この身はただ一人の穢れた血の為に   作:大きな庭

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三話目。


悪の帝国

「貴方はそれだけ多くに考えを巡らせられる人よ」

「…………」

「今貴方が指摘した事とて、一体どれだけのホグワーツ生が考えているか解らないわ。ハリーやロンなんて、この四年間では一瞬たりとも考えた事なんてないと断言して良い」

 

 言葉での肯定をせず、微苦笑だけに留める。

 

 その辛辣さは、流石に彼等が親友だからというのもあるのだろう。

 しかし、嘘を含んでも居ない筈だ。僕としてもそう思う。彼等がハーマイオニーの運動について何かを考えているとすれば、彼女の思い付きに一々付き合わされるのが面倒臭いという程度でしかないだろう。

 

「だから、貴方は純血主義についてもそうだと私は思ってる。貴方はマルフォイみたいにヴォルデモートの行動を無批判に受け入れる人間じゃない。貴方はその考えを馬鹿らしく思って()()()()()、そして賢い貴方なら当然こうも推測している筈よ。ヴォルデモートが、良い為政者となる事は有り得ないって」

 

 聞き逃せない表現が紛れ込んだが、それよりも先に来た驚きは別だ。

 

 ヴォルデモート。

 彼女は去年まで、その名前を口にした事が無い筈だった。

 

 いや、一度か二度は口にし、僕も聞いた記憶は有るか。彼女は〝マグル生まれ〟で、その名を恐れる魔法族ではない。ただ、魔法界の常識を理解して以降は直接的な表現を避けて来た筈で――けれども、彼女は今、明らかに意識してその名前を呼んでいる。

 

「……君にその名前を口にはして欲しくないのだが」

「――――」

「まあ、君とて酔狂で呼んでいる訳でもないようだ。だから妥協はするし、二度と言わない事にしよう。但し、君がその名前を言うとすればホグワーツ内、あの校長の庇護下に限っての事にすべきだ。それ以外では、そんな愚行は無しにして欲しい」

 

 呼び方を変える気はないと示す鋭い視線に、多少態度を和らげる。

 今日に限ったとて、彼女は僕に対して多くの譲歩をしている。僕もそうするべきだろう。

 

「ともあれ君は悪の帝国となると見ているが、僕の方は、彼の政体が魔法族全体にとって悪となるかまでは定かではないと考えている。僕はまだその治世どころか、本人を見ていないからな。案外ネロ帝やジョン王と同じく、彼は善君で、民衆を思い、賢明なる治世をするかもしれない」

「……茶化さないで。絶対に悪の帝国となるに決まってる」

「さて、それはどうだろうか」

 

 あの校長にしてもハリー・ポッターにしても、そして勿論ハーマイオニーにしても、闇の帝王を少々侮り過ぎているように思う。敵が自身の想定より間抜けに行動してくれるならば勿論歓迎すべきだが、自分の想定の上を行かれて困るのは当然彼等である。

 

「〝マグル〟や〝マグル生まれ〟にとってどうかを取り敢えず脇に置けば、少なくとも魔法族に対しては、手当たり次第に虐殺する事はないだろうとは思っている。と言っても、これは帝王を校長閣下と対比する限りにおいての予測であり、君が何らかの理屈をもって否定する気なら聞く耳を持っているが」

 

 けれども、可能性は低くないとも思っている。

 

「…………どうしてそこでダンブルドア先生を持ち出すのよ」

「両者とも己の能力に圧倒的な自信を持ち、そしてまた実際にそれだけ隔絶しているからだ。故に彼等は等しく、常人には非常識な、しかし彼等にとっては論理的な行動を取る可能性が高い」

 

 校長も口にしていたが、彼等にとっては問題となる事件・事象の方が少ない。

 それ故に、普通の人間ならば危機感を持つ類の問題を、彼等は何も思わず放置出来る。通常人ならば手遅れとも言える事態になったとしても、彼等の力をもってすれば大抵の場合、何事も無かったかのように解決出来るからだ。

 

 そして皮肉な事に、彼等にも手に余る問題のみが、彼等にとってそのまま致命となる。

 

「例えばの話。僕が悪意をもって魔法省を陥落せしめたとしよう」

 

 あの組織を魔法族は軽んじているが、それでも用途次第であるというのは〝純血〟も認める所だ。何より闇の帝王が非魔法界育ちだと言うのであれば、やはり利用しないなど有り得ない。

 

「僕のような凡人の場合、省を陥落させてまず最初にやる事は決まっている。当然、粛清だ。()()()()()()()()()()()()()、省内の疑わしき者は殺す。アーサー・ウィーズリーを例に挙げるのが解りやすいだろう。やる事も明快だ。彼の身柄を即刻確保し、それを人質として家族を誘き寄せ、〝ウィーズリー〟を族滅させる」

 

 今夏、アーサー・ウィーズリーは僕と会うのを避けた。

 まあ僕の存在を気にしている筈が無いので、僕が共に居たルシウス・マルフォイ氏と会うのを避けたというのが正しいだろうが、兎も角、魔法省見学で顔を合わせる事はなかった。だから、彼と会話する機会は与えられなかった。恐らく今後もないだろう。

