かつて、その龍は地獄を見た。
甲高い汽笛の音を、幾重にも重ねて反響させているかのような、今までに聞いたこともないおどろおどろしい咆哮だった。
それと同時に、かの龍の周囲に濃密な何かが纏わりつく。目には見えないが、地に積もった雪が龍の足元から吹き飛ばされて宙を舞っている。
どこからともなく表れたそれは、恐らく空気の流れ。風だ。
鋼龍クシャルダオラは暴風を司る古龍。またの名を風翔け、風翔龍と呼ぶ。
「……散開!」
奇襲の選択は自ら捨てた。あちらが許してくれるはずもない。
先手は既に取られている。後手に回っていることを前提にテハに指示を出す。
自らも駆け出しながら、テハが指示通り動けているか確認すべく、ちらりと龍から視線を外した。
その瞬間を狙われた。──いや、目を離していなかったとしても、結果は変わらなかっただろう。
「──うぉ、ぁ」
まるで見えない手で足首をぐっと掴まれたかのように。
足元で渦巻いた風が僕の体勢を崩した。
「────がッ」
それに気付いた時にはもう遅く、横からの衝撃が僕を襲う。砂袋を横っ腹に叩きつけられたかのような感覚。肺から息を吐きながら、かろうじて反射的に横目で僕を打ったものを見た。
──鋼糸で編まれた特大の綱。まさかの尻尾か。
さっきまで、やつは正面に構えていたはずだ。小さく跳んで軸合わせをしたのだろうか。なんという……小回りの利き方か。
雪が緩衝材となり、地面に転がされた僕は咳き込みながら前に身を投げ出す。数瞬後、さっきまで僕がいた場所に前足が叩きつけられた。黒光りの大きな爪が、日の光を淡く反射する。
「ごほっ……ッ」
むせている暇はない。身体を起こせば、間髪おかずに今度は風の圧が来た。ごう、と轟くそれは、吹き付けてくるというよりも押し倒してくると言った方が近いかもしれない。
ここで転倒すれば死ぬ。あっさりと。
前のめりになった上半身に合わせて足を強引に前へと押し出す。半ば転がり出るようにしてクシャルダオラから距離を取り、即座に身を翻しつつ弓を展開する。
僕という獲物を捉えることのできなかったクシャルダオラは低く唸り、僕を睨み据える。その殺気に溢れた眼光に、僕は凍えているはずの全身からさらに熱が奪われているような感覚に陥った。腰を抜かさなかっただけでも儲けものだ。
睨み合いはすぐに終わりを迎えた。クシャルダオラが僕から視線を外して翼を大きく羽ばたかせる。その下にいたのはテハだ。やっと見つけた。
彼女はクシャルダオラに肉薄しつつあった。しかし、ただでさえ強烈な風を身に纏っているというのに、羽ばたきの風も加わるなど、彼女は吹き飛ばされてしまってもおかしくない……はずなのだが。
「……ッ」
彼女はその風の暴力を耐えていた。そして羽ばたきの風をやり過ごすと、風圧を押しのけて前へと進み、背中に提げていた双剣リュウノツガイの片割れをクシャルダオラの後ろ脚の膝の辺りへと突き刺す。
刀身に用いられた火竜の骨髄と体液を僅かに消費して噴き出す紅蓮の炎。このような極寒の地でもその機構は死んでいない。
血が出ているようには見えないが、炎に隠されてしまったのか、傷口が溶けたのか、それとも傷をつけるに至らなかったのか。矢を番えた弓を手に走る僕には確認できない。
ただ、その一撃がクシャルダオラに届いたことは確かだ。反射的に脚が振るわれて、今度こそテハは吹っ飛ばされる。風が上乗せされたのか、かなり遠方で彼女は受け身を取った。
振り返った龍が追撃を仕掛ける。がばりと首をもたげさせると、その口の周辺に急速に空気が集い始める。空気を吸って──いや、違う!
