この身はただ一人の穢れた血の為に   作:大きな庭

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フンボルト理念

 アルバス・ダンブルドア校長は何事も無く学期を始めるだろう。

 そう僕はハリー・ポッターに予言したが、実際その通りに事は進んだ。

 

 彼は何も口にしなかった。

 学校生活に関わる毎年恒例の言葉以外、何も。

 

 闇の帝王の復活についても、セドリック・ディゴリーの現状の取り扱いについても、魔法省がハリー・ポッターと自分達を嘘吐き扱いしている件についても、言及するどころか仄めかす事すらしなかった。これまでの四年間の新年度と同様、酷く穏やかな形で――そして厚顔無恥極まりない態度でもって、この大事な一年を始めてくれた。

 

 もっとも、彼は流石に一筋縄では行かなかった。

 組分け帽子が警告を発する。その発想は、やはり自分には無かったのだから。

 

 しかも、その内容がまた絶妙である。

 あの組分け帽子は千年以上前に起きた亀裂と不和を語り、今忍び寄りつつあるホグワーツの分断を警告し、これからの校内での団結の必要を訴えてはいた。だがしかし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 つまり、校長達を信じる者にとっては、組分け帽子の歌は闇の帝王や死喰い人への対抗の為に警告を発したように聞こえてしまう。一方で信じない者にとっては逆だ。校長やハリー・ポッターなどの校内の和を乱す者への対抗、魔法省への忠誠を訴えているように聞こえる。

 

 まあ良く聞けば外なる敵(external,deadly foes)とは言っており、校長達に向けた発言とは素直に解釈しがたいのであるが、そのような細部まで聞いていた人間が何処まで居たやら。途中までは帽子がどちらの立場で物を言っているか判断しがたい事もあり、ドローレス・アンブリッジやスネイプ教授が〝子供を惑わす偏向的な発言である〟と主張して歌を止めるのも難しかっただろう。

 そもそも如何に創設者達が遺した帽子とはいえ、所詮は道具。ホグワーツの肖像画と同様に、あくまで考える頭をもっているように見せかけているだけの代物に過ぎない。その言葉を真に受け過ぎる事自体が愚かだという主張にも一理あり、最初から追及など不可能だったのかもしれない。

 

 本当に狡猾で、見事な物だ。

 千年も伝統を存続させてきた仕組みは、そう簡単に壊れてくれないらしい。

 

 公然と行われたこの主導権争いに勘付いている者は少なからず居り、四人の寮監がそうであった事には何らの疑問も抱かなかったのだが――恐らく第一次魔法戦争時、彼等は同種の歌を聞いた経験があるのだろう――ただ一つだけ、ドローレス・アンブリッジも気付いているようであったのは意外だった。

 彼女は一連の皮肉を理解出来る程度には理性的であるようで、校長の与太話を途中で遮ってみせたのも、帽子の歌に対する意趣返しのつもりだったようだ。しかしながら、始業日における最初の攻防としては、あの校長が勝利を収めたと言っていいだろう。

 

 けれども、それ以外。

 大多数の人間は、色々と御話にならなかった。

 

 彼等は目の前で起こった事態に対して、見たまま以上の意味を見出していなかった。

 組分け帽子が変わった歌を紡いだ、ドローレス・アンブリッジが眠たくなるような話をしたという程度の認識で、既にホグワーツと魔法省の間で一戦が交えられたのだという事に気付いてすらいない。闇の帝王の復活を知っているドラコ・マルフォイですら気楽なものだ。

 

 ……嗚呼、そして何よりもハッフルパフ。

 はっきり言って、彼等は期待外れでしかなかったと言って良い。

 

 あれだけ静かに、しかし派手に遣り合っていたのだ。

 なればこそセドリック・ディゴリーを継ぐ者として、彼等も参加するべきだった。

 

 あの校長が何事も無かったかのように始業式を終えようとした瞬間、ドローレス・アンブリッジと同種の行動に及ぶ――つまり、組分け帽子の()()()()歌の意図を改めて全校生徒の前で取り上げ、校長に対して公然と不服を申し立てるべきだった。賢い老人の沈黙を、愚かな若人の質問でもって打ち破るべきだったのだ。

 

 アルバス・ダンブルドア校長、貴方はセドリック・ディゴリーの死を忘れたのか。彼の名誉が不当に貶められ、そして闇の帝王の復活から目を背けている魔法界の現状をどう思っているのか。改めて校内の結束を確認しないのか。何より自分達は、セドリック・ディゴリーが()()()()()()()()()()()()()()()()()を今まで聞かされていないのだ、と。

 

 始業式をぶち壊すそんな暴挙にハッフルパフが及んだのであれば、あの校長としても何らかの対応――黙殺や鎮圧もまた一種の意思表明である――を余儀なくさせられ、今学期が平穏無事に始まる事など有り得なかった。

 

 グリフィンドールであれば、間違いなくそうしただろう。

 スリザリンにしても、状況さえ違えば似たような事をやった筈だ。

 

 自寮の仲間が――それも寮の歴史を見ても類稀な能力を持っていた人間が、酷く間抜けな事に事故で死んだ。そのような不名誉が平然と広められ続ける事など、この二寮は決して許せはしない。如何なる代償を支払ったとしても糾弾し、是正しようとしたに違いない。

 

 だがハッフルパフはそうはせず。

 ただただ、校長の沈黙を許してしまった。

 

 良い子ちゃんばかりの穴熊達なら有り得るかもしれない。

 始まる前からそう予想はしていたものの、実際にその結果を見せられた事に対しては、自分が思っていたよりも失望は深かった。彼等にとって亡きセドリック・ディゴリーへの思慕の念は、校長や教授の権威の前に屈する程度の代物でしかなく、まして己の退学覚悟で彼の名誉を回復しようなどとは思い付きもしなかったのだろう。

 

 まあ、それを言えば他寮も同じか。

 

 セドリック・ディゴリーのガールフレンドらしかったチョウ・チャン。或いは、こうなるだろうと僕が予言した相手であるハリー・ポッター。そしてその他のレイブンクローやグリフィンドール。彼等は例外無く、校長を含めた教授達が取り繕った、偽りの日常を破壊しようとしなかった。大人達の〝賢い〟行動に対して服従を選択し、今年何か劇的な事件が起こるまで待つ事を良しとしてしまった。

 

 ホグワーツがあの男を喪った以上の事件など、早々起こりなどしないというのに。

 

 魔法戦争は再開された。

 一人の学友が無残に殺された。

 

 それにも拘わらず、未だにホグワーツは呆れる位に平和で――平和ボケしたままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 闇の魔術に対する防衛術。

 毎年教授が変わるその授業は、酷く当たり外れが大きい。

 

 そして今年その科目を受け持つ事になる彼女と初めて会ったのは、夏休暇中の職場見学で案内された、魔法省内の上級次官室だった。ピンク色に装飾されたド派手な部屋の主の第一印象は、嫌に破壊力のある女性。

 

 赤子に向けるような声色と、酷くもって回った言葉遣い、そして少女めいた幼さを感じさせる立ち振る舞いに、その部分だけは中年の女性らしさを感じさせる厭らしい笑み。ドローレス・アンブリッジと紹介された女性の一挙手一投足は、こちらの感情を一々逆撫でするものであり、ギルデロイ・ロックハートと同列くらいには強烈な初対面だった。

 彼女へ微笑みを向けながら握手してみせたルシウス・マルフォイ氏や、終始一貫して気の良い案内役兼紹介者として振舞い続けていたコーネリウス・ファッジに対し、心からの敬意を抱いてしまう程だった。

 

 ちなみにドラコ・マルフォイは露骨に顔を歪めてしまい、後で父親から叱責されていたのだが――まあこの表面上だけ平和な紹介劇に意義を見出せるとすれば、それはルシウス・マルフォイ氏のドローレス・アンブリッジに対する評価を知れた事だろう。

 

 ルシウス・マルフォイ氏は、明らかに彼女に対して非好意的だった。

 表情や態度に一切表さずとも、ドラコ・マルフォイと殆ど同じ程度には嫌っている。侮蔑していたと言っても過言ではない。その理由が何かまでは掴めず、後程説明されるような事すら無かったが、邂逅を経て心に刻んだのは、ホグワーツ学期中に彼女へと接近するのは得策ではないという点である。その決意の正しさは、あれだけ強烈なキャラクターであったのに、以降彼女の話題が一切出なかった事からも裏付けられたようなものだ。

 

 利用価値を踏まえても尚、近付きたくない類の人種。

 それが〝マルフォイ〟による品評であり、そして自身が彼等の庇護下に在る以上、やはりその方針には従うべきだった。

 

 そんな訳で最初から彼女の印象は良くなかったのだが、今年度の授業は直近二年間と違って大外れらしいと感じさせた最大の理由は、〝マルフォイ〟の敵意とは別に有る。それは彼女が指定教科書として挙げた本の中身だった。

 

 教授の質や講義内容は指定教科書を読めば解る。

 そう即断するのは必ずしも正しくないだろうが、ギルデロイ・ロックハート時代に如何なる本が指定教科書とされたかを考えれば、最低限推測する事は可能だろう。そして今年の本、ウィルバート・スリンクハードの『防衛術の理論』は、端的に言って最悪だった。

 

 僕としても、まさかこの世にギルデロイ・ロックハート以下が存在するとは思ってもみなかった。少なくとも、あの小説は読んでいて退屈する事は無かったからだ。

 一方で『防衛術の理論』という自己啓発書は、机上の論理を延々と垂れ流すだけで、呪文の行使については殆ど触れておらず、率直に言って無味乾燥でつまらない。激情により生じた不幸な事故によって二冊目を買う羽目になったのは不覚だったとも言える。

 

