは君の素質や取り組みの問題」という自己責任論ではないだろうか。

 

○「個別最適」と「ウェルビーイング
 そんなネグレクトと自己責任論をカバーするのが、先の閣議決定でも登場した「ウェルビーイング(Well-being)」という概念と言えよう。もとは1947年のWHO憲章が示した健康の定義を示す言葉だ。
 ただ、目下各種政策文書で用いられるそれは、21年3月26日閣議決定「第6期科学技術・イノベーション基本計画」によれば「ひとりひとりの多様な幸せ」と説明され、その内容は、経済的な豊かさだけではなく「精神面も含めた質的な豊かさの実現」だという。
 現に経済的に困窮している人が多数いる社会にあってそのことを軽視するかのような認識、個々人の精神面の豊かさを科学技術・イノベーション政策によって実現しようという発想、いずれも問題だろう。そのうえ、これの実現には「同時に複数の仕事を持つ」「途中でキャリアを換えることも容易」といったことができる社会が必要だとしている。端的に、不安定雇用のギグワーカーを拡大するものだ。連続1152時間勤務も可能とする高度プロフェッショナル制度や、労働者の使い捨てを容易にした労働者派遣拡大等が「多様な働き方」なる美名のもとに進められたことを想起する。実際、今年度の教職員等中央研修事務職員研修では、ウェルビーイングを「主観的幸福感」と説明したうえで、働き方改革をめぐり「『時短』から『働きがい』へ」とつなげる論理として講義がなされた、との報告を耳にした。
 前の文科相は「身の丈」発言で批判を浴びたが、「個別最適」による選別と「ウェルビーイング」による慰撫(?)と親和的な発言であり、まさに現政府下の社会のありようを示していると言える。

 

○おわりに
「個別最適」も「ウェルビーイング」も、とても耳障りのいい言葉。でもその意味するところを深めると、ぽっかり闇が広がっている。
 そもそも「変化」、しかも「加速度を増し,複雑で予測困難」と言われる「変化」による「不安の扇動」に対して、それを生きる力の育成が必要だ、と現在の学校教育政策では言われている。そして同様の突き付けは子どもだけではなく、大人の労働者にも向けられている。そうした文脈と地続きで出ている点は重要だ。
 ところで、今を生きる私たちはなぜ「変化」を前提として自己を形成しなければならないのか。そもそも言われている「変化」だって多くは人が起こすとされるものであるし、「未来社会」だって人がつくるものではないのか。「社会的変化を乗り越え,豊かな人生を切り拓き,持続可能な社会の創り手となることができるよう,その資質・能力を育成することが求められている」と言われ、「変化を前向きに受け止め,社会や人生,生活を,人間ならではの感性を働かせてより豊かなものにする必要性」と言われるのは、「社会の創り手」なのか。社会(の変化)に対してそれは、じゅうぶん客体的に位置づけられているのではないか。
 予測不可能な未来社会の変化を乗り越えるべく資質・能力を展望するのではなく、どんな未来社会をつくっていきたいか。それこそが本当に大事なことなのではないか。児童生徒も、大人も。私たちも。

「学校における働き方改革」により事務業務そのものが増えている。なのに「事務職員も教員の負担軽減の取り組みを」と。二重の要求を行っている自覚はあるか。

8月下旬に政府各省庁の来年度概算要求が公表されました。

文科省の概算要求を見ると、教職員定数の改善においては特段見るべき点はありませんでした。

小学校35人学級化が進行中であり、文科省は次の定数改善はその効果検証を踏まえて、という考えのようです。そのことから、この傾向は当分続くものと考えられます。

 

事務職員の定数改善についても、小指の先ほども期待を持てない、前向き姿勢さえ感じ取れない内容です。

(「チーム学校や学校DXの推進に向けた運営体制の強化」名目で主幹教諭、養護教諭栄養教諭、事務職員で+100人)

 

一方で、教員業務支援員(旧・スクールサポートスタッフ)・学習指導員・部活動指導員では今年度予算の倍額要求。予算規模としては義務教育費国庫負担金とは比になりませんが、いわゆるスタッフ職の増員に注力する姿勢が見て取れます。