 

 しかしながら、あれがスリザリンの敵に回る事なんぞ既に解り切っている。

 そして普通のスリザリンの立場からすれば、彼のような叛乱予備軍筆頭を生かしておく事など決して出来ない。聖なる二十八の一枝である事など関係ない。絶対に殺す。如何なる手段を用いたとしても殺し尽くす。

 

「……っ。その有り得ない仮定の話がどうかしたの?」

「闇の帝王は違うのではないかと思う。アルバス・ダンブルドア校長が他人に遣り直しの機会を与えるのと同じように、帝王は他人に恭順の機会を与えるのではないかと考えている」

 

 つまり、と。

 捧げるようにカップを持ち上げながら、説明の言葉を継ぐ。

 

「闇の帝王は、()()()()()()()()()()殺す意義を見出さないのではないかという気がしてならないのだ。何故なら彼は、有象無象の魔法族の叛乱など如何様にでも鎮圧出来るからだ。アーサー・ウィーズリーのような小物――これは勿論彼視点だ。僕には脅威となるだろう――を放置する事など、悪の大魔法使いにとっては何て事無い」

 

 まあ気分次第で殺す事も十分有りえるがね、と小さく笑う。

 喉に流し込んだ珈琲は、何故か先程より苦い気がした。その原因は決して、僕が淹れなおしたからという訳ではないだろう。

 

「……でも。マルフォイのパパなら絶対に殺す事を主張――」

「――僕にとっては本気で疑問なのだが。裏切りとはそう軽い物なのかね?」

「…………」

「ルシウス・マルフォイ氏は許された。そして一度裏切った〝純血〟を許すのであれば、一度も裏切っていない〝純血〟を許したとしても何ら可笑しくないだろう? 少なくとも理屈は通っている。寧ろ叛乱分子と成り得る人間を省内に残しておくのを、闇の帝王は愉快がるかもしれないな。何とか彼を殺そうと画策するルシウス・マルフォイ氏共々、面白い見世物となってくれる可能性は有る」

 

 内心で反骨精神を抱き、将来の叛乱を目論んでいようが関係無い。

 自身の敵足り得えない魔法使いの存在を、あの化物()()は意に介さない。臣下が勝手に動くのは好きにさせるだろうが、自分で動く程の意味は間違いなく見出すまい。

 

 彼等は偉大過ぎ、強大過ぎるが故に、自由と傲慢を貫徹し得る。

 

「勿論、これは僕の、非常に個人的な予測に過ぎない。君が否定するのも自由で、そしてもう一つの君の考え、闇の帝王の政治が僕にとって不愉快な筈だというのは正しい。こちらは確信だ。()()()()()()()()。僕の価値観でも認めざるを得ない残虐非道が、この魔法界で行われる筈だ」

 

 ハーマイオニーの方を見やれば、彼女は大袈裟なくらいに顔を伏せていた。

 直ぐに噛み付いてくると思っていたから、その反応は意外だった。

 

「……なら、どうしてヴォルデモートの味方をしようとするのよ」

 

 俯いたまま絞り出すように言った彼女に、僕は低く笑う。

 

「気に入らない現状を変える為だ」

「それは、私達の側でも出来るでしょう?」

「希望が持てない」

 

 愚にも付かない反論を即座に切って捨てる。

 簡単に出した結論では無い。今までの四年間を踏まえた上での最終結論である。

 

 思想は違えど尊重し合えたであろう、クィリナス・クィレル教授とバーテミウス・クラウチ氏。そして立場は相容れぬとも理解は出来た、ギルデロイ・ロックハートとバーテミウス・クラウチ・ジュニア。更には魔法界で弱き立場に置かれたままのリーマス・ルーピン教授、アーガス・フィルチ。そして忘れてはならない頂点である、アルバス・ダンブルドア校長。

 

 彼等を見て来た結果、世間が光と呼ぶ側に僕は付けないと判断してしまった。

 

「……じゃあ、何でハリーに肩入れするのよ?」

 

 俯くのを辞め、真っすぐと僕を見つめて来るハーマイオニー。

 その瞳は本来ハリー・ポッターと似ている(グリフィンドールに相応しい輝きで在る)べき筈で、しかし今は違う。今の彼女の瞳からは、魅入られるだけの力強さや美しさを感じなかった。

 

「貴方はハリーに仲間を集めろと言ったわ。それは明らかに、貴方がハリーに対して何らかの期待をしているという事でしょう? そうでなければ説明が付かないもの」

「…………」

「貴方がハリーと話し込んでいた事はグリフィンドールで噂になったし、そしてレイブンクローやハッフルパフでも同じだったようだわ。そもそも貴方は或る意味ハリー以上に目立つもの。一回目の会合でも話が出た位で、絶対にスリザリンにも広く知られている筈」

 