 要は授業以前から期待出来る材料など欠片も無かった訳だが――実際に蓋を開けてみれば、意外や意外、大いに拍子抜けさせられる羽目になった。

 

 予想よりも上等だった。そう言ってすら良かった。

 

 何せ彼女が僕達に求めたのは、ただ教科書を読む事だけ。

 僕が知る中での最悪の授業、僕にトロールや狼人間の演技を強要して来た過去のそれと比べれば遥かに楽なものだ。彼女は生徒の思索を邪魔するような干渉もせず、授業ごとに内容を把握しているかの確認(テスト)すら行おうとしない。教科書を開くだけ開いて二時間他に思考を飛ばしていれば終わるのだから、僕は普通に歓迎出来たし、満足出来ていた。

 

 まあドラコ・マルフォイ達が不満そうな反応を示したのも一応認識はしていた。

 しかしながら彼等もドローレス・アンブリッジの指示には従っていたし、その手の反応は今までのハリー・ポッターの活躍で良く眼にするものでは有ったから、特段気に留めるような物とも思えなかった。グリフィンドールを含めた他寮にしても、多少の問答以上の拒否反応を示したとは聞いていない。

 

 高等尋問官、学期開始から一週間経って彼女が就任した新役職にしても、蓋を開けてみればなんて事はない。最初に真剣に考えていたのが馬鹿らしくなる程の、酷くしょうもない役職でしかなかった。夏休暇中の初対面の時に非常に勿体ぶられ、あれだけ始業式で大言壮語を吐いた結果がコレかと思ったが、まあ役人の計画は往々にして展望(ビジョン)だけは立派なのだと言えばそれまでの話かもしれない。

 

 結局、彼女は今の魔法省と同じ、毒にも薬にもならない存在に過ぎないようだ。

 

 これが彼女の擬態というならば見事な物だと言う他無いが、そもそもあの校長が今年ドローレス・アンブリッジを校内に入れたのだ。彼も去年の失敗を繰り返さないよう戒めてはいる筈で、その事を踏まえるに、彼女の危険度は無視して良い次元なのだろう。久々に闇の魔法使いが居ないホグワーツ生活が叶い、今年こそ穏やかな一年が実現しそうでもあって――しかしながら、そんな楽観的な見方をしていたのは僕だけだったらしい。

 

「──スティーブン。あのガマ蛙を何とかしろ」

 

 ホグワーツが始まってから二週間。

 闇の魔術に対する防衛術の授業が二度行われた日の放課後。

 

 苛立ちを隠しもしない命令が我が庇護者(パトローヌス)から発せられた事によって漸く、僕の見立てが今回も見当違いであった事を知らされたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……屋敷しもべ妖精相手でも、もう少し丁寧に命令すると思うがな」

 

 指定席である談話室の一角。

 薬草学の教科書を傍らに置いて進めていた宿題から、僕は視線を上げた。

 

 そして最初に認識するのは、案の定、ドラコ・マルフォイ。更に彼の後ろには、これまでの四年間と変わらず御伴をやっているビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイル。代わり映えのしない三人が、椅子に座ったままの僕を見下ろしている。

 

 学期当初に懸念だった事項――ドラコ・マルフォイがどうしたいかという問題は、当然のように例年通りの形へと落ち着いていた。つまり彼は休暇中のように僕を連れ回すような真似に及ぶ事無く、彼の身分に相応しい〝純血〟のみを取り巻きとしている。

 

 まあ今まで四年間その形で在ったし、今更意外に思う事は無かったが、その形に落ち着くに際して何の悶着も無かった事――特急でのハリー・ポッターとの接触について()()()()()()()()()()()()()()事は、多少気になりはしている。が、わざわざ自分から話題に挙げる事でも無いし、聞いて来ないのには彼なりの意図が有るのかもしれない。そして彼が必要性を感じたのなら後からでも聞いて来るだろう。

 

 ともあれ彼の今の関心は珍しくハリー・ポッターにないようで、今年入ってきた闖入者に御執心らしい。しかも今回彼が持ち込んだ問題は、ハリー・ポッターに関する言い訳を考えるよりも厄介そうだというのは一目見て解る。

 

「随分と穏やかでは無い面子であり──」

 

 僕の下を訪れる三人は代わり映えしなくとも、今回は違う部分がある。

 ドラコ・マルフォイ達が怒り心頭の表情である事もそうだが、それに加え、彼等は()()()では無かった。

 

 パンジー・パーキンソン、ミリセント・ブルストロード、そして妹を背に置いたダフネ・グリーングラス。同じ学年の〝純血〟の中核たる人間達を、彼等三人は後ろに連れている。ドラコ・マルフォイ達から一定の距離を置いているものの、それでも行動を共にしていると判断して良いだろう。僕に用事が有るのは、彼女達も含めた全員のようだ。

 

 更に、異常はそれだけではない。

 

「――しかもこの話題に関心が有るのは、どうやらスリザリン全てらしい」

 

 見渡す談話室からは、ドラコ・マルフォイの先程の命令以降、一切の会話が消えている。

 

 この場に居る全ての人間の注目は僕達に集まっており、そしてドラコ・マルフォイ達は彼等を邪魔だと言って追い散らそうとしない。五学年の他の()()達も、また遠く離れた所に座っているセオドール・ノットですらも、他の上級生や監督生達も例外無く、僕を取り巻く一団へと注意を寄越している。

 

 本当に穏やかではないと、ドラコ・マルフォイに視線を戻す。

 

「――で、そのガマ蛙とやらはドローレス・アンブリッジの事で良いのか?」

「ああ、そうだ」

「上手い綽名だが、まあ兎に角聞こうか。まず君は何が気に入らない?」

「気に入らない事だらけだろう」

 

 彼は憤懣やるかたないという口調で吐き捨てた。

 

「あいつの態度。仕草。言葉遣い。授業内容、その全てだ。そもそも君も同じクラスに居るんだ。あいつを僕達がどのように考えて居るかを、君が全く知らないとは言わせないぞ」

「そうだな。彼女が〝教授〟と呼ぶに相応しくない授業をしている事、そして君達が彼女を不愉快だと感じている事は僕も認識している」

「なら――」

「――しかし、それだけだろう? それ以上の害は無い」

 

 きっぱりとした僕の断言に、何とも言えない空気が談話室に流れる。

 狂人や異常者を見るような視線も集まるが、慣れたものであるし、怯む道理もない。可笑しな事を発言したつもりは全く無いからだ。

 

「……えーと、だな。君はアンブリッジを何とも思ってないのか?」

 

 スリザリンの代表者のつもりか、或いは個人的な庇護者としての責任か、ドラコ・マルフォイが、おずおずと僕に問い掛けてくる。

 それを半ば無視するように、僕は傍らに置いた本のページを左手で捲った。ながら聞きをする事に文句を言って来る程付き合いは短くもなく、実際彼は何も触れなかった。

 

「何とも思っていないというのは違うな。あの高等尋問官殿は僕にとっても余り愉快な人物ではない。さりとて、別に我慢出来ない程では無い」

 

 好意を抱けないだけで、それ以上の嫌悪や憎悪を抱けてもいない。

 

「そして、僕はてっきり既に受け入れられたのだと思っていたのだ。彼女は不愉快では有るものの、それでも君達が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だとな。何せ初回も、そして今日もか。君達は彼女主宰の〝読書会〟に対し、何も言わなかった。スリザリンの他の学年で騒ぎが起きたとも聞いていない」

「……なら今すぐ認識を改める事だな。僕達はあんな授業を認めた覚えは無い」

「そのようだな。今更気付かされたが」

 

 ドラコ・マルフォイは隣から椅子を奪ってきて、荒々しく僕の前へと座る。

 一方、パンジー・パーキンソン達は立ったまま動こうとしない。今夏休暇中も含め、社交辞令や必要に迫られての事以外に会話しない間柄だというのもあるが、今この場においては、庇護者(ドラコ・マルフォイ)に全てを任せるという意思表示のつもりかもしれない。

 

「しかし、それはわざわざ僕に言う事か?」

「…………」

「あの有難い防衛術の()授業が気に入らず、尚且つ君達が文句を言える程度の相手ならば、僕に命令や威圧をするよりも先にすべき事が有るだろう。下らん授業を今すぐ辞めろ。そのようにドローレス・アンブリッジに苦情を入れれば終わり。何も難しい話でもない」

 

 一体何をしているのかと思いつつ、変わらず本へと視線を落とす。

 だが上から返って来たのは、ドラコ・マルフォイの険しい言葉だった。

 

「そんな戯言を抜かすのは君らしくもない。少し腑抜けているんじゃないか?」

「……というと?」

「何故、僕達純血がこうして集まっていると思う? どうしてこの場に居るスリザリン全員が、僕達の話に注目していると思っている? 何故、僕が君にこんな命令をさせられる羽目になったと思っている? その理由を君は一切考えなかったのか?」

 

 その言葉に制止し、視線を再度上げる。

 

「──まさか、君達が求めた上で断られたのか」

「そうだ」

「…………成程、僕が間違っていたようだ」

 

 ドラコ・マルフォイの酷評を受けるのも仕方無いかと、背凭れに寄り掛かっていた上体を起こす。開いていた本を閉じ、机上に積み上げられた本の上に乗せた。

 

 そして彼の後ろ、パンジー・パーキンソン達へと改めて視線を向ける。

 

「つまり、君達の一団は、酷く御丁寧な事に、ドローレス・アンブリッジの部屋を訪れた。その上で彼女に対し、あの下らない授業の是正を勧告した。しかしながらその結果は、彼女による拒絶だった。そういう風に認識して良いんだな」

「……ああ、そうだ。漸く解ったか」

「思考を何でも読める訳では無いのだから、口で言ってくれないと解らんな」

「…………」

「――とは言え、そうか。高等尋問官殿も、随分とまた怖い物知らずの真似をやるものだ」

 

