僕は夏休暇が始まって以降マルフォイ家に滞在していたのだが、その間ルシウス・マルフォイ氏と直接話をする機会は余り無かった。その上で一対一という限定をするならば、一度としてその機会は無かったと言って良い。
それは闇の帝王の復活やハリー・ポッターの裁判等で彼が非常に忙しくしているというのも一つの理由だったが、やはり最大の理由は、彼がわざわざ話を聞く必要性を感じる程の物を僕が持っている訳でも無く、また当主が直々に済ませるような要件も無かったからだろう。
僕の思い上がりでないのであれば夏中、ホグワーツ
ただ、この手の僕の予想はやはり当たらないのだ。
ハリー・ポッターの無罪が下された翌日だっただろうか。
その日珍しく在宅中だったルシウス・マルフォイ氏によってドラコ・マルフォイが呼び出しを受けた事は、何ら特別でもない、家族として自然な行動である。だが彼が呼ばれてから十分も経たなかっただろう、その程度の僅かな時間で僕もまた呼び出されたのは、やはり僕に多少の驚きを齎すに足る異常事態に違いなかった。
屋敷しもべ妖精に引き連れられて僕が案内されたのは、客間の一室だった。
貴族という人種は事あるごとに相手を委縮させたがるというのは今更の話だが、この場所はその目的の為に作られている。宝石で飾られた豪奢のシャンデリア、古めかしく堂々とした暖炉、曇り一つない窓から望める広大な庭、審美眼の無い僕には汚らしくしか見えない壺や絵画の数々。外から日の光が差している事も有って部屋の中は明るかったものの、僕をして多少陰鬱な気持ちにならざるを得ない。
ただ、氏は僕の内心を理解してか、穏やかに微笑みつつ、気楽な様子でソファーに掛けていた。客に対して普段は見せないであろう、姿勢を崩して足を組んでいる所作は僕を侮っているというよりも、余計に畏まる必要はないという露骨な意思表示のようであった。
「気楽にしてくれて構わない」
実際、机越しに対面するようにソファーに腰掛けた僕に対して、ルシウス・マルフォイ氏は明瞭にそう宣言した。
「突然呼び立ててすまないとは思っている。だが、私の手が空いている時間はそうないし、特に今年は何時それが出来るかも予測が立てにくいのでね。何れは君とゆっくり話をしたいとは考えていたものの、ここまで遅くなるとは考えてもいなかった」
「……いえ、別にそんな事は」
小さく首を振って問題無い事を示した後、僕は軽く頭を下げる。
「それどころかナルシッサ・マルフォイ夫人や、ドラコ・マルフォイ――貴方の息子さんにも非常に良くして頂いています。寧ろ僕のような者に対して過分とすら思える程で、逆に申し訳なくなってくる程です」
「くく。その割に君はマルフォイ家に随分と馴染んでいるようだが? 君が一度書庫に入ると中々出て来なくて困ると二人からは聞いている」
「それは――」
「いいや、別に責めている訳では無いとも」
ルシウス・マルフォイ氏は鷹揚に微笑んでみせる。
「マルフォイ家の蔵書に興味を持つ人間は後を絶たないし、その手の客人を迎え入れた事もある。まあそれがホグワーツ生だというのは我が家の歴史でも殆ど例が無いと思うが、書物の知識に長幼も貴賤もない。本の方も埃を被ったままで居るより本望だろう」
取り敢えず御茶を楽しみながら話そうと、氏は僕達の前の珈琲を示す。
僕が珈琲党である事は屋敷しもべ妖精も既に知っているが、氏にも伝わっているのだろうか。そして氏が先に口を付けたのを確認した後、僕も珈琲を手に取って一口含む。
が、その隙を衝くかの如く、彼は話を切り出した。
「しかし──嗚呼、飲みながらで構わないとも。私の立場からすれば、君が我々に対して申し訳なく感じるべき理由を一つ挙げられなくも無い」
「……何でしょう」
「君がドラコの招きに応じるまで四年も掛かった事だよ」
真っ当に考えれば冗談、至極好意的に解釈しても社交辞令の言葉だと思っていた。
けれどもその割には、氏の表情からは微笑みが消えていた。
「君の事は結構前からドラコの口から聞いていた。一年生の頃は聞かなかったと記憶しているが、二年生からかな。君の話が出るようになったのは。だから早ければ二年から三年に掛けての夏、君に会う機会が出来ると考えていた。もっとも私の予感は外れた――というより、君は私が考える以上に強情だったようだが」
「……流石に誘いに応じるのは厚顔無恥が過ぎるでしょう。どう考えたって貴方に――いえ、ドラコ・マルフォイに御迷惑を掛けるというのは、解りきっていましたから」
全てが本心だという訳ではない。
ドラコ・マルフォイの招きに応じなかったのは、純スリザリン的な生活はどう考えても面倒に感じるもので、自分の性格には決して合わないというのが一番である。
しかし、純血と半純血という僕達の間に横たわる絶対的な階級の違いを考えれば、ドラコ・マルフォイの誘いを社交辞令以上に受け取るべきではない。その建前の理由が決して軽いものでは無かったというのも、確かに事実であったのだ。