 ……一応、寮内で僕がそれを耳にした事は無い。

 が、彼女の方が正しい筈だ。誰も何も知らないと言う事は、やはり有り得ないのだろう。

 

「けれども、貴方は()()()()行動に踏み切った。貴方はそれだけの危険を冒す価値を見出していた」

「……そうだな。君の言葉は一部正しくないが、概ね正解だ」

 

 後にドラコ・マルフォイに何を言われる事になろうとも、ハリー・ポッターに干渉する意義を見出していたのは事実である。

 

 今世紀で最も偉大な魔法使いには最早期待出来ない。勿論、魔法大臣にも。

 だから消去法として資格を持つのは〝生き残った男の子〟ただ一人。魔法戦争で光の陣営が勝利した場合、彼のみが唯一、これから起きる魔法界の崩壊に歯止めを掛け得る。そう、考えている。

 

「もっとも、貴方の期待の懸け方は非常に捻くれていたとは言わせて貰うけど。だって貴方の言葉は具体性を欠いていたもの。何を目的として、どうやって仲間を集めるかについては丸投げだったし。だから貴方との話の後、ハリーは一体どうすれば良いのか途方に暮れていたわ」

「それは已むを得んだろう。僕が友人の作り方を心得ていると思うか?」

「……まあ、確かにそうかもしれないけど」

 

 その一瞬だけ、彼女は小さく微笑んだ。

 

「でも、貴方が示した指針を実現し得る方法は見付けられた。ハリーは――私達は、闇の魔術に対する防衛術の自習グループを作ったの。それも恐らく貴方が意図した通りに、グリフィンドールだけではない大きな集まりよ」

「…………そうか」

 

 ドラコ・マルフォイに示したように、呪文の自習を行うなら寮内で足りる。

 レイブンクローやハッフルパフはそうしているという噂も聞き及んでいる。恐らくそれは真実だろう。何せスリザリンも既に同じ事をやっているからだ。

 

 ドローレス・アンブリッジの授業に対して基本的に文句は出ていないが、唯一出ているとすれば、交代で少人数指導を受ける事に基づく時間の短さだ。それを解決する手段として、スリザリン生の一部――特に〝純血〟の我儘の割を食った非主流派は、寮外に知られない形で呪文を練習する場所を求めた。そして寮監であるスネイプ教授は、寮室の一つを指定し、かつ今年は例外だという注意喚起をした上で、その許可を出している。

 

 だが、彼女達はその道を選ばなかった。

 

「……しかし何故、僕が他の寮も巻き込む事を希望していたと考えた?」

「だって、貴方は明らかにルーナを巻き込もうとしていたじゃないの」

「…………言われて見れば、そうか」

 

 ハリー・ポッターの気質からすれば、自分が教えようとするのは親友二人、ハーマイオニーとロナルド・ウィーズリーだけ。

 そこから済し崩し的にグリフィンドール全体に広がる事になる――三人だけの学習会で終わる可能性は全く考えて居なかった――としても、それ以上を望むのは難しいかもしれないという判断の方が大きかった。

 

 だが、僕の願いとしては、やはり他寮を巻き込んで欲しかった。グリフィンドールのみに閉じ籠るのでは校長閣下と何も変わりはしないし、これからの魔法界に挑む中核には成り得ないからだ。

 

 だからこそ、ああした干渉をした訳だが、話を聞く限り、それは成功を見たらしい。

 

「勿論ハリーも、この集会を最初に提案した私も、始めるまでは多少不安だった。けど、第一回目の会合から成功の内に終わったし、二回目と三回目も同様だった。やっぱりハリーは教師として適任だったし、この自習に参加した人間は皆大いに満足していたわ」

「そうか。練習に相応しい場所も見付けたようだし、な」

「……ええ、そうね」

 

 この場所に僕を呼び出した時点で、看破される事は最初から解っていたのだろう。ハーマイオニーは大きな動揺を見せないまま小さく頷いた。

 そして、今更僕に口止めするような様子も見せなかった。何の理由も無くそのような不義理をしないと信ずる位には、ホグワーツ入学以来築いてきた関係性が御互いには有った。

 

「これは貴方が助言しなければ有り得なかった筈よ」

「それはないな。彼も、君も、我慢出来ない(たち)だ。僕が口を挟まずとも、君達は絶対に同じ事をやった」

「……じゃあ、それでも良いけど。でも、ハリーの頭には、間違いなく貴方の言葉が有ったわ。私が提案した時、ハリーは最初明らかに気が進まない素振りを見せたもの」

「それを否定するのは――流石に嫌味が過ぎるだろうな」

 

 彼の思考に爪痕を残す事は、僕の意図した物だ。それは揺らがない。

 

「だから――」

 

 彼女はそこで、初めて口籠った。

 その表情には躊躇と、そして恐怖が現れていた。

 

「――私は、貴方を誘う気だったわ。ハリーが結成した自習グループ、魔法省やアンブリッジに対抗する為の組織、『ダンブルドア軍団』に」

 

