その兆候が現れたのは、砂原地方を離れて一月が過ぎてのことだった。
「この先か? 気配がするっていうのは」
「はい。微弱ではありますが、本機の感覚器官が反応しています」
幹の大きな針葉樹林の広がるここは、熱帯林とは異なりひんやりと湿った空気を纏っている。薄い霧も立ち込めており、僕たちが随分と北上してきたのだなということを感じさせた。
そんな森を縫うように敷かれた道の真中で立ち止まり、髪をかき分けて耳元の鱗を晒し、目を閉じて意識を集中させているテハに話しかけた。
「ふむ、どれくらい離れてる?」
「概ね三千から四千キロメートルです」
「……三千!?」
「はい。少なくとも三千キロメートル圏外にいます」
思わず聞き返してしまったが、聞き間違いではなかったようだ。
テハの感覚器官によるモンスターの気配探知にはよく助けられているが、せいぜい遠くても十数キロメートルを上回ることはなかった。正しく桁違いである。
三千から四千キロと言えば、僕たちが移動に専念しても半年以上はかかる距離だ。最新の飛空船でも数週間はかかるだろう。
「当然、それだけ気配が強いから遠くからでも感知できたってことだよな」
「そのように推測されます」
彼女が耳を澄ませていた方向──西を睨む。
視線の先には針葉樹の森に覆われた丘陵が見える。せいぜいここから十キロ程度であろう稜線、その向こうにある空の、さらに彼方にいるのであろう何かをテハは感じ取ったのだ。
「……古龍種か」
「断定は不可能です。しかし、その可能性は非常に高いです」
それだけ遠くから気配を届かせ得るならば、まさに桁違いに強大な存在であることに他ならない。ならば結論はほぼひとつだ。
テハとの旅の間に幾度も話に出てきた種族、古龍種がそこにいる。
「テハはそいつらの気配探知に長けてたりするのか?」
「はい。本機の感覚器官は龍種の気配に対しより敏感です」
なるほど、道理だ。初めて知ったが、テハの開発目的に沿った仕様であると言えよう。
テハはかき分けていた髪を下ろして、また鱗を隠した。黄色の髪紐が垂れる。雑音を打ち消す青色の髪紐と感覚器官の働きを抑える緑色の髪紐は、今は外されていた。
「ここから西に三千キロ先っていうと、フォンロン地方か。あそこなら古龍がいてもおかしくないかもな……」
バックから大陸の地図を取り出して確認する。僕たちが今いるのが砂原地方の北辺りだから……やはりそうだ。新大陸から旧大陸に向かってせり出している新大陸の西端、樹海と古塔というギルド管轄の狩場がある地、フォンロン地方がちょうどここから三千キロ程度である。
「フォンロン地方は最近本格的な調査が開始されたと文献に書いてありました」
「ああ。樹海は旧大陸と新大陸、どっちの都市からも離れてるし、ナルガクルガやらエスピナスなんていうかなり手強いモンスターがいるからな。
その樹海の奥、古塔の存在なんて僕が上位になってから名前だけ教えてもらえた程度だから、相当な魔境だ」
恐らく古塔は禁足地一歩手前の狩場なのだろうと僕は思っている。
禁足地とはハンターズギルドや国が指定した立ち入り禁止区域のことだ。ユクモ村の近くにもある。渓流地方の最奥、霊峰と呼ばれる地域だ。
禁足地は基本的にその環境が人間にとって過酷すぎるか、古龍種が根城にしていた痕跡がある場所が指定されている。霊峰の場合は後者らしい。
古塔については資料がほとんどなく、無知に等しい。しかし、テハの予測が正しいとすれば、真っ先に疑われるべきはそこだろう。
「僕たちは大砂漠を迂回して東に向かってるから反対方向ではあるんだが……テハ、どうする?」
一応、テハに尋ねてみる。だが、仮に彼女がフォンロン地方に向かう旨の提案をした場合、できれば説得を試みたい。