「貴方は、僕の経歴についても当然御調べになった訳でしょう?」
「……まあ、誤魔化す意味も無いな。確かに私の方で調べさせて貰った」
「ならば御分かりでしょうが、僕は一切の疑問の余地無く半純血、しかも半分も〝穢れた血〟が混じる人間です。その上貴方がたと違い、生まれてからまともな礼儀の教育を受けて来た訳でもない。そのような人間がマルフォイ家の門を軽々しく潜る気にはなれませんでしたよ」
「非常に殊勝な考えだが、君の育った環境を理解して尚咎め立てをする程我々も狭量ではないよ。そもそも君は学生だ。多少の無礼は許されやすい立場に有る」
まあ我が子がやっていれば間違いなく激怒するだろうがね、と氏は冗談っぽく笑んだ。
「それに、君はドラコからセブルスの事を聞いているだろう? ドラコの方も、恐らくは入学以来、君が私にとってのセブルスと同じ存在である事を期待していた筈だが」
「だとしても、スネイプ寮監はプリンス家の血を引いているでしょう?」
舌で唇を湿らせるのをカップで隠しながら、僕は彼との明確な違いを指摘する。
スリザリンに四年間、しかもドラコ・マルフォイと近い場所に居た訳だし、何よりあの教授の事なのだ。流石に教授の家系については知っていた。
「一時の気の迷いで〝マグル〟と結婚した馬鹿な親のせいで、我等が寮監は大きな迷惑と損害を被った。己の努力ではどうしようも無い理由でスリザリンの本流から弾き出され、二等市民としての人生を余儀なくさせられた訳ですからね。しかしそれでも、旧く由緒有る血を引いている事は確かでしょう」
聖二十八族では無いにしろ、アイリーン・プリンスが相当良血であるのは間違いない。
僕が独自に家系図を調べた結果もそうだし、彼女がマグルと結婚したという醜聞を日刊予言者新聞が載せた事からも何となく伺える。
「翻って僕はどうでしょう? 僕の父親は魔法使いだった訳ですが、貴方の調査で高貴な血を引いていましたでしょうか?」
「……いや。残念ながらレッドフィールドは無名であり、何処かの名家と関わりが有ったという記録を見付ける事は出来なかった」
「そもそもかつて新大陸に渡った魔法族は、国を追われた犯罪者か、本国で芽が出なくて都落ちした人間のどちらかですしね。現在は違うにしても、それらの子孫の割合が圧倒的多数なのは間違いない。また当然、母の方を調べないという手抜きをされた訳でもないでしょう?」
マグル側の家系を通じてというのは多少体面が悪いが、それでも高名な魔法使いと血縁関係が有るのと無いのとでは雲泥の差が有る。ハーマイオニーにしても〝グレンジャー〟という家名の魔法使いは居るし、彼女達は全く意識していなかったとしても、丹念に家系を遡れば何処かで同じ先祖に行き当たる事が可能だろう。
だから母親の家系を調べるに越した事は無く――
「──もっとも、僕は何も出なかったと確信していますが」
ルシウス・マルフォイ氏は問いに対して静かに頷いた。
あの校長ですら確信無く妄想を書き連ねるのが精々だったのだ。長らくマグルと距離を置き続けたマルフォイ家では辿る事は不可能だろう。
確かに何処かに居た可能性は零ではない。だがそれは、ハリー・ポッターとサラザール・スリザリンの血縁関係を真剣に主張するようなもので、そこらの庶民が
「しかしドラコは、君が間違いなく高名な魔法使いの血を引いていると信じていたがね」
「残念ながらそうではなかったという事でしょう」
肩を竦めかけ、相手を思い出して踏み止まった。
「惰弱にも〝マグル〟と結婚した魔法使いはその通りに三流だった。それが冷酷な現実であるという事でしょうね。僕自身、先祖代々伝わる強力な魔法具や家名を示す遺産、或いは七変化といった特別な先天性の能力も持っては居ませんしね。証立てするモノは何も無い」
そして証明出来ないのならば無いのと同じである。
もっとも、先祖の立派さが証明出来なかろうと、あの二人の母が僕の為に命を捧げた価値が毀損される訳でもない。流石に血を誇るマルフォイ家の前では口に出せないが、あの校長が綴った戯言のように、千年程遡った先祖が誰かという問題を突き詰める事に、僕は一切の意義を見出せない。
そう断言してみせた僕に、ルシウス・マルフォイ氏は困ったように苦笑を漏らした。
「成程、ドラコが手を焼く訳だ」
「…………」
「しかし一番難儀な所は、私自身がドラコの苦労を理解できない訳でもないというあたりだろうね。確かにセブルスもまた、私にとって素直で出来た友人という訳では無かった。学生時代、彼の素行不良には悩まされたものだよ」
「……貴方と寮監の関係は──」
「友人と言って良い。少なくとも私はそう思っているし、彼もそう考えてくれていると信じている。面と向かって聞いた事は一度も無いがね」
氏と教授の年齢は、確か五年か六年程は離れていた筈である。
それなのに何故彼等が友誼を結ぶに至ったのか。そして教授の学生自体はどんなものだったのか。興味がない訳では無かったが、深入りすると後でネチネチと嫌味を言われるのは眼に見えている。沈黙は金だと、珈琲を口に流し込む事で誤魔化した。