 

文科省概算要求に関する詳しい分析は、近々全学労連ニュースに掲載される予定です。ぜひご覧ください。

 

 

さてともあれ近年、「学校における働き方改革」とりわけ「教員の負担軽減」のために、教員業務支援員や部活動指導員をはじめ新たな職員が学校現場に導入されています。

ところで職員に係る総務事務を担う学校事務職員は、職員数が増えればその分だけその仕事が増えることになります。

増えた職員に係る給与・人事・社会保険等の総務事務には、当然学校事務職員がこれにあたります。

それが仕事ですから、もちろんそれは良いのです。

 

しかし、その事実が事実として顧みられているでしょうか。

新たに配置された職員の方々は、それぞれの役割により教員の負担軽減に資する存在ですが、一方で教員の業務を具体的に引き受けること“のみ”が、教員の負担軽減に資するということなのでしょうか。

教員の負担軽減のための職員に関する関係事務を行いその条件を確保することは、それ自体として教員の負担軽減を実現する取り組みなのではないでしょうか。

 

「事務職員も教員の負担軽減のため、担当職域の拡大を」。

それは学校事務職員の職務に対する無理解という、長く深い学校現場の病理を温存したまま、学校事務職員に過大な負荷をかける論理に他ならないと考えます。

初めて学会というものに参加してみた話~シンポジウム「AI活用・教育データの利活用とその課題」の感想を中心に

昨日、川崎市のカルッツ川崎で開催された「日本教育工学会2022年秋季全国大会」に参加する機会に恵まれた。

 

会員でもなければ研究者でも教員でもない私が、なぜ突然教育工学の学会なんてものに参加したのか。

実は、川崎市教育委員会が開催地として大会の共催に名を連ねたため、川崎市関係者は無料で参加できることとなり、その案内通知が学校に来たのを目にしたせいだ。

(事務職員は文書受付処理を行うので、ほとんどの通知を目にすることができる)

(ちなみに言えばその案内は私の職場の校内では、結局教員に周知されていない…と思う)

 

私は「教育データの利活用」問題に批判的な立場から関心を寄せ、(しばしばサボりつつも)その動向を追うとともに、関係先においてこれに関する考えを公にする機会をいただいてもいる。

 

2021年3月9日・院内集会「デジタル化される医療と教育」でのレポート

3・9 院内集会「デジタル化される医療と教育」 - YouTube

https://www.kyobozaino.com/app/download/14609193729/210309%E4%BC%8A%E8%97%A4%E3%81%95%E3%82%93%E8%B3%87%E6%96%99%E3%80%80%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E5%8C%96%E3%81%A7%E7%8B%99%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8C%E6%95%99%E8%82%B2%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%80%8D+.pdf?t=1615473679

 

2022年2月26日・全学労連ニュース

「「教育データ利活用ロードマップ」 あらゆる個人情報から内心に至るまでを蓄積し流通させ生涯管理と選別の社会を生み出す危険な企て」

WEB全学労連/news/436

 

しかるに日本教育工学会は、この教育データ利活用に関する「推進派」の拠点?縄張り?的な学会であろう、という認識。

特に会長の堀田龍也東北大教授は、文科省が設置する「教育データの利活用に関する有識者会議」の座長をはじめ様々な政府検討会議のメンバーを務め、教育データ利活用の推進を担っている人物として、メディアも含めその発言をしばしば目にする。

まさに教育データ利活用の中心人物と言っていいだろう。

となれば、この学会は私とは見解を異にする点が大、という理解。

 

とはいえ、批判するにしてもその対象のことを知らなければ論は展開できない。

せっかく無料で参加できることだし、大げさに言えば「敵情視察」の気持ちで行ってみようかと考え、プログラムを確認。

すると初日のシンポジウムの演題は「AI活用・教育データの利活用とその課題」とある。まさにどんぴしゃ私の関心対象だ。

「課題」がどの程度提示・剔出されるのかも見ものだぞと。

しかもパネリストに、教育データ利活用に関する課題を憲法学の立場から指摘されている堀口悟郎岡山大准教授がいらっしゃる。かねてお話を聞いてみたいと思っていた方で、良い機会だ。

