トム・マールヴォロ・リドルとはどんな人間だったのだろうかと改めて思う。
そしてアルバス・ダンブルドア。彼が教授の地位にあった時、将来敵として殺し合いをする羽目になる生徒に対し、果たしてどう向き合ったのだろうか。
正直な所、あの校長――教授は非常に冷淡な対応をしたように感じる。
彼は僕に対しても温かく接して来た訳では無いが、しかし僕以上に、アルバス・ダンブルドア教授はトム・マールヴォロ・リドルに対して強烈な嫌悪感を抱いた筈だ。彼の好き嫌いと選り好みの激しさ、そして過去の瑕から来る支配への拒否反応は、少ないながらも大きな彼の欠点の一つと言える。それを踏まえて予想するならば、彼は将来史上最悪となる芽を持った少年に対し、教職失格とも評し得る行動を取ってしまったのかもしれない。
けれども、アルバス・ダンブルドア教授は何処まで責任を負うべきだろうか?
将来闇の魔法使いとなるトム・マールヴォロ・リドルを〝更生〟出来る可能性が有るとすれば、今世紀で最も偉大な魔法使いとして対等以上足り得た彼だけだったであろう。
しかし教授が
過去のトム・マールヴォロ・リドルにしても、世間一般で言う悪の道を進むに際して相応の決意と覚悟が有った筈だ。アルバス・ダンブルドア教授が居ようと居まいと、みぞの鏡の中に喪った家族の姿を見出せなかったであろう少年の道筋は、大きく変わりなどしなかった。
そして彼程振り切れる気はしないにしても、僕の側にも同じ事が言える。
人一人の人生を丸ごと変えてみせた恩師。
そのような偉大な価値を有する人間が世界に存在するとして、それを持った事の有る人間は果たしてどれだけの数が居る事だろう。少なくとも、僕はそれを持っていないと言える。
僕はスネイプ教授やミネルバ・マクゴナガル教授に多分に感謝はしている。しかしながら、彼等が僕の根幹を変えてしまったのだと思った事は今まで無いし、これからも多分無い。
そしてそれはアルバス・ダンブルドア校長も変わらないのだ。彼の存在感は僕のホグワーツ生活中で非常に大きい物であり、今後の己の方針を決する上で不可欠の存在とも言えたが、仮にそれが無かったとしてもそう変わらない道を、人殺しの道を歩んだだろう。
現在のスティーブン・スチュアート・レッドフィールドを構成する最も大きな要素は、やはり我が憎むべき父君、スティーブン・レッドフィールドであるのだから。
故に──
「そんな考えは禁止でーす……!」
気付けば、彼女の顔が視界に広がっている。
彼女は椅子から半ば立ち上がり、机の上に身を乗り出して、両手で僕の頬を引っ張っていた。
「貴方は常に思考を悪い方向に働かせる癖が有りまーす! それは不健康で、非生産的でーす! 少なくとも、私の前ではそんな顔もして欲しくは有りませーん!」
「……どう主張されたとしても、僕の本質は変わりませんよ」
優しく手を払いのけつつ言えば、フラーはいやいやと首を大きく振った。
「それでもでーす! 絶対に! 断じて! 許さないでーす! 貴方は色々訳の解らない事を宣い、散々面倒臭がりながらも、最後には私達の願いを叶えてくれる男性で無ければなりませーん! 意味も無く人を傷付ける貴方は解釈違いでーす! そんな未来は訪れては駄目に決まってまーす!」
「……また貴方は無茶苦茶を言う」
泣き喚くまではしなかったが、それでも涙が浮かんでいるのに変わりはなかった。
どちらが年上だか解ったものでは無いと苦笑し、彼女の眦を親指で拭う。折角綺麗に化粧をしているのに、こんな事で崩してしまうのは勿体無かった。
「貴方の願いだとしても聞けるものと聞けないものが有る。そして、これはどう在っても聞けない類ですよ。ホグワーツはそれを僕に与えなかった。最初から願ってもいませんでしたけどね」
「――っ。なら代わりに答えて下さい」
「……何をです?」
呆れながら問えば、彼女の問いは直ぐに寄越されない。
もじもじと指を擦り合わせ、キョロキョロと視線をあちこちに彷徨わせた後、助けが無い事に途方に暮れたような表情を浮かべてから、彼女は漸く口を開いた。