氏としても、この場に居ない人間の話題で盛り上がるべきではないと思ったのかもしれない。有り難い事に、さっさと話題を元に戻すつもりのようだった。
「けれども、もっと早くに君を我が家に招きたかったというのは本心だよ。それが出来ていれば、今のような見方をされる事も無かっただろう」
「今のような見方とは?」
「去年度の事が有ったからこそ、その称賛と対価として君を招いたという見方だよ。ドラコはもっと早くから君を評価していたというのにね。息子に人を見る眼が有ったというのは喜ばしい一方、自分の親としての至らなさを思い知るばかりだ」
「……嗚呼、それですか」
去年度の革命絡みの話か。
「別に大層な事を提案した訳でも有りません。殆どが貴方がた頼りでしたし」
道筋を作ったとすら言えない。
何の謙譲も無く、全ての功績が純血家に帰せられるべきである。
「そもそもの話、三大魔法学校対抗試合に際して個人的なパーティを開く事は先例として有ったのでしょう? 約五百年。その間に四年生以上だけしか騒げない事に反感を抱いた人間が、全く現れなかったとは考えられない」
特に純血の子息・令嬢は素直に不満を示しただろう。
そして去年のクリスマスで実際に見せてくれたように、この手の催し事は純血の得意とする分野である。またあのように半学校行事として開催する事は出来ずとも、私的に交流を深める事は三校試合の気高き理念の下に何ら咎められる事ではなく、学校で招待状をバラ撒く事もまた何ら校則違反に該当しない。
実際、ルシウス・マルフォイ氏は頷いた。
「しかし、あの瞬間にそれを思い付いたというのが重要なのだ」
多くの人間が三百年を経て忘れていたからね、と氏は付け加える。
「そしてダンブルドアは何かと我々がホグワーツに関わる事から遠ざけて来た。私がホグワーツの理事であった時も、そうで無くなってからも。ダンブルドアはスリザリンを――」
「――毛嫌いしていますからね。彼は表面上、取り繕えていると思っていますが」
「そうだ。ただ、あの時のダンブルドアは我々の協力を欲したし、我々も惜しみなく応えた。それは君の発想無しには有り得なかったし、あれによって融和の姿勢を見せられた事は大きかった。彼は多くから好かれていないが、それは影響力が無いという事を意味しない」
「とはいえ融和は去年度限りであり、現状また敵視された訳ですが」
多少なりとも考える頭を持っている人間ならば、この国が今二つに割れている事に気付く。そしてコーネリウス・ファッジが対立軸の片方の旗頭でない事すらも。
けれども、氏は皮肉めいた口振りと共に笑ってみせた。
「状況は常に変わるものだし、已むを得ず対立せねばならないという場合は有るものだ。そして今の所、大義がどちらにあるかは明白だろう?」
「まあ、そうですね。
「そういう事だ。彼には宣戦布告を受け取る権利も、国家の緊急事態や戦争状態を宣言する権利もない。彼は政治家では無く、単に少しばかり偉大な老人であるだけだ」
今年のルシウス・マルフォイ氏の立場は明白だ。
去年の場合、十四年前に裏切った手前、光の側にも保険を掛けておく必要が有った。
しかし、許された以上、その保険は必要無い――というより、闇の帝王は両賭けを続ける事を許すまい。一度裏切ったと見られているからこそ、
そしてコーネリウス・ファッジは一応、形式上は魔法界の頂点に立っている。彼の語る言葉――闇の帝王の復活など嘘だという主張は、〝正しい〟もので然るべきだった。
「そう言えば、ドラコから聞いた推論もまた、実に興味深いものだった」
まだ本題に入る気がないのか、或いは本題でないという素振りなのか。
「勿論、守護霊ポッター殿の裁判についての事だ。君も聞いただろうが、彼は実際に無罪になった。──ドラコから事件の記録も見せて貰っただろうね?」
「……ええ、まあ。確かに見せて頂きましたよ」
パーシー・ウィーズリーの名が法廷書記として輝かしく記されている事件記録は、当然外部に出ている筈も無い文書である。しかし、平然とドラコ・マルフォイから渡された所で今更驚きは無かった。高貴なる彼等に法の秩序の縛りは左程利きはしないのだ。
ただその御蔭と言うべきか、裁判の顛末は正確に把握している。
「結構。あの記録を見て解る通り彼は完全無欠の無罪判決を下されたが、その結論を君は既に十日程前、少し話を聞いただけで導いていた」
「……結論を断言した訳では無く、あくまで可能性が高いと言っただけだった筈ですよ。そもそも単なる生徒間での雑談でしかない、非常に荒い推論です。貴方が気に留めるまでもなかったと思いますが」
「そうかね? 正直言って、君が未だホグワーツ生だという事に驚きを抱かざるを得ない。全てに賛同出来はしないが、私ですら納得する部分も有った」
「…………」
謙遜して良いかどうか解らず、誤魔化すように軽く頭を下げた。
その辺りは学生らしいなと笑われた事をみると、完全な不正解は避けられたようだ。
