|
|
不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話 ポール ブラントン ムナガラ ヴェンカタラミア 記録 ナチュラルスピリット 2004-09-01 by G-Tools |
ニサルガダッタ・マハラジになんどか言及されていたので、二冊目のラマハ・マハルシ。
悟った人にたいして、わたしは多くを理解できているわけではなく、おこがましいのだが、ラマナ・マハルシにたいしてはすこし物足りなさを感じる。切れ味や緻密さには欠けると思うのである。
クリシュナムルティのような論理性、ケン・ウィルバーのようなどこまでも説明しようとする意志、ラジニーシのような広い知識、といったものと比べるとすこし遜色を感じる。まあ、悟っていない人間がなにいっているのかと思うが。
ラマナ・マハルシは、言葉や想念の非実在性に気づきなさい、となんどもいう。これは、わたしもわかってきたことだ。人は頭で考えて、創作したことを実在のものと見なし、その「夢」の中で苦悩する。
「それ自体としては、われわれが「心」と呼ぶことのできる実体は存在しない。想念が生ずるがゆえに、われわれはそれから想念が生じてきた何ものかがあると想定し、そしてそれを心と名づける。それが何であるかを知ろうとわれわれが探るとき、そこには何もないことを発見する。心がそのように消え失せたあとに、永遠の平和が残る」
われわれは、ずいぶんと騙されている。言葉や思考で考えたことが実在するものと思い込む。そして、目の前にないもの、過去として消滅したことを、現実に目の前に存在しているかのように、泣いたり、悲しんだりできる。でもそれは、どこにも実在しない。架空の、虚構の、フィクションの世界に騙されているのである。
ラマナ・マハルシはそれを映画にたとえるが、言葉や観念はほんとうに映画だ。
「真我を実現した人は、あたかも普通の人びとが劇場でのスクリーン上のシーンや登場人物が架空のものであり、現実の生活の中に存在するものではないことを知っているように、世界の中での対象物や身体(人びと)が架空の外観であることを知りながら生活し仕事をする」
この文章は、言葉や思考の世界と、知覚世界の混同をきたしそうだが、わたしが理解するところでは、言葉や思考の世界は実在しないといっているだけで、知覚世界にかんしての実在性は、わたしにはまだ解けない。言葉や観念の非実在性はわかる。だけど知覚世界の非実在性には、自信をもてない。
「わたしは身体ではない」という言葉の意味ももうひとつわからない。
「誤りは、「私」は何かであるとか、「私」はそうではないと考えることの中にあるのです」
われわれが意識する身体自身がすでに、想念や観念をふくむもの、観念で表象されたものであり、ゆえに実在しないものであるということなのだろうか。
ラマナ・マハラシは努力や達成するものはなにもないと説く。
「何か達成されなければならないものは、実在ではなく、真実ではない。われわれはすでに実在であり、真実である。本当に得るべきものは何も存在しない。それは今、ここにある」
「あなたは誤った「私」を除去する必要はありません。どのようにして「私」が自分自身を除去することができるでしょうか。あなたがする必要のあるすべてのことは、その起源を見つけだし、そこにとどまることです。それはあなたの努力の及ぶことのできるところまでです。そうすれば、その先は、それ自身が面倒を見るでしょう」
多くの人が陥っているのは、言葉や観念、わたしや感情が、物体のように実在すると思い、それをむりやり排除したり、除去しようとすることである。緊張を止めようとしたり、恐怖を止めようとしてもっと恐怖に追いつめられたり、われわれは非実在のものを実在すると思い込むがゆえに、幻想の除去で、よけいに自分を追いつめるのである。この経験は身に覚えがありませんか。
われわれはあまりにも、非実在性という性質に思いをいたさせないために、言葉や観念を実在するものと思い込み、この世界の性質からしっぺ返しを食らっているとしかいいようがない。
世界の実在性、あるいは非実在性の区別をつけられるようになったとき、わたしたちには安心の境地が広がるのではないだろうか。
それにしても、この本は章ごとにラマナ・マハルシの腰布一着のハダカばかり写されているのだが、無一文や無所有を象徴するのかもしれないが、それは強調されることかと思うw