「テハ、避けろッ!」
そいつの腹をめがけて矢を放つも、硬質な音と共に弾かれる。当然、クシャルダオラがそれに怯むはずがなく、テハへ向けてそれは放たれた。
目には見えない。が、それが一撃で人を殺し得ると察するのはあまりにも容易だった。
晴れた空に雪が舞い上がる。全てを払いのけ、あるいは四散させながら進む風の砲弾。
テハはその射線上から飛びのいていた。しかし、それは例え直撃せずとも周囲の空気を思い切り掻き乱すのだろう。テハの身体が何かに背中を押されたかのようにふわっと一瞬浮き上がった。
これが風翔けの龍の
そのブレスを放った主は僕とテハを交互に睨んでいる。どちらも仕留めきれなかったが故に警戒しているのだろう。
テハが僕よりも遠くにいる。やつから仕掛けてくるとして、その狙いは僕になるか。僕は弓と矢をそれぞれ片手で持ったまま、低い姿勢を保った。
このまま、あと二秒。息を止めて、喉も動かさず、龍だけを睨み据えて。──生きた心地が全くしない。
一。
二。先手を取ったのは相手の方だった。僕に向けて地を蹴り駆ける。
この辺りの直感で人間が勝つのは難しい。分かっていたことだ。要はそうするつもりだったということを伝えさせるための二秒だ。
できる限り最低限の動きで。弓と矢を抱え込むようにして斜め前へと回転回避。その場で矢を番えつつ起き上がろうとしたが、またもやつの身に纏う風に吹き飛ばされる。ただ、今回は雪に身体を沈みこませながらも受け身を取れた。素早く身を起こして目の前を俯瞰する。
またも攻撃を避けられたクシャルダオラが唸り声を上げつつ止まる。その、直上。
テハが二秒で生成した砂鉄の直剣が、音も立てず、拘束を解かれて撃ち落とされた。
これは決まる。この龍に初めて傷らしい傷を与えることができる。
何故ならば、クシャルダオラはその場から全く動こうとしない────。
まるで、この場違いに晴れた空を優しく背負うかのように。
翼が広げられて。そこに風が集って。
今まさにその背甲を貫かんとしていた剣は、水に綿菓子を入れたかのように解きほぐされて、目に見えない砂鉄へと還された。
黒い粒子が中空へと霧散していく。
「……規格外にも程があるだろうよ……!」
もう嗤うしかない。それでも体は動かし続ける。
矢を地面に置いて、空いた片手でポーチの中身を弄って回復薬の入った瓶を取り出し、栓を抜いて半ゼリー状のそれを一息に飲む。
さっき尻尾で打ち据えられたときから乱れていた呼吸がやっと落ち着き始めた。まだ骨までは届いていない。ともすれば凍えそうな寒さだが、まだ体は動く。
やつが再び僕たちを睨む一瞬だけ前に、僕はテハを見た。
──彼女が呆然としているところなんて始めて見たな。……いや、違うか。
あれは、忘れ去っていたものがふと蘇ったときにする顔だ。
クシャルダオラに今のテハを感付かせるわけにはいかない。
僕は矢を番えて、弓弦を素早く引き絞って射た。狙いは二の次だが、この巨体だ。余程のことがない限り外すことはない。
しかし、その矢は今度は龍の鱗にすら届きはしなかった。
「……矢返し……!」
矢が届く前に吹き付けた風が矢の勢いを減衰させ、墜落させる。
近距離射撃用の矢を遠方から射たときや、結弦をほとんど引き絞らずに放った矢などが風圧などであらぬ方向に飛ばされたり、墜落させられることを矢返しという。今のはそれとは次元が違うが、起こっていることはそれと同じだ。
しかもやつはご丁寧に地に落ちた矢を前足で踏み潰した。雪に沈められて、ばきっという硬質な音を立てたそれは、もう使い物にはならないだろう。
「ちぃっ」