 〝純血〟の個人を敵に回す。これは言ってみれば、学生の良くある喧嘩に過ぎない。

 ホグワーツが全寮制を取る以上、どんなに気を付けたとしても生徒間での揉め事は起こるものだ。そして揉め事を起こした学生の一方だけが〝純血〟であるとしても、その生徒が必ずしも有利になるとは限らない。聖なる二十八とて一枚岩では無く、〝純血〟の側に大義が無いならば当然ながら他家の批判に晒されるし、場合によっては敵に回られてしまう。

 

 直近で言えば去年、セドリック・ディゴリーのバッジの件。

 仮にドラコ・マルフォイが穏便に収めず、問題視していたとしても、敵に回すのは彼個人と取り巻き二人のみだった。僕の主張はスリザリンの流儀に反するものではなく、他の寮生に中立以上の立場、つまりドラコ・マルフォイを公然と支持する事を選ばせなかった。

 勿論、彼等が僕の味方になる訳でもないから以降の針の筵は避けられず、フラーやガブリエルへの対応に関しては別問題なので酷い事になっていた可能性が高いが、ともあれ、半純血やマグル生まれであったとしても、〝純血〟相手に喧嘩する事は不可能ではない。

 

 しかし、純血の集団――それも何時もの取り巻きのレベルではなく、性別や派閥、実家の利害関係を超えて集結している一団を敵に回す。これは事実上戦争の開始を意味する。

 内部対立を抱える筈の彼等が纏まれるという事は、要するに、彼等に一致団結を強いるだけの大義が存在しているという事だ。そしてそれだけの大義が存在しているという事は、彼等の寛恕や譲歩は期待出来ず、監督生や寮監などの善意の第三者による仲介もほぼ不可能で、早々に屈服しない限りは行き着く所まで行ってしまうという事である。具体的には退学や魔法界追放、最悪それ以上の事態に発展しかねない。

 

 彼等は確かに学生だ。

 けれども、同時に彼等は未来の――否、現在でも権力者である。

 

 貴族の反感を買った人間の末路など、一々歴史書に当たらずとも容易に想像が付く。

 非魔法界でも不幸な〝事故〟は珍しくないというのに、この古臭い魔法界で一個人の命や人権が保証されるなどどうして考えられようか。学生時代どころか卒業以降の数十年間ずっと身の危険を心配せねばならない事態など、少なくとも僕は御免である。最強の守護者(アルバス・ダンブルドア校長)は、ホグワーツの外には居ないのだから。

 

 その程度の常識はスリザリンで過ごせば自然に学ぶ筈であるが、今回のドローレス・アンブリッジは躊躇なく危険へと飛び込んでみせたらしい。

 

「君達――というか、僕達にとってか。大問題が発生したというのは理解した。君達の意思表明はどんなに過少に見積もっても第五学年の総意であり、その程度の事は訪れた人間の名前を聞けば新任の教授でも解るだろう。しかしそれを撥ね退けた。成程、とんでもない事態であり、君達が〝対処〟を考えるのも当然だ」

 

 しかも、と続ける。

 

「君達は何らの理屈無しに要請をした訳では無い。君達の掲げる大義、突き付けた要求は、簡単に言えば教授としての務めを果たせという所か。そして実際、彼女の指導内容は悲惨の一言に尽きる。客観的にも真っ当で、道理に従った要求だと評価出来るだろう」

「それが解っているなら――」

「結論を急ぐな。一方のみに大義が有るとは限らない。だから聞きたいのだが、何故君達の命令に応じられないか、その理由を彼女から聞かされていないのか?」

 

 ドラコ・マルフォイに問う。兎に角、情報が必要だった。

 

「……あいつは時期を見計らう必要が有ると言っていた」

「具体的な彼女の言葉を知りたい。可能な限り正確にだ」

「…………スリザリンの純血の子息令嬢が今更スリンクハードを学習する必要は無いと解って居るし、今後学習進度に対応した指導をするつもりは有る。しかし、それでも実際に授業を行うに際しては、他の寮――特にグリフィンドール共の動向を見計らってから判断する必要が有る。そんな事を言っていた」

 

 殆ど聞いたままの再現だろう。

 息継ぎ無しの長台詞、何処となく彼女を真似した言葉の響きに、思わず噴き出した。ドラコ・マルフォイは気分を害すと解っていたが、それでも耐え切れはしなかったのだ。

 

「何だ。随分と真っ当な理由じゃないか」

「っ。お前はアンブリッジの味方をするのか!?」

「そういう訳では無い」

 

 激昂したドラコ・マルフォイを鼻で笑う。

 

「ただ、一体どんな理由が飛び出すかと身構えた割には、酷く拍子抜けだった。そう思ってしまったのは否定し切れん。君達が激怒するのも解るがな、彼女にもまた大義がある。僕は立場上彼女の味方にはなれないが、心情的には彼女寄りだと言わざるを得ない」

 

 〝マルフォイ〟の庇護を受けている以上、ドラコ・マルフォイに反する選択肢は僕に無い。しかしながら、自分の意見と思考を示しておくのは許される筈だった。

 

「僕がグリフィンドールであるならば、彼女がスリザリンではどう教えているかをまず探ろうと考える。高等尋問官殿がスリザリン出身である事、そしてスリザリンに対して我が寮監殿よりも甘い態度を取っているのは知れ渡っているからな。やって損はしない」

「……ウィーズリー共が、無理矢理スリザリンの授業に乱入してくるとかか?」

「良い案だ。授業妨害を理由に一、二週間の罰則を食らう事は、あの双子にとって何の痛痒も齎さない。実家から吠えメールが送られて来たとて気にも留めないだろう。そしてスリザリンだけ特別に授業が行われていると暴露されれば、確実に政治問題に発展する」

 

 ホグワーツの制度上、如何なる授業を行うかは教授の裁量である。

 他の三寮が落第生ばかりだから授業進捗が芳しくなく、故にウィルバート・スリンクハートの基礎の基礎から始めなければならない。一方でスリザリン生は優秀であるから、教科書から離れ、少しだけ実践的な授業を行う事が出来る。そのような主張は、理屈だけを見れば一応筋が通っていると言える。

 

 ただ普通に考えれば、やはり何らかの恣意や不公正を見出さざるを得ないだろう。他の三寮の生徒と保護者の反発は必至である。

 

「そして高等尋問官殿も全くの考え無しでは無いらしい」

 

 彼女の言葉がそれを示している、と僕は続けた。

 

「君の言葉が殆ど聞いたままである場合、断ったと評価出来るかも微妙な線だな。時期を見計らう必要が有るという発言は、あのような馬鹿げた授業を辞めるつもりはあるという意味で、君達の要請も遠からず履行はされる訳だ。即座に辞められない理由も妥当で、納得出来る。子供の我儘と言われても仕方がないようにも思えるな」

「我儘!? 君は僕達の行動を我儘と言うのか!?」

「大人曰く、子供は判断能力が未熟との事だ。大人と子供の意見が真っ向から対立した場合、残念ながら大人の方が優先される。大人の側にも理が有るならば猶更だ」

 

 可能な限り冷静かつ簡潔に正論を紡いだつもりだが、ドラコ・マルフォイは心の底から気に入らないらしく、更に顔を真っ赤にした。

 

「君はあの場に居なかったから、あの女の口振りを聞いていないからそんな呑気な事が言えるんだ! あいつは確かに言葉通り、いずれO.W.L.に役立つ授業をやりはするだろう! だが、あいつは絶対にギリギリまで引き延ばすつもりだ! 二カ月か、三カ月か、下手すればそれ以上! それまでずっと僕達を焦らして楽しむつもりなんだよ、あのガマ蛙は……!」

「ギリギリまで引き延ばすも何も、君は既に限界のようだが」

「茶化すな! 君も他人事では無いんだぞ!」

「そうは言うがな――」

 

 ドラコ・マルフォイと高等尋問官殿の相性が悪いのは、初対面の時から感じていた。

 しかし嫌悪で物事を見失うような真似はすべきではなく、僕の眼には彼が個人的な感情で我を喪っているように見える。

 

「――しかし現状、高等尋問官殿は授業をしているだろう?」

「…………」

「確かに指導内容は馬鹿げている。僕もあんな内容を覚えるつもりは更々無いし、あの本は今すぐ燃やした方が魔法界の為になるとも思っている。けれども御遊戯の時間だったギルデロイ・ロックハート。或いはレタス喰い虫を生徒に配った後、自分は処刑されるヒッポグリフの心配をしていたルビウス・ハグリッドとは違うのだ」

 

 彼女を教授と呼ぶ気にはならないが、そもそも授業の体を為していなかったアレらとは大いに異なる。劣悪であろうと、ドローレス・アンブリッジは教える姿勢は取っている。

 

「魔法省の新指導要領……いや、クィリナス・クィレル教授以外が無視した、正しい解釈での指導要綱だったか? 彼女がどういう表現をしていたか既に忘れたが、何れにせよドローレス・アンブリッジはその要領の下での授業をやっている訳だ。となれば今年のO.W.L.に全く役に立たない訳でも──」

「──多分出ないぞ」

「は?」

 

 予想だにしなかった強い否定の言葉に、ドラコ・マルフォイの顔を改めて見やる。

 先程怒鳴り声をあげたせいか、彼は盛大に息を切らしていたものの、それでも僕を馬鹿にする表情を作るのに支障は無いらしかった。

 

「ファッジの影響力は、未だ魔法省試験局には及んでいない。マーチバンクスやトフティとか、その辺りの古臭く、頭の固い老害共がのさばったままだ」

「……つまり?」

「少なくとも今年のO.W.L.では、あんな内容の知識は一切問われない。現時点で断言までは出来ないが、まず間違いないと言って良い」

「…………はあ。大臣にしろ高等尋問官にしろ、本当に教育改革する気が有るのかね」

 