「……わ、私は今、個人的に英語を教わっていまーす。それも、貴方より親切で、人当りが良くて、周りからの評判も素晴らしい、貴方と全く反対のような男の人からでーす。それを聞いた貴方は嫉妬してくれまーすか?」
「――まさかとは思いますが」
顔を赤らめながら紡がれた真っ直ぐな言葉に、遅ればせながら気付いた。
「……貴方は本気だったんですか?」
「本気で! 無いなら! どんな! 気だと! 思って! 居たのですか!」
「痛……痛たっ。てっきり、故郷を離れて適当に遊べる男を探していて、それかたまたまヴィーラの力を制御する実験台にも都合が良かったからなのかと──痛い。ええ、僕が悪かったですよ。悪かったから叩くのを止めて下さい」
「私は! そんなに! 軽薄では! 無いでーす!」
降参の台詞を述べても、御立腹のフラーは中々腕を叩くのを止めてくれなかった。
先程までの涙は何処へやら。今彼女の顔が真っ赤なのは、それが燃え上がる程の怒りに由来しているというのは明らかだ。叩きつけられる力も今までで一番強い。
……まあこの点に関しては、彼女の方が遥かに正当性を有している。ガブリエルの方は割と本気──と言っても、あくまで九歳の子供が背伸びした物──であろうとは受け止めていたのだが、そうであったのは寧ろ姉の方だったらしい。
「……それで、どうなんでーすか?」
「──嫉妬は出来ませんよ」
期待の上目遣いを向けて来る彼女に、しかし望まれた言葉を紡ぎはしない。
考える時間は不要だ。やはり答えは初めから決まり切っている。
「幸せを考えるならば、貴方はその男性とくっつくべきだ。僕は絶対に、何処かで貴方の事が頭から抜け落ちる。最後の最後には己が何に成るべきかではなく、何に成りたいかで道を決してしまう。誰かに予言されるまでもなく、貴方を傷付ける事でしょう」
アルバス・ダンブルドアは確かに多くの業績を残してきたかもしれない。
ゲラート・グリンデルバルトの野望を挫いた者として。闇の帝王に対抗した者として。今世紀で最も偉大な魔法使いとして。そして他ならぬホグワーツ校長として。総合的に見れば、彼よりも
けれども、彼はたった一人の願い、幼き少女が抱いていたであろう祈りに応えていないだろう。結局彼の頭の中には、自分の母親と同じ行為――愛する者の為に己の人生を捨て、殉じようとする考えなど欠片も無かった。
『間違いなく君もそうなる』
教授らしからぬ呪いめいた言葉は、しかし先達としての真摯な忠告でも有る。
だが、やはり僕に響く事は無い。結局の所、僕は利己的で自分本位であるからだ。
仮に母達が生きていれば、僕の選択を厭うかもしれない。その想像が出来たとしても、彼等が死人であり文句も言えない身である以上、最後に止まれる気もしない。
「……現在進行形で、貴方は私を傷付けていまーす」
「先延ばしにすれば更に手酷いモノになりますし、この痛みとて何れ忘れる事が出来るでしょう。馬鹿な男に引っかかろうとしたという笑い話にする日も来ます。……最早質問する必要すら感じませんが、今後の一生を閉じ込められて過ごす羽目になる事を歓迎などしないでしょう?」
「────」
フラーは何とも言えない顔で僕を見返した。
「そういう事です。元々、僕の根底には闇の帝王に勝って欲しいという思いが有る」
一人の少女の価値さえ無視出来るならば、躊躇いなくそう賭けていた。
「〝純血〟主義が生む狂気、或いはサラザール・スリザリンが遺した理念に興味は持てなくとも、僕は理性的に闇の勝利を願う事が出来る。それは善良な貴方とは決定的に違う。そこら中で拷問と虐殺が繰り返され、悲鳴と啜り泣きしか聞こえない世界を、ある一点が為に肯定し得ると考えてしまう」
「……それは貴方の求める世界、目指す場所とは違う筈でーす」
「確かに違いますが、肯定可能では有りますよ」
「っ。数千の、罪無き人々が死ぬのですよ。貴方はそれを──」
「──見過ごせる。僕はその意味を見出してしまった」
必死に弁護しようとするフラーには悪いが、どう在っても揺らがない。
「帝王が敷く統治は考えるまでもなく独裁でしょうが、その反射的効果、或いは不可避的な帰結として、彼による体制確立には揺るがぬ歴史的価値が付随する。つまり、どういう形態であれ、