ただの偶然か、それとも故意か。風を器用に使った軽快な身のこなしで迫り来る巨体から逃げながら僕は舌打ちする。
後者ならば、やつは矢が有限であることを知っているということになる。いや、ひょっとすると本能的に悟っているのかもしれない。
振るわれる尻尾をしゃがんで避け、続けて前足の引っ搔きを身を投げ出して避ける。迅竜のそれよりも速くはない。まだ見切ることはできる。
ただ、それらと共に襲い掛かる風圧が何よりも恐ろしい。
「見えない、ってのがな!」
そう、不可視なのだ。それは。だから影響の及ぶ範囲もそれが来るタイミングも分からない。あるのはただその白銀の巨体だけ。見えない鎧がやつを護り、僕を追い詰めていく。
また
背中を勢いよく押されたような感覚。防具を着込んだ体がただの風で浮かび上がるなど、誰が想像しただろうか。
吹き飛ばされた先にあったのは、突き出た岩。大した受け身も取れず、僕は勢いよくそれに叩きつけられた。
「うぐ……ッ」
回避行動の連続で上がった息を整えることなく、また肺から空気が吐き出される。それゆえの酸欠か、僕は眩暈を起こしてそこから即座に動くことができなかった。
だが、相手の方は待ってはくれない。間もなく足音が近づいてくる──。
そのとき、どんっと横から何かがぶつかってきた。それは僕に抱き着くようにしてしがみつく。黒色と金色に雪の白の混じった髪が見えた。
かと思えば、その視界が一気にぶれる。ざっと景色が流れていく。僕は足を動かしていない。片手を僕の腰へと回した彼女と身を投げ出しているのだと悟るまでに少しかかった。
ろくな受け身もとらずに、僕と彼女は地面を転がった。衝撃で頬が噛み切れ、口から血が零れる。金属製の防具故に打ち身も多い。だが、その程度、命拾いできたことに比べれば軽いものだ。
「っぅ……ありがとう。助かった」
「はい」
テハに短くお礼を言うと、彼女は淡々とそれに応じた。あの状態からは脱することができたらしい。
間一髪だった。テハが助けてくれなかったら、もしくは助けに来るのがもう少しでも遅かったら、僕はクシャルダオラの追撃をもろに受けて、最悪失神していたかもしれない。
あの状態でよく僕の懐に入り込めたものだ。今のように即座に明確に距離を取れる算段でもない限り、二人揃って攻撃を受けてしまう可能性の方が高かった。
あの離脱の仕方は今までに経験していないものだ。できればそれをテハに尋ねたい。しかし、それはクシャルダオラの方が許しはしない。
口から染み出す血を拭いながら立ち上がると、クシャルダオラはその翼を大きく広げ、今まさに空中へと舞い上がった。そのまま、まるで火竜を彷彿とさせるかのように低空でホバリングする。
「空は自分の領域、とでも言いたげだな」
これでテハの近接攻撃はほとんど当てられなくなった。傍にいたテハが牽制で四、五本の短剣を生成し射出したが、その何れもがさっきと同じように分解されていく。
つまり、これからやつに傷を負わせることができるのは僕の矢くらいということだ。
「テハ、テハ。一時離脱したい。話す時間がいる。合わせてくれ」
「了解しました」
手早くテハに用件を伝える。悠長に話す暇どころか、一言だけ声をかけるための余裕すらもかの龍は見逃しそうにない。ただ、こうやって隙とも言えないような合間に言葉を交わさなければ。
テハの同意を得た。目標が共有、更新されて、僕とテハはこれからそれを達成するために動く。
テハの短剣を一つ残らず霧散させたクシャルダオラは、やや身体を後ろに仰け反らせ、そして大きく翼を一振りするとこちらに向けて滑空攻撃を仕掛け────速いっ!?