理由はいろいろあるが、その中でも大きいのがあの地方が旧大陸のハンターズギルドの管轄でもあることだ。旧大陸と新大陸、双方のギルドが目を光らせているあの場所にはできるだけ近づきたくなかった。
ただ、いくら人とモンスターとの関係を知識で得ているとはいえ、その本質は対龍兵器である。彼女にとって人間と龍だけは勝手が異なる存在だ。だから彼女の反応が気になってはいたのだが。
「アトラの方針が東に向かうことなのであれば、それを否定する理由はありません」
「……そうか。なら別にいいんだけどな」
テハの返事は淡々としたものだった。考える素振りも見せない。その様子にやや拍子抜けしてしまった。
まあ、テハがその古龍種だろう気配の主を気にせず東を目指せるというのなら、それに越したことはない。明らかな脅威に自ら踏み込んでいく必要はないのだ。
もしかするとテハの未だ明らかにならない記憶を呼び起こすカギになるかもしれないが、危険性があまりにも大きすぎる。
ごく稀にハンターズギルドに届くらしい古龍種の狩猟依頼(隣の大陸から届くこともある)の要求ハンターランクは問答無用の6以上である。古龍種を相手取るには、ハンターランク4の僕はまだ力量不足だ。
「よし、テハの感知した気配は今のところ無視ということで。今日はあの丘の向こうまで歩こう。途中にガウシカがいるって話を聞いたから、できればそれを狩って保存食を節約したいな」
「はい」
僕は木々の隙間から僅かに見える丘陵の麓を指差して、再び歩き出した。テハもそれに続く。
「────」
不意に、彼女は振り返った。
「テハ?」
彼女の足音がついてこないことに気付いて、一足遅れて僕も立ち止まる。
さっきまで話をしていた方向、フォンロン地方へと続く空の彼方をまた見ている。
「どうした?」
「──いいえ。何でもありません」
一時の沈黙を経て、テハはそう言ってかぶりを振った。そして何事もなかったかのように僕のところまで駆け寄る。
「ん。なら行こうか」
「はい」
短いやりとりを交わし、今度こそ僕たちは歩き出した。
さっきテハが振り返った理由がやや気になったが、それについて問おうとまでは思わなかった。
そもそも、ここまで旅を続けてきて、噂にすら聞いたことのなかった古龍種である。そして彼女にとっては相当な因縁のある種族だ。
このようなかたちで偶然その存在を感知してしまったならば、気にかかるのも当たり前というものだ。
朝から足を止めてしまったが、かかった時間はそう長くはない。モンスターの群れなどに鉢合わせない限り、今日の目的地まではまだ余裕を持って辿りつけるだろう。
ここから先は、ギルドの管轄でない地域が続く。大砂漠の北の縁をなぞるように東へと進んでいけば、高原地帯に入る。それを超えれば、僕たちが旅立った地、渓流地方が見えてくる。
ここから渓流地方までは、これまでの旅路に匹敵するほどの長い距離がある。大陸を横断するようなものだからだ。
砂上船に乗ってしまえば早いが、ここまで来たなら徒歩で踏破したい。これまで通り一日ずつ着々と歩みを進めていけば、難しいことではないはずだ。
………………。
……問おうとまでは思わなかった、のではない。
──酷く臆病になったものだ。
もしそれを問うてしまったら、テハがどうなるか分からない、などと。
自らは在ってはならない存在なのではないかと一月前に僕に問うた少女は、今も僕の隣にいる。
僕はその理由を尋ねなかった。何も言わずにテハに連れ添って、一月が過ぎた。
結局、僕はこれまでと同じようにテハに接することにした。
ただ、いつも通り、というものは、それを意識した時点でそうではなくなるものだ。
どことなく、霞のように捉えどころのない息苦しさ。身体には何ら影響を及ぼすものではないが、それは頭の片隅に残り続けている。
