十一月に入るという事は、ホグワーツが騒乱の時期を迎える事を意味する。
何故かと言えば、勿論クィディッチシーズンの開始が原因だ。
去年は三校試合によって全面的中止となったが、今年はそんな事も無く、例年通りに行われると発表されている。そして一年間が空いたせいか、はたまた生徒が大きく二分されている陰鬱さを反映しているのか、寮間でのいざこざは今まで経験した三度の何れよりも激しいようだ。特に開幕戦がグリフィンドール対スリザリンという事も有って、怪奇現象の観測には事欠かない。
廊下で突然足がくっついて転ぶ人間。階段で何の前触れも無く卒倒する人間。図書室で髪や眉や歯や舌が突然伸び出す人間。食堂で全身が赤くなったり羽根だらけにする人間。
やはり魔法族は前時代的な凶暴さを引き摺り過ぎで、ホグワーツは杖を振る事を学ぶよりもまず先に、理性と倫理、そして文明人とは何かを学ぶべきである。
しかも今から既に憂鬱なのだが、これからも暫くは騒乱が続く事は確定している。開幕戦が終わるという事は、スリザリンかグリフィンドールに黒星が付いて新たな火種が生まれるのと殆ど同義なのだから。ドラコ・マルフォイとハリー・ポッターはどちらも引き分けで満足してくれないものだろうか。
とはいえ、そのような騒乱――それと片っ端から失神呪文を掛けてやりたくなる衝動――を除けば、僕にとってクィディッチシーズンが近付く事は、殊更特別な注意を払うものではない。そして今年は気にしている暇がない程度には忙しかった。
「……随分と下級生に慕われるようになったな」
「…………君にはそう見えるか」
鷲掴みにした杖をぞんざいに振り、
相も変わらず不機嫌そうなドラコ・マルフォイは、僕ではなく、去り行く二年生の背中を見ていた。彼女は、つい先程まで僕の指定席で相談をしていた生徒だった。
「正確に言葉は使うべきだな。慕われているのではない。面倒事を押し付けられているのであり、体よく利用されているのだ」
精神的な疲労を強く感じつつ、肩を回しながら息を吐く。
その金色の髪が濡れている所から伺うに、クィディッチの練習帰りか。敗北が許されない一戦が近い事もあって、彼はやたらと神経を尖らせているようだ。
もっとも、そうなっている一番の原因は、こないだ階段から落ちかける〝事故〟が発生したからかもしれない。勿論、スネイプ教授がその後にグリフィンドール生を減点する光景とセットである。誰もかれも四年も繰り返して良く飽きないものだ。
「高等尋問官殿の一件以降、僕の所に相談を持ち掛けて来る変わり者が現れた訳だが、ここ最近は更に酷くなっている。聞く所によると何処かの監督生様の御指示のようだ。一々自分に問題を持ち込んで来る前に、まず僕へと相談を持って行けとな」
「……効率的では有るだろう。わざわざ僕が関わる必要のない事も多い」
「嗚呼、それは認める」
些事については取次役の段階で却下し、重要事だけ上役に話を持っていくのが効率が良い。
ドラコ・マルフォイの行いは賢明で、支配者として正しい振舞いだった。
「そして不平を言っては居るが、別に止めろと言っている訳では無い。ナルシッサ・マルフォイ夫人からも、今年は君の事を良く助けて欲しいと頼まれている。君が余計な御遊びにかまけていないのであれば、監督生業務の下請けに甘んじるなど何て事は無い」
「……君は父上の命令を聞く気が無いのに、母上の命令は聞くのか」
「命令では無く御願いだからな。歯向かう道理が無い」
「詭弁だろう」
「なら、君が夫人に直接言うか? 君の頭を超えて僕に命令を下すなと」
「…………」
ドラコ・マルフォイが黙り込む。
家庭で真に権力を持っている者が誰かというのは、彼も理解している。
「まあ、夫人の言葉全てに従う気は勿論無いとも。しかし、断る事が道理に反する頼みというのは有るし、コレはその類だ。君の将来を思っての言葉だから無碍にも出来ん。この間も言ったと思うが、君のO.W.L.のサポートこそが今年の僕の最優先事項だ」
「……そう言う割には、随分と色々な事に首を突っ込んでいるようだが」
「というと?」