「元々セブルスも君を高く評価していた。君の物の見方は年に見合わない以前に正道から外れており、故にスリザリン向きの人材らしいと。まあ渋々認めると言った感じでは有ったがね」
「……寮監ならばそう言うでしょうね」
全く評価されていないと考えていた、と言うのは自惚れすぎだろう。
教授は教授なりに僕を評価しているからこその今までの四年間であるし、余り言語化したくはないが、彼の僕への〝親切〟の根源に在るのは
「その表情を見るに、彼と君とは余り良い関係性では無さそうだ。嗚呼、彼本人からも聞いている。単純に、君とは反りが合わないと」
「――まあそうですね。御互いそう表現するしかないでしょう」
「私としてはセブルスにそう言わせしめる事こそが興味深くもある。しかしこういう事は部外者が口を挟むべき物ではないし、同じスリザリンであっても気が合う相手ばかりではないのは事実だ。付け加えておくと、私の眼には君達が上手くやれているように見える」
「…………」
「おっと、セブルスに関してはこれくらいにして置こうか。本題では無いし、あまり彼も良い顔をしないからね」
自分から打ち切る事で反論の言葉を上手く封じ、氏は続けた。
「ともあれ、彼は上手く罪から逃げおおせた。さて、それを踏まえた上で
「……何故、そのような事を問うのです?」
「スティーブン君。君が君であるからだ」
追及を煙に巻くように彼は微笑む。
「ナルシッサにはこんな事を聞かないし、まして普通のホグワーツ生に質問などしない。妻の専門分野では無いし、後者に至っては聞く価値の有る回答が寄越されるとは思えないからだ。だが、私は君には聞いておく必要が有ると私は感じた」
「……過大評価だと思いますけどね」
「そうだろうか?」
「ええ。確かに貴方がたにとって物事が都合良く進まなかった、寧ろ非常に余計な事をしてくれたという感想すら抱く物でしょうが――」
「――それだよ」
「…………何か変な事を言いましたか?」
突然の制止。
疑問を返せば、回答は不吉な薄笑いだった。
「君は今回の事件と裁判の顛末を余計だと考えている。それどころか、君は今回の失敗を非常に冷ややかに見ている節が有る。その感想が出て来る時点で普通のホグワーツ生では無いのであり、君に話を聞いてみたいと考えるのは十分では無いかね?」
それは
その際一瞬だけでは有ったが、彼の表情は息子の知人に向ける類のものでは無かった。獲物を前に舌なめずりする蛇、数多の人間を服従させるのに慣れた貴族の表情だった。
「ポッターが退学にならなかった事に関して、ドラコは明らかに不満そうだった。予め君の見解を聞いていたからか、それ程大きな物では無かったがね。まあ裁判の結果が不愉快であったのは私にとっても変わりない。しかし、私は同時に息子に対しても不満を抱いた」
その言葉に改めて氏の表情を伺うが、流石に役者だ。
今の発言は外部の人間に聞かせるべきではない放言の類の筈だが、それを平然と吐ける位には、彼は名家の当主という役柄に慣れていた。
「嗚呼、ドラコは良くやっている。だが、親の欲目かな。良くやっているからこそ、更に多くを期待してしまう。つまり、私はドラコにその先を期待したのだ」
「先?」
「策や陰謀が失敗した場合。その後には検証が必要だろう?」
ルシウス・マルフォイ氏はそう言って立ち上がった。
一体何事かと思えば、彼は大きな窓に近寄った。何処か映画の俳優染みた大袈裟な所作であり、そして間違いなく意図的な行動であろう。今更ながらに庭の白孔雀が気になった訳でもあるまい。羽を広げた姿は確かに見事だが、この家の主である彼は見飽きている筈である。
彼が庭を見詰める形になった事によって、その表情が見えなくなった。
それが氏の行動に齎させた唯一の、そして互いにとって決定的に重要な結果だった。
「我々にとって失敗自体は問題無い。金銭も、権力も、一度の失敗で大きく打撃を受ける物では無い。例えば、去年度の君が目論んだパーティの裏側。その間に我々が動いていた件に関しては、失敗だったという見方も出来る。我々は短期間の内に莫大な金銭を喪い、各所に大きな借りを作った訳だからね。客観的にそう評価しうるというのは認めざるを得ない」
何について動いていたかを、氏は何ら明言しなかった。
僕が理解している前提で語り掛けており、実際理解している。
闇の帝王の復活に際して、彼等は亡命を画策していた。十四年前の裏切りの代償を支払わされる恐れの有った彼等は、万一の際、せめて妻子だけでも安全な場所へと逃せるように奔走していた。当然、莫大なガリオン金貨での前金付きだ。
しかし結果として、闇の帝王は裏切者を許した。
粛清により組織の引き締めを図るよりも、信用出来ない人間を懐に入れる事を選んだ。マルフォイ家を筆頭とする名家を敵に回すべきではないという打算が働いた結果だろうし、そもそも闇の帝王自身、死喰い人達の忠誠を最初から信じていなかった事の証左でもあるかもしれない。