「…………え?」
「貴方の困惑も解りますよ。18世紀末の独立戦争や革命戦争。それらを直接経験していない魔法族は、果たしてどういった政体を志向する事になるのか。それに思いを巡らせた事の無い人間に、このような見方は出来無い」
つくづく魔法界は歪である。
魔法族にとって〝マグル〟は最も近しく、善き隣人で在り続けた。
であれば、国際機密保持法やラパポート法の強制力が存在していた所で両者の交流を完全に断ち切る事など元より不可能だった。はみ出し者や変わり者、故意に規則を破ろうとする者を根絶する事など出来はしない。更には両方の血を引く半純血、どっちつかずの魔法族も増え始めた。故に自覚的無自覚的を問わず、〝マグル〟の常識、思想、そして概念は魔法界へと確かに――そして半端に――持ち込まれてしまっている。
純血主義の再流行にも同様の事が言える。
彼等が血を誇っていたのは今に始まった事では無い。〝純血〟達が輝かしい家系図を作る事は早くから行われて来たし、家系に関する研究をした書籍も相応に存在していた。だというのに何故、カンタンケラス・ノットが著した『純血一族一覧』は、純血以外にも存在を知られる程の爆発的な反響を齎したのか。その点に考えを巡らせないからこそ、差別は良くない程度の薄っぺらい否定しかグリフィンドールには出来ない。
だからこそ僕は闇の帝王の勝利、旧態依然とした魔法界の破壊をある点で望んでおり――ただ、あの校長すらも本質的に理解を示そうとしなかったのだから、僕の方が考え過ぎで、致命的な見落としをしており、道を間違っている可能性は有り得る。
しかし、その審判が下るのは、やはり今では無いだろう。
それはあくまでその国の魔法界、将来の魔法族達によって為されるべき事項である。
「まあ僕の私的な予想は脇に置いておきましょうか。ただ、仮にそれが正しくなくとも、帝王の支配が未来に与える影響は期待出来る。一国丸ごとを地獄の釜に落としたのならば、全世界の魔法族の眼も醒めてくれるでしょう」
「…………」
「あの校長は確かに問題も多かった。ですが、それでも彼は一貫して善の側に立とうとし、故に、この魔法界の致命的な破綻だけは避けられた。けれども彼と真逆の路線を行く大魔法使いが代わりに君臨すればどうなるか。その回答たる
現状の魔法族は、自分達の力――魔法の全能性を信じてしまっている。
啓蒙主義と科学万能、ヒトの進化と進歩を妄信していた二十世紀初頭の〝マグル〟と殆ど同じ道を進んでいるのは、やはり同じ人間だという事なのだろうか。そしてその前例を踏まえて考える限り、このまま行けば終着点は行き詰まりであり、一つの絶望である。
〝マグル〟は既にその難題に直面し、遅々とした歩みながらも止揚と解決を図ろうとしているが、そもそも魔法族は問題に向き合う地点にすら立っていない。
「一国数千の魔法族の命を供物とした盛大な社会実験によって、全世界数十万の魔法族の命が救われる。部分で見れば暗黒の時代が到来したとしても、総和で見れば種族の明るい未来の可能性が開かれて、大いなる善の理想は達成される。何故そうなるか……というより、何故それを僕が期待するか。貴方は全く理解してくれないでしょう?」
「――っ。確かに、解りませんが。でも……!」
「ならば、やはり共に居ない方が良い。何も考えずアルバス・ダンブルドア校長側に立つ方が、貴方は真っ当な幸せを掴む事が出来る」
「…………では、貴方は」
「既に陣営は決めました。僕は明確に彼と対立する側ですよ」
あの校長の側に着く事は出来ない。
やはり彼の勝利には懐疑的なままだ。戦中ではなく、寧ろ戦後において。
君臨しつつも魔法大臣を拒絶する歪さが、来世紀の魔法界に破滅を招くと考える。
「……貴方はダンブリドールに勝てるのでーすか?」
「それは土台無理な話です。彼は百年以上も勝ち続けて来たし、そしてこれからも勝ち続ける事でしょう。あの魔法使いに戦場で真っ向から勝ち得る存在が居るとすれば、この時代では唯一人、闇の帝王だけだ」
