韓国に拿捕・抑留の漁師たち、苦難の歴史をパネル展で紹介
今から70年前、韓国は公海上に一方的に境界線を引き、対馬沖などで操業する日本漁船を取り締まり始めた。「李承晩ライン」と呼ばれる境界線は、1952年に設定され、日韓の国交が正常化される65年まで続いた。その間、島根県浜田市を拠点としていた漁船の拿捕(だほ)も相次ぎ、多くの船員が抑留生活を強いられた。そうした歴史にスポットをあてたパネル展が16日に浜田市で開かれる。
展示の目玉は、同市長浜町の写真家、川上譲治さん(71)が掘り起こした写真だ。
長崎の対馬沖から韓国・済州島にかけての海域は好漁場だ。浜田市が拠点の底引き網漁船も拿捕される危険を冒しながら操業していた。54年11~12月には3隻の漁船が捕らえられ、船員たちは3年あまり抑留された。その後、日韓の抑留者を互いに釈放する覚書に基づいて29人の帰国がかない、浜田駅前で大勢の人に出迎えられた。
川上さんが見つけた写真は、駅前を埋めた群衆の様子や船員たちの表情をとらえていた。川上さんは戦時中に徴用された漁船の実態を調べる中でこの写真に行き当たった。出所を探し出して関係者の了解をとり、角度を変えながら撮られていた複数の写真を合成してパノラマ写真にした。
58年4月に帰国した船員たちの写真も見つけた。55年9月と56年4月に拿捕された2隻の船員23人が横一列に並んだ写真で、解放されて無事に帰国を果たせたのに、表情はみな一様に硬く、陰りがあった。「帰国できた喜びより、長かった抑留生活の厳しさがうかがえる写真だ」という。
川上さんによると、李承晩ラインが引かれていた13年間に、浜田漁港と長浜漁港に所属していた7船団8隻の漁船が拿捕され、うち6隻は韓国側に船体を没収された。当時の新聞記事などを手がかりに約3年かけて船員たちの消息も追った。抑留された船員は93人で、少なくとも8人が存命とわかったという。
当時の新聞記事や新たに入手した写真、船員の証言などをパネルにまとめ、20枚を用意した。川上さんは「日韓のはざまで、漁師たちやその家族は政治に翻弄(ほんろう)された。長い間苦難を強いられた人たちに思いをはせてほしい」と話す。
パネル展は16日午前10時半~午後4時、JR西浜田駅に近い浜田市熱田町の長浜まちづくりセンターで。入場無料。問い合わせは川上さん(080・6337・8058)へ。(北村哲朗)