狂気を振り分ける分水嶺は、とどのつまり多数派に支持されるか否かである。
無名の多数が烏は白であると判断したなら、実は烏は黒であると一人宣う人間は社会的に狂人である。また御偉い医師様の精神判定だろうと、所詮は科学の名の下に多数説となった
……嗚呼、それは理解しているものの、それでもこう思うのは止められない。
この『ザ・クィブラー』と呼ばれる雑誌はやはり狂気だと。
ハリー・ポッターがまた黙り込んでしまった為、その間魔法族の月旅行の記事を読んでいたのだが、その内容からは明らかに怪しさしか感じ取れない。
現在最高と呼ばれる箒ファイアボルトは、記憶に有るカタログの記載によれば10秒で約240km/hまで加速するのだったか。十分に時間を掛けた上での最高速ともなれば更に速度は出る――もっともスニッチを見付けてからのシーカーの動きで顕著なように、クィディッチ用箒で求められるのは最高速度より瞬間速度であり、売りになるのもそちらの方だ――だろう。
しかしそれでも第二宇宙速度――11.2km/s、つまり約40000km/hの壁は遠過ぎる。しかもファイアボルトではなく型落ちのクリーンスイープを使ったのであれば、余計に速度が足りない。必然、月まで行く事など不可能のように思われる。
……いや、待て。本当に不可能だと即断してしまって良いのだろうか。
空飛ぶ箒自体が〝マグル〟の物理法則から逸脱する存在であり、何よりロケットと違い、魔法使いの箒には推進剤が不要だ。
箒が地球の重力から完全に自由であり、無限に速度を維持し続け、また高度を上げ続ける事も可能であるならば、第二宇宙速度まで到らずとも地球脱出は可能ではないのか。
それ以外にも記事内に科学的な粗探しは出来る。
例えば、月までの距離と所要時間、それに要する水と食料の負担。人間が真空状態に置かれた場合の科学反応。降り注ぐ宇宙放射線の雨の問題。最高100度を超える酷暑と最低100度を遥かに下回る極寒にまで至る月環境で、月蛙とやらは生存可能なのか等々。
しかし、果たしてその全てを〝魔法的〟に解決する事は絶対に不可能だと、軽々しく断言してしまって良いのだろうか。
魔法族と〝マグル〟。魔法と科学。
その両方の専門家から意見を聞けばまた違う答えが出るのだろうか。
そう悩む僕へ、痺れを切らしたように言葉が掛けられる。
「……思わせぶりな事を言って止めるのは卑怯だと思わない?」
「思わせぶりな事を言ったように聞こえるのは、君の見通しが甘いという事でも有る。今年何も考えずにホグワーツに向かおうとしているという意味なのだからな」
だんまりの時間は終わりらしい。
真剣に考えを進めると難解に思えてくる記事から再度視線を上げ、皮肉を紡ぐ。
「現状君が如何なる立場に置かれているかを考えれば、これまでと同じ学生生活を送ろうという気分になれん筈だ。君は今までで十分思い知ってきただろうが、グリフィンドールに所属している事は、それが必ずしも君や校長の味方をするという意味では無い」
その指摘が一体何の事かは即座に解ったようだ。
魔法省が闇の帝王の復活を否定し、これまで通りの日常を続けようとしているのは周知の事実だ。そして校長と彼を大嘘吐き扱いし、誹謗中傷している事も。
そして夏の大半をプリベット四番地に幽閉されていたであろうハリー・ポッターでさえ、流石にその現実を彼の友人から聞かされてはいるのだろう。彼の表情は途端に険しい物へと変わり、今までの何処か緩んだ空気は一瞬で消え去った。
「……っ。それってホグワーツでも僕達が嘘吐きだという奴が──」
「――君と同様、僕もまだ校内の様子を見ていない。だからその結論を出すのは尚早かもしれない。しかしだ、生徒が校長から聞かされたのはな、闇の帝王が復活したという事のみだ。それ以外は何も知らされなかったし、夏中の大臣や『日刊予言者新聞』はあの始末だ」
「…………ダンブルドアの言葉よりもそいつらの言う事を信じるっていうのか?」
「熱くなるな、ハリー・ポッター」
顔が赤くなり、声にも熱が籠って来た事を咎める。
「その手のグリフィンドールのその性質は僕が嫌う所だと、君にそう伝えた事が多分有る筈だが? そして魔法大臣の発言が特段信じられているとは言っていない。魔法族は〝マグル〟よりも魔法大臣を基本的に支持しているが、だからと言って〝マグル〟程に尊重したりや敬意を払っている訳ではない。特に君を無罪としてしまった今夏の大臣の失敗は、口さがない魔法使いの家で散々馬鹿にされていただろう」
ハリー・ポッターは思ってもない事を言われたという表情をする。
しかし、あれだけの大騒動を巻き起こしながら失敗したのに、そうならない方が可笑しい。
政治力はホグワーツの寮別対抗杯のように目に見えるポイント制では無い。
が、それでも失敗をすれば静かに、そして確かに減るもので、減り続ければ当然に指導力を喪い、最後には誰も指示に従わなくなるものだ。あれだけ大騒ぎしての完敗はコーネリウス・ファッジの面子を丸潰れにするものであったし、真っ当な頭を持っている人間ならば、彼が魔法大臣のままで本当に大丈夫かと思うのが自然な発想である。
「しかし一方で、だから校長の発言を信じるという事には決してならない。ホグワーツに着いた後、恐らく君は思っていた以上に多くの人間が現状を真剣に受け止めていない事に気付くだろう。これは予想では有るものの、賭けても良い。絶対そうなっている」
「……そんな馬鹿は少ない筈だ。ヴォルデモートが復活したなんて、冗談にしては質が悪すぎる。そんな嘘吐く奴が居る筈無いだろう」
「逆もまた言えるだろうに。史上最悪の魔法使いが復活したにも拘わらず、何の対策も打たずに傍観しているばかりか、逆に要らぬ政争に励んでいる統治機関など存在する筈がないと」
「…………」
当事者であるからか、ハリー・ポッターは楽観的過ぎる。
公平に判断する限り、魔法大臣とホグワーツ校長、その何れかの発言を真実だと確信出来るような決定的証拠など何処にも存在しない。
「考える頭を持つのが自分だけ、他の人間が遍く愚か者しか存在しないのだと思わない方が良い。現在スリザリン以外で君の敵に回っている人間はな、多少現実逃避的な側面は存在しても、真っ当に頭を巡らせた結果そうしているのだ」
『ザ・クィブラー』、愚か者しか読まないと認識されているであろう雑誌を片手で閉じる。
「そして今世紀で最も偉大な魔法使いの発言を何も考えず信じるのも思考停止だ」
判断要素として軽んじるべきではないのは確かだ。
やはり誰が物事を言っているかは重要であり、しかしそれは良い方向にも悪い方向にも働く。丁度今、あの大魔法使いの言葉が世間から疑問視されているように。
「そもそもアルバス・ダンブルドアという人間は何処まで信用に足るのだろうか? 魔法界で生きる者にとってどう認識されて来たのだろうか? 〝マグル〟界で生まれ育った半純血である君は知らないし、僕も左程詳しいという訳ではないが、それでも生粋の魔法族の誰か――ロナルド・ウィーズリーあたりから聞いた事が無いか?」
特に賢者の石の事件以前、余計な先入観を省ける頃の噂や評判が良いが。
そう付け加えたが、ハリー・ポッターは口を堅く噤んだままだ。そして好都合だと彼から視線を外し、それまで傍観者に徹していた他の三人を見渡す。