 斜め上の指摘に、呆れを隠さず呟く。

 あのような思想を本気で生徒の頭に染み込ませたいならば、当然ながらO.W.L.(テスト)に出すべきだろう。仮に試験範囲だろうと僕は最初から捨てる気だったのだが、テストにすら出ないとなれば、他の生徒も右から左だ。思想教育の体すら成していない。

 

 そして今更ながらに、ドラコ・マルフォイ達が激怒している理由も解った。

 グリフィンドールの半巨人も大概奇天烈な授業をやってきたが、彼等にとってグリフィンドールは基本的に馬鹿の集まりであるから、不満は抱けども憎悪までは行かない。相手が剽窃小説家、頭でっかちのレイブンクローにしても同様だ。

 

 しかし、狡猾なるスリザリン出身の人間が、後輩に無意味な苦行を丸々二時間、それもO.W.L.の年に課しているともなれば――確かに殺意まで行くだろう。

 

「……成程、君達の主張は解った。だが、僕に言ってどうする? 君達が要請しても断られた。そして君達の御両親(ルシウス・マルフォイ氏ら)に頼っていないあたりから察するに、彼等も政治や血縁やらの柵で動けないという事だろう? であれば、僕が出来る事などやはり無いぞ。君達が希望する〝対処〟など叶わない」

 

 厄介事だというのは理解した。想像よりも面倒事であるのも納得した。

 しかしそうであるが故に、僕の手には余ると思う。

 

「聖なる二十八にとっては些細かもしれないが、それでも彼女は〝アンブリッジ〟だ」

 

 今更言うまでもなかろうが、強調する為に敢えてゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「過去にウィゼンガモットへ人を送り込めるだけの家格を有しており、今の彼女もウィゼンガモットの末席を占めている。要するに彼女は力を持つ純血の側だ。君達が対処出来ない難題を、僕のような一半純血がどうこう出来るとは到底──」

 

 途中で口を噤む。

 僕に言葉を続ける気力を喪失させたのは、寮内の反応。教師の前で見当違い回答を吐いた阿呆な生徒を見るような、そんな白けた雰囲気。

 

 ドラコ・マルフォイは呆れた表情を隠さず、パンジー・パーキンソンとミリセント・プルストロードは侮蔑を浮かべ、ダフネ・グリーングラスは視線を背け、ビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルは馬鹿にするように鼻を鳴らし、セオドール・ノットはせせら笑っていた。

 他の割と好意的な反応を探してさえ、困ったような笑みとか、渋く顔を歪めているといった類である。そのような表情を浮かべなかった生徒も一部居るが、彼等は例外無くスリザリンの主流派以外──非()()の生徒で、かつ魔法界の有力者を親族に持たない生徒だった。

 

「──スティーブン。君にしては珍しく大間違いが続くな」

 

 ドラコ・マルフォイは苦虫を噛み潰したような表情で、渋々という風に言葉を掛けて来る。

 

「…………そうらしい。僕の想定がそもそも間違っていたようだ」

 

 これだけ露骨な反応が寄越されれば答えも解るモノだ。

 先程まではドローレス・アンブリッジの背後にそれ程強力な有力者が居るのか、或いは闇の帝王の寵愛を既に受けているのか等々を聞くつもりだった。しかし、このような解答が寄越されてしまった以上、その必要もなくなった。

 

 そして致命的に間違えたからこそ、敢えてこの場で言葉にしなければならなかった。

 

「周知の通り、血の問題について他人に――特に君達〝純血〟に問う事は、非常に礼儀知らずで不適切な行いだ。しかしそれを重々承知した上で、物を知らぬ愚かな半純血は、この場において質問させて貰う。ドローレス・アンブリッジは()()か?」

 

 〝アンブリッジ〟が聖二十八族で無い事は明らかである。

 僕の質問はそれ以外の純血家の可能性を問うもので、けれども彼は首を振った。

 

「違うな。あの女は純血では無く、家系も大した物ではない。君が言っている過去のウィゼンガモット会員とやらが誰の事かは解らないが、アンブリッジとは一切の関係無い。あの女は、魔法省の床を掃除していた役人の娘だ」

「血の純度は?」

 

 今度のドラコ・マルフォイは一瞬口籠った後、問いへの回答を口にした。

 

「……母親がマグルだ」

「そうか。──つまり僕と同じか」

 

 実に良く解った。

 これが今回の問題の根源か。

 

 僕は間違った認識を抱いていた。

 空気の読めない純血の御貴族様の傍流が、闇の魔術に対する防衛術教授と高等尋問官という二つの地位を利用して、魔法省の馬鹿げた方針を字句通りに強いている――僕は今回の騒動をそう捉え、故に傍観を決め込んでいたのだが、実態は違ったのだ。

 

 思い上がった半純血が分を弁えず、我儘で無礼で、見るに堪えない振舞いをしている。

 この寮内の多数はそう正しく物事を認識していたからこそ、ドローレス・アンブリッジに対して初めから非好意的であり、敵愾心を隠しもしなかった。その上で大義名分を有する〝純血〟の命令を彼女が断ってみせたのだから、そりゃあ大事にもなるだろう。

 

 平民が貴族の面子を潰す。

 言うまでもなく、これは戦争をするに十分な理由だった。

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 ドローレス・アンブリッジは半純血である。

 その前提を正しく把握すれば、成程、今回の問題は単純明快のようだ。

 

 彼女の行動原理。ドラコ・マルフォイ達の命令を無碍にした理由にも既に見当が付いた。

 実際に話してみなければ確定し切れないが、それでもスリザリンに丸四年居たのだ。彼女と同種であろう鬱屈を抱える人間はそれなりに見てきている。まあその鬱屈をここまで露骨に示してみせた人間は初めて見るが、それでも理解出来る範疇には留まっていた。

 

 彼女がこんな〝勇者〟と成り得たのは、魔法省──〝マグル〟に縁を持つ者が例外無く幻想を抱く組織に入ってしまったからか。それとも、数十年前の彼女のホグワーツ生活は、それ程までに陰惨で、青春と呼ぶには程遠い物だったのか。

 

「……何故、そんなに君は楽しそうなんだ」

 

 如何なる理由か、ドラコ・マルフォイは委縮したように身を縮めていた。

 談話室内の雰囲気もまた一変していた。パンジー・パーキンソンは先程まで僕を馬鹿にする様子を隠そうとしていなかったが、どういう訳か神妙な顔をして俯いている。彼女の周りに居る〝純血〟達も大体が同じような反応。離れた場所のセオドール・ノットにおいても、その顔には薄笑いの名残すらも見付けられない。総じて、気味が悪くなる反応をしている。

 

 しかし、僕の母親が〝マグル〟である事など寮内では周知の事実であり、今更平等思想に目覚めた訳でもあるまいに……と考え、有り得る可能性に思い当たる。

 

 嗚呼、そうか。闇の帝王の血筋を知らされている可能性もあるのか。

 もしくは帝王の血筋が明かされておらずとも、今年以降は特に〝純血主義〟の建前を堅持するよう、親達から口煩く言われているのか。

 

 〝純血(聖なる二十八)〟の血筋は尊ばれなければならない。

 しかし、それが行き過ぎて半純血(半分マグル)を軽んじる事になってはならない。

 

 闇の帝王が復活してしまった今、度が過ぎた軽蔑は、帝王(半純血)の気分を害して死に繋がり得る。彼の治世下においては、同じ魔法族である半純血は偏見無く受け容れなければならないのだ。その歪な最高理念が今年スリザリンに徹底されていると考えるのであれば、成程僕を見縊る訳にもいかないし、このような反応も道理だった。

 

「別に楽しんでいたつもりは無いがな」

 

 納得と共に答えつつ、右手で軽く顔を撫でる。頬は歪んでなど居ない。

 

「けれども、否定し切れないかもしれない。彼女の血筋を踏まえて考えてみれば、ドローレス・アンブリッジ高等尋問官は実に優秀じゃないか。今更ながらにそう思ったのだから」

 

 背景を知ってしまうと、彼女から受ける印象が大きく変わって来る。

 

「十四年前、〝純血〟の──いや、スリザリンの勢力は大きく後退した。僕達の多くにとって裏切り者である〝クラウチ〟、闇の帝王に対抗する道を選んだ男は、特にその流れを推し進めた。それにも拘わらず、あの高等尋問官殿は省内で職と地位を護り抜き、更には情勢を正しく把握して出世の機会を掴んだ上、今ではウィゼンガモットの末席を占めるまでになっている。並の野心と狡猾さで実現出来るものでは無い」

 

 何処の世界でも勝った側がやる事は変わらない。

 大粛清、赤狩り。社会から不適切な思想をもった人間を放逐する。

 

 あのバーテミウス・クラウチ氏が敵対者に寛大で有る筈も無く、まして己の勢力拡大の機会を見逃す訳が無いのであって、第一次魔法戦争後、闇に近かった者の多くが魔法省の職を追われる羽目になった。ルドビッチ・バグマンのように無罪判決を受けた幸運な人間は極少数で、有罪判決を受けるどころか闇の帝王や死喰い人に通じた疑いを持たれただけ、或いはスリザリン寄りの姿勢を持っていただけで追放される例は枚挙に暇が無かった。

 

 その一連の粛清劇は、バーテミウス・クラウチ氏の息子への有罪判決と自分自身の左遷によって終焉を迎える事となった。その結果、幾らかは後に名誉回復され、また〝クラウチ〟をもってしても排除出来なかった本物の〝純血〟達は残っていたものの、何の後ろ盾や実力を持たないスリザリン出身の人間は殆ど一掃されてしまったと言って良い。