 一瞬思考が停止したが、それもほんの一瞬だけ。

 

「…………()()()()()()軍団ね」

「やっぱり貴方には気に入らない名前なんでしょう?」

「そうだな……。その質問に対する答えは控えさせて貰おうか」

 

 本心からの笑みを浮かべながら答える。

 勿論そう思いはしたものの、しかし最終的に出た結論は真逆だ。

 

 名前は所詮名前である。何であれ、ハリー・ポッターが主体となって己の組織を結成したのであれば、僕が目論んだ事は一応達成されている。

 

 そしてダンブルドア軍団とやらの名称が表に出るという事は早々無さそうだったが、万一それが知れ渡る事になった場合、稲妻の傷跡同盟(ハリー・ポッター関連の名)よりも非常に愉快な事態になりそうである。

 ここまで来ると、ドローレス・アンブリッジは世界に愛されている存在なのではないかとすらも思う。まあ不幸一色だったらしい学生時代の反動としてみれば、一応釣り合いは取れているか。

 

 何よりあの老人に対し、これ程激烈に刺さる刃は無い。

 

「しかし、誘う気()()()ね」

 

 言葉尻を、しかし確かに彼女が紡いだ言葉を咎めてみれば、案の定、ハーマイオニーは大きな動揺を示した。意図的では無かったようだが、決定的な差異だ。

 その表現は過去形。そして彼等の集会は既に三度程繰り返されているようだ。途中参加者を認めない訳では無かろうが、それらの事実が表す結論は明白だろう。

 

「勘違いしないで。私に誘う気が全く無かったと言っている訳ではないの」

「…………」

「寧ろ、ハリーなんかは参加して欲しそうだったわ。勿論、貴方が強情な事も良く知っている。貴方がはっきりヴォルデモートの側に着くと言った以上、魔法省に対抗するような組織に加わる事はしないだろうとも言ってたわ」

「その推論の立て方は普通に間違いだな。まあ結論としては正しいが」

 

 ドローレス・アンブリッジ及び魔法省、そして闇の帝王では、明確に立場も思想も違う。

 前者達に媚びを得る必要を、僕は既に欠片程も認めていない。後者から勘気を被る可能性を排除出来る理屈が存在するのであれば、参加する事は必ずしも不可能では無かった。

 

 ……嗚呼、これも過去形だ。

 

「だから、私が誘う事は反対しないってハリーは言ってた。……ロンの方は断固反対だと言ってたけど」

「それも驚くに値しない。純グリフィンドールならまあ当然の反応だ」

「でも、どの道私が誘った所で、貴方は参加するつもりは無いんでしょう? ……いいえ。()()()()()()()()()()()()()()()()から、当然私達の集まりに参加する事も出来ないのでしょう?」

「――ほう」

 

 思わず口元を緩めてしまう。

 それは一々断る手間が省けた事が理由でなく、そもそもその指摘が彼女の口から飛び出して来るとは全く思っていなかったからだ。

 一方、僕の賞賛混じりの感嘆に対して、ハーマイオニーは嬉しそうな様子を一切見せなかった。寧ろ希望が打ち砕かれたかのように、悲しげに眉を下げた。

 

「……余り信じたくなかったわ。けど、やっぱりそうなのね」

 

 その表現は、何処か他人事めいた響きを帯びている。

 実際、他人事では有るのだろう。恐らくその結論を導いたのは彼女では無い。そしてこの種の行動、未来視めいた駒の打ち手というのは、僕が知る限り一人しかいない。

 

「アルバス・ダンブルドア校長が何か言っていた訳か?」

 

 確信をもっての問いに、彼女はコクリと頷いた。

 

「先生は言ってたわ。新学期が始まって以降、貴方はハリーから距離を取りたがる筈だって。そして万一ハリーの方から貴方へ接触しようとしたら、出来る限り自然な形で引き離すように協力して欲しいとも頼まれたわ。それが、貴方達二人の安全にも繋がると」

「非常に()()()言葉だ」

 

 やはりあの怪物はそうでなくてはならない。

 彼はハリー・ポッターが分霊箱である事に気付いている。そして同時に彼自身に――更に闇の帝王にも――その事実を知らせてはならないと判断している。であれば、同じくその結論に至る僕がハリー・ポッターの接近を厭うのは、あの魔法使いにとって必然だった。

 

「それがどうしてなのか、ダンブルドアは理由を教えてくれなかった。けれども、ダンブルドアは極々当然のものとして仰っていた。そしてこれを聞いた貴方も、やはり当然の事だと受け容れてしまう。この内容について、貴方達には一切の話し合いが無い筈なのに」

「確かに打ち合わせをした訳でもないが、少し訂正する部分も有る。君の言葉も、ハリー・ポッターが接触しようとすれば、というものだしな。つまりあの校長は、僕が新学期前に気付く事を前提としており、実際に向かい合うまで気付かないとは更々思っていなかっただろう」

 

 何も考えずに接触して死に掛けた身としては、つくづく恥じ入るしかない。

 