「君達は生まれた時から魔法界に居るだろう? ならばあの校長がホグワーツ外でどう噂されているか聞いた事は無いか? このハリー・ポッターに現実を教えてやる良い機会だ」
ジネブラ・ウィーズリーとネビル・ロングボトムは突然矛先を向けられた事に大きな戸惑いを覚えたらしい。二人して顔を見合わせた。そして答えるべきか、本当に答えても良いかという逡巡が両者の間で交換される。
故にそんな悠長な事をしている彼等から答えが出るより、或いはハリー・ポッターが苛立ちを見せ始めるより、もう一人が詠うように回答を紡ぐ方が早かった。
「私は知ってるモン。『ダンブルドアは狂ってる』って、ずっとそう言われて来たんだよ」
ハリー・ポッターにとって現在まで正体不明の――恰好から見て変人である事は察していただろうが――下級生が平然と言ってのけたのには、彼も面食らったらしい。段々溜め込まれ始めていた怒りも一瞬で霧消していた。
彼がそんな反応になってしまった一因は、彼女の答えを聞いて他の純血魔法族二人が少々居心地の悪そうな顔をした事にもあるかもしれない。
……ただ、そこで終わらないのがルーナ・ラブグッドという女性なのかもしれなかった。
「でも、ダンブルドア先生は良い人だよ?」
にこやかな表情で、彼女は平然と言ってのける。
「二年生の頃なんて私とブリバリング・ハムディンガーを追いかけるのに協力してくれたし、一緒にホグワーツで探しもしたんだ。去年は忙しくなされていたみたいだけど、それでも応援してくれたし。だから間違いなく良い人だモン」
「「「「…………」」」」
それがどんな生き物なのかこの場で理解している人間はルーナ・ラブグッド以外居なかった筈だ。だが、それでも全員の――やはり彼女を除く――意見が一致していただろう。
それは非常にアルバス・ダンブルドア校長がやっていそうな行動のように思えると。
「……まあ兎も角だ。この魔法界の殆どの魔法族がホグワーツ生活を経験しているにも拘わらず、あの校長にはそのような評価が罷り通っている訳だ。それも親愛から出る発言では無く、恐怖と不気味さの感情を籠めて、彼は多くから狂っていると呼ばれている」
先程の言葉は聞かなかった事にして先を続ける。
そんな冷淡な対応にルーナ・ラブグッドは頬を少し膨らませたが、この場に彼女に味方する者は居らず、誰も触れようとしなかった。
「要するに、彼は普通の生徒にとって
あの校長は何処まで己を客観視出来ているのだろうか。
「生徒の視点で見る校長の姿。それは始業日や終業日に戯言を抜かしたり、離れた職員席で食事をしている姿が殆どだ。クリスマスなどで生徒側の席へ来る事が有っても、休暇中校内に残らない生徒にとっては知る由もない。更に魔法大戦や第一次魔法戦争中、彼は大層
生徒にとって、彼は信頼に値する人間ではない。
ホグワーツに居る全教授中でも下から数えた方が早い位には。
「……君はつい先程、偉大な魔法使いだから信じるのは馬鹿だというような言い方をした。人となりを知ってた所で、言っている内容まで真実だとは限らない筈だ」
「そうだな。しかし天秤を大きく傾ける程の判断要素が無いなら、結局最後は何かを――好悪や知己等を理由に決めなければならない。合理的では無いが、人の感情から見れば論理的だ。その結果、魔法大臣より、校長より、善良なだけの友人の発言が信頼される場合は零でない」
それは誰にでも有るし、どんな大魔法使いでも逃れられない人間の宿業だ。
「彼は元々狂った魔法使いと呼ばれていた。そしてホグワーツに入ってみれば、やはり事ある事に意味不明な発言をしたり、奇行の目立つ校長だ。更にこの四年、賢者の石のような危険物を校内へ勝手に入れ、バジリスクを止められず、シリウス・ブラックの侵入と逃亡を許し、安全な筈の試合で一人の生徒を事故死させた。この体たらくで、あの校長が力を喪い、耄碌し、狂気に堕ち、闇の帝王の復活という妄想に取り憑かれたのではないと一体どうして言える?」
「それは全て理由が──」
「――有ったとも。だが世間は知らない。君がどれだけを知らされたか。そして魔法界がどれ程多くを知らされているか、改めて情報を整理してみると良い。その過程で当然のように、君はあの校長の秘密主義ぶりに驚く事だろう」
勿論、秘密主義が必ずしも悪い訳では無い。
たとえば〝マグル〟界の
説明責任を振りかざす民主主義体制でさえ、国家正義という怪物は民衆の無知を容易く正当化してしまう。ならばこの前時代的で、個人的能力に依存する社会構造を保ったままの魔法界においては、頂点の人間の秘密主義など猶更簡単に肯定し、正当化する事が可能である。
「だがここで重要なのは、その秘密主義を踏まえて尚、その人間が信用出来るかだ。ホグワーツ内に限定するのならば、アルバス・ダンブルドア校長が何か隠し事をしていたとしても、それでも生徒にとって信頼と忠誠を向け、敬意と好意を捧ぐに足る相手であるかだ」
「…………」
「結論から言えばそうではない。あの校長は、生徒にとって近しい存在ではない。今世紀で最も偉大な魔法使い、その肩書だけで人を遠ざけるには十分だというのに、
やはり個人的な見解では有る。
それでも思ってしまうのだ。
アルバス・ダンブルドアだけは絶対に校長になるべきでは無かったと。
「変身術教授でも、闇の魔術に対する防衛術教授でも何でも良い。七年間と言わずとも、一年間ですら構わない。その授業を受け、その人柄に触れる機会が有ったのであれば、彼はここまで遠く無かった。彼が無意味に嘘を吐いたり、単に愉快な気分になれるという理由で突飛な行動に出る事は有っても、この手の冗談だけは決して言わないと生徒は知れたかもしれない。
――が、そうではない。残念な事に。嘆かわしい事に」
今の彼は校長で、しかもこの四分の半世紀以上、彼は校長のままで在り続けている。
魔法族の総数で言えばアルバス・ダンブルドア
そして自分の子供からも校長への好意的な反応が返ってこないのであれば──この四年間、既に校長が戦争の為に動き続けていたのだと知らない者にとっては、彼の動向は狂って見える──アルバス・ダンブルドア校長の言葉を容易く信用する事など出来ない。まして終わった筈の暗黒時代の再来、闇の帝王の復活を信じられなどしない。
そも、このハリー・ポッターですら、一対一で校長と話した事がどれだけ有っただろう。
彼の様子と校長が口にした物語から判断するに、片手で少し余る位か。それであの校長の人となりを、全幅の信頼を向けるに足る存在であるかを判断出来る筈もない。実際、今のハリー・ポッターの信頼は不安定なものとなってしまっている。彼の瞳が揺らいでいるのが証拠だ。
そこまで考えを巡らせ溜息を吐く。
そうさせたのは、ルーナ・ラブグッドがしきりにローブの肘部分を引っ張ってきたからだ。自分の発言を無視するなと言いたいのだろうが、結論は変わらない。
「確かにあの校長が各生徒にちょこちょこ干渉する事は有るだろう。特に下級生はその対応に触れ、彼を意外と愉快で、話が解る人物だと思うかもしれない」
そしてそれもあの校長の一側面、素顔の一端では有る。