 

 しかしながら、ドローレス・アンブリッジは現在、魔法大臣付上級次官だ。

 つまり、その強制解雇と自主退職の嵐を生き延びてみせたという事だ。

 

「恐らく現状の魔法省での彼女の立ち位置は()()()のスリザリン、つまり先の戦争で闇の帝王に与しなかった純血と言った所だろうな。そして彼女が今や利用価値を備えた以上、本物のスリザリンも彼女の詐称を知らぬ振りはするか。血や家系など〝純血〟同士は聞かずとも解る物であり、礼儀としてそれらに触れるべきでないのは事実だからな」

 

 推測に過ぎないが、ドローレス・アンブリッジが失脚や左遷を逃れたのは、彼女が闇の帝王に味方しなかったというのが紛れも無い事実だったからだろう。

 勿論その実態は、〝純血〟達が彼女を味方に付ける価値を見出さなかっただけなのだろうが。この辺りはスネイプ教授、ルシウス・マルフォイ氏の庇護を得て死喰い人にまで上り詰めた彼とは明確に違う。

 

 けれども、それは運が良いとも評価し得るか。

 彼女は〝純血〟から遥かに遠い位置にいたからこそ、あの暗い時代を生き残る事が出来、今こうして魔法大臣付上級次官にまで辿り着く事が出来ているのだから。

 

 その上、ドローレス・アンブリッジには未だに風が吹いているとも言える。

 

 恐らく第一次魔法戦争時、闇の帝王は彼女の存在を知らなかっただろう。

 〝純血〟にとって、彼女は帝王に紹介する程の価値ある人材ではなかった。スリザリン出身である事を加味して尚、単なる有象無象の半純血の一人に過ぎず、故に仲間(死喰い人)として迎える以前、そもそも存在を認知すらされていなかったに違いない。

 しかし、今は違う。十四年前に〝純血〟達から裏切られた帝王は、自分の家の利益しか考えない血筋自慢の人間ではなく、唯一己のみに忠誠を捧げる強力な臣下を求めている筈だ。そしてドローレス・アンブリッジは今や省内の実力者であり、十分な利用価値を有している。何より彼女は半純血(帝王と同族)だ。今後の立ち回り次第では更に上、死喰い人として迎えられる事すら可能かもしれない。

 

「──嗚呼、勘違いしてくれるな。勿論、それは魔法省内における優秀さであって、スリザリンの思想に合致する資質を認めているのではない」

 

 物言いたげに口をもごもごさせているドラコ・マルフォイに笑い、付け加える。

 

「君達はドローレス・アンブリッジに対して怒りを抱いた。軽んじられたという感想すらも抱いた。しかし、それと共に不思議に思ったのではないか?」

「――――」

「どうして彼女はこんな馬鹿げた、無意味な真似をするのだろう? 損得計算が出来れば当然〝純血〟に従う筈なのに、半純血の役人風情が逆らって何か利益が有るのか? 魔法省での職が惜しくはないのか? 魔法界から追放されるとも思わないのだろうか?」

「……僕はまだ、アンブリッジが僕達に授業をしない事への言い訳を話しただけだ。なのに、どうして僕達の心情をそこまで正確に言い当てられる?」

「君達が怒り心頭だからだよ」

 

 推理という美称を付けるまでもない、簡単な推認である。

 

「君達とて半純血が平身低頭して事情を説明したのであれば、ここまで怒りもしないだろう? しかし、そうでは無さそうだ。つまりは、わざわざ〝純血〟が足を運んでやったにも拘わらず、酷く無礼な形で追い返されたという事だ」

「……軽んじられた僕達を君は笑う気か」

「そのつもりは無いし、君達の交渉能力を疑った訳でも無い」

 

 僕に敵意を向けるのも御門違いである。

 

「この問題はな、恐らく〝言語〟が通じてないからこそ生じている。君達は〝純血〟で、僕達は半純血だ。そして僕は幸運な事にドラコ・マルフォイ――君が居たのだが、ドローレス・アンブリッジには学生時代にその手の存在は居なかった。だからこそ、こんな事になっている」

 

 彼女は真っ当な授業をギリギリまで行わない筈だ。

 そんなドラコ・マルフォイの言葉を最初は被害妄想甚だしいだろうと思ったが、こうなると正確な見立てのようだ。確かにそう考える方が理屈に合っている。

 

「ドローレス・アンブリッジは未だ何も理解していない。寧ろ、理解していないのは君達だと考えて居る事だろう。今の状況を正しく判断出来ていない生徒の我儘を、分別の有る大人が優しく諭して()()()。彼女の考えはこんな所だろうな。現在の難しい状況を踏まえた上で尚、グチグチ言わず黙って〝純血〟の命令に従えと言われたとは思っていない」

 

 ドラコ・マルフォイ達が一度引き下がったのは、彼女を破滅させる算段を付ける為である。そんな事も考えだにしていない。

 

「……君はそう言うが、僕はちゃんとあの女に伝えたつもりだぞ」

「ならば聞くが。君達は単刀直入に、余計な装飾無く、役立たずの授業を今すぐ辞めろと言ったか? 歯向かうならばルシウス・マルフォイ氏経由で即クビにするぞと言ったか?」

「……いや」

「だろうな」

 

 バツの悪そうに顔を背けたドラコ・マルフォイに笑いを漏らす。

 

「教授かつ高等尋問官が相手である手前、どうせ御上品な言葉しか紡いでいないのだろう? 社交辞令の言葉も、彼女は額面通り受け取っている筈だ。スリザリンが相手ならばそれで構わないが……と、高等尋問官殿は一応スリザリンか。まあ話す相手が部外者で有ったり、道理を弁えぬ愚か者であったりする場合、君達は言葉と人間を選ぶ必要が有る」

 

 彼等は余り直接的な表現を好まない。

 相手に言質を取られるのを避けるという警戒も有るし、数百年の交流が続いていれば、御互いに曖昧にしていた方が都合の良い点も出てくるものだ。たとえば平民にとっては問題の先送りとなる場合であっても、彼等貴族にとっては、百年も経てば――自分の子や孫の世代には状況が変わっている場合が有り得るのだ。彼等の婉曲表現は、長く家系を存続させる為の処世術という以上に、習性や生き様そのものと言って良い。

 

 ただ、()()()には当然ながら伝わらない。

 言葉が通じていたとしても、会話にならないという場合が有り得る。

 

「……なら、僕達が今度こそ明確に、誤解の余地無く伝えれば済むという訳か?」

「そうではない。教授職に就いている彼女を君達は形式的であれ尊重し、怒りをぶつけるような無様な真似をしなかった――少なくとも僕は君達がそうであったと信じている――のだろう? ならば、君達は〝純血〟として最善を尽くしたという事だ」

「…………言っている意味が解らんぞ」

「つまり、君達が下に降りて来る必要は無いのだ」

 

 確かに貴族達の作法は面倒では有る。

 しかし、その敷居が高い事は必ずしも無意味ではない。

 

「致し方無い事情が有ったとはいえ、君達の〝言語〟を解さない下の人間におもねった結果が去年のクリスマスだ。アレを繰り返してはならない。君は見ていないだろうが、酷いものであり、悲惨だった。スリザリンの人間にとっては損ばかりのパーティーだった」

 

 今思い返しても溜息しか出ない。

 

「まあ君は四学年以上のパーティーに参加したのだから、当然知りはしないだろう。しかし君の母君から聞いたかもしれないし、仮に聞いていないならば――」

 

 軽く辺りを見渡せば、一人の人間が最初に目に留まる。

 姉の背に隠れ、恥じらうようにこちらを伺っている少女。確か今夏の休暇中には会う機会が無かった筈だが、彼女は当時その場で見た記憶が有った。

 

「――アストリア・グリーングラス。そこの彼女から聞くと良い。彼女はあのクリスマスの場に居合わせており……」

「……! スティーブン! 下級生に危険な目を向けるな!」

 

 ドラコ・マルフォイの制止は、思わず途中で言葉を切ってしまう程に鋭かった。

 

「……危険な目とは何だ。当時のクリスマスを語れる存在として都合が――」

「――良いから! 視線を! 向けるな! 監督生としての命令だ!」

「…………良く解らんが、君がそこまで強く言うなら従おう」

 

 いまいち釈然としないが、軽く手を挙げて降参を示す。

 声以上に彼の眼が激昂を露わにしており、従わないと酷い目に遭いそうだ。

 

 しかし、何だ? 僕は後輩の女生徒へ視線を向けるだけで駄目なのだろうか。フラーとガブリエルの遺産か? 所構わず異性を誘惑するヴィーラと同種の存在と看做される程、僕は危険人物扱いされているというのだろうか? 