あの日を境に、僕とテハの間の口数は減っていた。
それでもだ。
この息苦しさがこれから先も続くだろうことが分かっていても、僕は
テハの旅の目的は果たされてしまったのかもしれない。彼女がそう感じていて、その上で自らの命を絶つならば、それを止めるつもりは……ない。
しかし、テハはまだ旅を続けている。つまり、彼女の旅はまだ終わっていない。
この大森林を超えて、高原を超えて、渓流地方まで戻ってきて……それが一つの節目になるのかもしれないし、ならないかもしれない。
ただ、今になっても旅の本筋は違えていない。もはや道のりも変わり、行き先は全く分からなくなってしまったが、まだかろうじて地に足はついている。
“僕とテハのこれからの見定めを行う” ────息苦しさの先に、何かしらの着地点を見つけることができるなら。
今は、いつも通りを演じ続けてみせよう。
そんなささやかな決意は、十日もかからずにその有りようを変え始めた。
「……近づいてきてる? この前のあれがか?」
「はい。対象までの距離は二千六百から三千キロメートルです」
立ち寄った村の宿屋で、髪紐を外した彼女は窓から夜空を眺めて言った。
「フォンロンからこの大陸に渡ってくるつもりか……? 進路も若干南に寄ってきてるな」
星座を読んで彼女が見ている方向を特定し、地図と照らし合わせてみれば、その気配の主は南東に向けて進んでいた。
その方向に二千六百キロメートルとなれば、フォンロンの端の辺りだ。そこから直線状に伸ばしていくと大砂漠に行きつく。ただ、これだけでは進路の予想などできそうもない。
「とにかく、僕たちが進む方向がそれから離れる方向なのは変わらない。このまま行こう」
「はい」
この村にはハンターズギルドの出張所があるが、それを知らせる必要はないだろう。古龍かもしれない存在が近づいてきているなんて言っても、証拠を提示できなければ何の説得力もない。
二日後、消耗品の補給を済ませた僕たちはその村を後にした。大森林は途切れる様子がない。さらに東へと進む。
それから十数日が過ぎた。テハの気配探知によれば、気配の主はまだ自分たちから二千キロ圏外にいるものの距離は縮まっている。
フォンロンからは既に飛び去り、今は海上にいるものと考えられる。このままいくと数日もかからずに海を超えて、僕たちがいた大森林の北端に着くはずだ。
フォンロンから北へ向かえば新大陸と地続きの場所があるというのに、相当強引な手段で渡りを行っている。
フォンロン地方とは違い、この大陸に着けば流石にハンターズギルドに目を付けられるだろう。
大森林には渓流地方のように集落が点在している。彼らがその気配の主に気付くか、被害に遭うなどすれれば、古龍観測隊や龍歴院による気球を用いた調査が行われる。その後に、しかるべき処置が下されるはずだ。
また更に半月が経ち、それは大森林に到着後、進路を変えずにそのまま南東へと進んで大森林を縦断しようとしているようだ。
テハが初めてそれの気配に気づいたときに、僕たちがいた場所から西に離れた場所を通り過ぎている。このままいけば大砂漠に足を踏み入れるだろう。
同時に僕たちは大森林の東端に辿り着き、高原地方へと足を踏み入れようとしている。針葉樹林はまばらとなり、草原や荒れ地が広がり始めている。風も強い。
ここまでくると寒さが無視できなくなる。僕は先日狩猟した大猪の毛皮を剥いで上着を作ってこれを凌いだ。テハはまだ気にならないようだ。
気配の主との距離はさらに縮まり、二千キロメートル圏内に入った。僕たちは東へと進み続ける。
一週間後。
「進路が東南東に変わった……?」
「はい。よって、本機との距離がさらに縮まりました。およそ一千五百キロメートルです」