「しかしだ。彼の本性の大部分がそうでない、それとは程遠い事に、いずれ気付く事になる。高学年になって、或いは卒業後社会に出て――特に魔法省に入って。そして学生時代彼を英雄視していた人間程、あの校長に対して幻滅を覚える事だろう。彼は最も魔法族らしい魔法族の一人であり、故に勢いよく流入しつつある〝マグル〟の観点からは時代遅れにしか映らない」
ルーナ・ラブグッドを見やりつつ言えば、彼女は余り良く解らないという表情を浮かべていた。横目で見るネビル・ロングボトムは大きく困惑しており、ジネブラ・ウィーズリーは反感と無理解の感情を露わにしていた。
けれどやはりというか。
ハリー・ポッターだけが深刻な顔で受け止めていた。
「別の切り口から言おうか。仮に闇の帝王は復活したと言ったのがミネルバ・マクゴナガル教授だったとしたら、それは嘘だと宣う生徒が居るか? 当然、居る筈が無い。グリフィンドールなら殆ど全てが真剣に受け止めるだろうし、スリザリンですらその主張は無理筋だと解る」
彼女は公正を重んじ、スリザリンを含めて寮を一切区別しない――但しクィディッチだけは除く――という事を、ホグワーツの生徒ならば誰でも知って居る。
これまでの変身術教授としての行動、そしてグリフィンドール寮監としての振舞いを良く知って居るからこそ、彼女の発言を頭から疑う事などしない。
「だがあの校長はやはりそうではない。生徒にとって彼の一番の印象は、校内に居る良く知らない偉い人なのだ。これで信頼しろという方が無茶な話であり、そして
ホグワーツ生が忠誠と好意、信頼を向ける先は〝ホグワーツ〟である。
決してアルバス・ダンブルドア個人ではなく、彼と同一でもない。彼を校内から叩き出したとしても〝ホグワーツ〟は何ら変わりなどしない。
少なくとも、闇の帝王が校内に立ち入ってくるまでは。
「……嗚呼、ならば教授に帝王の復活を主張して貰えば解決だとか言うなよ?」
視界外からの物言いだけな視線を受け、そちらに顔を向けつつ言葉を紡ぐ。
口にする気だったかは別として、考えてはいたのだろう。ジネブラ・ウィーズリーは誤魔化すように咳払いをし、ネビル・ロングボトムはバツの悪そうな表情を浮かべた。
「その場合、教授がハリー・ポッターに騙されている説が有力化するだけだ。彼女を信用出来る事が即ち、闇の帝王復活説を肯定する事にはならない。まあ支持者の増減は当然有る訳だが、君達が求める結果には全く繋がらない」
とは言うものの、内心では決定的な違いが生まれたとは考えている。
「そして君達がミネルバ・マクゴナガル教授達に期待しているとすれば無駄だ。彼女等は沈黙を貫くに違いない。魔法省を支持する発言は当然だが、校長を支持する発言もまた絶対にしない。新学期、寮監方に〝正しい〟見解を聞きに行く馬鹿な生徒が現れるのは目に見えているが、まず零回答で追い返される事だろう」
「……まだ起こってない事なのに、君は断定的に言うよね」
「断定出来る事ならな。そしてこれは断定出来る部類に属する」
予想と呼べる代物ですらない。
「教授方が自己の見解を無節操に表明したらどうなると思う? 闇の帝王の復活肯定派と否定派に分かれての大論争だ。嗚呼、その程度で留まるなら良いかもな。最悪の場合、自寮の寮監と違う意見を持つ生徒の粛清にまで発展するかもしれない。何れにせよ、最終的に行き着く先はホグワーツを二つに割る事態、千年前の内戦の再来となる」
まあ解っていて踊るスリザリンは良いのだが、解っていないで踊らされる他寮の生徒達は将来、非常に危うい立場に置かれる事になる。
現状、魔法省と不死鳥の騎士団は同じ陣営に居ない。要は魔法省に味方した者の引っ込みが付かなくなり、それまでの数年で培ってきた筈の友誼や共感が壊れてしまう事こそが、〝ホグワーツ〟にとって最大の不利益となるだろう。
そして結局の所、〝純血〟より純血以外の方が多いのだ。
校内に不和が齎されて得る利益は、光の陣営より闇の陣営の方が遥かに大きい。
だが、ハリー・ポッターは不満気な反応を寄越す。
「……ならホグワーツを割ったら良いじゃないか」
本気で言っているというより、不満や苛立ち、そして反骨精神からか。
暗い表情で、低い声で、さながら挑発するかのように彼は言ってのけた。
「どの道ヴォルデモートが勝てばホグワーツの内戦も何も無いだろう。スリザリンと、あいつに味方した一部以外は全員殺されるんだ。四寮でなく一寮、全てスリザリンになるかもしれない。ならそうさせない為に正しい事は、ヴォルデモートが復活した事は皆で発信し、未来に備えるべきじゃないのか? そもそもスリザリンと仲良くするの何て最初から――」
「――無理である。その言葉に可能だと答える程、僕は恥知らずでない」
自分の眼の前に居るのが誰であるかを思い出したのだろう。彼は途中で言葉を途切れさせたのだが、僕はそれを引き取って言葉を続けた。
「そして僕はそちらに転んでも悪くないと思っている側では有るのだ」
「…………は?」
「自分から言い出したのにそんな顔をするな。ケンブリッジの誕生までは期待出来そうにないし、寧ろノーサンプトンやスタンフォードの例を踏襲する事になるだろうとは思っているが、一度割ってしまった方が変わり得ると考えている。〝ホグワーツ〟が有する権威を史上最も有効に活用し、同時に悪用もしているのがあの校長だからな」
西洋〝マグル〟世界を大きく割った大事件の一つ宗教改革にしても、その後に起こった惨禍の巨大さを思えば起こって良かったと手放しで言えはしないものの、大分断によって多くの良きモノが新しく生み出されたのは確かだろう。
「だが己の希望通りに他人が動いてくれると期待し過ぎるべきではない。教授方も、そして校長もか。……嗚呼、そうだとも。去年度末、あの校長は闇の帝王の復活を宣言した。しかし、今年も再強調してくれると君が考えているならば、それもまた勘違いだろう」
千年の伝統を引き継いだホグワーツ校長として。
スネイプ教授の追放が不可避となる状況を恐れる不死鳥の騎士団長として。
彼はその行動を取れないと予想している。
「つまり始業式において、
地獄の魔法戦争は再開された。
だというのに、彼は日常が変わらず続いているように振る舞う事だろう。
「――っ。ヴォルデモートが復活したのに本気か!? あれだけ夏中に大嘘吐き扱いされて、魔法省はゴミ以下の対応しかしてないのに!? 生徒に警戒を呼び掛けたりもしないって!? そんな馬鹿な事が……!」
「こちらは断言出来ない。ただ、あの校長もグリフィンドールだ。要は危険な賭けであればある程、その命運を他人の行動や選択に委ねるのを嫌う」
自分が戦場に居ないと気が済まないタイプとも言い変えられるか。
己の知らない所で大きな事が起こるのを、彼等は決して我慢する事が出来ない。
「あの校長が闇の帝王の復活を再強調してしまえば、スリザリンとしても対応に迫られ、そして選択肢が生まれる。つまりこんな校長の下に居られるかとホグワーツを出ていくという選択肢だ。或いは、あの校長及びそれに味方する全生徒をホグワーツから叩き出し、〝正統〟ホグワーツを奪還しようとする選択肢だ」
挑発されて黙っていられないのは、スリザリンもグリフィンドールと左程変わらない。