「…………さっきの話の続きだ。下級生の頼みを聞いてやっている」
嗚呼、そういう意味かと頷く。
色々と表現するから何かと思えば、雑事を色々しているという意味か。
去年と違って今の所は何も企み事をしていないのだし、疑いを持たれる真似自体もしていなかったと思ったので、少しばかり驚いてしまった。
「確かに色々では有るな。宿題や授業、選択科目に関する質問。喧嘩の仲裁、恋愛相談。遺失物の捜索に寮内備品の修理や蔵書の処分。家系図の整理に親子間の確執の解決。迷子探しにペットの躾、雑誌のクイズへの解答、そして後輩達のハロウィンの飾付けの手伝い。良くもこれだけ出て来るものだ」
「……そこまでとは思っていなかったし、割と変なのが紛れ込んでいないか?」
「持ち込んでくる方に言え」
「…………絶対に君が受けるのが悪いと思うぞ」
阿呆を見る目を向けつつそう言えるのは、ドラコ・マルフォイが強い立場の人間だからだ。
しかし僕は違う。たとえ下級生だろうが
「まあ、余りにも下らん内容は却下している」
あくまで僕は本来の監督生、ドラコ・マルフォイの代わりでしかない。
「何より僕の所に来る問題の中に、真に深刻な物はないのだ。あからさまに〝純血〟向き、或いは
僕に回ってくるのは殆どが雑用に近い、〝純血〟に相応しくない部類の仕事。他からは眼の届きにくい、裏方や寮内の範疇の仕事と言い換えても良いだろう。
ドラコ・マルフォイ達とて監督生の肩書を負わされた身である以上、教授の眼が有るような表向きの仕事は彼等がやるし、家名をもってせねば解決出来ない大事が発生した場合には当然ながら彼等の出番である。
それすら面倒がる人間はそもそも監督生に任命されないし、逆にそのような問題解決能力が無い人間は、内々で監督生の地位を剥奪され得るのがスリザリンという寮であった。
「……しかし、それにしたって君の関わり方は度が過ぎているように思うけどな」
「そうは言うものの、誰かがやらない限り問題が残されるだけだろう?」
ドラコ・マルフォイは割合面倒見が良い方だが、あくまで〝純血〟の中でという部類であり、細々とした雑務を処理するのが得意な質では無い。
また、ドローレス・アンブリッジの時のように、〝純血〟が出て来た方がややこしくなる問題というのも有る。実際、この立場になって見て解った。高貴な方々の御手を煩わせたくないと思える問題というのは、余りにも多く転がっている。
「それにこの四年間、スリザリンに、そして諸先輩方には割合良くして貰ったとは思っている。ならば、その分を多少は後輩達に返しても罰は当たるまい?」
「……僕の眼には、君が好意的に扱われていたとは思えなかったんだが」
「君が温室育ち過ぎるのだ」
居心地が良いと手放しに言える環境でも無かったが、それでも寮生活で致命的に困った事が一度も無い。それは確かな事実だった。
「……そう言えば」
「何だ?」
「今週末クィディッチの試合が有るが、君は応援に来るのか?」
話題を変える枕詞と共に一拍開けて紡がれたのは、随分と唐突かつ奇妙な問い。
「……行くつもりでは有るが、それがどうかしたのか」
ドラコ・マルフォイの眼を見ても、質問した内容以上の企みの気配は発見出来ない。
「そもそも一昨年までは基本的に毎試合行っていた筈だろう? 他寮の試合を見に行くまで熱心になれずとも、流石にそこまで僕も無法では無かったと思うが」
「……い、いや。しかし君は露骨にクィディッチに興味が無いだろう?」
「まあ入学時よりは興味を持っているが、それでも一般的な魔法族程には及ばんな」
あのスポーツに対する熱狂度は、どんなに努力しても一切共感出来ない部分である。
「そして一々見に行かずに済むというのであればどれ程楽かとは思うが――まあ、一応スリザリンに所属させて貰っている以上、そうはいかんだろう。今回グリフィンドール戦で君達がやろうとしている事も知ってはいるものの、僕を巻き込む気は無さそうだからな」
無意味に一致団結を要求して来ない分、やはり気楽なものだ。
「だが、君が言い出した所をみると何か問題が有るのか?」