反射的に身を投げ出す。同時にその翼が迫った。
ガキッと金属同士がぶつかり合う音。脚防具のリオレイアの甲殻で作られた装甲と鋼の翼がぶつかり、装甲だけがはがれて吹き飛んでいく。
その速度、かの雷竜の帯電時のそれに匹敵するか。あの竜との交戦で経験していなければまず避けられなかった。
着地、すぐに身を起こし素早く周囲を見渡す。なぜか天気は雲一つない快晴のため、見晴らしはいい。
……西側の丘を登った先に岩場がある。が、遠い。
北側は森林。幹の太さはそれなりに太い。あそこに飛び込めばその場凌ぎにはなるか。それだけで十分だ。
あの木々が地盤を支えているようなことはないか? ここは山の中腹の雪原だ。北の方はなだらかな地形が続いている。その向こうはまた山の斜面となっているが崩れていくようなことはなさそうだ。
「北へ向かう!」
そう声を張り上げる。と同時に疾走を始めた。かの龍の生み出す風のうなりが相当大きいため、聞こえていないかもしれない。しかし、そのために行動でそれを示す。さっき翼がぶつかった右足が思うように動かず、それでも懸命に脚を動かした。
これに気付かないはずがない。滞空したままテハに攻撃していたクシャルダオラは、僕に標準を切り替えて追随しようとした。
しかし、ここでテハが粘りを見せる。僕の方を向いたときに吹いた一際強い風を耐え抜き、低い位置で疎かになった尻尾めがけて両手に持った剣を叩きつけた。両手から炎が噴き出す。
クシャルダオラは煩わしそうにその場で尻尾を振り払う。そこまで見届けて、僕は彼らから完全に背を向けて走った。テハの粘りを無駄にはしない。
僕が尋ねたいこともそこにある。テハはどうやってあの風から耐えている?
テハの体重はそれなりにはあるが、せいぜい僕が両手で抱きかかえられる程度だ。あの風はその程度の重さでは耐えきれない。構えていてもバランスを崩されてしまう。
それをテハが覆しているのを少なくとも既に三回は見た。何かがある。それだけは確かだ。
そしてもしかすると、その何かがこの規格外の存在と戦うための糸口になるかもしれない。
新雪が
走って走って、背後からぞわりと怖気が走ったと当時に、また地面に身を転がせる。直後にクシャルダオラが滑空してきた。今度は何とか避けきれた。
クシャルダオラの方は、翼を大きく広げて身を起こし、滑空の勢いを殺すどころか、その反動を利用してふわりと僕の方へと向き直る。なんだそれ。空中機動力も他の飛竜の比ではない。
そしてまた首をもたげる。あのブレスが来る。
森の方向へ向けて跳ぶか。それを相手が読んでいるのを前提に、森から離れることを覚悟で反対方向に走るか。ぎりぎりまで見定める。
──顔の動く方向はほぼ正面。森の方向へと走る。
その選択をして、大きく一歩を踏み出したところでそれは放たれた。
それは──目に見える。
地面の雪、土すらをも喰らい、巻き上げ、白っぽい灰色を得たそれ。
「竜巻も吐くか!」
龍が放ったのは地面を這って進む竜巻だった。
それはこの凍土の捕食者である氷牙竜ベリオロスのそれよりも細身だが、風の方向が違う。氷牙竜のそれは外へ吹き飛ばし氷を付着させるもの。あれは内へと引きずり込んで、空へ舞い上げるものだ。
捉えられれば逃れる手はない。しかもそれは──明らかに僕に向けて進路を変えている!