故に彼等は亡命する必要がなくなった訳だが──だからと言って、去年の〝約束〟を一切無かった事にしてくれとは行かない。
改めて考えるまでもなく、裏切り者の家族を受け入れたり、逃がすのに助力するという事は、その家は当然闇の帝王に目を付けられるという事である。
どの程度の家がその〝要請〟に応えたか知らないが、仮に応えた家が有るのであれば、その勇気と覚悟自体に相応の価値が有り、対価は支払われるべきである。寧ろ旧来の友誼の為に危険を承知で助力してくれようとした家を冷遇してしまえば、マルフォイ家の沽券に関わる。
だからこそ、事実上契約は破棄されながらも相応の支払いは滞りなく行われただろうし、故に家の力は大きく減じた訳で、その面で言えば去年の件は大きな失敗とも評価し得る。
「勿論、私はあれを失敗だと考えていない。検証した結果、あれ以外の優れた手法などそうは無かったからだ。実の所今ならば、より適切だったと考えられる二、三の振るまい方を見付けてはいる。が、どんなに素晴らしくとも、その場で思い付けなかった考えに意味は無い」
「…………」
「ただ、検証する事が無価値ではない。寧ろ真逆だ。成功よりも失敗に、反省こそ学ぶ点がある。次が有れば、反省を生かす事が出来るからだ。そしてこれは厳然たる事実だが、我々は大概の庶民より次の機会が巡ってきやすい立場に在る。マルフォイ家の力は、それを可能にする」
何が言いたいか解ったかね、と氏は肩越しにチラリと僕を見た。
「今回におけるポッター絡みの陰謀は失敗した。ならば、何処が悪かったのか。いや、そもそも今回の騒動は何だったのか。それを考える事は当然ではないかね?」
「……それは貴方がたが考える事で、上の命で動く僕達には関係無いですが」
「君にしては珍しく思える間違いだ。若しくは惚けているのかな。我々の仕事の本分は考える事ではなく、君達の考えが正しいのかを見極めた上で決定する事だ。まあ最善は自分でも考えられる上位者である事だがね。私が今回ドラコにそれを求めたのは、酷だったかもしれない」
けれども困難を求めなければ向上は見込めまい。
そう謳ってみせた氏は、再度窓を通して庭を見詰め始める。
上手く窓に反射して彼の表情が見えるようにならないかというのは期待し過ぎだった。光はあの校長よりも平等だが、それ故に融通が利きはしない。
「……正直な所、貴方は現状を正確に把握しているように思えます。物事を考えられる当主である貴方に、僕の言葉は必要無さそうに思えますが」
「
声だけは軽やかに氏はそう言った。
「もっとも、雑談の延長だよ。私は君に正解を求めている訳でもないし、既に済んでしまった事なのだ。見当違いの回答をした所で何ら責めはしないし、実現可能性すら問いはしない。あくまで思考実験のような物と考えてくれて構わない」
「……貴方がたの〝雑談〟が仕事の一種である事を考えれば、それ程信頼に値しない保証もそう多くはないと思うのですけどね」
露骨に揶揄してみたのが、やはり面の皮は厚い。
そもそも向き合っていないのだから、それを打ち破る事は無理だろう。
そしてこの場で僕が回答する事は、ルシウス・マルフォイ氏の中では既に決定事項なのだ。それを下位者が覆すには相応の材料が必要であり、尚且つ相対する上位者が
軽く嘆息した後、僕は端的に結論を述べた。
「――コーネリウス・ファッジ大臣は上手く嵌められた物だ。僕はそう思いましたよ」
ルシウス・マルフォイ氏は外を見詰めたままである。
しかし確かに話を聞いている証として、彼は物分かりの悪い生徒を装う台詞を吐く。
「……何故、君はそのように思う?」
「今回の裁判を素直に見ればそんな感想を抱く筈でしょう? だって、少なくとも今回の
あの大臣の行動では合理性を欠き、経済性すらも欠いている。
そこには明らかな歪みが存在し、故にそれは何らかの干渉、それも彼の目論見を挫こうとする敵対勢力の口出しを見出さざるを得ないのだ。
「大臣の目的は、自惚れ切った〝生き残った男の子〟の権威の失墜でした」
闇の帝王が復活したという大嘘を吐き、魔法省が維持してきた十四年間の平和を破壊しようとする不届き者を掣肘しようとする事。それが大前提であり、今回の裁判もその延長線上に位置している。
「しかし、その目的を果たす為に
今回の騒動は本来ただそれだけで終わっていた。
そして一度有罪判決さえ勝ち取ってしまえば、後はこれまでと同様に『日刊予言者新聞』で印象操作――ハリー・ポッターは魔法界の秩序を軽んじる人間だと読者に知らしめるだけである。当然ハリー・ポッターは控訴する事だろうが、馬鹿な大衆に〝正義〟がどちらにあるかを信じさせるには十分だ。
少なくとも〝マグルの住宅街で、かつマグルの面前で魔法を使った〟という点は事実なのだ。全くの捏造ではない分、非常に楽な仕事だった事だろう。
「ウィゼンガモットの過半数を買収する事と、裁判官一人を買収する事。どちらが楽な仕事であるかは明白でしょう? まあ結果として彼は無罪になったのですから大臣は買収し切れておらず、元より勝算なんてのはロクになかった訳ですしね」