「……そうではないんだが、その、君が忙しそうだと思って」
「だから応援に来なくて良いというのか? 君の好意は有り難く思うが、数十分時間を潰されなくなった所で何かが変わる訳でもない。それが数時間でも同じだ」
クィディッチ狂いは生徒に限った事ではない。教師もまた同類の集まりである。
だから試合日が近付くと宿題の量を筆頭に、生徒の負担が明らかに軽くなる。終わった後は遅れを取り戻す為に増えはするものの、全体的に見れば楽になっている位だった。
そう言ったものの、ドラコ・マルフォイの表情は晴れなかった。
「しかし、君はスニッチを取れば終わるスポーツの何処が面白いんだと考えている口だろう?」
その言葉に溜息を漏らす。
……一体誰から吹き込まれたのやら。
〝マグル〟について学べと言った記憶はあるが、そういう意味ではない。
「そんな人間にはこう言い返したまえ。
熱狂的なファンならば、恐らく顔を真っ赤にして反論してくれるだろう。
「……僕がそんな事を言う機会は未来永劫無い」
「ならそもそも馬鹿げた質問をしない事だ。僕が必要以上の熱意を持てないのはスポーツ全般であって、クィディッチに限るものではない。それに――」
「それに?」
「――考え過ぎだろうとは思うのだが、已むを得まい」
これまで、クィディッチでは〝何事〟かが起こって来た。
一年目ではクィリナス・クィレル教授が箒を操作した。二年目では屋敷しもべ妖精ドビーがブラッジャーを操作した。三年目では吸魂鬼がハリー・ポッターを叩き落した。
この恒例行事を踏まえるに、やはり観戦を面倒臭がっている場合では無いのだろうと思う。しかも今年のハロウィンは何も起こらなかった。本当に、事件が起こっていた方がマシというのは、ハリー・ポッターの悪い部分だった。
「まあ僕の心配をするような暇が有るならば、君はさっさと机に向かいたまえ」
物言いたげなドラコ・マルフォイに対し、言葉を続ける。
「君が帰って来たという事は、クィディッチの練習が終わったという事だろう? O.W.L.までもう七ヶ月しか残っていないのだ。君は勉強する事こそが本分であり、君が僕を困らせたり、僕の仕事を増やしたくないと少しでも思うならば、それが一番助かる」
「…………」
「明後日の呪文学の宿題は君の机の上。この間返却された『毒薬の各種解毒剤』についての完答も、作成して既に置いている。――嗚呼、暫くしてテストもするぞ。質問に行った時のスネイプ教授の口振りでは今年出題されるかもしれないと言う事だし、良問は何度解いても解き過ぎるという事は無い」
「……君はもっと他人に無関心かと思っていたが、案外口煩いよな」
「そのようだ。しかし恐らく性分だろう」
三年間と一年間、口煩い女性達が傍に居続けた事に責任転嫁するつもりはない。
全く影響を受けていないかと言うと、流石に嘘になるだろうが。
そして土曜日のクィディッチの試合。
そこでは案の定、盛大に問題が起こってくれた。
もっとも、そこで起きた〝事件〟は予想した方向性と全く違い、ホグワーツが未だ平和である証だったのかもしれないが、それにしたって憂慮すべき事態であるのは変わりない。場合によってはマルフォイ家に対する直接の報告と、彼等からの叱責は覚悟すべきであろう。
しかも、事件後に医務室送りになってからのドラコ・マルフォイが捕まらない。
あの程度の怪我なら医務室に行けば数分も掛からず治せた筈で、何なら競技場で杖の一振りで治せた事だろう。
しかし、彼は医務室から出て来ず、用事を済ませて戻ってくれば去った後で、漸く彼を捕まえる事が出来たのはもう日付が変わろうとしている深夜。眠り着いた生徒を邪魔しないよう灯りの大半が落とされ、僕以外には一、二名程しか人間が残っていない談話室での事であった。
「――兎に角、座りたまえ」
人目を避けるように腰を屈めつつ入口を潜ってきたドラコ・マルフォイはビクリと震えたが、僕が待っていた事は察したのだろう。そして逃げる選択肢も無いと感じたらしい。僕の指定席に大人しく近寄って来て、既に用意していた椅子におずおずと座る。