「…………ッ!」
森の方へ走り続けるしかない。あれにかの龍の意志が宿っているとするならどのような回避も意味がない。足を止めること、下手に進路を変えることが飲み込まれることを意味している。
暴れる心臓の音をかき分けて風の音を聞く。
さっき見たとき、あれはそう速く進んではいなかったはずだ。あの風の砲弾よりもはるかに遅い。全力で走れば、そう追いつかれることはない。
とにかく走れ、森へ向けて。竜巻という特異な風の放つ轟きを背に駆ける。
テハのことを気にしている余裕がない。しかし、この風の音が聞こえている間、彼女はある程度自由に立ち回れるはず。あの龍の目は二つだった。ならば双方に注意は払えない、はずだ。
どうか無事で森を目指して走っていてくれ。
木々の幹が確りとした輪郭を持ち始め、その地面の起伏が把握できるようになり、やがて枝に付いた針のような葉や氷の細部までもが見えるようになって──
「────ッああっ!」
なりふり構わず木々の間に飛び込んだ。
そのまましばらく走り続け、ある程度奥へと進んだところで振り向く。
いつの間にか背後の竜巻は消え去っていた。そして、あの白銀の巨体も見えなくなっている。
──テハは。
そう思ったところで、ざざあっと何かが滑るような音を右耳が捉えた。
テハ。と声を上げようとして、寸のところで抑える。ひょっとするとクシャルダオラは僕の姿を見失っているのかもしれない。その成果を棒に振るわけにはいかない。
ポーチから蜂蜜を混ぜた栄養剤と回復薬を取り出して口に含んだ。消耗した体力を少しでも取り戻さねば。しかし、その消費ペースには気を付けないといけない。
なるべく木々の幹に身を隠すようにして走る。防具の金属部が擦れる音もなるべく立てないように。
数十メートル離れたところに彼女はいた。凍り付いた倒木の陰でじっと身を潜めていた。
僕が立てていた物音には気付いていたらしい。僕がその存在に気付けるようにあの青色の髪飾りを手に持っていた。
僕はそんなテハに駆け寄り、彼女の隣で膝を丸めた。
「無事か? 任せてしまってすまない」
「はい。本機は大きな損傷をしていません。戦闘続行が可能です」
テハはそう答えたが、彼女の身に纏うユクモ装備は既に何か所も汚れ、切り裂かれ、垣間見える肌からは血が滲んでいる。彼女の頑強な肌もあれに対しては分が悪いらしい。
恐らくさっきの音は、吹き飛ばされつつも受け身を取りながら森に入ったとか、そんなところなのだろう。
二人ともに、既に大型飛竜を狩猟した後のような状態だった。
「クシャルダオラは?」
「本機が森に入った時点で上空へと飛び立ちました」
「空から僕たちを探すつもりか……そう時間はなさそうだな」
僕とテハはできる限りの小声で言葉を交わす。テハの身に着けているユクモ装備の赤色や髪飾りの黄色は目立つので二人で布を被った。
それでも見つかるのは時間の問題のように思えた。相手は数千キロの彼方からテハの気配を頼りに僕たちを追ってきたのだ。森に入ったとしても本当に気休み程度にしかなりはしないだろう。
「お前とあいつの戦いについて確かめたいことがある。記憶は定かになったか?」
「はい。あの龍との交戦の記録は現在修復中です」
修復中、つまりだんだん思い出してきているということか。
「よし。なら率直に聞こう。テハの砂鉄の力はあの龍には効かない。その認識でいいか?」
「肯定します。今戦っているクシャルダオラは、本機の能力である砂鉄剣製への対抗手段を得ている特異個体です。本機が砂鉄で作製した剣の接近をあの龍が感知した場合、それらは結合を強制解除、分解されます」
テハはその質問が来ることを分かっていたようで、すらすらと答えた。しかしその内容はかなり厳しい。