「…………ならば何故戦おうとするのでーすか?」
「彼にも間違っている点が有ると確信し、そして同時に彼の瑕が齎す歪みを――彼が自ら負けに行ってくれている事を知るからです。確かに〝その時〟が来る可能性は高くも無い。しかし、それが訪れてくれた場合、僕は確実に行動に移すでしょう」
結局、彼が国際機密保持法を聖典化した時点で互いの陣営など決まっていた。殆ど八つ当たりめいているとしても、その歴史的事実が無ければ我が母上達も死ななかった。僕のような存在を残す事も有り得なかった。それは紛れもない事実なのだ。
溜息を一つ吐き、更にもう一つ重ねて吐く。
「──良き想い出は良きままにしておくべきです。それが御互いの為だ」
フラー・デラクールがわざわざ僕の下へと赴き、如何に言葉を尽くそうとも、結論が変わる事は有り得ない。互いの道が交差したのは奇跡で、しかし奇跡で有れば何度も起こすべきでは無い。
「……少々意外でーす。まさか貴方が、私達との想い出を良い物と考えているとは思ってもいませんでした」
「言葉の綾に過ぎませんが、貴方が満足するなら認めても構いませんよ。邪険にし続けた身で言うのも何ですが、貴方と居なければ去年のような経験をする事も無かった。所謂優越感というのも抱いていたのかもしれません」
「……ならば去年の内にもっと嬉しそうにして欲しかったでーす。そして今更そんな事を言うなんて、貴方は本当に酷い男の人でーす」
「今更気付いたのですか? 僕は貴方と会った時から既に酷い人間でしたよ」
僕は軽く微笑んでみせたが、フラーは笑いを返そうとしなかった。
何処か憐れむような色を浮かべて、澄んだ蒼色の瞳で僕を捉え続けていた。
「合理性だけを考えるならば、貴方の好意を受け容れるべきなのは明らかだ」
「――っ」
「遠くない未来、貴方が正気を取り戻した時。僕達の関係は当然に破綻する筈です。だとしても、貴方を都合良く利用すれば多くの事が可能であり、なればやはり可能な限り破綻まで長く引き延ばす努力をすべきでしょう。ガブリエルの事も視野に入れてしまえば、貴方がたの好意を利用し続けるべきだと言えるのです」
少なくとも闇の帝王については、その純血思想に融通が利くと解っている。
リリー・エバンズですら生を保証された。真の〝純血〟主義者では絶対に許せない女──純血の魔法族と結婚し、半純血を産む事によって魔法界に血の汚染を生じさせた害悪──を殺す事に拘りなどしなかった。仮に口約束で一時的な猶予としか考えておらずとも、闇の帝王が本来踏み越えるべきではない一線を越えたのは確かであり、その意義は当人が考える以上に大きい。闇の帝王が抱く一貫性は、純血主義の部分については要求されていない。
なればヴィーラの血を引き、そして僕が会った中で最も美しい女性であるフラー・デラクールであれば、如何様にも言い訳をする事は可能だろう。
勿論、闇の帝王の好意を僕が獲得するという前提が不可欠であるが、これはあの校長に勝利するよりも遥かに期待が持てる。良くも悪くも、僕は〝
しかしながら。
その道を選ぶという事は、フラーを危険な道に招き入れるのと同義である。
自分の事ですら満足に出来ていないというのに、彼女を他の誰からも――闇の帝王も含めて――奪われないように護り、共に居続ける事は、どう考えても出来る気がしないのだ。
「貴方からの好意を僕が嬉しく思えている。それは確実なのでしょう。何せ貴方をこうして遠ざける事について、僕は一切の迷いも躊躇いも覚えない。悪い男に引っかかった母のような例を生み出さずに済む。その道を選択出来る事を──僕は本心から歓迎出来る」
彼女がどうして僕に惹かれたか。
その本質的な理由を聞き糺したいという気持ちは有ったが、それは学術的興味に近しいモノで、是が非でも聞いておきたいと思う部分では無い。そして、拒絶した相手にそれを聞く事が酷であるという常識位は僕にも有る。
だから、俯いてしまったフラーから逃げるように視線を逸らし、ストリートへと視線を戻した。会話までは聞こえずとも男女の諍いは注意を引いていたのか、バツの悪そうに足早に去っていく二、三人の通行人を見送りつつ、彼女の反応を辛抱強く待った。