そんなわけで、川崎市関係者枠により参加することにした。

 

当日。

目当てのシンポジウムは午後だったが、仮にも市の枠で参加する身であまり遅くに行くのもあれだし、冒頭にチュートリアルもあるというから、それに間に合うように向かう。

川崎市関係者」受付へ。おそらく総合教育センターの人。学校名と名前を聞かれ伝えると、参加票が確認されプログラムや名札を渡される。

「さっきまで情報研(川崎市立小学校情報教育研究会)の人がそこに集まってたんですけどね」と言われる。「いや、私情報研関係ではないので…」と返すと「おやおやそれはわざわざご参加を…」的な反応。

事務職員ですとまでは言わなかった。

パンフレット

目当てのシンポジウム

 

冗長になってきたのでまとめる。

〇午前中見て回ったポスター発表、ほとんど意味がわからなかった。(←門外漢なので残念ながら当然)

〇ポスター発表者のなかに、17年前に学生自治をめぐりちょっとピリッとした関係になった大学職員がいた。当時は職員だったが今は教授なのね。私のことなどもう忘れてるだろうから話しかけはしなかった。

〇出版社のブースを眺めていたら営業の方に「献本しますよ」と書類を渡されそうになる。「あ、これたぶん大学教員だと思われて授業の教科書に使ってくれって営業だ…!」と気付き「いや、私小学校の職員なので」と返して逃げる。

〇昼食問題。カルッツ周辺は食べるところ少ないんですよね。昔、近くの教育文化会館で初任研受けてたのでよく知ってる。で、カルッツ向かいの川崎競輪場に突入しそこでパクつく。

〇午後イチの全体会。開催地として教育長が話していた。感想は言わない。

〇シンポジウムは良かった。目当ての堀口先生は期待通り。

〇それ以上に、指定討論者の美馬のゆり・はこだて未来大教授の課題提起が素晴らしかった。私が問題視している点の一端を、当然ながら私などよりはるかに高い水準で突きつけてくれた。

〇具体的には、AIの実態を踏まえた様々な問題点(キーワードだけ挙げると「不透明性」「規模拡大」「有害」「代理指標」)を指摘し、それを教育に適応することの危うさについて、教育工学や文教行政はどう対処するのかと質す内容。

〇パネリストの文科省桐生崇教育DX推進室長。そもそもシンポジウムの題目を理解していなかった?AI活用に関する課題指摘を受け「今はその段階にはない。現段階では言えない。論点を囲っていかないと進まない」って、それはないでしょうよ。(私、小声で「エー!」とつぶやく)

〇桐生室長のこれに対し美馬先生「まだそれを考える時期ではないと言っているうちに、どんどん進んでしまう」と指摘。(私、小声で「そうだそうだ」とつぶやく)

〇キーノート兼パネリストの安田クリスチーナさん。ぶっちゃけ、肩書として記されていた「マイクロソフト」から情報産業の代弁者的なこと言うのかと思っていたが、全然違った。考えが違う点も多いが非常に良いお話だった。特に、AIにまつわる問題として避けて通れないスコアリングの問題に関する、実体験を踏まえたコメントは素晴らしかったし勉強になった。

〇パネリストの緒方広明京大教授。この方も教育データ利活用のためのシステム開発・実装に係る第一人者との認識。でも「現場でやっているけど先生方は優秀なので指摘のようなことにはなってない」って、ちょってあまりに課題認識が軽くないか。

文科省桐生室長、それからコーディネート役だった村上正行阪大教授の発言にも聞いて取れたのだが、技術の進展の中でその先端にいる立場と一般の人々の認識に距離が生じている(それはその通り)中で、後者を下に見るような意識が感じられた。