特異個体。今でもその区分けは存在している。同じ種ではあるが、その強大さや知能が他の個体から逸脱した存在のことをそう呼ぶことがある。龍歴院では二つ名と言っていたか。
確かに、以前文献で見た通常のクシャルダオラのスケッチとは異なる色合いをしていたし、かの龍が現れた地ではほぼ間違いなく暴風雨か猛吹雪が起こっている。それが、今はこの薄気味悪いほどの快晴である。それがこのクシャルダオラの特異性を示しているように思えた。
そして、あの龍がテハの砂鉄の剣を迎え撃つときに見たのは、風の力というよりも、感覚的に言えば解く力。かたちあるものをばらばらにする力と言えばいいだろうか。
ひょっとすると、それが風翔龍という古龍の力の本質なのかもしれない。
それにしても、対象がほぼテハのみだろう特異能力か。数千年前にいったい何があったというのか。しかし、それを尋ねている余裕などありはしない。
「成程。大体は飲み込めた。ならもうひとつ、やつが纏ってる風、あれにテハは耐えてたよな。あれには何か理由とか対抗手段があったりするのか?」
「それはクシャルダオラの鱗の主成分に純正の鋼が含まれていることに起因します。鋼は鉄と同様に磁化が可能です。本機は鱗を磁化しその吸引力を利用して風圧に対抗しました」
「ん……さっきテハは砂鉄の力は気付かれて分解されるって言ってたよな。それなのにあいつの鱗の磁化は可能なのか?」
「はい。本来、古龍の能力は互いに干渉しません。砂鉄の剣の分解は例外と言えます」
「そう……なのか。つまり、お前の純粋な磁力の力は分解されることはない。それを砂鉄の剣みたいに使ったら干渉される、そういうことでいいか?」
「肯定します」
二人の吐く息は白い。じっとしていると防具越しに冷気が伝わってくる。
いつ再び襲われるか分からない。そんな焦りを抱えながらも、僕は一度呼吸を挟んだ。
「……よし。だいたい事情は分かった。急造だが戦法も思いついた。ただ僕とテハで協力しないとできないやり方だ。できそうか?」
僕の提案に、テハは頭に被った布を滑らせながら小さく頷く。
「……アトラが本機を必要とするのであれば」
「……ああ。とは言っても、やったことはあるから────」
テハが布を掴み取りながらその場から跳んだ。数瞬遅れて僕もテハを追ってその場から身を投げ出す。
そして数秒後、僕らが身を寄せていた倒木は木端微塵に砕け散った。
続けて飛来した竜巻が、周りの木々を薙ぎ倒していく。十秒も経たずにそこは森の中にぽっかりと空いた荒れ地となっていた。
完全に捕捉された。今また森へと逃げ込んでも隠れる前に風の砲弾の餌食になるだろう。
奇襲の芽はことごとく潰されていく。
だから僕たちは正面からそれに向き合った。
「テハ。溜め打ちする。
「──はい」
たったのそれだけだが、テハには伝わったらしい。
上空からクシャルダオラが降りてくる。地に足をつけたかの龍は、僕たちの後ろに木々があるのも構わずに、僕たちめがけて突進してきた。
若干右寄りの進路。テハ狙いか。それをなんとか悟りつつも、念のため大きく左に跳んだ僕は、矢筒からある矢を取り出した。
ある程度あいつから距離を取りたい。そしてテハと合流したい。
そのために動く。しかし、恐ろしいほどに勘の良いやつにそれを悟られないように。
意外とそのときはすぐに訪れた。
テハを標的としつつも僕の存在を忘れてはいないらしいかの龍は、僕の矢を弾いた風を常に張り巡らせている。それを警戒しているように装いながら距離を取る。
テハも同じだ。クシャルダオラの追撃の合間にあえて踏み込み、クシャルダオラを牽制しつつ吹き飛ばされることで位置修正を行っている。
矢を番える。その矢は今までの狩猟用の矢とは異なる色合い、外観をしていた。
恐らくやつは僕とテハが開けた地で合流することはむしろ歓迎するはずだ。二人まとめて視界に捉えることができるし、僕たちも動ける範囲が若干制限される。
