近代日本が世界で覇権を握れなかった残念な理由 金融立国化できなかった「後発工業化国」の宿命
綿糸の生産については、「東洋のマンチェスター」と呼ばれた(おそらく自称した)大阪が重要である。1882年に、渋沢栄一らの提案により、大阪に近代的設備を備えた大阪紡績会社(現・東洋紡)が設立された。それ以降、大阪にはいくつもの紡績会社が生まれることになった。
すなわち、三重紡績(現・東洋紡)、鐘淵紡績(旧・鐘紡)、倉敷紡績、摂津紡績(現・ユニチカ)、尼崎紡績(現・ユニチカ)をはじめとして、20におよぶ紡績会社が次々と設立されたのである。
【2022年10月17日19時49分追記】記載に一部誤りがあり修正しました。
このように日本は、繊維産業により産業革命に成功した。しかしそれは、日本の産業革命が欧米より遅れていて、欧米の先進国では生糸や綿糸が重要ではなくなり、天然繊維を用いた工業にそこまで力を入れていなかったからこそ生じた現象であった。それはいったい、どういう意味をもつのだろうか。ここでは、それについて見ていきたい。
ドイツの産業革命
イギリスの産業革命は、18世紀後半に綿織物の生産を大きく増加させたことで生じた。それに対し、19世紀末のドイツでは化学工業と電機工業が大きく発展した。そのためドイツで高等工業専門学校や工科大学が発展し、科学技術教育がさらに進み、専門的な知識を持つ技術者が育成されることになった。
ドイツとイギリスの工業化の大きな違いは、植民地の存在であった。すなわち、イギリスは広大な植民地をもち、新世界から輸入される綿花を本国で完成品である綿織物にするというシステムを形成したが、植民地をあまりもたないドイツにはそれができなかったのだ。
そのためドイツは重化学工業に投資し、人工的にナイロンなどの化学繊維を開発したのである。綿は自然界にあったものであったが、ナイロンは自然界には存在しない。ここに、また、そういうものに知識をもつ技術者を養成するために、大学では、専門的知識がある技術者が養成された。
さらに化学工業で化学繊維が生産されることは、生産物と土地との関係が綿織物よりもはるかに希薄になるということを意味する。ナイロンの生産には、広大な土地は必要とはしなかった。繊維生産は、毛織物(動物性繊維)→綿織物→(植物性繊維)→化学繊維(人工繊維)と変化するにつれ、土地との関係を薄くしていった。人工繊維の生産に農地は必要とされず、繊維製品の生産で耕地が減少するということはなく、人口の増加はより容易になっていった。