意思が統一されていなかった去年度末は、校長の一方的な言い分を見逃した。しかし今は違う。闇の帝王の復活が殆どに共有された以上、最早二度目を許す事は無いだろう。
「何れにせよスリザリンがそれらの行動に移れば、その時点で分裂が確定し、校長に打てる対策は皆無だ。校長に学生を退学させる権利は有るが、自由教育である以上、逆に引き留める権利はないからな。まあ一応可能性は低いのだが、千年の伝統を終わらせた愚かな校長と呼ばれる事を懸念するのであれば、彼はそんな隙を晒さない筈だ」
そして校長が騒ぎ立てないならば、闇の陣営も同様に静かにしている事だろう。
特に今年は親達もホグワーツ内部の様子を知りたがっている筈で、子供達からの手紙で何も変わった事が無いと報告されていれば、大丈夫だと勘違いする阿呆もそれなりに出ると予測される。何れ彼等も現実に気付く時が来るにしても、タイムリミットが伸びるに越した事はなく、闇の帝王にとって都合が良い。
一方で光の陣営──あの校長にとっても悪い話ではない。
あの校長は使える手駒をホグワーツに置いたままで居られる。
どちらの陣営にとっても、現状維持なら最悪は避けられる。
そしてわざわざ賭けに出るような状況でも無い。
「まあ、君が信じられないというならば構わない。数時間経てばどちらが正しいかどうかは解る。そして君が正しい場合は、僕を存分に嘲笑すると良い」
そちらでも一向に問題無かった。
去年と違い、予想を外したとしても死人は出そうにないからだ。
「しかし仮に何時も通りに始まった場合、それが校内に生むのは闇の帝王の復活など嘘だったのだろうという空気だろうな。当然ではある。親兄弟が明日突然殺されても可笑しくない時代になったというのに、子供は何も知らされないまま、考える機会も与えられなくとも十分だ。そう言っているに等しい対応は、非常に身勝手で尊重の欠片も無い――」
「――じゃあ、どうでも良いって言うのか?」
「…………」
息荒く言葉を遮ってくれたハリー・ポッターを見やる。
感情を抑えようとしている努力は見えたが、滲み出る怒りを隠し切れていなかった。
「僕はずっと大嘘吐き扱いされたままで居ろって? ホグワーツの為、大人達の高貴な目的の為に? 所構わず傷の痛む可笑しな狂人と呼ばれて、更にヴォルデモートと決闘したという大法螺を吹いているアホと陰口を叩かれ続けても、それでもダンブルドアもマクゴナガルも黙ってるのか……!? 僕の気持ちなんかどうでも良いって言うのか!?」
自ら言葉を紡ぐ内に現状を再認識し、一気に頭に血が昇ったようだ。
ハリー・ポッターは勢い良く立ち上がり、大声で怒鳴り始めた。
「ああ、そうだったな……! 大人達が僕を本当に助けてくれた事なんて一度も無かった! 賢者の石を護った時も! バジリスクを殺した時も! 吸魂鬼を追い払った時も! 僕が目立ちたいが為に年齢線を超えたのだと学校全体が責めた時だって! 大勢の死喰い人に囲まれてヴォルデモートと決闘する時ですら、僕一人だけが我慢して、僕の手で終わらせなければならなかった……!!」
彼は元々癇癪持ちだったが、今年は躁鬱傾向が強過ぎないかと思う。
ルーナ・ラブグッドを除いた二人は稲妻に撃たれたように硬直しているし、各コンパートメントはある程度の防音がされているとはいえ、大声を完全に遮断してくれる程ではない。この車両が静寂に包まれたのは、多分気のせいでは無いだろう。
「大人達は何時も何時も、些細な助力を大袈裟であるかのように言う……! 見えない所で手助けをした! 可能な限り情報を与えた! ああ、非常に大層な助けだったとも! 子供より遥かに賢いつもりの大人達が、最低限の何かをやった気にはなれたんだからな! それを僕がどう思うかなんて一つも考慮に入れちゃいない!」
「…………」
「君だってそうだろう、冷血スリザリン! 君が僕より賢いのは認めるさ! けど、君が賢いからなんだって言うんだ! 君の予想通りになったとして、何が変わるって言うんだ! 君だって今年もコウモリみたいにフラフラするだけで、何も動く気がないんだろう!」
怒っているが、それでも痛い所を突いてくる男だ。
この場合も、やはりハリー・ポッターは正しい人間である。
「今まで何も変えられていないのも、今年……今年も、か。動く気がないのも肯定しよう。それは確かに真実であり、耳の痛い所だ。が、僕に八つ当たりした所で何も変わらんぞ」
「知った事か! 所詮は他人事だから好き勝手言え――」
「――他人事だとも。だから、君が動けばいいだろう」
「…………え?」
思っても居なかった言葉を掛けられた衝撃に瞬きを忘れたのか。
見開いたまま止まった彼の瞳を、不安定に揺らめく碧色を、座ったまま下から覗き込む。
「君が忘却の彼方に置いてしまうのは仕方ないが、この話の出発点は、首席を目指して学生生活に現を抜かしている暇が君に有るのかというものだった。途中の話は、特にあの校長についての部分はここに帰着する。君が、君こそがやれば良い」
あの校長が求めていないのは承知の上だ。
しかしだからこそ逆に、僕はこの男に対してそう求める。
「校長や教授が自陣営の支持者を集める真似は危うい。それは確かに事実だろう。千年前の内戦もサラザール・スリザリンとゴドリック・グリフィンドールの対立、つまり最終的には大人同士の抗争だったからな。しかしながら、一生徒で子供に過ぎない君が、ホグワーツにおいて〝御友達〟を増やす事は何の問題も発生しない。それはホグワーツ生の通常の行為であり、校長や教授――スネイプ寮監や今年の新教授をもってしても尚禁じられない権利だ」
ハリー・ポッターは力が抜けたようにふらつき、倒れ込むように椅子へと座り込んだ。
余りの勢いに隣のジネブラ・ウィーズリーが顔を歪めはしたが、彼の表情を見てだろう。敢えて文句を言う気は無さそうだった。
「勿論、君が生徒に手当たり次第大論争を吹っ掛け、論破して帝王の復活を認めさせようとするなら別だ。その場合は騒動が不可避であり、ミネルバ・マクゴナガル教授ですら罰則と監視をもって止めようとするだろう。しかし、君が表向き波風立てずに動くつもりなら、彼等は止められない。そこまで生徒を支配する権限を教授は持ってなどいない」
「……説得して、ヴォルデモートの復活を信じさせろって事か?」
「それも一つの手段ではあるが、別にそれが全てではない」
感情に振り回されている人間に、理屈を振りかざすのは寧ろ逆効果だろう。
「そもそも君が馬鹿な嘘を吐くような人間でない。そう知って貰う為に努力する事もまた有効な手段だ。言っただろう、誰が発言をしているかこそが正しさを決める場合は有り得ると。あの校長が信じられずとも、君を信じられる事は有る」
「――――」
「まあ僕が言えた義理では無いのだが、君の校内での評判は左程芳しくない。故に校長でなく、君こそを信じられないと言う者も居るだろう。しかしそれでも、君は校長のような遠い存在ではない。ホグワーツ生にとって同じ空間で学ぶ同輩であり、グリフィンドールなら同じ寮である事も加わる。これからそれを変える為の機会と、変える為の時間は有ると思うがな」
その為に今年の時間を費やす事こそ、真に有意義と言えるものではないか?