スリザリンならば取らない手段でしょう、と評価を下す。
狡猾なる蛇は、可能な限り勝てる勝負のみに挑む主義だ。
勝ち目が解らない勝負は回避出来るならば回避するし、他の機会を待つ事を選択する。彼等の豊富な財産と権力は長期的視野の下での行動を可能とするのであり、そもそもそのような思慮と慎重さ無しには、蛇寮が掲げる自己防衛など成しえない。
その観点から判断するに、コーネリウス・ファッジにスリザリン的資質は皆無だろう。今回のような喜劇を引き起こした挙句、しかも失敗するような事は有ってはならないのだ。
「……ふむ。しかし、君は知らない――嗚呼、その筈だな。まだ君に紹介した事は無かったと記憶している。ともあれ今の魔法法執行部のボーンズ女史は余り愉快とは言えない人間だ。彼女が我々の圧力を撥ねのける人間だとは考えなかったのかね?」
「僕は確かに彼女を知りません。しかし、左程好ましい人物だとも思えませんね」
「何故だね?」
「たかが未成年の魔法使用違反事件に際し、大法廷を用いる事を止められなかった。その時点で、既に後世から無能として評されるであろう一人だからですよ」
氏の反論は真っ当で、理解出来る。
が、大抵の人間はそう割り切ってくれない筈だ。
彼女にも政治や事情が存在したのかもしれない。ハリー・ポッターが有罪になるという最悪の結果を避ける為に、今回のような舞台を設定したのかもしれない。だが、やはりそれは大義の為に法を踏み躙る態度であり、法の擁護者として褒められた物ではないだろう。
被告人が〝生き残った男の子〟な事もあり、今回の事件は後世において間違いなく取り沙汰されるだろうし、ウィゼンガモットの腐敗を示す一事例として長らく語り継がれるであろう。そしてその当事者の一人である彼女もまた、決して良い評価をされる筈も無い。
「未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令及び国際機密保持法違反。生徒に出回っている情報からすれば重罪ですが、実際は間違いなく大した罪状では無い。まあ実際学校が下す退学処分自体は重いですが、一方で省が科す刑事罰自体は非常に軽い筈だ。大法廷を用いる必要が無いのは当然として、魔法法執行部部長が気に留める程の事件ですらない」
「……君は断言してみせるのだな」
「元々疑ってはいましたが、今は確信していますよ。今回のハリー・ポッターの裁判は一日、それも短時間で終わっています。要は、本来であれば裁判官一人居れば足り、悪質な再犯者でも無ければ流れ作業的に処理される程度の事件なんでしょう?」
刑事大法廷で裁かれるような典型的事件――例えば死喰い人疑惑を受けた人間の裁判一件を処理するのに、一体どれだけの日数が費やされたと思っているのか。
「第一、落ち着いて考えればハリー・ポッターが退学になる事は有り得なかった」
現行の魔法法の相場を踏まえれば、そのような重罪が課されるとは思えなかった。
「三年前。自分自身が作った法の抜け穴を利用して空飛ぶ自動車を所持し、己の子供に持ち出しを許す程の杜撰な管理をしていたマグル製品不正使用取締局局長。彼がどんな罰を受けたか、貴方は当然記憶されているでしょう?」
「……まあ、そうだな」
ルシウス・マルフォイ氏が覚えていない筈もない。
〝マグル〟社会において、車は映画の中以外では飛ばない。
確かに彼自身が公然と車を飛ばした訳では無いが、そもそも空を飛ぶ車の存在を許し続ける事自体、〝マグル〟に魔法族の存在を疑わせ、国際機密保持法を危うくする行為である。まして厳重な管理下に置かないなど魔法省役人としての危機感が足りないと言って良い。
しかしその罪に対して科されたのは、杖七本分相当でしかない五十ガリオンの罰金。懲戒免職も無し。ただそれだけでしかなかった。
やはり刑が軽過ぎるというが個人的な意見だが、それはあくまで〝マグル〟の価値観に被れ過ぎた僕の考えだからだろう。ルシウス・マルフォイ氏ですら、内心あの程度の処分が妥当であるという判断を下していたのかもしれない。
何が起ころうと、杖を一振りして忘れさせてしまえばそれで済む。
そんな意識が頭に有る魔法使いにとっては、国際機密保持法違反は重罪に成り得ないのだろう。ルビウス・ハグリッドの行動などその典型だ。彼等は〝マグル〟を要注意存在として認識していないし、もっと言えば舐め腐っている。
一応科学知識を持っていて多少数が勝るだけの種族を過大評価するべきではないとは僕も思うが、さりとて現状の大多数の魔法使いの認識は、やはり過小評価し過ぎとの結論を下さざるを得ない。〝マグル〟の技術は著しい勢いで進歩しているにも拘わらず、しかし現在の多くの魔法族は百年以上前の魔法族より鈍感と来ている。国際機密保持法を真剣に考えていたという点においては、ゲラート・グリンデルバルトの革命期の方がまだマシですらあろう。