「でも、今は何も疑問に思っていないでしょう? 私はそれが何故なのか全く解らないのに」

「それは已むを得ない事だ。この理由が解らないのも、君が愚かという訳では無く、単に君に情報が足りない――」

「――どうしてよ!? どうして、貴方は多くを知らされているのよ!?」

「…………」

 

 今日、彼女は可能な限り冷静で在ろうとしていたようだ。

 意図せず対立した一年前と違い、明確に意識して、そして遥かに注意深く。

 

 それでもとうとう我慢し切れなくなったらしく、彼女は感情を爆発させた。

 ホグワーツ特急内で見た通り、今年のハリー・ポッターは大いに怒りを溜め込んでいた。それを僕は必然だと見ていたが、けれどもそれはハーマイオニー・グレンジャーも同様だったらしい。

 

「この部屋なら貴方と話す事が出来る。そう考えたのはハリーも一緒だわ! 今回だって、付いて来ようという素振りは有った! 一年間私は貴方と話さなかったんだもの! 間に入る人間が居た方が良いかもしれないって()()をハリーが発揮してくれそうになって、けれどもダンブルドアの言葉が頭に有ったから、私は丁重に断りを入れたわよ!」

「……それは――君に礼を言うべきなのかね」

 

 ハリー・ポッターがこの部屋に居る可能性は、手紙が届いた時から頭の中に在った。その場合に僕がどう対応しただろうかというのは、少々予測を立てるのが難しい。

 ただ間違いないのは、万一ハリー・ポッターがこの場に同席していたのなら、僕がこうして呑気に珈琲を飲み、菓子を摘まんでいるなど有り得ないという事だ。

 

 確かに彼の中に闇の帝王を見たのは特急内、つまりホグワーツ城外だった。

 だから今ならば――生徒の肉体と精神を魔法的に守護しているこの場所においては、あの時と違って安全だと考えるのも一つの判断である。元より数百キロを隔てた人間達が精神的に繋がっているという事自体が、非常に魔法的に不自然なのだ。そこまで警戒しなくて良いだろうという主張は、一定の理を認め得るものではある。

 

 しかしながら、それでも本能的には受け入れがたかった。

 仮に闇の帝王と同格の魔法使い(アルバス・ダンブルドア校長)を敵とした時の事を考えた場合、僕はそんな楽観的な推測を基にした行動を取らないだろうからだ。

 

「礼なんて要らないわよ! 何で、何で貴方なの……? 貴方は違う陣営に着いたんでしょう? ダンブルドアにとって敵なんでしょう!? だというのに、どうしてダンブルドアは貴方に、ハリーよりも、私よりも多くを知らせているのよ?」

「…………」

「そしてどうして放置出来るの? 貴方が多くを知って居るのであれば、騎士団にとっても危険な筈でしょう? けど、ダンブルドアは何もしなくて良いと仰ったわ。貴方ならば問題ないとも付け加えられた。私がどうしてと聞いても、もっと情報が欲しいと訴えても、先生は何も答えてくれなどしなかった。その理由が、私には全く解らない……!」

 

 非常に興味深い事だ。

 ハリー・ポッターの中に視たのと同種の光。これまでの四年で、彼女からは一度も見なかった輝き。今世紀で最も偉大な魔法使いへの不信が、ハーマイオニー・グレンジャーの眼にも浮かんでいる。

 

 あの校長と僕の特異な関係性のみが、それを産んだ訳では有るまい。

 全ては四年間の積み重ね。これまで押し込めて来た疑問――ハリー・ポッターが何故ダーズリー家に軟禁されねばならないか、何故あの校長はハリー・ポッターに試練を与えてきたか、闇の帝王が復活して以降も何故彼に何も教えないのかなどの不満が、今になって爆発したに過ぎないのだろう。

 

 ……そして、あの校長閣下はコレを意に介さないのだ。

 

 子供の癇癪や傷心など、彼にとっては無視出来る些事だからだ。大人が子供を護るという絶対的大義の下では、幼く未熟な弱者達の感傷に一々付き合ってなど居られないからだ。

 生きてさえいれば何とでもなると、彼は考えている。自分の命よりも遥かに重要な誇りが存在する事を、彼は頭では解っていても本質的に理解していない。それはあの校長閣下が純粋に〝グリフィンドール的〟でない事を示す、最たる在り方と言っても良いだろう。

 

 しかも非常に困った事に、僕にも彼女の傷心を解消出来る気がしない。

 

「――まあ、君がそう喚きたがる気持ちは理解出来るが」

 

 何と答えたものかと、溜息を吐きつつ考える。

 

 確かに僕は情報を、それも彼女が思う以上に致命的な情報を握っている。

 複数の分霊箱の存在について、あの校長が既に察している事。そしてハリー・ポッターが、意図せずに作られた分霊箱である事。その二つの情報を闇の帝王に齎せば、それだけで光の陣営を敗北させるまでには至らずとも、窮地に追い遣るには十分だ。

 