重要なのは御互いの関係が正しくないという事であり、フラーに受け容れて貰う事である。そして、時間は現状多く残されており、時間を費やしてでも解決すべきだった。
そしてとうとう、彼女は呟くように言った。
「……解り、ました」
「そうですか」
多少ズレこみはしたが、四年目の清算は確かに終えられたようだ。そう安堵の息を吐く。
僅かばかり期待していたような寂しさを感じる事も無い。あの父上は要らぬ遺産を残してくれたものだとも思うが、しかしそれが無ければ、僕はフラー達と関わりもしなかった。
やはり因果は度し難い。
あちらを立てればこちらが立たない。最善の選択肢を採り続けた世界──僕がスリザリン以外に組分けされ、ハーマイオニーやフラーと知り合い、そしてあの校長と共に戦う世界など架空の存在でしかないのだろう。スリザリンに組分けされねば今の状況は無く、得た物の殆どを喪っている。世界は何処かで幸不幸が釣り合うように出来ている。
「ならば、貴方が今やるべき事は明らかでしょう」
「…………」
「早々に荷物を纏め、この国から出ていく事です。グリンゴッツのゴブリン共に待ち惚けを食らわせるなど非常に些細なものだ。自分達は、決して滅ぼされないだろうと高を括っている。魔法史を多少なりとも学び、先の戦争での闇の帝王の行動を見れば、そんな温い事は言っていられ──」
「──解ったと言いましたが。納得したとは言った記憶が無いでーす」
……暫く会わなかったから忘れていた。しかし忘れるべきではなかった。
物分かりの良いフラー・デラクールという存在など、そもそも架空であるのだと。
「そもそも貴方自身、私に指図する権利が無い事を認めた筈でーす。たとえ貴方が私達と共に居続ける事を拒否しようと! 私の告白を貴方が断――」
フラーはそこまで言葉にし、しかし口を半開きにしたまま制止した。
「――告白? こく、はく? ……私は貴方に告白したんでーすか?」
「……いや、僕が答えるのが当然といった顔で聞いて来ないで下さいよ」
それこそ僕の知った事では無い。
「そもそもこの手の色事には慣れているんじゃないですか?」
「私は何かをした事は有りませーん。黙っていたら勝手に寄ってくるのが普通の男でーしたもの。ウンザリする程入れ食いでーす」
「…………貴方の女性からの評判が最悪から動かないのは、やっぱり妥当だと思いますよ」
「とにかーく、でーす」
仕切りなおすように言った後、彼女はテーブルに乗り上げるように上体を近付けてくる。
正しくはそうしようとした。しかし、抱き着くには未だ机上に鎮座するティーセットが邪魔だと感じたらしい。苛立たしそうな顔をした後、彼女は椅子を僕の隣に動かし、抱き合うように身を寄せてきた。僕の了承も無く、流石に注目してしまった周囲の視線も何のその。唯我独尊という言葉が良く似合う女性だった。
するりと腕と指を絡ませながら、先程よりずっと近い距離で、フラーは囁くように言う。
「たとえ貴方が私に振り向いてくれる事が無いとしても、変わらない物が有りまーす。それは貴方が私達に多くを与えてくれたという事で、そして私達は少しでも多くを返したいと思っているという事でーす。それはこの瞬間も変わりませーん」
「……御言葉ですが、僕はそれ程大した事をした覚えは──」
「──それこそ御言葉ですが、貴方にヴィーラの血を引く女の子の苦労は解りませんわ」
「…………」
それだけは流麗な発音で、痛烈かつ強制的に彼女は言葉を封じる。
「貴方は世の中の男よりも多少賢いようですが、それでも私達を取り巻く世界への理解は足りませーん。当然御存知でしょうけど、純粋なヴィーラは怪物的な見た目をしていまーすね? そんな私達に全くの本心から偏見が無い男の人は、果たしてどれ程貴重な事であーるか」
「……僕は偏見が割と酷い方だと自認していますけどね」
「ええ、そうでしょうね。貴方は人間自体が満遍なく好きでないようでーすから」
「…………」
女性というのはどうしてこんなにも恐ろしいのだろうか。