 

「……は、話を続けろ」

 

 多くのスリザリン生の前で取り乱した事に今更気付いたのか、赤くなったドラコ・マルフォイに胡乱な視線を暫く向けた後、諦めて話を続けた。

 

「ともあれ、君達に責任は無い」

 

 ドラコ・マルフォイに限らず、談話室内の全てに対して宣言する。

 

下賤(半純血)に君達の機微は理解出来ん。逆も然り。だから人間を選ぶ必要が有ると言ったし、半純血と話すのは同じ半純血であるべきだ。たとえば貴族が靴を作れずとも馬鹿にはされないだろう? 靴を作るのは靴屋に任せるのが適切だ」

 

 適材適所(Right People, Right Place)

 人には相応の配置と職務がある。

 

「――もっとも、彼女を()()扱いしていた何処かの馬鹿のせいで、君達には随分と面倒と不愉快を味わわせてしまったようだがな」

「……そ、それは別に良いんだが。けど、まさか君が、あの女を純血だと考えていたとは意外だった。てっきり、君ならば紹介された時に勘付いたと思っていたからな」

「期待されていた所悪いが、全く気付いていなかった」

 

 取り繕うようにして紡がれた疑問に軽く首を振る。

 

「しかし君は気付いた訳だ。しかも恐らく、君の父上から彼女の血について聞かされる前に」

「そりゃまあ……その通りだ。あの女が〝純血〟でない事など、一度会えば気付くさ」

「だろうな」

 

 まさしく〝純血〟らしい言い分に溜息を吐く。

 

「しかし無様な弁解である事を承知で言うが、確実に()()とそれ以外を見分けられるのは本物の()()だけだ。僕のような人間には、その人間が純血の振りをしている半純血なのか、それとも俗に塗れた純血なのかは判別出来ない」

 

 その作法が純血にとって許容される限界を攻めた物なのか、それとも完全に駄目なのか。

 貴族の行動理念を表面的にしか理解していない者には、その境界線を見極められない。

 

「……なら僕も純血の一員として君に伝えておくが、あの女の振舞いは論外だぞ? 入学時の君の方がまだ我慢出来た位だ。言葉(アクセント)もそうだが、特にあの、両手の指をチョンチョンと合わせる仕草は何だ? 不愉快極まりないし、僕の周りでは一度も見た事無いぞ」

「言うまでも無く僕は男で、正しいとされる女性の作法を学んでいないのだが――」

 

 けれども、答えを知る手段は有る。周りの女性陣を眺めてやれば良い。

 そして答えは直ぐに明らかとなった。吐く真似をする者、首を振る者、肩を竦める者、表情を暗くする者。それらの動作が示す意味など考えるまでもない。

 

「――だとしてもだ。学んだ事から見て少し変だと感じても、自分の方が勘違いしているかもしれない、間違っているのかもしれないと思うのが人情だ。君が知る通り、僕のそれは生半可だからな。まあ偽物を判別するのに役立つ分、君達にとっては都合が良いのかもしれんが」

 

 靴屋(スノッブ)は本質的に上流階級に昇れない。

 後天的教育では得られない、煌びやかな世界で生まれた者だけが得る物は確かに存在する。

 

「だが、そもそも僕は君が父上から事情を聞いていると思っていたんだぞ?」

 

 意外というより不思議な物を見る目をしてドラコ・マルフォイは言う。

 

「アンブリッジの血についてなど当然知っていると考えていたし、父上からも、アンブリッジの対処には君を使えと手紙が来たんだ。だから君が何もしないのが不思議で仕方なかったし、ましてこんな事の確認から始めなければならないとは……考えてもみなかった」

「まあ、この程度の事に気付かないのは、氏としても誤算だったのかもな」

 

 何故か一瞬言い澱んだドラコ・マルフォイを見つつ、素直な感想を口にする。

 初体面の紹介後何らの説明がなかったのも、〝純血〟である彼にとっては自明の事で、一々言及して共通認識を構築するまでの事ではなかったのだろう。

 

「しかし、彼は今更伝える必要も無いとも考えたのだろう。わざわざ僕相手に筆を執る程の大事でも無いし、ホグワーツには君が居る。実際、知るのが盛大に遅れたとは言え、今こうして君から教えられた訳だしな」

「……何も、知らされていないのか?」

「君がどういう意味で言っているかは理解しかねるが、少なくともドローレス・アンブリッジに纏わる事に関しては、一切何も言われていないし、聞いてもいない。ルシウス・マルフォイ氏の意向――彼女の授業を辞めさせたいと思っているのは大人も同じらしいという事も、今の君の言葉を聞くまで知らなかった」

 

 わざわざ僕の所まで降りてくる類の問題だという事も、思ってもみなかった。

 

「……君は父上から手紙を、指示を受け取っていないのか?」

「受け取っていない」

 

 訝しがるというより、探るような視線と質問に否定を返す。

 その返答だけでは彼の疑惑は消えなかったので、渋々更なる説明を続けた。

 

「君にとっては父親だろうが、彼は半純血風情が気安く交流出来る相手ではないのだ。ホグワーツが再開されて以来、僕には氏と連絡を取る理由が一切無かったし、彼とて同様だろう。仮に手紙が来るとすれば、余程の切迫した事情が有るか、君に連絡を取れない場合だけだ。そして今回はその何れでもない」

 

 ドローレス・アンブリッジの愚行は問題ではあるが、大事ではない。

 

「そもそも君は大いに勘違いしているようだが、僕はルシウス・マルフォイ氏の命令を受ける事は無い。聞く義理が無し、そのつもりも全くないからな。だから君がどのように考えていようと、僕が彼から命令書を受け取るという事態は絶対に有り得ない」

「――それは、どういう事だ」

「僕の庇護者は君の父君ではない。ドラコ・マルフォイ、他ならぬ君なのだよ」

 

 早合点したのが丸解りな彼の表情を見て、溜息を吐きながら答える。

 

「僕が恩義を受けたのは君の父君ではない。これまでの四年間共に同じ寮で過ごし、学年を積み上げ、殆ど一貫して後盾となり続けた君にこそ、僕は恩義がある。今年の夏休暇にしても、現当主のルシウス・マルフォイ氏の招きでは無く、次期当主の君の招きによって初めてマルフォイ家の門を潜れたのだ。僕はその点を履き違えるつもりは一切無い」

「――――」

「その事はルシウス・マルフォイ氏も当然承知だ。だからこそ()()手紙が来たのだ。たかが親である事を理由に、君の頭越しに連絡を取ったり、命令書を送ってくるのは道理に反する。僕に命令を下すのは、あくまで君からでなくてはならない」

 

 故にドローレス・アンブリッジの血についても伝えられていないし、今まで僕が動かなかったとしても、何の文句が飛んで来る事もなかった。ルシウス・マルフォイ氏は息子の飼い犬に対して節度を保ち――だがそれは、行動が肯定されている事を意味はしない。

 

「とはいえ、ルシウス・マルフォイ氏は僕に御怒りでは有るだろう」

 

 中空を見上げて状況を整理しつつ、再度溜息を吐く。

 

「主君に言われて動く屋敷しもべ妖精なんぞ首を刎ねられても仕方が無い。だから君が受け取った手紙の中に万一怒りが滲んでいたとしても、それは僕に対するものだ。君が気に病む必要など一切ない」

「……そ、その事は心配しなくて良い。父上は君に怒ってなど居ない。それは間違いない」

 

 ドラコ・マルフォイは早口で僕の言葉を否定する。

 

 ……それを聞きながら、そう言えばと、少し奇妙な事に気付いた。

 

 ドラコ・マルフォイの言葉を信ずるならば、氏の指示は僕を使えというものだったらしい。

 つまり氏の指示はドローレス・アンブリッジが話の通じない相手である事を前提としており、しかしながら彼等は揃って高等尋問官の下を訪れている訳で、そこには確かな齟齬が生じているのだが──まあ良いか。僕の手を借りずに自分達だけで解決したい、半純血に出来る事が〝純血〟に出来ない筈がないという思考もまた、真っ当と言えば真っ当だ。

 

「……兎も角だ、スティーブン。君はあのガマ蛙をどうにか出来るのか?」

「形振り構わずという注文ならな」

 

 ドローレス・アンブリッジが()()だからこそ手を出せないと考えていたのであって、彼女が単なる半純血――僕と同じ身分の人間に過ぎないのであれば、今回の問題を解決するにあたって障害はない。

 

「要は服従の呪文か、或いは他の闇の魔術で彼女を再起不能にしてやれば良いが──」

「……そこまでは誰も求めていない」

「──まあ僕としても好んで取りたい手段でも無い。彼女が聖マンゴに行く一方、僕はアズカバンに行く羽目になる訳だからな。どうせ直ぐに出られる事になるだろうし、吸魂鬼の生態に多少興味も有るが、それでもホグワーツ生活を投げ捨てる程の価値とは思えない」

 

 やれと言われればやらざるを得なかったが、ドラコ・マルフォイの方もそこまで覚悟を決めていた訳では無いらしい。

 

「ただドローレス・アンブリッジを屈服させる事自体は良いとして、そもそも大人達は何と言っている? 彼女の非常識な振舞いを許しがたいと感じている事は伝わってきたが、さりとて彼等に他の思惑が無いとも限らない。その辺りについてはドラコ・マルフォイ、君が詳しい内容を聞いていないのか?」

「……僕達のやる事は基本的に支持するとは聞いている」

「基本的に、と言うのがまた微妙な表現だな」

「決まっている。君が今言ったような、服従の呪文とか過激な手段は無しという意味だ。流石の父上であっても、そこまでの無茶苦茶は庇えない」

「それは理解している。これでも僕は平和主義者のつもりだ」

「…………君は冗談が下手な事を自覚しろ」

 

 冗談で言ったつもりは無いが、ドラコ・マルフォイの視線は冷ややかだった。

 

「しかしながら、今回ばかりは言葉遊びをしたい訳では無い。何処まで承認されるかは非常に重要な点だ。僕達が可能な限り穏便に済ませようとしたとしても、意図しないところで高等尋問官の()仕事を邪魔しないとも限らない」

「……何が言いたい?」

「要するに、君から、或いは〝純血〟達から確認して欲しいのだ。あの高等尋問官の地位は、果たして何らかの〝()()〟に関わる物なのかと」

 

 本来、ドローレス・アンブリッジは〝純血〟が容易く潰せる相手である。

 去年までならルシウス・マルフォイ氏達は躊躇いなくそうした筈で、しかし今年の特異事情――魔法省が闇の陣営にとって都合の良い行動を取っており、そこから高等尋問官として彼女が派遣されているという事情が、その安易な道を選ぶ事を許さなかったのだろう。もしかしたら半純血、それも直接の〝マグル〟を親に持つ事も逆に利として働いたのかもしれない。

 