だから、テハがだんだんと僕に近づいていることに気付きつつも、僕たちが合流したときを狙って攻撃を仕掛ける算段くらいしか立てられないだろう。それを狙う。
弓弦を軽く引き絞る。狙いそのものよりも、このときは姿勢が安定し、いつでも矢を放てるようになっておくことが重要だ。
クシャルダオラを軸に時計回りにゆっくりと走りながら、そのときを待ち続ける。ざくざくと泥まみれの雪を踏みしめていく。
────来た。
クシャルダオラがテハに向けて地上から鋭角に放ったブレスのあおりを受けるかたちで、テハがこちらに吹き飛ばされてくる。
クシャルダオラもそのときを狙っていたようで、もう一度胸を反らせた。周囲の風が口元へと集っていく。放つのは恐らく竜巻だろう。だが、そんなことは関係ない。
足を止めて一気に弓弦を引き絞った。
それとほぼ同時にテハが身を起こし、矢を構える僕の前に片膝立ちし、左手を前へと突き出した。
目の前には何も現れない。砂鉄の剣も、楯も生成されない。目の前に今にも竜巻を放ちそうな龍がいるだけ。
しかし僕には、射線上に敷かれた透明な線路が見えている。
「────行けッ!!」
全力で矢を放つ。一際大きく結弦が鳴いた。
放たれた矢は疾く翔るが、クシャルダオラに届くには恐らく足りない。減速し、放たれる竜巻に飲み込まれるか、その風の鎧で弾かれてしまうだろう。
しかし、僕の手元を離れてあとは慣性で飛んでいくだけであるはずのその矢の、加速が止まない。
風を追い抜き、音に追い縋り、その力を増しながら飛んでいく。
その翔る方向へ、テハは左手を突き出し続けている。
かくして、クシャルダオラが首を振り下ろす寸前に、なぜか弱まっていた風の鎧を切り裂き、鋼でできた鱗を貫いて。
その胸に深々と突き刺さった。
「届いた……ッ!」
その場から離脱しながら、クシャルダオラの胸から多量の血が噴き出したのを見た。
血の色は赤い。古龍の血はある特殊な成分を含んでいるとされているが、こうしてみるとヒトや竜のそれと変わらないように見える。
それよりも、今の攻撃がかの龍に届いたことが大きい。
鉄鉱石にカブレライト鉱石とユニオン鉱石を融かし合わせ、その硬度を跳ね上げた合金で作られた矢じり。その長さの割合も増していて、重量が重くなった分、威力も上乗せされる。
細かく返しもついている。そのうち抜けるが、そのときには激しい痛みと共に傷口をぼろぼろにし治りにくくする。
それがあの矢だ。今僕の矢筒にはあと十本強ある。
そして、それだけ頑丈な特別製の矢だからこそできるのが今の芸当。テハは磁気加速と言っていたか。
テハが手を翳したのはいつものようにその先に磁力を収束させるため。それに指向性をもたせて矢を加速するために用いたのが今の射撃だ。
狙いは僕が担う。ここまでの速度のものを扱うには、テハは力の収束に集中した方がいいらしい。放たれた矢の加速をテハが担う。物理演算が云々と言っていたが、感覚的には今まさにかけていく矢をペンでなぞっていくようなものなのだそうだ。
本来これは、数百メートルという超遠距離から対象を狙撃するために、僕が発案し試していたものだ。だからさっきの一言で伝わったのだろう。
近距離でも大きな威力を発揮することは予想できていたが、二人の隙と、外れたときの損害が大きすぎるのが難点で、今まであまり用いていなかった。
しかし、今の状況に当てはめてみれば、それが最善手だ。それでしかまともに攻撃が通らないというのなら、どんなに隙を晒そうとそれに賭けるしかない。
射撃後すぐに走った僕と違い、その矢がクシャルダオラに届くまでその場に留まって矢を制御しなければならなかったテハも僕を追いかけてきている。
矢筒からさっきと同じ矢を取り出す。今のでかの龍が怯んでいるようであれば、すぐに二撃目の構えを取る────