愕然とした表情を浮かべたままのハリー・ポッターに、そう小刻みに笑ってみせる。
「……でも、僕達はまだ未成年で、子供だ。ウィーズリーおじさん達も、ルーピンやシ――兎も角、大人達は僕達には何も出来る事が無いと言いたげだった」
「下らんな。本物のアラスター・ムーディが聞けば笑い転げそうな言葉だ」
赤毛の少女の肘打ちで発言が訂正されるのを眺めつつ一蹴する。
しかし不安定な発言だ。先程あれだけ大人を非難しておいて、今度は自分が子供だからか。けれどもこんな不安定さが、
「戦争に大人も子供も無いだろう。年齢の長幼も、覚悟の有無も、種族の差異すら関係無く、この魔法界に留まる限り巻き込まれる。そして第一次魔法戦争は十一年続き、御互い散々犠牲を払って尚一時休戦止まりだった。ならば今度は何年戦争をやるだろうな? 僕達の卒業まで今年含めて後三年有るが、それまでに終わってくれるとは到底思えんが?」
「……だから卒業後に向けて、今から戦える仲間を集めておけって言うのかい?」
「別に校内で魔法戦士を探せとは言っていない。寧ろ戦士以外の人材こそが校長に欠けており、だからこそコーネリウス・ファッジ如きに押されている」
今世紀で最も偉大な魔法使い。
その肩書に比して校長の求心力が異常に低い事を――彼と近い世代の人間の殆どが死んだか引退している事を差し引いても尚低い事を――彼等はもっと強く意識すべきである。
「今現在魔法界では二つの勢力が〝票集め〟しているが、現実の選挙と同様、全体の過半数を取る必要など全くない。死喰い人と不死鳥の騎士団。かつての戦争時にはどちらの人数が多かったのか、騎士団員の誰かから聞いていないのか? 無投票の日和見主義者を最大限増加させ、その上で重要な局地で勝利する事さえ出来るならば、支持者の総数で劣る側が最終勝者となったとしても何ら可笑しな事ではない」
「…………」
「〝マグル〟と異なり、
ハリー・ポッターは表情を余計に険しくして黙り込んだ。
ネビル・ロングボトムやジネブラ・ウィーズリーの表情も硬いが、彼等はハリー・ポッターの感情の波に着いていけていないというのが大きいらしく、余り大した思考を巡らせている感じがしない。更に僕の言葉への反応にしても困惑以上が含まれていないのは、彼等が生粋の魔法族だからだろう。ハリー・ポッターと違い、彼等は〝マグル〟の社会制度に通じていない。
この場で御気楽そうなのはただ一人、ルーナ・ラブグッド位の物だ。
もっとも、彼女が見た目通りかは解らない。必ずしも何も考えて居ない訳でも無く、レイブンクローらしい叡智の刃を携えている事は、三年前に十二分に思い知らされている。
硝子戸越しにコンパートメントの外をチラリと見る。
既に列車は出発して久しいのだが、また一人、生徒が通路を通り過ぎて行くのが視界に入った。今のはハッフルパフであったようだが、その寮に限った事でも無い。グリフィンドールも、レイブンクローも、そして一人二人だがスリザリンも、通り過ぎて行くのを見かけた。外見年齢から判断する限り、彼等は見回りに来た首席や監督生では無さそうだ。
つまり偶然を装って観察しに来る程にはハリー・ポッターは現在注目を集めているのであり、しかも先程更に注目を集める程の大声を上げてくれたのであって――そして自惚れでないのであれば、僕が一緒に居る事も有るのだろう。
現在の情勢でスリザリンとグリフィンドールが席を同じくしているのは、どう考えても異常であり、不穏だ。これによりハリー・ポッターは更に嘘吐き呼ばわりされる事になるだろうが、まあ自分から僕の下へ来たのだ。頑張って言い訳して貰うしかない。
一方、僕の方も後でドラコ・マルフォイによる尋問が待ち受けている訳だが、正直言って、そちらの方は余り心配などしていなかった。
今夏中マルフォイ家に滞在した事で得た一つは、ドラコ・マルフォイのハリー・ポッターに対する執着は、僕が想像していたよりも大きいという事である。他のスリザリンと異なり、ドラコ・マルフォイが意識しているのは〝生き残った男の子〟では無い。勿論、それが彼にとって良い事なのかは中々判断しにくい事であるのだが。
幾度目かの沈黙に手元の『ザ・クィブラー』を軽く弄んだ後、ルーナ・ラブグッドへと差し出す。興味が尽きた訳では無いが、そろそろ時間切れだろう。本来の持ち主に返そうとし――しかし、それは叶わなかった。途中で止められた。
その理由は、僕が動きを止めてしまったから。
そして根本の原因は、酷く抑揚の無い声でハリー・ポッターが問いを紡いだから。
否、
「……君はさ、どうして仲間を集めろって僕に言うんだ?」
「――――」
失敗した。
本能でそう解らされた。
油断した結果の過ちと後悔を、今回も僕は思い知っていた。
吸魂鬼が眼前に現れた時のような涼しさとは異なる、自分が居る場所が一瞬で水底に変わってしまったかのような息苦しさ。心を制御すれば耐えられるという代物では無く、生物として圧倒的に下であると格付けが付いてるが故の重圧。
この場でこれを感じているのは僕だけだ。
他の三人は何も感じていない。唯一その眼を真正面から見てしまった僕だけが、死の恐怖と、己の不用意さが招いた代償を味わう羽目になっていた。
ホグワーツに入学して以降、己が死んだと思った瞬間は二度存在する。
その一度は当然、去年度末の事。アラスター・ムーディに化けた死喰い人、バーテミウス・クラウチ・ジュニアに杖を向けられた時。彼が僕に利用価値を見出していた事によって命を拾いはしたが、殺されても可笑しくは無かったし、生きた心地がしなかった。
しかしながら。
最も命の危険を感じたのは、その時では無い。
もうじき四年経とうとしていて尚、未だに鮮烈に記憶している、一人の教授と直接会話を交わしたあの日。クィリナス・クィレル教授の瞳の中に、赤色の光を見た時である。
……嗚呼、アルバス・ダンブルドア校長の言葉は本当に示唆に富んでいる。
ハリー・ポッターは何れ闇に堕ちるだろう。
あの大魔法使いにそう考えさせてしまった理由は何か。
そもそも子供が将来闇の魔法使いになるに違いないという発想は、本来の彼の流儀では無い。
ゲラート・グリンデルバルトとアルバス・ダンブルドア――過去友人関係に在った自分達二人との類似をハリー・ポッターと闇の帝王との間に視たとしても、当時のハリー・ポッターは一歳である。善悪の区別を知る以前の存在であり、第一、彼の両親であるジェームス・ポッターとリリー・エバンズは光の側で戦った人間だった。
であればあの校長は、彼の信奉する愛と教育によってハリー・ポッターが善の道に進むのを期待するのが当然であり、自然な行いであったと言えよう。そして逆に明らかにそれらが与えられないであろうダーズリー家に置くのは、非常に校長らしくない行いだ。
彼の身の安全を天秤に掛けたとしてもそれは変わらない。
一時的な避難場所としてダーズリー家に預ける必要が有ったにせよ、危険が低くなったと判断したら即ハリー・ポッターを回収すれば良かったし、逆に危険だと判断すれば預け直せば良かった。
そもそも霊魂未満のゴーストに貶められた状態の亡霊を過度に恐れる程、今世紀で最も偉大な魔法使いは弱くない。彼が唯一警戒するに値する相手、闇の帝王が動いたのは精々四年前からで、第一次魔法戦争直後の一年程を除けば、ハリー・ポッターに身の危険など一切無かった。
けれども何故だか彼は十四年前そんな非道を是とし、また十年もの間それを是とし続けた。やはりその行いは、余りに〝アルバス・ダンブルドア〟らしくなかった。
そして今夏、闇の帝王を滅ぼす方法を聞いた時、僕は非常に不思議だったのだ。