「その方向にはただ砂の海が広がってるだけだぞ。ロックラックを目指してるわけじゃなかったのか……?」
「アトラ、地図を見せてください。……アトラが描画したモンスターの進路図の信憑性は高いです。今そのモンスターがこの位置にいて進路を東北東に変更した場合、大砂漠を横断して渓谷を通過し、渓流地方に到達する可能性があります」
「…………」
「近隣の住民に周知を行いますか?」
「……いや、まだ決断を下すには早い。今それがいる場所から渓流地方までは相当な距離がある。その間に進路がまた変わるかもしれない。今はまだまっすぐ進もう」
「了承しました」
「──すまないな。いっつもお前の感覚器官に頼ってばかりで。古龍種だろう相手の気配を追い続けるのは気が張るだろ」
「そうなのでしょうか」
「たぶんそうなんだろうよ。しかし、ギルドからの連絡も来ない以上、お前の感覚器官頼りはまだ続きそうだ。しんどいだろうが、事が収まるまでよろしく頼む」
「……はい」
あのときのテハの表情を見て、咄嗟に口を突いて出てしまった言葉。耳を澄ませているときの彼女の表情がいつもより固いことに、彼女自身も気づいていないのかもしれない。
そして、二週間後。
東南東に進み続け、僕たちのいる高原地方の一画から南南西の位置にまでやってきた気配の主は、突然進路を大幅に変更した。
その方向は、北東。大砂漠から高原地帯へと突っ込む方向。
雷竜ライゼクスの狩猟中にこれに気付いた僕たちは、討伐後の手続きを立ち寄った集落で済ませたあとに、情報の整理に努める。
当然のようにそれと僕たちとの距離は一気に縮まった。一千キロ圏内と告げたテハの表情は、固いままだった。
五日を経て。
「北に進路を変更。このままだと鉢合わせる、か」
「はい。本機との距離は七百キロメートルです」
そう告げるテハの瞳は、僕にある問いを投げかけていた。
彼女のあの感情も力みもない表情をここ何週間も見れていないなと、なぜかこんなときに思ってしまった。
彼女が何を言いたいか、既に分かりきったことだった。
だから、この提案をしても彼女は不思議がらないだろう。
「……北に、進路を取ろう。この集落にはある程度事情を伝えるに留める」
「凍土を目指すのですか」
「ああ。この時期に行くのは極力避けたかったけどな……」
今は寒冷期に差し掛かりつつある時期だ。そんなときにここから北にある凍土を目指すなど自殺行為に等しい。一応人間の住む村はあるが、彼らですら越冬のために村を閉ざす。
「本機はアトラの意見に従います。本機は寒冷環境においても活動可能です」
「……ありがとな。さて、そうと決まったら忙しくなるぞ。凍土へ向かう備えをしないとな」
僕はテハに向けて笑いかけた。作り笑いはテハに即座に看破されるほどに下手な僕だが、こんな状況下だ。苦笑い程度なら自然に出てくる。
テハはそれを見て不思議そうな顔をした。苦笑いでも、僕が笑っているのがよく分からなかったようだ。──その顔の方が、よっぽどいい。
「それにしても……何でギルドからの通達が何も来てないんだ? ここまで派手に動き回ってたら目撃情報やら二次災害が確実にあるはずなんだけどな……」
そうぼやきながら、僕はテハと共に数日前に旅立ったばかりの集落に戻るべく歩き始めた。竜車が通りかかったら、乗せてもらった方がよさそうだ。ここからは時間との戦いとなる。
その気配の主が、人の集落などを全て避けて、古龍観測隊やギルドからの監視の目が届きにくい場所を選ぶようにして進んでいることに気付いたのは、それから八日後のことだった。
十日後、高原の集落と凍土の集落との間を行き来するガウシカそり隊の荷台に乗せてもらった僕たちは、凍土地方の入り口の村へと降り立つ。
また、テハがその気配の主が古龍種であると特定した。距離が五百キロメートル圏内に入ったことで精度が増したらしい。