〇ともあれ、推進側も先端と一般の認識の乖離は理解していることはわかった。

〇であればこそ、(これは私の従来からの問題意識だが)推進側はここでしているような議論に教員・保護者・子ども・市民を巻き込んでやってきたか?政策的に上から進めようとばかりしてきた/していいるのではないか?コロナ禍に乗じたGIGAスクール構想~「ピンチをチャンスに」などと言って~に便乗する形で、教育データ利活用をある種どさくさ紛れに進めようとしている。私にはそう見えて仕方がない。

 

ともあれ、学会とはこういうものなのかという新鮮な発見とともに、教育データ利活用の最先端にいる方々の議論を見聞きすることができたのは望外の機会となった。

冒頭のチュートリアルで村上副会長が、「議論を闘わせる場に」と言っていた。

学会そのものを推進派の縄張りと考えていた私は「ほんとにそうなるんかいな」「推進派同士の上げ合いのシャンシャンなんじゃないん」と思っていたが、それは邪推であった。

本当に行って良かった。

経歴初期の学校事務職員にはベーシックな業務に集中できる環境を保障すべき。それが豊かな学校事務にもつながるはず。

この仕事に就いて13年目になる。

 

当然ながら、給与事務にせよ旅費事務にせよ文書事務にせよ財務事務(これが業務比率としては圧倒的に多い)にせよ、経験年数の浅いころに比べてスムーズにできている。はずだ。

 

昔はマニュアルと首っ引きでやっていた職務でも、今は空(そら)で進めることができることが多くなっている。

強いて希望したわけではないが一貫して小学校勤務だったせいで、どういう物品がいつ頃どんな用途で必要になるかも、わりあいわかっているところがある。

重ねてきた経験の中で、難しい案件への対応の仕方もわかってきて、円滑かつ時間の無駄のない処理ができるようにもなっていると感じる。

 

であれば経験年数の浅いころに比べて仕事はスムーズに終わり、つまり勤務時間中の暇が増えても良いようなところだが、現実にはそういう感じはしない。

 

理由は分かっている。

昔は担当していなかった仕事を、今はいくつも担当するようになってしまったからだ。

 

はっきり言ってしまうが、喜んでそうなったわけではない。

一方で、校長交渉を経て一定の協議と譲歩も込みでそうなっているので、納得はしている。

 

職務経験の積み重ねと担当業務の増。

業務増をこういう風に言うのは語弊があるかもしれないが、私のそれは、所属した学校事務労組のお陰で、ある意味「良い形で」漸増したと思う。

 

 

私の事務職員生活。

その最初の数年においては、学校事務職員の最低限のベーシックな業務のみに集中することができた。

初任時の校長は私に2年目から学校徴収金担当をやらせようとしていたそうだ。

当時の川崎市立小中学校で事務職員が徴収金担当をしている学校は、事務職員加配校をはじめとした一握りだったのだが…。(私は単数校)

ともあれ、校長のそうした構想は学労の校長交渉により封じることができた。むしろ、理の通らない業務をいくつか返上した。

 

かくしてベーシックな業務に集中する環境に恵まれた私は、業務に対する知識を確立するとともに、自発的な発見や工夫や改善を講じ水準を高めようとするゆとりもできた。

そうして自発的な発見や工夫や改善の楽しさを知っていく中で、2校目に異動する頃になると事務職員のベーシックな業務以外に対しても、その対象が広がっていくことになる。

 

今私は、かつて「それは事務職員がやらなければいけないことではない」と突き放した仕事のいくつかを、担当している。

しかしそれは変節ではない。

組合を背景とした自立性と、それにより育まれた自発性。今の自分の仕事に対する源は、そこにある。

校長や市教委や学校業務相互支援事業、あるいは他自治体にあるような共同実施、共同学校事務室……。

そうした「他者」に強いられてやるものではない。

 

来し方を振り返って、強く思う。

経験の浅い時期、ベーシックな業務に集中できたのは幸せだった。

事務職員の職務平準化が言われるが、まだ本来業務の全体像把握も曖昧だし経験したことのない事例も山のようにある1年目2年目の職員に、20年目30年目と同じだけの業務を担当させようなんて、そんなバカな話があってたまるか。