如何に闇の帝王、彼が敵と看做す相手の弱点に繋がるとはいえ、分霊箱――邪法の極地の一つについて、闇を遠ざけて来たあの校長が多くの知識を持っているとは思えなかった。
そもそも帝王本人に詮索を知られてはならない以上、その知識の獲得は秘密裡に行う必要が有り、必然得られる情報にも制限が付く。まして前代未聞の複数の分霊箱となると完全に魂の領域であり、魔法族にとってすら殆どが未知のままの世界である。どんなに頭が良かろうが推測を立てるにも限度が有ろう。
しかしそれにも拘わらず、あの校長は分霊箱を作れる数には限界が有ると断じ、更に闇の帝王はその限界が近付いていると推測した。何故あの校長がそんな推測を出来たのか、一体何を根拠としていたのか皆目見当も付かなかったが、今その答えが掴めてしまった。
ハリー・ポッター。
彼こそが、意図しない形で作成された分霊箱か。
改めて考えれば、あのハロウィンの日に更なるヒントが有った。
校長は当然疑問を抱いたのだろう。
ハリー・ポッターが死ななかった事では無い。闇の帝王が消え失せた事でも無い。
それは一部間違いであり、しかし概ね正解でも有ったようだ。
去年までは、ハリー・ポッターに些細な変化しか――時折の痛みや、蛇語能力も付け加えられるだろうか。彼の血筋を見る限り、蛇語話者は居ない――与えていなかったと思われる。
けれども闇の帝王は復活した。
肉体を得たのみならず、その際にはハリー・ポッターの血も取り込んだ。傷と魂、そして血。彼等の間の繋がりは魔法史上類を見ない程に強固となった。
そして十四年前に予測されていた最悪の展開の一つは間違いなどでは無かった。そう思わせるだけの証拠が、今まさに目の前に存在している。
闇の帝王がハリー・ポッターに取り憑き、肉体を奪い、成り代わる。
見る限り、その未来は十分起こり得る。
帝王が既に肉体を得ていようが関係無い。分霊箱の秘密を学び、魂を二度以上分割してみせるという奇跡を成し遂げ、塵のような存在に貶められて尚も生にしがみ付いてみせた存在ならば――今のこの世で最も魂について知識と思索を深めたと言って良い最高峰の魔法使いならば、恐らく可能だ。クィリナス・クィレル教授やジネブラ・ウィーズリーに対しては不可能でも、ハリー・ポッター、己と最も近しい器である彼に対してだけは、多分それが出来る。
「君は可能な限りスリザリンらしく振舞おうとして来た筈だ。けど、これは違うだろ? グリフィンドールに仲間を集めろって言うのは、明らかにスリザリンの遣り口じゃない」
「…………」
細心の注意を払い、言葉を選ばねばならない。
「君の言葉は殆ど、特に僕に何かを伝えようとする時は意味を持ってた。じゃあ、これは何の為なんだ? マルフォイの奴に世話になって、ヴォルデモートの側に着こうとしている君の事だ。一体何を企んでる? たとえば敢えて僕に仲間を集めさせ、そして残らず一網打尽にするくらいの事は考えてるんじゃないか?」
答えを過つ事が有れば
母親の名残は消え失せ、血色に支配された瞳が告げている。
生理的反応で喘ぎそうになるのを意思の力で押し殺し、反対に息を肺から押し出しながら、
「――闇の帝王の目的と僕の目的は必ずしも一致しない。まず初めにそう反論しておこうか」
可能な限り平静を装い、ゆっくりとそう回答を告げた。
「…………」
流石にその答え方は予想外だったのか、彼は黙り込んだ。
「嗚呼、闇の帝王の目的がスリザリン的では無いと言ったのではない」
僅かに重圧が薄れた隙、何か余計な事を言われるより先に、僕は言葉を継ぎ足す。
「彼がやろうとしている事は、今のスリザリンの思想の一つの終着点だろう。それは何ら否定しない。しかしだ、闇の帝王に付き従う者全員が、彼の目指す世界を理想として等しく共有出来ている訳では無い。帝王の存在しない世界を目指す不死鳥の騎士団とは――嗚呼、違うな。これまで通りの魔法界の姿を等しく共有出来ている組織とは違う」
「……君は死喰い人がバラバラだって言うのかい?」
「でなければ、やはり十四年前に大勢が裏切り、組織自体が崩壊する事など無かっただろうに」
「…………」
「権力の渇望。社会への復讐。亜人や〝穢れた血〟の抹殺。禁忌とされる呪文や魔法薬の研究。自身の一族や家系の繁栄。そして、不死の獲得。現体制が邪魔だという点で一致し、互いに協力し合える領域が存在していたとしても、各々向いている方向は違う筈だ」
筈と表現はしたが、それは去年度聞いた内容の殆どそのままだった。
「僕も同じだ。闇の帝王の破壊的路線に概ね賛同出来るとしても、細かく見れば違う意見や思惑を持っている。君とこうしているのにも理由が有り、目的が有る」
「……目的? その目的っていうのは何だい?」
「馬鹿正直に言えというのか? スリザリンがグリフィンドールに?」
鼻で笑ってやれば、彼は瞳の赤を明滅させて苛立ちを露わにし、けれども何も言えなかった。彼から感じる圧力も弱まりつつある。
「しかし、強調はしておこう。先程〝御友達〟集めを勧めた理由が
彼が思っているより遥かに、僕は〝ハリー・ポッター〟を見て来たつもりだ。
そして校長から聞かされた物語とも照らし合わせる限り、彼が何も行動しないという事は百パーセント有り得ない。あの校長はハリー・ポッターを戦争から遠ざけようとしているが、彼の性格からして土台無理な話だろうと僕は思っている。
「……ヴォルデモートを倒す為じゃないなら、じゃあ何の為に集めさせるんだ」
「多少はぐらかしはしたが、それでも割と誠意をもって回答したつもりではある。けれども君の口振りからするに、どうやら全く信用して貰えていないようだな」
「信じられる訳が無いだろう。君は余り嘘を吐かないが、必要が有れば吐く筈だ」
「その通りだ。しかし今回は違うし、君もそう確信出来るであろう反論は述べられる」
「へえ? 聞かせて貰おうじゃないか」
赤い光を明滅させ、挑むように言う彼に笑う。
全ては偶然であり、数奇だった。しかし運命かもしれない。
今この場でこの話が出た事は非常に良かった。違う場所でこの話が出たならば逃げる事は出来なかったかもしれないが、彼等は今回も僕の救い手になってくれるらしい。
「ルーナ・ラブグッドとネビル・ロングボトム。君が今年〝御友達〟を集めるつもりならば、まず第一歩としてこの二人を誘う事から始めたらどうだと、僕は君にそう勧めるからだ」
「──――え?」
彼が内容を理解した瞬間、血のような赤が消えた。
それも拍子抜けする程、綺麗さっぱりと。先程までの重圧や恐怖も嘘のように無くなった。
そして動揺するのは良いが、少しは隠したらどうだと内心で苦笑する。
ハリー・ポッターは口を半開きにしたまま、僕が挙げた二人を交互に、何度も見る。彼が有り得ないと思っているらしい事は、開心術士でなくとも丸わかりだ。彼が想定する仲間のイメージには、この二人が加わっている姿など全く存在していないようだった。
そんな彼を放っておき、僕は眼尻を吊り上げている赤毛の少女へと声を掛ける。
「嗚呼、ジネブラ・ウィーズリー。君を除外したのは単純に君の事を良く知らないからだ。これが初対面であり、人伝てに君の噂を聞く事すら殆ど無かったからな。……と言っても、僕は君をこの二人と同じ扱いをする気は全く起きないが」
「……どうしてよ」
「くくく、グリフィンドールがスリザリンに評価して欲しいのか?」
「…………」
「理由は二つ有る。一つは単なるグリフィンドールなどハリー・ポッターの周りに溢れている事。ウィーズリー家だけで腹一杯だ。そしてもう一つ、こちらの方が僕にとって遥かに重要なのだが、君は大きな喪失を知らないまま幸せに生きて来れてしまったという事だ。無論、それは素晴らしいと言える。少なくとも僕からすれば、羨ましくて堪らないからな」