かの古龍は、現状で高原地方の南から大砂漠の北の方にある集落に一切構うことなく、むしろそれらを避けるようにして北を目指している。
古龍観測隊からの通達は、相変わらずとしてない。
ガウシカそり隊の隊長にできるだけ早く村に戻ること、ガウシカが怯えたら即座に避難することを伝えて、僕とテハは帰路に就く彼らを見守った。
そして、僕たちは村の住民たちの反対を押し切り、凍土の奥地へと向けて出発する。本格的な寒冷期へと足を踏み入れつつあるそこは、既に吹雪き始めていた。
「……っ、この天気、まだ悪くなるのか」
冷え切った雌火竜の防具を軋ませながら、僕は空を見上げた。
無論、雲などは見える気配もない。視界の先は灰色の雪によって埋め尽くされている。
「アトラ、この先にクレバスはありません」
険しい表情で空を見ていると、丘の向こうからテハが駆け寄ってきた。風の音が酷く、こうして近寄らないとまともに声も伝えられないのだ。
「分かった。じゃあそっちに行こう。そりを上げるから引っ張るのを手伝ってくれ」
「了承しました」
テハにそう指示をして、僕はそりを積んだ一頭のガウシカの背中を叩いた。
最後に訪れた村で、有り金の三割近くを支払って借りてきたガウシカだ。この辺りでは珍しい種ではないが、調教するのには手間と金がかかる。村の貴重な労働力を、借りてくることができただけでも有難い。
さて、ホットドリンクにばかり頼っていないで身体を温めなければ。僕はかじかんで痛む手でそりの取っ手に縄を結びつけた。
「酷い吹雪だったな……」
日が落ちて辺りが暗くなると、手ごろな林や岩場、もしくはかまくらを作って火を焚き、体を休める。このところ夜空も雪雲に隠れてばかりで本当に外が暗いため、まともに出歩けないのだ。
──こんな日々が、もう何日も続いている。
「…………」
テハは黙って座っているガウシカに少し体重を預け、その背中を撫でている。
最初こそテハを警戒して同じ寝床にすら居ようとしなかったガウシカだが、今は気にしているそぶりを見せない。慣れたとみていいのだろうか。
この吹雪も、龍が近づいているからなのかもしれない。
実際に出会ったことはないが、話に聞く限りではそれぐらいはしてのけそうだ。
凍土地方はほぼ年中氷に閉ざされている厳寒地だが、雪はそこまで降らない。どちらかと言えば静かに凍てついた地だ。こうも吹雪くことはあまりないと聞く。
まあ、ギルドに管理されている狩場からはとうに離れてしまっているから気候が違うのかもしれないが。この先にいけば、確か禁足地指定されている極圏という地に辿り着くだろう。
「テハ、古龍種はどれだけ近づいてきてる?」
「二百八十キロメートルです」
ここに来て、気配の主、古龍種の近づいてくる速さは明らかに落ちていた。それでも、着々と距離は近づいている。
結局、ギルドの動きはないものと見た方がよさそうだ。件の古龍種は明らかに人に見つからないように移動している。ひょっとすると古龍観測所はその存在を感知すらできていないかもしれない。
どちらも僕にとっては予想外のことだったが、どれも不幸中の幸いに該当するものだ。
「行けるところまで、行こう。極圏までとは言わないが、そっちの方が近くなるくらいまでは」
「はい」
焚き火の火を囲んで、僕とテハは頷き合った。
最早、僕とテハの間にある認識は、確かめるまでもなかった。
日にちを数えるのは、凍土に着いた辺りから止めていた。
ガウシカが怯え始めたタイミングで、僕たちはこれ以上進まないことを決めた。
「今日まで、ありがとうな。お前がいなかったら、僕たちはこの半分も進めなかっただろうよ」
ごうごうと吹きすさぶ冷たい風を防具越しに受けながら、僕はガウシカのごわごわした額を撫でた。