しかしそんなバカな話が、川崎市の学校事務職員の世界の中でも川教組(日教組)・事務研を中心とした界隈で展開されている。

このところの新採用者は本当に気の毒だと思う。

「つらい」「おかしい」と思ったら、ぜひ学労に相談してほしい。

 

給与事務も財務事務もおっかなびっくりな若手に、それだけじゃだめだ徴収金だ就学援助だ学籍転出入だ教科書だ地域連携だ学校運営参画だそれらも全部やれ、と迫れば、消化不良を起こす。

症状が悪けりゃ倒れるし、そこまで至らなくとも消化不良では何一つ栄養にならない。

後に残るのは、瘦せ枯れた学校事務だ。

学校の粗大ごみ廃棄事情と「先送り文化」

すっかり間が開いてしまったが。これでは発信実践の名が泣く。

どうもこのところ、文章を書くにあたっては「書くぞ」と気構えてしまう傾向が強くて、そうすると途端に億劫になってしまって書かないままになり、たいへんよくない。

昔はもっと気軽に書き散らしていたような気がするので、もう一度、気軽に文章を書き散らす姿勢をこのブログに持ち込んでいこうと思う。

これは一種のリハビリだ。

 

今日は勤務校で粗大ごみの回収があったので、その話でも書くこととしよう。

川崎市立学校における粗大ごみの廃棄は、

 

①年に2回ほど市教委が各学校に回収希望調査を行う

②市教委が全校から集約した希望をもとに回収業者と契約を結ぶ

③各校への回収日が決まり、市教委から各学校に日程連絡が来る

④回収日当日に各学校が集積しておいた粗大ごみを業者が回収する

 

といった流れになっている。

 

学校の中で言えば、

 

①のところで学校ごとに校内周知・集約・調査票作成・提出を行い

④の前日には提出した集積所(常設ではなく、大型トラックが入って回収作業を行えるような場所)に提出した粗大ごみを運んでおく

 

といった作業が必要になる。

 

校内担当をだれがやっているかというとこれは学校にもよるのだが、事務職員がやっている例も少なくない。

排出する粗大ごみはもともと備品である場合も多く備品管理台帳との整合も必要だし、回収の時間帯はおおむね昼日中なので特に小学校で担任を持っている教員が担当するのは難しい。

 

ところである時期、自治体が異なれば配当される予算の種類(言い換えれば学校で契約を結ぶ業務の種類)もずいぶん異なるものだと知ったころから、粗大ごみの回収も学校ごとの契約になっている自治体があるのかもしれないなぁ、と思うようになった。

皆さんのところはどうですか?

 

ところで。

私は(私生活はともかく業務上においては)不要なものはどんどん捨ててスペースを作りたいタイプである。

粗大ごみ回収希望調査時の校内周知・集約にあたっては自分でも校内を見て回り「どう見てもこれ何年も使ってなかろ」といった物を見つければ、勇んで担当っぽい人に確認したりする。

どうもこの性質・行動が若干執着に近いようにも自己認識していて、なんなんだろうこれはと考えてみた。

現段階でもしかしたらと思ったこと。

私がここで闘っているもの、捨てようとしているものは、学校の「先送り文化」なのかもしれない。

 

粗大ごみ・物品廃棄は「先送り文化」が色濃く表れる。

学校は広いから、いらないものが残されていても多くの場合ただちに問題にはならない。だからこそより安易に「先送り文化」が大手をふるう。

私の廃棄への執着は、これとの闘いなのかもしれない。

 

そして言うまでもなく、学校の「先送り文化」は粗大ごみだけの話ではないのだ。

給与・旅費・人事事務(総務・庶務事務)の電子化で事務職員の業務負担は軽減されるのか

学校事務職員の担当職務は都道府県や地域、さらには学校によっても差異がある。

 