 そういう訳で僕に順番が回って来たのだが、けれども都合良く使われる身としては、最低限の保身はしておきたい所だ。

 

「遺憾ながら、僕にはあの下らん役職の使い道を全く見出せん。だが、大人達――〝上〟は意見を異にしている可能性がある。だから予め言質を取っておきたい。もしくは、彼女の御仕事が重要であると知らされたのならば、相応の覚悟と用心をした上で事に及びたいのだ」

「――――」

 

 暫く、沈黙が場を支配した。

 直ぐに承諾が返ってくる類の問いだと思っていたが、ドラコ・マルフォイは呆気に取られた様子のまま静止するばかりだった。そして他の生徒が、代わりに自分がやるという答えを返してくる訳でもない。

 

 視線で促して漸くドラコ・マルフォイは口を開いたものの、そこから出て来た言葉は、僕が期待していたものとは程遠かった。

 

「……アー、君は高等尋問官を大した職だと考えていないのか?」

「寧ろ、アレを革命的な職だと解する余地が有るか? 居ても居なくても左程変わらない程度の職、人間に過ぎない。そんな僕の認識を変える部分は、今の君の話にも無かったのだが?」

 

 聞き返すが、彼からは困惑の反応しか寄越されない。

 周囲に目を向けても、僕の言葉に一定の理屈を認める──賛同では無くとも、最低限の理解を示す者達は、寮内において圧倒的少数らしい。

 

「……まあ魔法省がホグワーツに干渉する第一歩という意義は一応見出せる。ただ、それはコーネリウス・ファッジにとって意義があるというだけで、僕達の陣営にとって意義があるという訳では無いだろう」

「……君は高等尋問官の仕事内容を理解しているのか?」

「重々承知しているからこそ、こんな事を言っている」

 

 高等尋問官職の設立は、教育令第二十三号により為されたものだったか。

 確か『日刊予言者新聞』にそう書かれていた筈だ。

 

「……高等尋問官は、父上が支持している職だぞ。あの女自身は気に入らないが、それでもホグワーツの改革に繋がるならば、僕達は一定程度協力と譲歩をせざるを得ない」

「それは疑問だというのが僕の考えだがな」

 

 手持ちの情報の下では、ドローレス・アンブリッジに対する一切の譲歩が不要に思える。

 

「反対しない事と賛同する事は違い、そして僕の眼には前者に見えている。ルシウス・マルフォイ氏の高等尋問官殿に対する立場(スタンス)は、勝手に踊ってくれる分には構わないが、大きく肩入れもしないというようにしか思えないのだ」

 

 理屈立てて説明したつもりではある。

 けれどもドラコ・マルフォイには、僕の論評は意味不明の物に感じられたらしい。濁り始めた灰色の瞳からは混乱が見て取れ、已む無く説明を続ける。

 

「なあ、ドラコ・マルフォイ。今年は去年までと状況が違うのだ」

 

 闇の帝王は復活し、既に魔法戦争は始まった。

 以降に起こるのは長閑な政争では無く、血みどろの殺し合いだ。

 

「個人的利益のみを追求した迂遠な策謀に興じる事はな、今年以降は決して出来ない。そんな真似は絶対に〝上〟が許してくれない。改めて考えてみると良い。僕達の陣営にとって今回の高等尋問官職の導入、ないしそれに関わる一連の教育改革。これらは必須と言えるか?」

「……必須に決まっているだろ? あのマグル贔屓の校長の横暴を許し続けるのか?」

「重ねて聞くが、()やる必要が有るか? 嗚呼、単刀直入に言おうか。()()()()()()()()()()()()()()、ホグワーツの〝改善〟など如何様にも出来ると思わないか?」

 

 闇の帝王が魔法戦争で勝てば、全て解決する問題である。

 

 言葉の裏に籠めた意味はドラコ・マルフォイに伝わったようであり、彼は表情を暗くし、口を堅く噤んでしまった。まあ彼の御付き二人は理解していないようだが、大部分には伝わったと見て良いだろう。漸く談話室内の殆どが理解を示してくれたようだった。

 

「ホグワーツ内での政争や教育内容への介入。それは僕達の陣営にとって優先すべき事項では無いのだ。後回しにしても特段の問題は生じず、あの校長が()()()()()()からの方が、迅速且つ大々的に改革を行える。今この瞬間にやらなければならない事ではない」

「……だから君は評価していない。父上や、あの御方の案でも無いと君は考えているのか?」

「そうだ。しかしながら僕の推測が正しい保証は無く、後から利用価値を見出したという事も有り得る。だからこそ、確認が必要なのだ。アレに何処まで配慮する必要が有るのかと」

 

 氏の意向に反する以上に、闇の帝王の機嫌を害するのが最も拙い。

 前者は早々死にはしないが、後者は即座に死へ直結する。用心し過ぎるという事は無い。

 

「高等尋問官の職権にしても、現状大した力を持っている訳では無い。今後権限を拡大していく可能性は有るが、今の所は魔法戦争(これから)に影響を与える職では無い。何せあの職に与えられた権限は、同輩たる教授の査察及び停解職に過ぎんからだ」

 

 一見大きな権力を与えられたように見えて──まあこれが平時であれば大した権力と言って良いのだが──現在の情勢を踏まえた上でとなると、全く違う見方をせざるを得ない。

 

「つまり僕達の陣営にとって最も邪魔である、あの校長の査察でも解職でも無い。二年程前に明らかになった通り、校長の解職権限を握るのはホグワーツ理事会だ。そして今の理事会が誰に味方しているかというのは、今校長職に誰が座っているかを見れば明らかだろう?」

 

 彼は未だにアルバス・ダンブルドア()()だ。

 理事達個人が闇の帝王の復活を信じてようがいまいが、現状彼を辞めさせるべきでは無いという一点において、ホグワーツ理事会という組織は揺らいでいない。

 

「校長を排除出来ないなら、ホグワーツから教授を何人追放しようが誤差の範疇だ。そして任命責任を問うた所でやはり影響は知れている。ギルデロイ・ロックハートの任命も、ルビウス・ハグリッドの任命も、アラスター・ムーディの任命も、あの校長の辞職には足りなかった。更には今までの四年間に起こった不愉快な事態を知って尚、理事会は現校長を支持している。ならば高等尋問官がホグワーツに入った所で、一体どうして状況が変わると期待出来ようか?」

 

 この魔法戦争の勝敗は単純で、先に王殺しに成功した方が勝利である。

 

 光の陣営は、闇の帝王を。

 闇の陣営は、あの校長とハリー・ポッターを。

 

 故に両陣営の戦略や策謀は全て王殺しを成功させる為、或いは王を護る為に費やされるべきであり、それに資する事の無い行動は全て無為と言って良い。高等尋問官の職権は、その無為な行動の良い例だ。彼女が如何なるホグワーツ改革を進めようと大勢には影響はしない。

 

「そもそも魔法省の教育改革の成果に期待すべきではない。高等尋問官職の創設前に出された教育令――第二十二号だったか。正直な所、あれを見て僕は大きな失望を覚えた。何故そこまで()()するのかとすら感じたものだ」

「……遠、慮?」

「嗚呼、そうだとも。非常に腰抜けの省令だ」

 

 教育令第二十二号は、現校長が空職の教授職に候補者を配する事が出来なかった場合に、魔法省に対して教授の選任権を与えるもの。

 そのような教育令が出された背景に在るのは当然ながら闇の魔術に対する防衛術、ドローレス・アンブリッジが現れるまで教授選びに難航した呪われた科目だろう。

 

 しかし、この魔法省の手緩さには、アルバス・ダンブルドア校長とて拍子抜けした事だろう。何ならほくそ笑みすらしたかもしれない。

 

「あの校長が今まで不適切な人間を教授としてきたのは明らかだ。先の三人は典型で、シビル・トレローニーもそうだろう。そもそも防衛術教授が毎年変わる事自体、校長は適切な人間を選べていないと言える。だが、そうであるならば何故、魔法省は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? その方が余程素直であるのに、あのような中途半端な教育令を出すに留めるのは怠慢では無いか?」

 

 あの教育令に従う限り、高等尋問官が教職員を任命出来るのは、あくまで空職の科目が出て、尚且つ校長が候補者を見付けられなかった場合のみ。つまり校長が第一で、魔法省が第二だ。教授の直接の任命権は未だホグワーツ校長が握ったままで、仮に高等尋問官の御仕事により空職が出たとしても、校長は依然として教授を任命出来る。

 

 ホグワーツ教授は魔法省が選ぶという直截的な省令を出していれば、そんな事は有り得なかった。仮に魔法省が選ばないとする場合でも、教授の任命に際しては魔法省への承認を要する。或いは届出を要するという規定を設ければ、縛りを掛ける事は出来たのだ。

 

 しかし、コーネリウス・ファッジはそうしなかった。

 

「……嗚呼、日和る気持ちは解らんでも無いとも。確かにそのような省令、校長の権益を明確に侵害する類の改革は、間違いなく大反発を喰らう。この程度の些細な改革ですらウィゼンガモットを辞めた人間が出た訳だが、それをやれば今回の比では有るまい」

 

 ホグワーツ校長という地位は、魔法界において〝聖域〟である。

 魔法省如きがその権限を侵害する真似を、世の魔法族が許す筈も無い。

 

「とはいえ教育改革を本気でやる気ならば、やはり聖域に踏み込むべきだったのだ。今ならば〝マグル〟に近しい者は支持した筈で、今回程に魔法省とホグワーツの上下関係を確認する絶好の機会は無かった。ホグワーツを潰す程の覚悟でコーネリウス・ファッジが改革を進めるという姿勢を見せたなら、ルシウス・マルフォイ氏達とて反対は出来なかっただろうに」

 

