ニュージーランドに戻ってみると、いきなり南極大陸から吹き付けるPolar blastで、真冬に逆戻りしている。
クライストチャーチ 3℃
ウエリントン 9℃
オークランドは相変わらず煮え切らなくて11℃だが、クライストチャーチだけでなくウエリントンでまで雪が降っている。
寒いのは嫌いだが寒い気候は好きなので、なんとなくウキウキしながら全館暖房をいれて、猫さんや家のひとたちと、ぬくぬくして、ラウンジのカウチに寝転がってKAPITIのアイスクリームを食べたりする。
これはですね。
むかしは質素にホーキーポーキーアイスクリームだったのに、クライストチャーチに日系ニュージーランド人の晩秋という悪い友だちがいて、
いけない感化を受けてしまっているのですね。
不可抗力なのだと言われている。
友だちは食べているアイスクリームを見て選べ、と言う。
おかげで価格がホーキーポーキー·アイスクリームの約1.5倍だとおもわれるKAPITIの豊潤で上品な味に馴染んでしまって、質朴なニュージーランド伝統の味に戻れなくなってしまっている。
日本語ともご無沙汰で、英語ばっかりで、そこにフランス語やスペイン語が入り交じって、大好きなお下品ともご無沙汰で、お上品な人ばかりで、
またまた引き裂かれてしまった、と聞いて、股股さんが裂けてしまったのか、とニヤニヤしてしまったりすることを愛好する人間としては、物足りない毎日だった。
サムライドラマの影響下にある日本語で申し述べると、父上は御壮健で、frozen shoulderになって、手があがらなくなって難儀しているようだったが、それはですね、日本語では「四十肩」とか「五十肩」と言うのですよ、と教えてあげると、四十も五十も、遙か昔のお父上としては、まんざらでもなくて、相好を崩して、痛みも和らぐもののようでした。
母親は相変わらずスピードとスポーツの人で、平べったいジャギュアのスポーツカーで迎えに来て、妹と3人で馬に乗りに出かけても、ごくごく自然に飛ばしてしまう人で、見ていて、なにがなし、健康っちゅうのもいいものだな、とおもう。
近況報告は、ここで終わりです。
え?もう終わっちゃうの?
ずっと日本語で記事を書いていないので近況報告をしようと考えたが、考えて見れば、報告するほどの近況もなくて、第一、自分の近況を報告しようという企てそのものが余計なことでもある。
ではなんの話をするために書き出したかというと日本語なのだから日本語の話で、以前から見狂っていた日本語ドキュメンタリをひととおり見終わった感想を述べようとおもってキーボードを目の前に引っ張り出している。
インターネット、なかでもSNSを読んでいると、NHKはことのほか評判が悪くて、この世の終わり、往年の、ソ連時代のタス通信か新華社か、人民日報かというような言われようで、カネカヤセと言う叫喚が満ちている。
過去に友人であった人でも本人がNHKで番組をつくっていた人が、NHKはダメだ、という。
あまつさえ、読んでいると、スキャンダル以来ガッタガタのBBCを見倣え、という恐ろしい意見まで並んでいる。
いやあ、NHKはいいよお。別格だね。おれはNHKしか観ないんだ、と言うのは最近退職した元フジテレビのおっちゃんだけです。
ところがですね。
これが見だすと止まらないくらい面白い。
並んでいる番組のなかから、なあんとなく好尚に適いそうな「冬の秋田のうどん自動販売機」を観て、一発で虜になってしまったことは前にも書いた。
痺れました。
繰り返しになるが、何度繰り返してもいいくらい衝撃を受けてしまった。
「子供のときから、親が不在だったので、人が恋しくなると、ここに来るんですよね」と女の人が述べている。
真冬の、一面が雪の海辺の、あばら屋、とそのまんま書いてしまうと失礼だし気の毒だが、風情からいうと、他にしっくりくる表現がありそうもないボロボロの建物の屋根の下の、ベンチとテーブルに座っている。
「無人の自動販売機なのにですか?」
と人恋しさに無人の販売機を訪れる、ということに得心がいかないインタビュアーが聞き返して、女の人は、ちょっと寂しそうに、自分でも可笑しそうに、ええ、と笑っています。
もうそこで、ほら、癖がでて、歯を食いしばって、ドワッと涙が出てきてしまっている。
日本だなあ、とおもう。
意味もなく、ああ、日本の人だなあ、と考えている。
そうして、この女の人の気持ちが痛いほど判るようになったのが、日本訪問のゆいいつ最大の成果なのではないかしら、と考える。
あるいは200円のお弁当を買いに来た人がインタビューされている。
ええ、やっぱり安いと助かりますよね。
この先に、この同じ弁当を無料で配っている公園があるんですけどね。
そこで一個もらって、ここで一個買うと、今日一日の食費が200円で済む。
実は身体を壊して勤め先から「来なくていい」と言われちゃったものですから。
日本の人は、自分の身にふりかかる不幸について話す時に、深刻であればあるほど静かに、淡々と話をする癖がある。
ははは。
ぼくは子供のときから両親がいなかったんですよね。
それで叔母の家に預けられていたんですけど、折り合いが悪くて。
亡くなられたんですか?