談話室から殆ど人が消える今まで姿を見せなかったのも、今の彼がバツの悪そうな顔をしているのも、まあ、今日起こった事からすれば已むを得ないだろう。
これでハリー・ポッターとのクィディッチ開幕戦は三戦三敗、その上で衆人環視の中あんな目に遭えば、人の目を避けたくもなる。間違いなく自業自得だった事だろうとは思うものの、それでも全く同情を抱かない訳では無い。
「……前から思っていたが、ここで話をして盗み聞きされないのか?」
口を開いたのは彼が先で、予想通り、今日の事件への言及を先送りしようとする言葉。
周りが気になるのか、落ち着きなくキョロキョロしている。机の上に置かれた魔法具は、彼の青白い顔を余計に青白く染めていた。
「盗み聞きが可能か否かと聞かれれば可能だな」
「――――」
「呪いに対しての逆呪いが存在するように、この防諜も魔法具や他の呪文によって効力を打ち消せはする。寧ろ、それが不可能と考える方が可笑しい」
絶句しているドラコ・マルフォイを他所に、当然だろうと思いつつ説明を続ける。
魔法は多くの事が出来るが、決して全能では無い。
「だが僕は誰に対しても話す事を強制している訳でも無く、聞くとなれば最大限の配慮はしている。まして杖や魔法具での盗み聞きに気付かない程、鈍感であるつもりはない。そもそも場所を変えると、今から重要な話をすると言っているようなものだろうに」
結局、何処で話そうとも誰かに聞かれる危険は変わらない。
であれば、それが談話室であろうとも一向に構わないだろう。そもそもこの程度の危険で口煩く言ってくるような気位の高い人間は、わざわざ僕の所に問題を持ち込んで来ない。
「何より、今何時だと思っている? 君は懸念し過ぎだ」
先程までは七年生が残っていたのだが、既に談話室に姿も見えない。明らかにドラコ・マルフォイが帰って来たのを見て去ったあたり、関わりたくないとは感じたらしい。
後はもう一つ。
「…………」
ドラコ・マルフォイが帰って来た後すぐ、僕には寮の入口が再度開いたように思えた。
しかし、入って来たような人間は何処にも見当たらない。
そして姿が見えない以上、勘違いと看做すのが普通ではある。
ホグワーツの教師は傷心し切ったドラコ・マルフォイを見逃す事はあれど、それ以外の生徒を見逃しはしない。だから寮外を出歩く事が不可能な時間に外から誰かが入って来る事は有り得ず――けれども、
「……今日の事について、君は何か言わないのか」
口を開く際、ドラコ・マルフォイは
「言いたい事は有る。が、君は求めていないように見えたからな。しかし――ずっとこうして居ても仕方が無いのも確かか。怖い人間が見回りに来ても問題だしな」
羊皮紙の上で羽ペンを滑らしながら答える。
僕がドラコ・マルフォイと視線を合わせないのは、面倒臭さによるものではなく、今回は意図的なものである。視線を合わせない方が話しやすくあろう。
「君は当然知っているだろうが、今回の事件の全体像を把握した後、僕は君を探していた。勿論、今後の方針を君から聞く為にだ。アレを大事にするならば、どうしたって君の協力が要るし、それも早い内に行動に移る方が良かったからだ」
「…………」
「けれども、君は捕まらず――そして君が僕を避けているらしい事に気付いた時、僕はこうして待つ事を選択した訳だ。実際、その選択は正しかったように思える。今の君は、
「……お前が一体何を言っているか解らない」
「そうか?」
ドラコ・マルフォイの方を横目で見る。
その眼も表情も、俯いているせいで伺えはしない。
「ならば、丁寧に一つずつ話を進めるとしようか」
視線は羊皮紙に落としたまま、改めての整理も兼ねて今日の出来事を回想する。
「僕は君達の遣り取りに最初から注目していた訳では無いし、遠目でしか事件を見られなかった。しかし競技場には居たのだから、事件の全貌を把握する事は出来た」
わざわざ応援に行った甲斐は有ったのだろう。
勿論、決して嬉しい気分になれはしなかったが。こないだ思った事も撤回だ。何も起こらない平和なホグワーツの方が余程マシだった。