 だから()()()()人間であれば僕を放置するという選択は有り得ず、けれどもあの()()()大魔法使いならそれが出来るという事は、彼を深く知っている者しか解らない。

 

「けれども現状、彼にとっては僕を放置していても問題無いのだ」

 

 彼は正しく事態を把握した上で、そう結論付けている。

 

「校長閣下は僕を一定程度は賢いと認めている。つまり僕が何も考えず帝王の下に赴き、僕の知る情報を伝えるような自殺志願者ではないと理解している。そして情報が帝王にまで伝わる事がないのであれば、僕が何の秘密を知り、またどの陣営に所属しているかなど関係無い」

 

 他に秘密の中身を知る人間が居たとしても、その者が決して公にしないのであれば、秘密は何も変わらず秘密のままだ。

 

「……自殺? 貴方がヴォルデモートに殺されるって事? 確かに貴方は半純血だけど、それでもスリザリン生でしょう?」

「相手が自分の味方であろうが、それ以前にどれだけ己へと利益を齎していようが、自分にとって不要かつ有害と看做せば排除する。それが世の独裁者というモノだろう?」

 

 元より話が通じる相手ではないのだ。

 気分を害せば殺される。(ルール)は非常に単純明快である。

 

「僕が知っている情報は、それを持ち込めば功績になる類の情報では無い。帝王の前で口にすれば最後、一体何処まで知っているのかと拷問され、最終的に口封じとして殺される類の内容だ。仮に他に周りに聞いていた者が居れば、それがベラトリクス・レストレンジだったとしても同じ末路を辿る事になる。気軽に口に出せはしないさ」

「……じゃあ、何で貴方がそれを知っているの?」

「僕が知らされたと思っているならばそれは大きな勘違いをしている。確かに教えられたモノも有るが、殆どは己で推量し、そして校長から奪い取ったモノだ」

 

 皮肉な事に、この四年間で僕が目論んで唯一成功した企てでもある。

 

「要するに、校長が僕を止めたいなら忘却術を使うしかなかった。が、彼にとっては余り好ましいと思える手段では無かったし、一度忘れさせても、僕が再度同じ結論に辿り着く可能性も低くなかった。更に忘却術自体も破る事は不可能ではない。忘却術を掛けた痕跡が、他人の興味を惹いてしまう事も有る。相手が帝王なら特にだろう」

 

 だからこそ秘密の部屋の後、彼は僕の口を封じなかった。

 

「何より彼にとっては、自分が貴重品を持っていると知らずにフラフラ彷徨っている人間よりも、知った上で危険から遠ざかろうとする人間の存在を認める方がマシだった」

 

 と言っても、僕が何れ帝王に近付く可能性は考えていただろう。

 そうでなければ、彼が自ら閉心術を僕に教える必要もないからだ。帝王と対峙しても尚も秘密を護れるようにする為に、あの校長は僕へと力を与えたのだった。

 

「そして僕が幾つかの事実を知らされているからと言って、別に優越感を覚えはしないし、特権的地位に在るとも思わない。君が多くを知りたいと願うならば――相手から一方的に教えて欲しいと望むのではなく、君も同様に、あの校長から無理矢理奪えば良い」

「……奪う?」

「ああ」

 

 考えてもみなかったという表情で呟く彼女に、小さく頷く。

 

「先の論理。僕が秘密を知り続けている論理が、君に通用されないという道理は無い。秘しておく利益より打ち明ける利益が大きいと判断すれば、もしくは秘している事自体が無意味だと結論付ければ、あの校長は当然のように君へと情報を開示する。それが論理的な思考であり、合理的な行動というものだ」

 

 しかも、と溜息を吐いた。

 

「あの老人は特に今年、自身の胸中を他人に察して欲しいと考えている節が有る。そして君はハリー・ポッターの親友だ。君は僕よりも遥かに容易く情報を手に入れられる立場に居る。ある程度の結論をもって校長室に押し掛ければ、君は直ぐにでも求めるモノが得られるだろう」

 

 明確に答えを提示しなくとも、疑念の核心さえ突いてやれば白状しそうな位だ。

 僕を無碍にする態度は取れたとしても、ハーマイオニーを無碍にする事は彼には出来ないだろう。アルバス・ダンブルドアという人間は、そこまで()()()()()

 

「……でも、貴方が教えてくれれば──」

「――その気は無い。これでも陣営を異にした身で、あの校長への義理も有る」

「…………」

 

 御互い一々誓約などしていないが、闇の帝王は勿論、ドラコ・マルフォイやスネイプ教授にも一切明かさない事を前提として僕は秘密を教えられている。その相手が光の陣営に属する者、ハリー・ポッターやハーマイオニーだったとしても例外には当たらない。

 

「何より君達に教える云々の話はな、既に校長閣下と議論が終わっている」

「……嘘でしょう?」

「確認すれば解る嘘を吐く意味が有るか? そして敗北を喫したのは僕であり、秘密主義の彼が勝利した。御優し過ぎる大人の彼は、子供である君達に何も教えるつもりはないと切って捨てた。そうせずとも勝てると。君達の指導者の意思は明確で、であれば、彼が望まない限りは僕も明かすつもりは無い」