いえ、きっと子供には興味がなかったんでしょうね。
ある日、急に帰ってこなくなって、置いていかれちゃって。
一回が30分足らず。
観るごとに疲労困憊します。
それでも、やめられない。
なんだか泣きくるっている。
自分で自分を客観視して、この人はダイジョブなんだろーか、と訝しい気持ちになる。
番組を作る側の選択、ということがあるのだと思われるが、
それにしても、出てくる人が重い病気を抱えて必死に生き延びている例が多くて、若い人は、介護職や風俗業についている人が、どう偏って選択しても、ここまでの数が見つかるだろうか?とおもうくらい多い。
ごく自然に、日本社会は、社会としての機能をまったく持っていないのではないか、と考えて。
よく考えてみると、日本政府には払っていないのに、税金返せ、と腹を立てる。
なにもしないんだったら、せめて税金を持っていくなよ。
いちど行ってみたいと思いながら、到頭、行かないで終わってしまった浅草の、小さな、古いアミューズメントパークにビッグディッパーに乗りに来た夫婦が、インタビュアーに、ええっ?北海道から来たんですか?!
と驚かれている。
ええ、もう歳なので悠々自適で、と答えていた人が、ふと気が付いたように、これ、あなたたち「72時間」の人ですか?
ああ、そうなの!
じゃあ、ほんとうのことを言います。
と不思議な言葉を述べて、あの、例の日本の人の淡々とした調子で、
癌の末期で、あと数ヶ月なんですよね、と言い出す。
だから、いちど行きたかったところに、全部でかけようとおもって。
傍らでは、奥さんが、なんだか昨日の晴れた空はよかった、と述べる夫にうなずいているような日常的なやりかたでうなずいている。
日本語ドキュメンタリに出てくる人びとは、出てくる人出てくる人、みな、どことなく、もう死んでしまった人をおもわせる静かさを纏っている。
韓国のドキュメンタリだったか欧州のドキュメンタリだったか、もしかしたら日本のかもではっきりしないが、ソウルのタクシーの運転手の人が、
韓国人と日本人の違いを聞かれて、
ごく普通の常識を話す調子で、
「韓国人は戦って自由を手に入れたが、日本人は戦わないからね」と、
案外「日本人は損なことはしないだけ賢い」と言いたいのだとともとれる話し方で述べている。
それが決定的な違いだとおもう、と述べて、
あなたもデモに出て戦ったんですか?と訊くインタビュアーに
「ええ、学生のときにはね。80年代で、ずいぶん昔だけど」と答えている。
ちょっと、ふふ、と笑って
「火炎瓶を投げてましたよ」
いまは、デモは嫌だね。
タクシーの仕事の邪魔だ、と言って、今度はいかにも自分で思わず口にしたことが可笑しくてたまらないとでもいうように大笑いしています。
ドキュメンタリに限らず、韓国の映画を観れば誰にでも判るのは、
韓国人にとっては、自分たちのいまの自由は、軍事独裁政権という最悪の抑圧者から、通りにでて、戦って、血を流し、死者の山をつくって、みんなで勝ち取った自由であって、そのことをまた韓国の人のひとりひとりが、たいへんに誇りにおもっている。
自由社会、という言葉が状態を表しているのではなくて、自分たちのアイデンティティだと感じられている。
歴史的言語的な背景を考えれば当然だが「兄弟国」と呼べそうなふたつの国を決定的に分け隔てているのは、韓国の人は弾圧に乗りだした軍隊との激しい銃撃戦も厭わずに自由でいることに執着したのに対して、
日本の人は、どちらかといえば自由社会を避け続けて来たことでしょう。
他人の自分に向けられた怒りの爆発を目撃することさえ社会から受けたPTSDのスイッチが入って、不正や卑劣な行動を行った人間よりも、それに対して怒りを爆発させる人間を憎む、日本の人の、よく知られた不思議な反応や、