「ハリー・ポッターがウィーズリーの片割れと二人がかりで君を殴った事。それもマダム・フーチから止められるまで殴るのを止めなかった事。そして事件後に別室へと連れて行かれたグリフィンドール三人に下された処分の事。それらは既に全校生徒が知っただろうが、僕もまた例外では無い。特に最後については、ドローレス・アンブリッジが伝えに来てくれたからな」
「…………」
「そして、彼女の言葉を受けた僕の感想から述べるべきだろう」
ドラコ・マルフォイが解らないというなら、そこから始めなければなるまい。
「彼女からそれを聞かされた時、僕は当然こう思った」
僕を訪れたガマ蛙の顔は歓喜に満ちていたが、僕には溜息しか洩れなかった。
「――
喉を鳴らしたドラコ・マルフォイの反応を、僕は慈悲の下に気付かなかった振りをした。
まったく、つまらない保身に走るのは魔法省役人の習性なのだろうか。
あんな下らん学生組織に対して退学処分の威嚇をしたのに、しかし暴力事件には学内で終わる程度の生温い処分を下してしまう。腰抜けで、日和っている。今回もまた、彼女は〝巨悪〟と戦おうとしなかった。
「如何なる挑発をされようと暴力行為に及ぶのは文明人の振舞いでは無く、ましてや二人がかりなど言語道断である。このような悪辣な人間をホグワーツに置き続ける事は他の学生にも悪影響を及ぼすのであって、故にハリー・ポッターは退学にされるべきである。
「……僕はそんな事を聞きたい訳じゃない」
「そうか? 今までの方針からすれば、君は僕にそれを求めていたのだと思っていたが」
ドラコ・マルフォイが教育令第二十四号の問題を取り上げたのは記憶に新しい。
そして、ハリー・ポッターを退学させられるならば、手段を問わないとも思っていた。
「奇しくも教育令第二十五号が既に出ていた。『ホグワーツの生徒に関するすべての処罰、制裁、特権の剥奪に
呪文によって一瞬で治療が出来るという事は、決して暴行の罪が軽くなる事を意味しない。
何せ肉体的暴行が齎した心理的傷跡を治す事は、魔法をもってしても尚、限界がある。歴史的に見て、魔法族を最も多く壊してきた道具とは決して杖では無かった。〝マグル〟の用いる拳やナイフこそが魔法族、特に幼い子供達を傷付け、事実上の死を齎してきた。
「夏休暇中の吸魂鬼襲撃裁判、あの際アルバス・ダンブルドア校長は言った。ホグワーツにおけるハリー・ポッターの態度は『本件とは無関係』だと。これは彼の不品行を取り上げて有罪判決を得る事を目論んだ魔法大臣を咎めた言葉で、それはやはり、彼が正しい」
校外での杖の不正使用云々に、校内の事情を取り上げる必要は無い。
「しかしハリー・ポッターの退学処分事件についての裁判をやるとなれば、彼の素行不良が無関係という理屈は通らない。高等尋問官殿が退学処分を下した正当性は、君に対する暴行事件のみならず、ハリー・ポッターの行動の一切合切を踏まえた上で判断される事になるだろう」
品行方正な生徒の初犯と、素行不良の生徒の再犯。
両者の処分に軽重の差異が生じるのは至極当然の話である。
「そして彼の素行を知らない裁判官に退学の是非の判断をさせようとすれば、当然ながら素行に関する証拠を提出しなければならない。つまり、ハリー・ポッターの退学を正当化しようとすれば、裁判所において四年間の彼の素行を総浚いする事は必須だ」
彼の素行不良を証明する証拠――証人となるのは、勿論スネイプ教授。
立場上教授はその要請を断れないし、そして教授は校長と同じくハリー・ポッターの生存には関心があるようだが、しかし校長と違って彼をホグワーツに留める事には関心が無いだろう。
「僕の個人的な意見はさておき、〝生き残った男の子〟に厳正な処分がされてきたかは確かに議論の余地がある。また裁判をやれば、あの校長にとって都合の悪い事が多く露わになるのは確実だ。だから、今回法廷に紛争に持ち込んでやるのは一つの手だったのだが――」
そして結果がどうあれ現在の魔法界において恰好のゴシップになるのは間違いなく、ハリー・ポッターが纏う〝
「――ただ、それでも高等尋問官殿は彼等を退学にしなかった」
何度思い返しても、本当に溜息しか洩れ出て来ない。
