外野の戯言(時間が経ったらアメ限にします)
年の差カテゴリーあるブロガーが、一昨年あたりから他人の容姿、恋愛観、人格を否定する(多くは不特定多数宛だが、特定の人宛もある)内容のブログを書いていたの。
私の感想は、独創性も無い、ネットにありふれている揶揄だけれど、快くは無い内容だった。
私にとっては興味がわかないそのブログでも、そのブログの言葉で心を痛めた人もいるの。
嫌味で無く、世の中には言葉に敏感で繊細な人はいるのよ。
その侮辱するブロガーの仲良しブロガーが今度は自分にきたメッセージを許可なく、ブログで晒し、メッセージくれた人を否定したの。
メッセージした人が傷ついたのは、私でも理解出来るのよ。
そして、侮辱するブロガーや、メッセージを晒すブロガーへの批判の記事を一人ではなく、複数で投稿し始めた。
今回、ある人が、その批判が行き過ぎだとイジメの様だ、大人げないと、批判した人(※便宜上、アンチと書くわね)を晒す形でアンチを責めるブログやコメントをしていたの。
その人がなぜ、原因の侮辱した内容も知らないのに、アンチを執拗に責める意図がわからなかったのよ(その人も厳密には外野なんじゃない?)
わからないから訊いてみたの。コメントを通して、その人が『イジメにも感じる今の構造を変えたい』のだとわかったの。
腑に落ちたわ。
アンチに自制心を求めたのね。
(アンチにコメントした人に対しての態度も行き過ぎていると感じたのね)
それに呼応してアンチのある人は自制心を持って対応すると書いていたわ。
私はアンチが自分のブログに他人のブログの感想を書くのも、原因を作ったブロガーが、過去を消しブログを書くのも自由だと思っているの。
日本はリベラルな社会のはず。
今回のアンチを責めた人の行動で、着地点が見えてきたのだと感じたの。
アンチを責めた人のイジメに繋がる様な構造を無くしたいという想いも通じたと思いたいの。
ただ今回の過程で気になることがあるわ。
アンチを責めた人の行為は、ただのヘイト活動じゃないか、って懐疑的に思う面もある。
理由を箇条書きにするとね
1.
原因を作った侮辱したブロガーや、メッセージを晒したブロガーは、不思議なくらい今回黙ったままである。
2.
アンチへの批判は『そんなに責めること?』という程度の個人の認識に基づいていて、そしてアンチばかり行動を改めろと言われている(その言葉が酷いかどうかは、発言した側の基準ではなく、受け取った側の感じ方が基準であると現代は考えられている)
3.
公平性が確保されていない。
コメント欄で勇気を出して書いた人と同意見なのが、アンチを責める行動の起点なのは理解できるが、アンチの人の行動の起点への思慮が全くない。
全てにおいて、個人の感じ方ののレベルの話で、アンチを責めているのは、敢えて悪く捉えると「イジメに繋がる構造をなくしたい」というのは建前で、ただ「アンチへのヘイト活動」だったのか?と懐疑的にも考えることも出来る。
と書いたけれどね、着地点が見えてきた今、何度も書くけれど『イジメに繋がる構造をなくしたい、自制心を求めたい』という気持ちを私は信じているのよ。
最後にね。
私は言葉は信じないの。
私は言葉よりも行動を信じるし、行動もね、行動すればいい訳じゃない。
タイミングも重要なのよ。