僕の言葉をジネブラ・ウィーズリーは皮肉と受け取ったようである。
しかしハリー・ポッターに意図が伝わったのは表情の変化より明白だった。他二人も同じだ。故に、この場に居る人間の中で彼女だけが一人理解出来ていなかった。
そして仮にこの場にロナルド・ウィーズリーやハーマイオニーが居た所で、ジネブラ・ウィーズリーの仲間入りをしただけだ。クォーターヴィーラの女性が華麗に言ってのけたように、理解しようと努力しても尚理解出来ない事はやはり有る。
顔を近付け、もう一度ハリー・ポッターの眼を覗き込む。
彼は少したじろいだが、その瞳の中に赤の光は見えない。消えてしまった……訳では無いだろう。しかし奥に引っ込んだというより、繋がりが薄れてしまったという感じがする。闇の帝王と〝遠く〟なった場合には、彼は彼のままで居られるという事だろうか。
「さて、〝生き残った男の子〟。ここに居る彼等が、死喰い人と戦う勇ましい魔法戦士に見えるか? 或いはその資質が有ると感じるか? ルーナ・ラブグッドの成績は僕も知らないが、ネビル・ロングボトムの成績は、僕より君の方が遥かに良く知っている筈だろう」
「…………」
「言葉は要らんようだ」
自分が彼等に失礼な反応をしてしまった事は流石に自覚したのだろう。ハリー・ポッターは酷くバツが悪そうだが――そして槍玉に上げられたネビル・ロングボトムも恥じるように身を縮こまらせせていたが――彼等の図太さの欠片も無い反応に失笑する。
この辺りは彼もルーナ・ラブグッドを見習うべきだ。彼女の方は一切動じていない。
「一応魔法戦争は一、二年で終わりそうになく、まして学校の成績と決闘の成績は違う。あの校長ならば、数年有れば子供は幾らでも変われるとも宣うだろう。……まあ、僕に言わせれば老人達が自分で変わろうとしないだけであり、そして僕の関心はそこに無い。君がこれからも魔法界で生きたいと望むなら、あの校長と違い、彼等のような人間を集めるべきだろう」
――と言っても、余計な御世話かもしれんがな。
そのように最後に言葉を結んだ後、椅子から立ち上がる。
そうしてローブの内から杖を取り出し、そのまま呪文を紡ぎつつ一振りする。四年を経て慣れ親しんだ浮遊呪文は正確に効力を発揮し、己のトランクが上の棚から床に落ちた。その際に重い音を立てたのは呪文の失敗ではなく、家から大量に本を持って来たが為の重量が原因だった。
「――っ。君は一体何をしているんだ」
「ここから去ろうとしている。寧ろここに留まる理由が何処に有る?」
焦ったように言う彼に、馬鹿げた質問をするのだなと微笑んでみせる。
「君の親友二人も仕事が終われば合流する気なのだろう? 一つのコンパートメントに七人は手狭──まあ、六人でも余り変わらんか。しかしながら、そのような窮屈な思いをするのは御免だ。今年はスリザリン側の方が空いてそうだからな。彼等の何処かに入れて貰うさ」
そう僕が言ってみせた途端、ルーナ・ラブグッドもまた立ち上がった。
予兆無く唐突で、ハリー・ポッター達三人が飛び跳ねんばかりの勢いだった。彼女は僕と違って杖を取り出さなかったが、それでも棚に向かって手を伸ばそうとした所を見ると、有している意図は明らかである。
が、彼女の頭の上に掌を乗せる事で、その行動を停止させた。
「君に着いて来てくれと頼んだつもりはない」
「ン。でも――」
「今ここではっきり述べておくが、僕は君と友人になった覚えも無い」
一切の飾りない言葉には、流石にルーナ・ラブグッドも傷付いた表情を浮かべた。
レイブンクローでの
そして僕の立ち位置は、あの時よりも更に明確な物となっている。
「だが確かにこの場に居るのはグリフィンドールだけで、後から来る二人も変わらない。だから居場所が無いと君が感じ、そしてスリザリンで気の合う人間を探したいと望むのならば連れて行っても良いのだが――」
「──ルーナは私の友達よ。お情けでスリザリンの仲間に入れて貰う必要なんて無いわ」
少女の鋭い声が、僕の言葉を最後まで紡がせない。
グリフィンドールの美点の一つは、非常に操作しやすい点だろう。
そして渋々認めざるを得ない事でもあるが、この手の救い方はスリザリンには出来ない。
「だ、そうだ」
確か学年が同じなので、彼女達の面識は有る筈だ。
が、それでも真っすぐなジネブラ・ウィーズリーの言葉は、ルーナ・ラブグッドに大きな戸惑いを齎したらしい。彼女は赤毛の少女にゆっくり視線を向けた後、更にのろのろと僕へと視線を戻す。友達であると言われたのは初めての経験だったらしく、彼女の処理能力を超えたようだ。
中途半端に立ち上がったままの少女の頭を掌で軽く押してやれば、彼女は抵抗する素振りを見せず、ポスッと椅子へと座り直した。
夢見心地というより呆然とした様子で僕を見上げる彼女に、重ねて問いをぶつける。
「嗚呼、一つ聞いておきたいが、『ザ・クィブラー』は寄稿を受け付けているか? もっと言えば、たとえ生徒から送られてきた記事だとしても、君の父親は雑誌に載せようと考えるか?」
「……えっと。多分、パパなら大丈夫だと思う。あんたは何か記事を載せて欲しいの?」
「現状そのつもりは無い。
つまり、そんな機会は永遠に訪れないだろうという事だ。
「ただ、その雑誌には多少興味が湧いた。そうだな……取り敢えず一年は購読させて貰い、以降はまた来年考えようか。購読料は今の内に支払っていた方が良いだろうか?」
「ウウン。新聞と同じように、配達ふくろうにお金を払ってくれれば良いよ」
「そうか。ならば今月から頼みたいが、注文方法は──」
「──大丈夫。私からパパへの手紙に一緒に書いとく」
「では君に頼むとしよう」
まだ混乱状態から抜け出し切れてはないものの、親の新聞が売れた事は取り敢えず理解出来たようで、ルーナ・ラブグッドは幼く見える笑みを浮かべる。
そして僕達の会話を聞いた外野の反応は、真っ二つに割れていた。
こいつ正気かと見上げてくる二人と、良く解って居ない一人。要は雑誌の中身を知って居る純血と、知らない半純血。非常に対照的で、そして知らない一人が後からどんな反応をするかは多少見たい気もするが──そこまでは欲張り過ぎだろう。
腰を屈め、トランクの取っ手に手を掛ける。半ば私的空間と言えるコンパートメント内は兎も角、通路で魔法を使ってしまえば監督生達に見咎められる可能性が有る。酷く面倒で億劫だが仕方が無かった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。まだ話は終わってない」
コンパートメントの戸を開けさっさと立ち去ろうとした僕に、慌ててハリー・ポッターが慌てて声を掛けて来た。少し迷ったが、渋々振り返る。
「……何だ? まだ君は僕に用事が有るのか?」
「当然だ。だって君と話したい事が有るって言っただろう。まだそれをしてない」
「……そう言えばそんな話だったか」
言われてみれば、確かに本題と思える話を彼から聞いていない。
途中が余りに衝撃的過ぎたせいで、すっかり頭の中から抜け落ちていた。余り無い失態……という程に稀では無いが、確かに悪いのは僕ではある。
「ならば早く済ませる事だ。監督生会議が何時まで続くか解らんが、ドラコ・マルフォイがこの場に現れた場合、やはり宜しくない事態になる。何を躊躇っていたのか知らんが、悠長にしている時間はもう無いぞ」
立ったまま戸を軽く叩きつつ催促すれば、漸く踏ん切りがついたのか。
彼は覚悟を決めたように表情を引き締め、公開の場で僕に接触する危険を冒してまで望んだらしい本題を切り出した。
「セドリックと……その、最後に話をしたんだ」
「――――」
息を呑んだのは二人か、或いは僕を含めた三人か。