子供のやった事ならば許されるという甘ったれた論理を、彼女は踏み躙ろうとしなかった。
「教育令第二十五号では、高等尋問官に対して生徒への退学処分権を授与したと解釈するのは苦しいと判断したのか。それとも今回の事案では退学まで持って行けないという、珍しく正気の判断を下したのか。どちらにしても、御行儀が良過ぎだ。権力の使い方をしらない。わざわざハリー・ポッターから隙を見せてくれた以上、やはり踏み込むべきだったろうに」
もっとも、彼女が大それた事が出来ない人間であるのは十分承知していたが。
本のページを左手で捲りながら、自嘲と揶揄が半々の感想を紡ぐ。
「……君にとってアンブリッジは小物か」
「ああ。彼女が高等尋問官に就任してからもう一か月と三週間経つんだぞ? 趣味にかまけて本分を疎かにしている人間を、大した人物と呼ぶ事は決して出来んよ」
「一か月と三週間? 趣味にかまけて……?」
「何故そこで不思議そうな反応を返すのか解らんな。こんなのは自明だろう」
劣化によって掠れた文字を丹念に読み取りながら、溜息を吐く。
「僕が高等尋問官ならな、
当然のように、与えられた合法的権限に基づき、期待された職務を適正に遂行している。
「闇の陣営は現時点での教育改革に興味が無いが、魔法省にとってはそうではない。高等尋問官就任のニュースを見た保護者や卒業生も同様だろう。そして亡霊歴史学者とインチキ占い師を排除する事に良心の呵責など感じない。どちらも教える能力が無く、生徒が唯一学べるのは、大人は割と適当に仕事をやっているのだなという点だけだ」
「…………」
「もう一人の問題教師、ルビウス・ハグリッドについては今の所不在ではある。しかし彼女の思想的にあの半巨人をクビにするのは規定路線だし、別に彼が居なかろうと解職に向けた証拠集めは可能だ。これまでの二年間どんな授業をしていたかを生徒から聞き取るとかな。その上で彼の復帰を待ち、半巨人基準の授業をやりやがった瞬間に即クビにする」
一応ルビウス・ハグリッドは去年の後半から、正しくはウィルヘルミーナ・グラブリー=ブランクの授業が終わって以降は割と適切な授業をしていた訳だが、まあ全体的に見れば教授失格の烙印を押すには十分だろう。去年の反省が今年に生かされて無ければ酌量の余地も無い。
「しかし、彼女はカスバート・ビンズの査察に赴かず――全ての寮、学年で目撃されていないと聞いている――シビル・トレローニーの方にしても、停職候補に留めるなどという生温い真似をしている。ルビウス・ハグリッドについても嗅ぎ回っている気配はない」
その三名は何れも悪名高い授業担当者であり、解雇した所で大きな問題は生じない。
一部の生徒は反発するだろうが、スリザリンに限らず、グリフィンドールですら彼等の授業に不満を持っている生徒は多い。如何にドローレス・アンブリッジが嫌われていようと、彼等の解職決定に関して絶対的多数の支持を得られはするだろう。特にカスバート・ビンズとシビル・トレローニーの酷さを身をもって知って居る人間は、卒業生にも居るのだから。
けれども彼女は非常に呑気である。
学生時代から抱き続けた醜い支配欲。自分を蔑ろに扱って来た〝ホグワーツ〟に対する復讐心。それを満たす気が本当に有るのかと疑いたくなる程に。
「……君がせっかちなだけだろう。まだ、二ヶ月だ」
「かもな。だが有能さを測る尺度の一つは、仕事を終える速さの筈だろう?」
解職は非常に重い処分だ。それを下すには慎重に手続を踏み、改善勧告をしても尚改善しない場合にのみ解職させるべきである。そんな考えは一応――否、それこそ正義なのだろう。
しかしながら、彼女はそのような保身の下に仕事を遅らせている訳ではない。
ドローレス・アンブリッジは授業と呼べるものをギリギリまでしないだろう。
そう言ったのはドラコ・マルフォイだったが、その彼の言葉を借りるならば、彼女はシビル・トレローニーとルビウス・ハグリッドをギリギリまで
せめて魔法省に忠実に動いていればまだ敬意を抱けるのだが、この有様では無理な話だ。