とにかく取り澄まして、いやあ、なんでもありませんよ、という態度を喝采する傾向は、実は日本社会だけの独自なものだが、
いくら変わった傾向だといっても、骨がらみで、骨の髄まで染みわたっていて、いまさら、どうこうして変えられるものではなくなっている。
それが卑劣で人間性を欠いた人間たちが社会のなかで大手をふって歩くことや、倫理がなくたって良いことも言うんだから、やっぱりああいう人も必要ですよ、という神様が聞いたら卒倒しそうなくらい品性の悪い、下衆な打算を簡単に露わにしてみせる心性を生んでいる。
ところがですね。
どうも淡々と悲惨な運命を受け入れる日本人の美意識と、この卑しさへの鈍感さは、どうも同じ心根に根ざしているもののようでした。
同じものらしい、と言い直してもいい。
美と醜が同一で。
日本という文明は、寂しさの文明なのではなかろーか。
孤独で、生をさえ、死の側から見つめる文明なのかも知れません。
その静かさや美しさに打たれて、中毒したように毎日日本語ドキュメンタリを探し出してきては見続けていたが、おっかなくなってきたので、観るのをやめてしまった。
これはなんだか間違っている、と感じたからではないんです。
死んでしまったやさしい人に手をひかれるような、この方向には、自分とは異なるものがあるという感覚というか、自分には判らないものがあるという自覚というか、結局、若いときにはあれほど嫌だった英語世界の、身も蓋もない生命主義?と現実主義に帰っていくので、へんなことをいうと、おもしろがってラーメンを食べたり、コンジーや和定食、ロティチャナイを食べていたりした朝ご飯が、いつのまにか、また目玉焼とベーコン/ソーセージとハッシュブラウンにトーストという例の「お退屈様朝食セット」に戻ってしまったようなもので、要するに本人が退屈な人間に戻っているのだと言えなくもない、一種の精神の老化と関係があるのでしょう。
見知らぬ美のほうへ行くことに抵抗が起きてきてしまったようでした。
日本語、いつまで続けていられるだろうね?
と、このごろよく考える。
二冊目の日本語本を出そうと言ってくれるひとびとは未だに複数いて有り難いが、
なんだか、もうめんどくさいからいいや、という気持ちがするのは、
認めたくはないが、やっぱり本を書くなら、もう母語だけでいいんじゃないの?と、どこかで考えているのかも知れない。
幸い、というのはヘンテコリンなのかな、
いまはまだアメリカのドキュメンタリを観ていると、ニコラス·ケイジが顔を洗わないでスクリーンいっぱいに大写しになって大声で話している、というか、
大仰で、ドラマティックであろうとしすぎて、辟易する。
連合王国のドキュメンタリは、人間を題材に「動物王国」をつくっているようなもので、悪くはないが、見飽きている。
イギリスは、もういいです、と言う気がする。
どうやらドキュメンタリは日本語に限る、とおもっているもののようです。
暗くてやりきれない、という人もいるけどね。
ぼくは、あのなんだか俯いて、戦うよりは、自分に襲いかかる、ありとあらゆる苦難を耐え忍ぶほうが好きそうな国の人が好きなんです。
西洋価値からは、とんでもないのは判り切っているし、
なぜ好きなのかは、永遠に判らないかも知れないのだけど。
まだそこに、たくさんの人の低い啜り泣きのあいだに立ち交じって、聞こえてくる、「聴き取りにくい声」があるあいだは、ここにいて、そっと耳を傾けていたいとおもっています。
Categories: 記事
Leave a Reply