 

 ハリー・ポッターに全てを伝えて戦いの舞台に上げろという僕の要求は、彼によって撥ね退けられた。

 だからハーマイオニーの願いで有ったとしても、やはり譲歩は出来ない。彼女に打ち明けるという事は、ハリー・ポッターに打ち明けるのと同義だからだ。

 

「…………本ッ当、意味が解らないわ」

「――――」

 

 吐き捨てる彼女の眼は、今にも泣き出しそうなくらいに濡れていた。

 

「ダンブルドアは、貴方が敵対するのは已むを得ないと仰った。自分の責任だとまで仰ったわ。けれども、その言葉には明らかに貴方への理解が有った。貴方もまた同様。貴方は騎士団の誰よりも先生を理解しているように見えて、それでも尚、貴方達が同じ道を歩めないのは何故なの? 何故貴方はヴォルデモートに味方出来るの? そして――」

 

 彼女は大きく息を吸った後、覚悟の光を瞳に宿して言った。

 

「――貴方は何時か〝穢れた血〟を、私を殺すつもりなの?」

 

 ……本当に、上手く行かないものだ。

 

 今セドリック・ディゴリーが生きていれば、というのは無しだろう。

 既に魔法戦争は再開された。去年度末、僕は付く陣営を決めた。この場で先延ばしにした所で何れは表面化する問題で、何処かで解決しなければならない事柄だった。

 

 それがこの瞬間であったとしても、何の文句も持ち得ない。

 

「……御免なさい。忘れて頂戴」

 

 頭を大きく下げながら、ハーマイオニーが言う。

 俯き、豊かな栗毛に隠されているせいで、その表情は見えない。

 

 しかし、推察は出来るし、彼女の言葉の意味も解る。先の問いに答える事は、互いの決定的な訣別を意味する。これまで丸一年間疎遠だったが、それが永遠になるに違いない。

 

 それでも、ここまで話をしてしまったのだ。

 今更逃げる事は許されないだろう。

 

「……そうだな。君が言うなら今のは忘れよう。

 

 が――しかし、君は本心を明かした。ならば、僕も少しだけ告解をしようか」

 

 木の床を鳴らしながら少しだけ椅子を引き、宙を見上げる。

 天蓋に備えられた窓からは、非常に腹立たしい事に、雲一つない星空が見えた。

 

「去年、僕達の間には二つの対立点、議論するだけの意見の相違が生じた。セドリック・ディゴリーの善性についてと、S.P.E.W.の活動の是非について」

「…………」

「今回も繰り返すが、その内、前者はどちらでも良かった。あの男が気に入らないという個人的な事情。そしてあれを真のホグワーツ生と祀り上げる校内の風潮さえ無ければ、一切関わりすらしなかっただろう。……嗚呼、最終的には僕の間違いという事で結論が出たのは強調しておかねばならないが。あの男は最期まで仕事をしていったからな」

 

 そう。

 セドリック・ディゴリーは死んでも仕事をしていった。

 

「――だから僕の立場を決したのはな、必然的にS().()P().()E().()W().()()()()()()()()()()




・ネロ
 彼の暴君のイメージが払拭されない原因は、キリスト教による偏見というよりも、寧ろタキトゥスの『年代記』の記述であるように思われる。
 当該著作において、ネロはローマ大火を引き起こしたとされるキリスト教徒の処刑に際し、キリスト教徒達に獣の皮を被せて犬に食わせたり、火を付けて周りを戦車で走り回ったりした等と言及した上で、彼等にそのような仕打ちをしたのは公共の利益の為ではなくネロの個人的利益の為では無かったかという感想を述べ、ローマ市民すらもキリスト教徒に同情的になったと記述している。

 この記述は、かなり特異であり、注目に値する。
 というのも、キリスト教徒は当時のローマ市民にとって社会的騒乱を引き起こす害悪、要はカルト扱いだからである。これはタキトゥスにおいても例外的ではなく、『年代記』でもキリスト彼等に対して明らかに非好意的である。
 それにも拘わらず彼がこのような記載をしたのは、やはりそれが彼にとって「真実らしい」ものだったと解釈するのが素直であろう。仮にネロの暴政を「創作」したいならば、ローマ人や、多少マシなユダヤ人殺しを劇的に描いた方が余程共感を呼べる筈だからである(スエトニウスの著作に疑問符が付けられるのもその辺りが原因である。歴史書というにはドラマチックな内容が多い)。
 そもそも母・妻・家庭教師・元老院議員・軍人・異母兄弟と、ネロには全方位に殺しの疑惑が多過ぎ、少なくとも人格面において肯定的な評価は下し辛い。