「……なら君はアンブリッジに言わないのか? その……さっさと仕事をしろって」
「言ってどうなる? 権力を楽しんでいる人間が聞くとは思えん」
僕の言葉を唯々諾々と容れる程、彼女は従順でもないだろう。
「そして君が疑念を差し挟んだように、僕の判断が絶対的に正しい保証は無い。そもそも生徒風情が口出しする事でも無い。そのような出過ぎた真似は明確に秩序に反する。〝上〟の希望が有るならば彼女を黙らせられるが――音沙汰も無いのだろう? なら、現状は好きにさせていろという事だ。彼女を叩きのめす正当性というのは僕には見付けられない」
「…………」
まあ教育改革が闇の陣営にとって現状どうでも良いと言ったのは僕ではあるが、それにしても、もう少し興味を持っていてくれればと思わないでもない。しかしそれは感情的なモノで、呑める程度の不愉快さに過ぎない。
「高等尋問官殿の事は良い。彼女は何れホグワーツから消える。それが校長の意思によるか、それとも闇の帝王の意思によるかはまだ解らないが」
ともあれ、本題だ。
「――必要が有るから聞くのだが、君は
「……何をだ」
「勿論、ドローレス・アンブリッジに処分の訂正をさせる事だ」
決まり切っているだろうと、僕は続ける。
「今回の暴力事件を起こしたハリー・ポッターは当然退学に処されるべきである。そう主張して、アルバス・ダンブルドア校長との対決を彼女に促すつもりが有るのかと聞いている」
退学まで持って行ける可能性は殆ど無い。
しかし、試みるのが徒労だという程に無価値な行いでも無い。
「つい先日、僕は曲がりなりにも君と約束したからな。彼等を『追放するよう最善を尽くす』と。あれは教育令第二十四号に関する話では有ったものの、根拠法令が違うからと言って約束していないというような事は言わない。君が覚悟を決めるなら反対はしない」
「――――」
「一応その行為に及んだ場合の展望を話しておくと、あの校長の反対が見えている以上、彼の退学はすんなりとは行かない。十中八九、ハリー・ポッターの退学の是非は裁判に掛ける事になる。寧ろ、その道を選ぶことこそが勝機とも言える。再度馬鹿げた裁判をわざわざ行う利点はな、審理過程で彼等を叩ける点にこそあるからだ」
吸魂鬼襲撃事件において、ダドリー・ダーズリーを証人喚問するという仮定と同じだ。
最初から負ける気でやるつもりはないが、勝たなくとも問題は生じない。
「つまりこの四年間のあらゆる事象をもって、彼等の名誉と名声を失墜させる事に全力を尽くす訳だ。たとえば一年次末の『飾りつけをちょいと変えねばならんのう』とかいう戯言にしても、あの校長がハリー・ポッターとグリフィンドールを贔屓して来た証拠の一つとして十分使える。主張の持って行き方によっては、校長を自ら辞任に追い込む事すらも可能――」
説明を続けつつも全く反応が返って来なかったので、横目でドラコ・マルフォイを見る。
そして大きく息を吐いた。呆れの溜息だった。
「――君な、この期に及んで恥ずかしいとか言うのか」
「! 君は他人事だから良いがな――!」
「時間が時間だ。声量を落とせ」
「……裁判になるなら、今回の事件が公式記録に残るんじゃないのか?」
大きく深呼吸をした後で、顔を屈辱に染めたままの彼は言った。そして僕は頷く。
「今日の暴行に対する処分として退学が適切かを判断するのだから、当然裁判所で詳細に聞かれる事になるな。暴行に至るまでの経緯、暴行の態様、それによって齎された怪我の程度等々。被害者である君は証人として呼ばれる公算が高い」
魔法界では召喚しないという事も有り得そうだが、出頭を望めば断られはしまい。
「そして記録どころか記憶にも良く残るだろう。この裁判は今世紀で最も阿呆な裁判エピソードⅡであり、しかも判決理由の中身次第では、今後生徒の退学が問題になるような事態が生じた度に、一々先例として持ち出される事になるかもしれない」
「……どう考えても大恥じゃないか」
「何十年後かに勇者として評価される可能性も僅かに有る。そもそもヒッポグリフの時も君は弱い振りをしたのだし、彼等を貶められるなら安いもの――」
「――僕は!」