「〝マグル〟の前で夜間に魔法を使った? その程度なら頭の足りない彼等は心霊現象と勝手に解釈してくれるでしょうし、魔法の秘密を大きく危うくする程度でも無い。つまりは微罪も微罪。魔法族の一般感覚に照らせば大騒ぎする事の話では無かった。なれば、オフィスの片隅で一人が淡々と処理しない時点で、既に今回の裁判は歪められていた」
裁判官の心理として慎重に裁きたくなるとかいう理屈は知った事ではない。
相手が有名人であろうが同じ魔法族である。特別扱いも平等を欠く行いに違いはない。
「――畢竟、あの大臣が欲張り過ぎたのがいけなかったんですよ」
罪と罰の天秤を大きく歪ませる行いは、やはりすべきではない。
その場では上手く行っているように見えても、必ず何処かで理屈が合わなくなるからだ。
「ハリー・ポッターの行為を大罪のように扱い、大法廷で
「……つまり、君はそれがコーネリウスの失態という訳だ」
「ええ。それが一番です」
「その口振りだと、他にも有るようだな」
「……有ると言えば有りますけどね」
意図して溜息を吐いたのは、氏の催促する気配を察したからではない。
当日のウィゼンガモットの面々も唖然としただろうと思う程、今回の裁判運営が余りに杜撰で、根回しも何も無いように見えてしまうからだ。
「……記録上から余り定かではないんですが、結局〝当該時刻、吸魂鬼は全員魔法省の管理下に居たとする記録〟のようなものは、裁判上提出されたんですか? 仮にそれが提出されていたとしても、ウィゼンガモットの方々に印象付けられているとは思えなかったんですが?」
羊皮紙――書面のようなモノは出たのかも知れないが、少なくとも証人は登場人物として出て来ずに終わってしまっている。
「まずこの国の魔法族の社会常識として、吸魂鬼は基本的にアズカバンにしか居ませんし、それらは原則魔法省に管理されています。また野良或いは逃亡した吸魂鬼が万一居たとしても、アレらは本能先行の畜生と左程変わりません。そこらに居るマグルを襲うような騒ぎを一切起こさないままに魔法族一人を襲撃するのは考え辛い」
「────」
「そもそも
要は、ハリー・ポッターが吸魂鬼に襲われるなどという事態は、そもそも発生する可能性自体が非常に低いものであり、反論そのものの評価として余り強力な物ではない。
「それらを踏まえた時、今回の事件においてハリー・ポッターに有罪判決を下すのは、絶対に不可能だったのでしょうか?」
抽象的には、その場に吸魂鬼が居た可能性は有り得る。
自分が殺す前に偶々他の誰かが殺していたり、覚醒剤を知らない内に飲まされて居たりするように、真犯人や首謀者の存在が零であると断言するのは神ならぬ裁判官には不可能である。だからこそ、ある程度の蓋然性――他の人間の関与が非常に低く、被告人が罪を犯した可能性が非常に高いと判断出来たならば、裁判官は有罪判決を下すのが通常だろう。
「何処かの弁護……いえ、彼は証人でしたか。彼が反論として挙げたストーリーは、魔法省の誰かが吸魂鬼に命令を下し、二人の吸魂鬼が魔法省の統制下を離れてプリベット通りを訪れ、そして被告人を襲ったという物でした。この反論は、裁判に顕出された証拠から見てそれ程有り得る――可能性が高いと言えるものでしょうかね?」
魔法省の支配下にある吸魂鬼は、全て居場所が把握されていた。当然ながら、プリベット通りに行ったという吸魂鬼も見当たらない。ならばプリベット通りにおける吸魂鬼の不存在は立証され、魔法省が命令したという事実も不存在である。
そう判断して有罪判決を下すのは、それなりに真っ当と言えないだろうか。
「そもそも、ハリー・ポッターの防御方法は予想出来た内容でしょう? 魔法を使った事自体を否定するか、魔法を使ったがそれは正当な理由に基づく物であるか。彼が無罪を主張する場合はそのどちらかのストーリーに乗る筈で、今回もそれから逸脱するものではない」
守護霊の呪文を使ったという証拠からすれば、吸魂鬼が居たという主張は非常に素直である。
「ならば大臣側はもっと準備出来た筈では? 魔法省内の吸魂鬼の運営は適切に為されていたとか、特定の個人のみを襲える程に吸魂鬼は自制心が強くないとか。僕の想像力ではその程度が限界ですが、それらを証言する魔法省の役人を連れて来るのは無駄ではないでしょう」
何故なら、
国家による記録も役人も、基本的に罪を逃れようとする被告人達よりも信頼がおける。そんな社会通念が存在し、国家が提出する物全てを疑ってしまっていては、そもそも国家として成り立たない。それを疑う気ならば最低限でも疑わせるだけの切っ掛けが示されるべきだろう。
闇の帝王云々にしても、本件において提出なされるべきはそれが復活したという証拠──つまりハリー・ポッターという証言者──ではなく、闇の帝王が吸魂鬼に命令したと疑わせるに足る証拠が出されるべきで、何の根拠も無しでは妄想や狂言より多少マシ程度の評価しか出来ない。