それは、歴史的な経緯であったり労使確認であったり職員配置状況(特に市区町村費学校事務職員の配置の有無)であったり教育委員会事務局や首長部局が取る業務体制との兼ね合いだったり学校規模であったり、そして事務職員の経験や個性や抱える事情であったり。要因も様々だ。

 

ただいずれの要因についても、それぞれについてその意味・意義が軽視・棄損されるべきではない。

学校事務職員の職務のあり方を考えるとき、現にある差異を真摯に受け入れることが必要だと思う。

 

そうした点から、2020年7月に文科省が「事務職員の標準的な職務の明確化」を示す通知を出したことは、上からの押し付け・規範化を図り現状を強権的に転覆することにつながる乱暴な行為だ。

 

それはそれとして。

いかに担当職務がまちまちだとは言っても、学校事務職員の中心的な職務は給与・旅費・人事管理関係の事務=総務・庶務事務である、と言って異論が出ることはないと思う。

 

この総務・庶務事務をめぐっては、情報化・電子化・庶務事務システム化により事務職員業務の軽減が進む、極論すればほぼ消滅する、かのように言われることがある。

 

文科省中教審関係会議でも次のように紹介されている。

古くは15年近く前からであるが、大枠の考え方はそれほど変わっていないことも合わせて興味深く見るところだ。

09年1月29日・教育の情報化に関する手引作成検討会

19年1月25日・「働き方改革中教審答申

21年12月23日・校務の情報化の在り方に関する専門家会議

厄介なのが、学校事務職員の職の確立だの地位向上だの能力活用だの教師が子どもと向き合う時間の確保だの教頭・教師の負担軽減だの子供の豊かな学びを支援するだのつかさどるだの学校運営に参画するだの……

……とにかく要するに「学校事務職員はもっと働け」という方向性を推進するうえで障壁となる「いや、今の仕事どうすんだよ」という課題に対して、「庶務事務システム入れれば問題ないでしょ」という材料に用いられていることだ。

 

しかしながら、電子化・システム化—―今流行りの言葉を使えばデジタル化—―は業務環境を改善・向上させる、という認識は広くかつ根強い。

上記のような課題意識を持っていたとしても、総務・庶務事務の電子化そのものはそれに関わる業務負担軽減をもたらす、ということに疑いは持たれない傾向が支配的だ。

 

しかし果たしてそうだろうか。

 

アナログな業務を電子化するとき、業務フローは当然変わる。

そしてその業務フローを作るのは、あくまで「人」である。

電子化された環境のもとで職務上のリレーションをなすのも、あくまで「人」である。

今の仕事のあり方がそのままそっくり電子化されるわけではない。

 

一例として。

私の働く神奈川県川崎市では、17年の県費負担教職員の政令市移管に伴い、従来川崎市庁全体で導入されていた事務システムが適用された。

 

その際の当局説明資料が次の通りだ。

全体図

 

(拡大)県費当時の業務フロー

 

(拡大)市費移管後の業務フロー

 

(拡大)フロー変更の理由

 

給与(服務を含む)・旅費・人事といった総務・庶務事務をめぐり、県費当時=電子化以前は、管理職が決裁したものを「結果」(給与・旅費支給や管理帳簿)に反映させるのが事務職員の仕事であった。

それが電子化を機に、それらの決裁経過に事務職員が組み入れられ、これと一体で管理職の決裁責任意識やその前提となる知識・認識の後景化・劣化、事務職員への丸投げ化が進行している。

事務職員は日々、我が仕事として、従来管理職の管理業務であった業務を担わされることになった。

 

私の受け止めとして言えば、この結果、総務・庶務事務上の負担はむしろ増している。

 

総務・庶務事務の電子化が業務負担を軽減させるのか。

 

このことについて、少なくとも「電子化」そのものだけを取り出して論ずることは大きな誤りを招く。

問題は、「電子化」によってどういう働き方/働かされ方になっていくかということだ。

 

システム導入や業務電子化で業務負担自体が単純に軽減されるというのは、システムを売り込むベンダーの広告の世界であって、あまりに単純な認識なのが現実だ。