 尚、死を下層市民が嘆いた(タキトゥス『年代記』)、死後も墓には花が供えられた(スエトニウス『皇帝伝』)などの記述があるものの、ネロの死後は短期間で皇帝が三人(ガルバ・オト・ウィテリウス)も変わる程の大混乱期が訪れた事、ガルバへの対抗という政治的理由でオトはネロを賛美した事(ネロに対する記憶抹殺刑が余り機能しなかった理由の一つでも有る)、内戦を治めたウェスパシアヌスはローマ外の騎士身分出身な上にケチで市民から不人気だった事を考えれば、その記述を素直に呑み込みがたい部分も有る。

 勿論周知の通り、ネロを再評価しようとする動きも存在し、特に『年代記』のキリスト教について述べた部分の真贋については非常に激しい議論が存在する。たとえば西暦96年以前のローマ人が、果たして何処までユダヤ教とキリスト教徒を区別出来たのかのような諸問題や、スペルのlとeの違いに関する指摘等の争いなどである。
 ネロの擁護にしても、既にルネサンス期から数学者ジェロラモ・カルダーノが試みている。その時期にタキトゥスの著作及びドムスアウレアが「発掘」された事からすれば自然な成り行きであり、ネロの復権を試みる人間なら一度は聞いた事がある名前だと思われる。

・ジョン王
 世界史を学べば必ず突き当たるであろう、無能の代名詞。
 とは言うものの、「アンジュー帝国」崩壊の責任をジョンのみに帰せられるかは微妙であろう。
 フランス王位を有していたカペー家による干渉、アンジュー家の内紛(親子・兄弟で殺し合った)等に加え、獅子心王リチャード一世が遺した負債も大きいからである。

 リチャード一世は第三回十字軍の主要人物であり、英雄である点に疑いはない。……ないのだが、エルサレム遠征費確保を目的とする十分の一税、新規土地課税等々の徴収。領主の長期不在による統治の不安定化、及び不在中にフィリップ二世に軍事侵攻を受けての領土失陥。更にリチャード一世が帰国途中に捕虜になってしまった為に身代金の支払いを目的とする更なる重税が課せられる等々、国内に残した傷跡は大きい。
 しかも十字軍から帰国後にフィリップ二世との戦争をしていたのだが(フィリップ二世は表向き病気を理由に十字軍を途中で抜けた。そしてリチャード一世が国内に居ないのを良い事に、アンジュ―家の大陸側領土へと侵攻していた)、戦争途中に矢傷が原因で死去した為に、ジョン王の下には突如として王冠が転がり込んで来たのである。まあ、これで滞りなく統治しろと言うのは中々難しい。

 勿論、ジョン王が戴冠するまでの動向や、戴冠後の治世も余り褒められたものではないので、今後も彼の評価が大きく変わる事は無さそうではあるのだが。

・「アンジュー帝国」と「英国」の誕生
 ヘンリー二世、リチャード一世、そしてジョン王が君臨した「アンジュ―帝国」とは、本質的には「フランス」であった。
 当時のイングランドはノルマン人による征服地であり、また支配者のノルマン人がノルマンフレンチを用い続けた事が示すように(この状況が変わり始めるのは百年戦争)、ノルマン家とその後継たるアンジュ―家の本領は、当然のように西フランス側である。要するにアンジュー帝国は島国ではなく大陸国家であり、ブリテン諸島は言わば外地や海外領みたいなものであって、何なら当時「英国」など存在しなかったとも言える。

 リチャード一世はアキテーヌ公リシャールと呼ぶのが正しいという主張が出て来るのも、この辺りの理由による。
 国際情勢に拠る部分も有ったが、彼はルイ七世やフィリップ二世に対し臣従礼を執った。つまり、彼は(ヘンリー二世やジョン王もそうだが)イングランド王でありながらも、紛れもなくフランス王の臣下であったのである。これを踏まえていないと、リチャード一世やジョン王がどうして何かが起こるごとにフランス王に接近したのか理解しづらい。

 勿論、こんなややこしい状況が何時までも放置される訳がなく、ましてアンジュー帝国がフランス王位を有するカペー家の領土より遥かに巨大である(アンジュー帝国の支配圏を非常に大雑把に言えば、西フランス+イングランド+東アイルランド。一方でカペー家は東フランス)となれば、紛争が起こらない筈がない。カペー家の立場から見れば干渉するのも当然で、結果は周知の通り、ジョン王が大陸領の大半を喪って敗北する。もっとも残った大陸領についてはジョン王の息子がフランス王にやはり臣従礼を執る事になるので、この時点で上記問題が最終的解決を見た訳ではない。

 そして大陸領失陥の結果としてジョン王以降の王は、それまで外地で有ったイングランドの経営に本腰を入れて取り組む必要へと迫られた。
 つまり良くも悪くもジョン王によって島国国家「英国」が誕生したのであって、裏を返せば、万一彼が傑出した王で有ったのならば、欧州の歴史は全く違う流れを辿り得る。フランスの王権が大きく弱体化されたかもしれないし、イングランドが完全にフランス化していたかもしれないし、アンジュ―家の領土こそが「フランス」になっていたかもしれない。必然、欧州においては、この時代は歴史改変物の恰好の素材となっている。

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