咆哮。
晴天の空の元、風翔龍の咆哮は辺り一帯の森を震撼させた。これが雪山であればいつ雪崩が起こってもおかしくないほどの音量に、思わず矢を落として耳を塞ぎ、よろめく。
続けてごっという音と共に風──いや、もはや空気の波動だ──が十数メートル離れているはずの僕とテハにも届き、駆け抜けていく。それは木々に付着した氷を剥がし、巻き上げ、きらきらとした氷の粒にして僕たちに降り注がせた。
決して今まで本気でなかったというわけではないのだろう。その眼には明らかな殺意があり、油断はなかった。
どちらかと言えば、自らの胸から今もぼたぼたと流れる血と痛みを認知して、テハが言っていた当時の戦いを思い出した、かのような。そう、
かの龍も、テハと同じく、この戦いで記憶を蘇らせていっているのか。
「さっきまでと意志は変わらず、
取り落とした矢を拾い上げて、僕は寒さとは別の理由で震える膝と唇を叱咤する。
「なら、僕もさっきまでのをあえて様子見と言わせてもらおうか。その差を狩人の技で埋めてやる──!」
思い出で強くなる。そんなことは僕にはないが、狩人ならば、狩人なりの、戦いで身に着けていく適応力を引き合いに出すしかない。
自分より桁違いに強い相手を狩るための道筋を探していく過程と思えば、竜との戦いもこれも変わらない、と自分自身に言い聞かせた。
クシャルダオラが首をもたげる。続けて三度目のブレスの構え。さっきよりも動きが滑らかに、そして早くなっている。その狙いは。
「テハ! 気を付けろ……!」
僕の右手側にいるテハに向かって言った。僕の勘ではたぶん風の砲弾の方が来る。
あれは見てから回避するのは困難を極める速さだ。だから────
そのとき、僕はその可能性を考慮しておくべきだったのだ。
思い出で強くなる存在がいるとするなら、当然のように。
思い出で弱くなる存在もいるということを。
テハヌルフという
他ならぬ僕自身が、それを恐れていたというのに。
土と雪で塗れた地面に立って、
今までアトラと共に、追いかけてくる龍から逃げてきた。
逃げられないことが分かってからは、一緒に迎え撃つ準備をしてきた。
アトラは戦う意思を持っている。今もそれは変わらない。
だから
例え、戦って勝てる可能性がゼロに等しいと分析結果が出ていたとしても、制御部である
何故なら
人の命令には従わなければならないから。そこに意見する意味はないから。
“
しかし、あの龍の眼光が語っている。咆哮が伝えてくる。
龍の感性をもつ
お前だけは全力で、絶対に殺してみせる。
お前はこの世界にいてはいけない存在だ。
ほぼ全てが忘れ去られた今、あの地獄、あの悪夢を二度とこの世界に起こさないために。
“
しかしそれは、今は些細な問題で。
こんなにも強い感情(?)をぶつけられたのは、アトラに自己破壊処理を止められて以来だった。
そして、その感情に込められた意志(?)が
あの戦いを知っていて。今このときまで生き続けていた存在が。
今ここに
“
その問いに、最初に答えたのは。
ならば、その答えは。
兵器の在り方を全うしようとする思考と、この世界に在ることが否定されたという思考が瞬く間に絡み合って。
組み上げていた立ち回りは溶け落ちて、自らの本能である龍の感性すらも覆い尽くして。
その足を動かすのをやめて、龍の瞳を見てしまった。
迫り来る鉄よりも重い風の塊を見ながら、その
端から見れば、それは明らかな戦闘放棄。あまりにも唐突な振る舞い。
それは諦めというよりも、自ら死を選んだかのような。そのまま死へと歩き出すかのように見えただろう。
しかし、それはテハヌルフという
そのことを
だから
「────え?」
突き飛ばされた自らの身体と、その身体に降り注ぐ赤色を見つめていた。
起承転結の『転』らしい展開になっているでしょうか。