されるがままにしながらも、やはり周囲を気にして落ち着きのないガウシカの背中をぽんぽんと叩く。
「さて、お前の役目はここまでだ。──逃げろ。とにかくここから離れて、吹雪を凌いで、お前がもといた村を目指すんだ。……分かったら、行け」
そりを牽引するための装具もほとんど外し、身軽になったガウシカは、僕に背中を強く叩かれると、それが合図だったかのように森へと向けて駆け出した。
借りてきたガウシカを行き着いた先で手放すなど無責任もいいところだが、現状、それがあれにとって最も生存確率を高めるだろう手だ。
人に調教されたガウシカは、遠くの旅先から自らの育った地を目指すことができるらしいと聞く。今まで節約してきた餌は昨日から今日にかけて全て食べさせたから、数日間は何も食べなくても歩いていけるだろう。それらに託すしかない。
「……」
テハは黙ってガウシカを見送っていた。その後ろ姿は森へ入るよりも前に雪に紛れて見えなくなってしまった。
「……さて、僕たちはキャンプの設営からやろうか。それくらいの時間はあるだろ。枝拾ってくるから、その辺の雪を退かしといてくれ」
「分かりました」
近くには氷と見紛う程に冷たい河が流れ、それに沿うように雪に埋もれた針葉樹がまばらに林をつくっている。奇しくもそこは、ギルドの指定した凍土地方の狩場に似ていた。
そこを仮拠点とするべく、僕たちは設営に向けて動き始める。
こんなところにキャンプを据えたところで、徐々に消耗していくだろうことは分かっている。
凍え死ぬまでの時間を延ばしているだけだ。それは籠城戦の備えにも似ている。
ただ、この先、そう遠くないうちに起こるだろうことを考えると、この行為も無意味なものではないと思う。思ってしまう。
モンスターも、その他の動物も一切いなくなったその地で、僕とテハはそのときを待った。
吹雪が止んだ。
青空なんて見たのは、何時ぶりだろうか。
「アトラ、ひとつだけですが、記憶が戻りました」
「ん、聞こうか」
晴れ渡った空を見上げながら、もうすっかり着慣れたユクモ装備を身に纏ったテハは告げた。
「千年前か、それよりも前かは不明ですが、竜大戦時代に本機は古龍と交戦したことがあります」
「……だろうな。お前、対龍兵器って言ってたしな」
僕はいつもの通り雌火竜の防具を見に着け、テハと同じように空を見上げる。雲がそこだけ強引に押しのけられているような、ぽっかりと浮かんだ蒼空だった。
嵐の目、というやつかもしれない。
「本機は単体で数十頭の龍と交戦し、これを撃退。または討伐しました。その素材は他の竜機兵の生産に用いられました」
「へえ、
「はい。……ですが、竜大戦そのものの結果と、その結果を導いたものの正体はあの本に書いてあった通りです。竜大戦は相打ちに近いかたちで決着し、人間も龍もその数を大きく減らしました。そして、その要因となったのはイコール・ドラゴン・ウェポン、すなわち本機でした」
空の彼方に、小さな点が見えた。
その点はあっというまに近づいてきて、僕たちの真上まで来たかと思うと、ゆっくりと下降し始めた。
「……本機は、ある龍に敗北を喫しました」
日に隠れたその影は、四つ足、長い尻尾、一対の翼を身に着けていて。
「一方的ではなかったと本機は認識しています。しかし、本機は間違いなく、その龍に負けました」
雪を舞い散らせながら、降り立つ。その瞳は、僕たちだけを捉えた。
「その龍の名は──」
鋼を纏う、風翔けの。
「──鋼龍、クシャルダオラ」
その言葉を呟いたのは、どちらだったのか。
もし身を隠して、出方を伺うような真似をすれば、その風で周囲一帯を吹き飛ばしていただろう。
青空の下、その白銀色に錆びついた鱗を日の光に晒して。
千年の時を経て。
遥かな空の彼方から。
まるで