特にフラー・デラクールは論理的な人間とは程遠いというのに、その割に本質を見逃してくれはしない。男女同権主義者には怒られるかもしれないが、やはりX染色体を一個しか持たない者では理解出来ない世界が現実に存在すると思う。
「ただ、そんな貴方と言えども、今更私と貴方が〝善き友人〟である事まで否定はしませんよね? 勿論、貴方が冷血であるのも私は良く知ってますけーれど」
澄んだ蒼の瞳が怪しく、危険な色を帯びる。
そしてこういう時、僕は彼女を酷く魅力的な女性だと感じてしまう。周りが何と言おうと、どう見られようと、己が己である事に胸を張り続けられる彼女に尊さを見出してしまう。
炎のゴブレットに選ばれた人間はどいつもこいつも眩しくて、嫌いだった。
「……今までの話を聞いていなかったんですか。今後は如何なる関係だろうと──」
「──未来の事は関係有りません。今この瞬間の事を聞いていまーす!」
「…………はあ」
降参だ。
「現状、貴方が僕に最も近しい友の一人であるのは間違いありません。これで良いですか?」
「……一人という部分が気に食わないでーす」
「この流れでガブリエルを外す訳には行かないでしょうに……」
それでも暫く不満げな表情のままだったのは、まさか妹と張り合っているのだろうか。ならば彼女は自分の妹が何歳であるかを思い出すべきである。
「……まあ、渋々容赦してあげまーすが、貴方がどう言おうとも私の行動は変わりませーん。そもそも貴方に責任の全てを取ってもらおうと考えているのでは無ーいのですよ」
寧ろそれは私への侮辱でーすと、フラーは華やかに微笑んでみせた。
「私が英語を上手くなりたいと考えたのは、言ってみれば貴方のせいでーした。言葉というのは大事です。伝えなければ伝わりませーんし、伝わらなければ伝える意味が小さいでーす。去年、そして今も、私はそう痛感していまーす。もっと私の英語が上手かったのならば、もっともっと伝えたい事を伝えられたのではなーいかと」
「……確かに貴方の英語は多少変では有りますが、十分喋れている範疇だと思いますけどね」
「ええ、そうでしょうとも。だから、私は正しくは、今自分の英語が間違いなく下手だったという事を──言い訳が出来たのだという事を確認したいのでしょーうね」
「…………」
上達が目的ではなく、上達の余地が有ったのを知る事が目的。
そんな変わった論理を彼女は持ち出したが、さりとて理解出来ない理屈では無かった。それは僕も似たような事をしてきたからで、ホグワーツに在学し続けている最大の理由でも有る。
「私がこうして戦争中の国に居るのも、貴方との友誼を続ける事だけは何としても叶えようとしているのも、それは全て私の選択で、私の人生です。どんなに私が求めても他人以上になる気が無い貴方がどうこうしようとするのは、酷く傲慢という物でーす」
「……だとしても、ここに貴方の求める幸福は有りませんよ。アルバス・ダンブルドア校長が勝とうが負けようが、この魔法界に明るい未来は訪れそうにない」
「自ら不幸になろうとしている人には言われたくあーりませんね。そしてそんな未来が見えているのに、貴方はこの地を捨てようとしないではないでーすか」
「僕の方は……単に意地みたいな物です」
ハーマイオニー・グレンジャーという少女が始まりで、続ける全ての筈だった。
しかし、何時の間にかそうでなくなってしまった。根本が変わらずとも、ホグワーツが僕を何も変えなかった訳では無い。その事を想えば、クィリナス・クィレル教授と言葉を交わした事こそが間違いだったのかもしれない。言わずと知れたあの大魔法使いではなく、他ならぬ彼こそが、ホグワーツの僕に呪いを残して行った人間だった。
「しかし、フラー・デラクール。貴方には拘るモノも無い筈です」
「いいえ、有りまーすとも」
「拘った結果、貴方が何も手に入れられないとしてもですか」
「人の関係は単純なゼロサムで成り立っている物では無いでーすよ? 勿論、貴方が私を望み、求めてくれるならば全く問題有りませんけど」
フラーは僕へと寄りかかり、僕の右肩に頭を乗せる。