談話室にドラコ・マルフォイの大声が響く。
誰かが飛び起きて来るかもしれない。そんな懸念は、彼の頭から抜け落ちている。
「お前の! 趣味に! 従う気は! 無い!」
半ば自棄になっているようでも有ったが、彼の意思は堅いようだ。絶対に従ってやるものかという決意を感じる。そして、彼は大いに勘違いをしている。
「そうか。君が不要だというならそうしよう」
「…………」
「…………」
「……い、良いのか?」
「悪い事が何処に有る?」
素直に引っ込めた事が余程意外だったのか。
途端に気を使う素振りを見せ出した彼に軽く笑う。
「君は既に教育令第二十四号についての遣り取りを忘れたようだが、僕はそもそもこの手の策謀に反対する側だぞ? O.W.L.のある今年は、無意味に時間を浪費する暇など無い。この立場は基本的に変わっておらず、前回の約束が無ければ先のような事を言っていないのだ」
万一ドラコ・マルフォイが許可を出した場合に生じるであろう厄介事は、検討するだけで頭痛を齎すには十分だった。
「裁判沙汰にするにしても、実行に当たって問題は多い。既にドローレス・アンブリッジが一応の処分を下しており、これを変更するというのは――クィディッチ禁止が事実上執行されていないとはいえ――揉めるだろう。また、コーネリウス・ファッジが何処まで協力してくれるかにも左右され、審理を投げたウィゼンガモットがどう反応するかも読み切れない」
そして言わずもがな、と続ける。
「最大の問題は、暴行事件程度では絶対に退学にならんという事だ」
これが良い事なのか悪い事なのか。
この点に関しては、僕も判断を付けきれない。
「これは非魔法界だろうが魔法界だろうが変わらない。現時点ではな。だからハリー・ポッターへの退学処分が妥当だという判決を下させようとする場合、汚職裁判官は必須だ。そこまでの状況を用意するのは、ルシウス・マルフォイ氏の力を最大限使えた場合でも厳しいだろう」
あの吸魂鬼襲撃事件。有罪判決も裁量の一つとして有り得た裁判とは違う。
やってみなければ解らない部分が有るとは言っても、先行きが余りにも不透明過ぎるのだ。ドラコ・マルフォイの名誉を賭金とするには、やはり二の足を踏む。
「寧ろ君が引っ込めた事にホッとしている。……嗚呼、ならばやるとか言ってくれるなよ。今更撤回するのは無しだ。その場合はやはり止める」
本人の意欲がこの程度では、何処かで失敗する事が目に見えている。変に彼が意地を張り、見切り発車を求められる方が迷惑だった。
「……そんな事はしない」
「なら僕はこれ以上言う事は無い。この話は終わりだ」
ベッドに戻っても構わない。
その意味も籠めて言ったのだが、ドラコ・マルフォイは椅子から微動だにしなかった。
「…………いいや。僕には言う事が有るぞ」
ほう、と視線を上げる。
彼の灰の瞳に浮かんでいる挑戦的な光は、割と嫌いでは無かった。
「君は裁判云々について趣味という部分を否定しなかったな」
「……そうだな。心当たりは有る」
「その一方で、君はポッターが違法なクラブをやっているかには興味が無さそうだった」
「それも当たっているな」
余り意識しては居なかったが、確かにスタンスは違う。
教育令第二十四号は退屈極まりない省令だったが、しかし今回の教育令第二十五号、というより、些細な暴行事件を大炎上させてやる事には強く惹かれた。
ドラコ・マルフォイの指摘は適切な物で、否定し得ない事実である。
「君は僕のしもべの筈だろう……!」
「…………」
「なのに僕に恥を晒させる事には積極的で、しかし僕が功績を上げる事には消極的だった。長々と屁理屈を述べたてて、僕に従わなかった! どっちも同じようにポッターを退学出来るにも拘わらずだ! その違いは一体何処に有る? やましい事が無いなら答えてみろ!」
・外出禁止時間
公式設定上、五年生が廊下に出ていて構わないのは午後九時まで(五巻・第十八章)。この時間までには談話室、ないし寮室のベッドに戻っていなければならないと思われる。
それ以外の学年がどうなのかは、他の巻でも明らかにされていない筈。