 魔法界における魔法大臣とホグワーツ校長の力関係は、非魔法界における政府の首相とオックスブリッジの総長とは全く次元を異にする。

 魔法大臣の地位を〝マルフォイ〟は求めず、事実上の王を称した一族の一つである〝ブラック〟もまた同様だった。彼等の姓は歴代魔法大臣のリストの中に見付けられない。しかしながら、歴代校長の中に〝ブラック〟――フィニアス・ナイジェラス・ブラック教授は居る。その事実が答えの一端を示している。

 

「……()()()()では、魔法省が教授を任命しても良いのか?」

「個人的に賛同出来るかは一応留保しよう。しかし、主張が論外だとまでは思わない」

 

 顔に恐怖が過ぎっているドラコ・マルフォイに、半ば投げ遣りに答える。

 

「魔法省こそが教授の任命権を握るべきだという主張。その正当化は決して不可能では無い。自治とは無法と意味を異にする。そもそも自治するだけの能力の無い者には自治の権利を与えられるべきではない。そして組織としての緊張関係を齎す為には、外部の介入を許す事こそが適切だ――その理屈には、確かに一定の正義が存在する」

 

 ドローレス・アンブリッジは確かに教師と呼ぶに至らない人間では有るし、高等尋問官の職責を果たせるとも思えないが、彼女の資質の有無と魔法省の介入の妥当性は別個の物だ。

 

 ギルデロイ・ロックハート、一昨年のルビウス・ハグリッド、そしてシビル・トレローニー。彼等が生徒の学習期間を台無しにした責任を負うべきは、決してアルバス・ダンブルドア校長だけではない。彼は確かに諸悪の根源だが、それらの非道を見ない振りし、放置し続けたのは、ミネルバ・マクゴナガル教授達を含めた全てのホグワーツ教授である。

 

 自浄作用の無い組織(ホグワーツ)こそが僕達子供の教育機会を不当に奪っており、そして特急内でのハリー・ポッターの癇癪は、心情としては同意出来るのだ。

 

 大人達は、子供の気持ちなど何も考えてなどいない。

 

「だが、そうはなっていない。彼等はそうしなかった。なれば、〝巨悪〟を討ち滅ぼすには至らない。だからこそ、あの校長も高等尋問官を放置出来る。この期に及んで生温い手しか打って来ない相手など、最初から歯牙にかけていない。……嗚呼、全くもって下らん」

 

 彼等は徐々に権限と権力を拡大するつもりではあるのだろう。

 

 しかしホグワーツと魔法省の主導権争いが、過去に一度も存在しなかったと思っているのか。まして、今の校長はアルバス・ダンブルドアだ。ホグワーツを掣肘する二度目の機会が、都合良く魔法省に回ってくる訳がない。

 

「……解った。君の主張は解ったから落ち着け、スティーブン。僕と違って、普通のスリザリンは君の唐突な怒りに慣れていない。周りを威圧するような真似も止めろ」

「そんな事はしていないし、僕は至極冷静であるつもりだ」

「僕達からはそう見えないから言っているんだ」

「…………そうか」

 

 まあ、言われてみれば多少感情的になって居るかもしれない。僕達の様子を伺っていた人垣も、心無しか最初より距離が空いているような気がする。

 左手で顔を軽く拭った後、天井に向かって大きく息を吐く。

 

「……僕が父上に手紙を送れば良いんだな?」

 

 僕が落ち着くまで待つと話が再脱線してしまうとでも思ったのか。

 先に口を開いたのはドラコ・マルフォイの方だった。

 

「確かにアンブリッジの仕事を邪魔するなとは父上から言われているが、積極的に協力しろとまでは言われていない。学期前の父上との会話でも、今まで受け取った手紙の内容にしても、アンブリッジを重要人物と位置付けているようなものは含まれていなかった」

「……そうか。だが、やはり結論を下すのは早計だろう。表向きがどうあれ、違法な(後ろ暗い)話が君に降りてきていない可能性は十分ある」

「解っている」

 

 ドラコ・マルフォイは重々しく頷いて見せる。

 

「父上達がアンブリッジについてどう思って居るかは再度確認させて貰う。君が非常に関心を寄せていたという言葉も添えてな。それで良いんだろう?」

「問題ない――と言いたいが」

「……まだ何か有るのか?」

「半ば規定路線のようになっているが、結局の所、僕がドローレス・アンブリッジに〝対処〟するという事で良いのか? 氏の指示がそうであると聞いているし、最も穏便に済みそうな手段は僕も一応思い付いている。しかし、最低でも全スリザリンの了解がなければ話にならない。賛成や協力まで求めはしないが、僕のやる事を黙認して貰う必要は有る」

 

 この場に第五学年の中核となる〝純血〟は居るし、他にも各学年の有力人物の姿がちらほら見えるが、全てでは無く、当然ながらスリザリンの全員が居る訳でも無い。

 そもそも、この場に居る人間の意見すら未だに定かではない。ドローレス・アンブリッジとの交渉がすんなり進めば杞憂で済むのだが、失敗すればやはり大惨事に成り得る。見切り発車で突っ込むのは可能な限り避けたいし、まして別の考えをもった複数人が同時に彼女と交渉するなども論外である。

 

「つまりスリザリンの了解が有れば、あのガマ蛙を黙らせられる。ここに居ない人間にも、僕達が話を通せば問題無い。君の言葉をそう受け取って良いんだな?」

「……まあ、そうだな。確実とは言えないが、十中八九何とかなるだろう」

「なら十分だ」

 

 ドラコ・マルフォイは試すかのように、碧色に染まる談話室を見渡す。

 

 支配者(〝マルフォイ〟)の視線に怯えるかのように、多くの人間が目を逸らした。目を逸らさないのは彼と同格である者達だけで、彼等もまた何も言おうとはしなかった。僕達の話を聞いていた者達全てが異論を挟まない事を確認した後で、彼は最後に僕へと視線を戻す。その表情からは、今スリザリン生を黙らせた優越感など欠片も見出せなかった。

 

「――君の希望(オーダー)に反対する人間など、既にスリザリンには居ない」




・教授の人事権
 近代大学の誕生をベルリン大学(1810年設立)に求めるのは殆ど通説と言って良いだろうが、このベルリン大学、そしてその他のプロイセン(更には後のドイツ)内の大学の教授の人事権を握っていたのは文部省、つまり国民国家の政府である。
 
 このようにプロイセンで政府が人事権を握った理屈、すなわちヴィルヘルム・フォン・フンボルトらが大学に人事権を握らせるべきでは無いと主張し、それが通った根拠は、偏に大学ないし教授会に対する不信にこそある。

 神聖ローマという広い枠組みで見れば、中世から続く由緒ある大学はプラハ(1348年)やウィーン(1365年)、ハイデルベルク(1386年)など数多く存在していた訳だが、これらの大学において教授の人事権を握っていたのは、伝統的に大学自身――つまり学長ないし教授、そして学生であった。そもそもUniversityの起源は教師と生徒によるギルド団体に求められるのだから、内部の事を構成員が決定するのは至極当然の論理であり、他所の人間がとやかく言う方が可笑しいのである(まあ実態としては王権や教会などの外部の干渉はあった)。

 しかし、このようなギルド自治が数百年続いた結果として何が生じたかといえば、組織の硬直化・そして腐敗であった。教授という職について見れば、縁故・情実人事が蔓延り、最悪の場合には職の売買が罷り通る事すら存在していた。
 そもそも近代の時代にまでなると、少なくない大学が機能不全に陥りつつあった。これは大学自体の体制に問題があったというより、自然科学の発展、産業革命の開始、ナショナリズムの勃興等により、時代に対応し切れなくなっていったという方が適切かもしれない。

 だが、この状況を座視出来なかったのは政府――新たに生まれた国民国家である。
 プロイセンに限定して言うならば、特にベルリン大学設立の頃は、「ドイツ国家」が意識され、またそれが滅ぶかもしれないという意識を有していた時代だった。
 特にプロイセン王国は、ナポレオンが率いる軍隊の前に一年も掛からず惨敗を喫し、ティルジット条約(1807年)によって国土は殆ど半分になった(一応ウィーン会議後に回復はした。但し以前から多少領土は変わっている)。そのような国家的危機の時代の中で教育改革の必要性が叫ばれ、そして創設されたのがベルリン大学である。

 ベルリン大学はプロイセンから一定の自治や学問の自由を保証される一方、前述の通り、教授の「完全な」任命権については与えられなかった。大学や学部側が教授を推薦する事は出来たが、文部大臣はその推薦に必ずしも拘束されなかった。
 彼がカトリック、或いはユダヤ人であるが故に教授の道を阻まれ、或いは逆に、彼が自分の弟子や一族の人間であるというだけで教授に就く事態が、教授会「自治」の下では起こり得る。つまり、その人間がただ能力を持つ事を理由に正教授の地位を与えられるのは、大学内の権力に囚われない国家のみである。
 そう考えたからこそ、フンボルトらは教授の最終的な任命権は国家が握るべきと主張し、その限りにおいて、伝統的な大学の「自治」を踏み躙る事を躊躇しなかった。

 この国家による任命権の保持がプロイセン及びドイツ帝国の大学制度改革、ひいては学問・科学発展に何処まで影響したかは、非常に議論の有る部分である。

 しかし、ドイツにおけるこの権力を最も活用した人間として、歴史はフリードリヒ・アルトホーフ、1880年代半ばから1907年まで文部省内で辣腕を振るった文部官僚の名を語る。
 そして彼の大々的な大学・教育への干渉が、少なくとも大学研究の後退を齎しはしなかった事は、1901年から1910年代に掛けてのドイツ帝国のノーベル賞受賞者の人数が示しているとも言えよう(まあ余りに単純で短絡的な指標だという批判はもっともである)。

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