細く光沢の美しい銀髪が僕の顔を撫でる。香水と、彼女自身が纏う匂いが鼻を擽る。
しかし、それもほんの僅かの間。彼女は僕の右腕を優しく撫で、少しの逡巡の後に抓った後、漸く身体を離した。相変わらず普通の友人の距離から程遠かったが、それでも彼女が然したる理由無く距離を空けたのは、僕の記憶する限りでは殆ど初めての事だった。
「ですが、これ以上は貴方を困らせてしまうみたいでーすね」
瞳に読み取れる感情とは真逆の、輝かんばかりの笑顔をフラーは浮かべる。
「確かに私が惹かれたのは、我が道を行く、全くもって私の意にならない男の子でーした。そんな貴方が変わってしまえば、私は途端に恋心を喪ってしまうかもしれませーん。そして私は良いレディーのつもりでーすね。他人の願いを邪魔などはしたくありませんし、重荷にもなりたくないでーす」
「…………」
「但し一つだけ。ガブリエルとの手紙は続けて下さい。望めるならば……私とも」
声色だけは弾むように、銀色の姉君は言った。
「もう少し、ほんの少しで良いのです。まだ見える形で戦争が始まった訳では有りませーん。少し時間は掛かるでしょうが、ガブリエールにも
拒否するのは非常に簡単であり、最善の道の筈だった。
その覚悟は去年度末から、いや彼女と関わった時から決めていたつもりだった。
けれども、これがフラーなりの最大限の譲歩だというのも伝わって来た。それと同時、これを拒否した場合、僕に対する彼女の信頼を決定的に喪失するであろう事も。
「……貴方がたは──貴方は、それで良いんですね?」
「ええ。私の母も、父も、この件に関しては強く理解と賛成を示してくれていまーす。そして私も確信しているのです。やはりガブリエールにとって貴方との時間は何よりも大事だと。たとえ、最後には貴方が何れ去る事になってもでーす」
フラーは胸を大きく張って、自信満々に頷く。
「――それに。私は貴方と違って、これからの事を余り心配していませんよ」
だって、と彼女は告げた。
くるりと回りながら立ち上がり、僕の手を引き寄せながら。
「万が一の場合。散々文句と不平を漏らしつつも、貴方は私達を護ってくれるのでしょう?」
「――――」
「ならば、私達に心配など有りませーん。私達が見出したのは、それだけの大きな能力と、相手に深い情愛を向けられる人でーす。であれば、〝例のあの人〟や死喰い人など恐れるに足りませーんね。なんせ私達にとって貴方程に
本当に。
フラー・デラクールという人間は強かった。
この世界に本物の魔法使いが居るとすれば、彼女は間違いなくその一人だろう。
「ところで私はまだ答えを――これからも貴方が手紙を出し続けてくれるかどうか、善き友人で居てくれるかどうかを聞けていませんが?」
「……ええ、僕の負けですよ。貴方がたの望み通りにしましょう」
「どうせ勝つなら違う形で勝ちたかったのでーすけれど。まあ言わないでおきまーす」
「完全に言ってしまっているじゃないですか……」
「御返しでーす。存分に後悔と罪悪感を抱くが良いでーす」
結局、僕は文字通り日が変わるまでフラーに連れ回された。
彼女のせいで〝マグル〟流のデートを一生分知る羽目になったと言っても良い。
もっとも、知った所でこの経験を今後に生かしようがない。精々ビクトール・クラムに教えてやる位――というのはまあ下らない冗談である。そんな馬鹿な夢想をする位には、この日の事を誰かに語る機会が訪れるとは思えなかった。多分、墓まで持っていく類の話だろう。
日の変わりの鐘を待つまでも無く、彼女には、勿論僕にも魔法は掛かっていない。彼女は硝子の靴を履いてもいないし、その御伽話をそもそも知っている訳が無い。
それでも彼女が完全に一日を終えるのに拘ったのは、可能な限り多くの想い出を作ろうとしたからであり、また解りやすい形で区切りを付ける事を望んだからでもあるだろうか。
午前零時を過ぎ、それまで触れ合わせていた身体を離した後。
「――さようなら、ステファン」
フラー・デラクールはそれまでで一番の笑顔と共に別れを口にして、何の未練も名残惜しさも見せる事なく、見事に僕の下を去って行った。