わざわざ僕と直接話をしようと思うだけの動機なだけは有り、そしてここまで話したがらなかった理由も解った。確かに、気軽に口にするのが不可能な話題だった。
「その時少しだけ口にしてたんだ。同時優勝なら君に文句も言わせないって。理由を聞いたら、君と賭けをしたって事だけ答えてくれた。けど、それ以上は答えてくれなかった。これがどういう事かは直ぐに僕にも解るって楽しそうに笑ってたけど――」
「――その中身を僕に聞きたいのか」
「……悪いかい?」
「いや」
彼の瞳の奥に、やはり赤い光は見えない。
それも一切の欠片もだ。真っすぐな心が曝け出されており、しかしそれでも読み切れない。不思議な事ではない。〝マグル〟の考える読心術と異なる開心術において、この手の障害は不可避である。対象相手がこのような状態だと、心を穿って解釈する事など出来はしない。
セドリック・ディゴリー。
当然の話だが、あの男はハリー・ポッターにも剣を残して逝ったのか。
「君が期待する程、それに対する回答は大した物では無い」
時間を要しない問いだったと、コンパートメントの戸に再度手を掛ける。
「正確には僕が賭けを受けた訳でも無く、あの男が半ば強制的に賭けを強いた。彼は自分が優勝する方に賭け、対する僕は当然ながらその逆だ。賭けの対象は……今夏、彼の開くホームパーティーへの招待を受けるかどうかだった。君も解るという旨の発言は、そのパーティーにハリー・ポッター、君も誘おうと彼が考えていたからだ」
「……えっと、それってホント?」
「こんな事で嘘を吐いて何になる? まあ、自分で口にしていても馬鹿げていると思うがな」
今でも何かの夢では無かったかという気がする。
「……その賭けって――」
「周知の結果が示す通り、彼の勝ちだ。もっともセドリック・ディゴリーは死んだ。招待も何も無く、だから僕も半分だけ叶えた。今夏の休暇中、あの男の家を訪問する所まではやった」
ルーナ・ラブグッドが元々大きい眼を更に見開いた。彼女を最後に驚かせられた事は多少痛快では有った。他二人の反応は、まあ言及するまでもないだろう。
しかし、ハリー・ポッターは不思議と驚いた素振りを見せなかった。
やはり彼のこういう所は気に入らない。彼がどんなに濃いスリザリン的資質を有していても根本的にはグリフィンドールである事を、それもサラザール・スリザリンがゴドリック・グリフィンドールに見出したであろう価値を備えている事を、まざまざと直視させられるからだ。
そしてだからこそ――
「――なあ、ハリー・ポッター」
「……なんだい?」
あの校長より物語の顛末は聞き及んでいる。
彼が何と答えるかなど最初から目に見えている。
それでも尚、ハリー・ポッターの口から語られる内容に価値が無い訳では無いし、寧ろそうしなければ一切の価値が無いとも言える。
ハリー・ポッターを見下ろしたまま、僕は問いを紡ぐ。
「セドリック・ディゴリー。あの男は最期まで高潔だったか?」
「――ああ。あいつは、彼は、最期まで本当に良い奴だった」
問いの唐突さに戸惑いはしたものの、答えを紡ぐ彼の瞳と言葉に一切の曇りは無い。
そしてそれは解答であり、証明だ。
セドリック・ディゴリーが他人に悪く言われるような存在ではなく、非の打ち所がない、完璧で、生徒の模範とされるべき理想だという結論。歴史による美化を待つまでもなく、彼はそのような存在である事を絶対的に確定させるに足る言葉。
死は終わりである。そしてあの男とて死にたいなど思っていなかった筈だ。
しかしそれでもこの男に――歴史に名を残す資格の有る人間にこんな風に記憶されている事は、少しばかり羨ましいと思わないでも無かった。そして光の陣営が勝ったのであれば、彼の名はホグワーツにおいて永遠に記憶される事だろう。
「……ふん。やはり僕の見立ては間違いだった訳だ」
戸を開けつつ紡いだ、然したる思惑も持たないままの独白の言葉。
「いや、違う」
しかし、それを聞き咎めて返されたのは明確な否定。
流石に驚きと共に振り返り、思わずハリー・ポッターの顔をまじまじと見る。
けれども、今度の彼は微かに笑っていた。先程とは違って心が読めるのは、端から僕に伝えようとしているから。自嘲、後悔、寂寞。そんな感情が向けられる先は僕では無く、他ならぬ彼自身だった。
「僕達の、間違いだった」
『セドリックは、役にも立たない、かわいいだけの、頭は鳥の脳みそぐらいしかないやつだ』
「……そうか。嗚呼、そうか」
何と返答して良いか解らないまま、誤魔化すように僕はコンパートメントを出た。
感じていた憂鬱と気怠さは何時の間にか消えている。今はそう悪い気分では無かった。
・ハリー・ポッターへの憑依
ハーマイオニーは『でも『あの人』がクィレルと同じやり方でアンブリッジに取り憑くことはできないと思うわ。つまり、『あの人』はもう生きているんでしょう? 自分の身体を持ってるわけだから、誰かの体は必要じゃないわ。アンブリッジに『服従の呪文』をかけることは可能だと思うけど……』(五巻・第十三章)という予測を、余り確信を持てないような言い方で口にしている。
しかし、上記はハリーが蛇の中から事件を見る以前の予測であり、またクィレルと同じやり方は不可能、そもそも必要性が無いという形で反論をしているに過ぎない。
実際、五巻三十六章でヴォルデモートはハリーに取り憑く事を試み、一時的であれ成功し、ハリーの口を借りて喋っている。それによってダンブルドアにハリーを殺させようと目論んだが、結果としては『ヴォルデモート卿の魂は、損傷されているが故に、ハリーのような魂と緊密に接触することに耐えられ』(七巻三十三章)なかったが為に失敗、二度と試みる事は無かった。
・新大学
イングランド(UKでもだが)の最初のuniversityは知っての通りオックスフォードであり、オックスフォードから分かれた一部が設立したのがケンブリッジである。前者は1167年以前設立、後者は1209年設立と、現代まで連綿と続く大学の中でも非常に古い歴史を有している(挙げた設立年代は一例であり、何を基準とするかで前後する)。
しかし、その後イングランド(つまり1707年まで完全に別の国だったスコットランドでは少々事情が異なる)においては、数百年もの間『第三のuniversity』が誕生する事は無かった。正確には幾つかは誕生はしたものの、長くても数年間で歴史を終えた。
このようにイングランドでオックスブリッジ以外の大学設立が叶わなかった一つの、そして大きな要因は、それらの二校が既得権益維持の為、新大学の設立に反対の立場を取り続けてきたからである。
作中で挙げたノーサンプトンやスタンフォードは彼等(と賛同した王権)によって実際に大学が潰された一例であり、またそれらの事件を受け、1334年以降オックスブリッジの卒業生達は両校以外で講義を行わない旨の宣誓を要求される事になる。
この誓いは1827年までの約500年間有効であったし、それがどの程度効力を持ったにせよ、事実として第三のuniversity(ダラム、ロンドン大学など)の設立・存続が実現するのは1820年代から30年代の事である。
勿論、その間もuniversity以外の高等教育機関(神学、医学分野で顕著。後には自然科学や機械工学も)はイングランドで幾つも誕生しているのだが、少なくともuniversityが誕生する事だけは、オックスブリッジは数百年にも渡って阻止しようと努力し、また成功してきたのである。
19世紀に入りこの独占的支配が終焉を迎えた理由については、国教会(ないし聖公会)信徒の上流階級の息子以外にはオックスブリッジの入学・卒業の何れかが制限されていた事を挙げるのみで十分だろう。
要は既に時代遅れになりつつあった。