「ハリー・ポッターがどう立証するか。その事に事前に僕が興味を持っていたのは、大臣側がそれらの〝
スクイブの老婆の証言は、吸魂鬼に関する描写として、でかくてマントを着ていた以外の言及が出来ず、それどころか走るとか抜かしてみせるような代物だ。
第一、マグルには吸魂鬼が見えない以上、スクイブにもやはり見えないと考えるのが素直では無いだろうか。仮にスクイブが〝微小な魔法力を持つものの、それが魔法を行使する程の程度に至らない人間〟を含み、その手の人間には吸魂鬼が見えるとしても、今回の証人が実際に視る能力を持っているかは試して然るべきである。
後は……絶対に居ないとは言わないが、午後九時過ぎにキャットフードを買いに外に出る老婆がどれ程居るかは疑問である。しかもそんな人間が、吸魂鬼が魔法族――しかもその周辺では殆ど唯一の――を襲っている場面に偶々出くわす。純粋に確率のみで考えれば奇跡だろう。裏の事情を知っていなければ、最初から信憑性が疑わしくて仕方が無い。
「しかしながら……
今回のウィゼンガモットが無罪判決を下すのも道理である。
疑わしきは被告人の利益にという原則を理解する頭を持った文明人であれば、証拠上無罪判決を下す以外に有り得なかった。
「……つまり、君は大臣の準備不足も悪かったと見る訳だな」
ルシウス・マルフォイは感心した素振りを一切見せないまま、淡々と言った。
「けれども、君は最初に『嵌められた』と言った。その理由を説明していない。君の口振りは確信に満ちている。何処かの老人が大臣の慢心を招いていてみせた──その程度の事を言っているようには思えない」
「まあ当然そういう切り返しが来ますよね。仰る通り、大臣の準備不足なんて大した問題とは考えていませんよ。望ましくはなくとも、それらは別に取返しのつく筈だったのですから」
「取返しがつくとは? 裁判が始まった後でも準備出来たという事かね?」
「……それを口にしている事自体、貴方は理解しているような物ですけどね」
だがどうあれ、ルシウス・マルフォイ氏は僕の口から答えさせたいらしい。
「今回の裁判は何から何まで歪んでいました。訴追側の主張にしても、
明け透けな暴言に、氏は何も反論をしなかった。
僕の方も本気で言っている訳では無い。ただ相手が悪かっただけだ。
「着目すべきは被告人側証人の発言です。その主張において、非常に首を傾げるものが存在しました。『魔法省は、必ずや徹底した調査をなさることでしょう。二人の吸魂鬼がなぜアズカバンからあれほど遠くにいたのか』『路地に吸魂鬼が存在したということは、本件において非常に関連性が高い』。彼はそのような発言をしています」
「無論、それを問題としているのではないのだろう?」
「ええ。非常に奇妙なのは次です。そう主張したのにも拘わらず、彼はこう言っ――いえ、発言自体は重要ではないですね。兎に角、彼は評決を早急に下すよう要求したんですよ。
証人の主張は論理一貫性を欠いている。
彼の名誉の為に言えば、意図的に欠けさせている。
「正直、ウィゼンガモットの方々は困ったでしょう。吸魂鬼の在不在が事件に関連性が高く、かつ重要であるならば、その調査結果を見定めてから有罪無罪の判断を下したいと思う筈です。人一人の運命を決めるんだ、その程度の慎重さを責められる筋合いは無く――しかしながら、被告人側はそう主張し、対する大臣も何も言わなかった。魔法省の調査と〝準備〟が整うのを待てとは誰も言い出さなかった」
それはやはり失態であり、彼が嵌められた事を確信した根拠でも有る。
そして大臣を嵌めたのが誰かは……まあ、明らかである。それが出来る人間など、初めから配役の内に一人しか居ない。彼はとことん人の操り方を心得ている。
「コーネリウス・ファッジ大臣が〝真っ当に〟裁判をやれば、ハリー・ポッターは
ハリー・ポッターの心の平穏を願う老人は全力でそれを阻止した。
不当判決だとしても有罪を下される事を、或いは新学期が始まっても裁判の心配をしなければならない事を回避しようとした。
元々魔法省の調査結果が公正に行われるなど欠片も信じていなかったのも有るだろう。このウィゼンガモットで公演される喜劇の舞台を準備する為に、彼はコーネリウス・ファッジを含めた各方面の人間を得意の口八丁で騙し、自身の影響力を存分に行使したに違いない。
結局、スクイブの証言の信憑性や吸魂鬼が実際に居たかの調査結果どうこうなど、最初から何ら問題では無かったのだろう。コーネリウス・ファッジに大法廷を招集
「魔法法執行部や魔法不正取締局が内々に処理出来る程度の微罪事件。そんな些事に魔法大臣が出て来る余地は無くとも、大法廷で行われる程の重大事件については魔法大臣の参加資格は当然有る。また、あの大臣が勝訴は間違いないと
だから、やはり大臣が欲張り過ぎたのが問題だった。
こんな些細な事件を大法廷で裁くという大事にした時点で、彼は殆ど詰んでいた。
「更に証人は評決を促す前、適正手続違反――魔法界にそんな概念が有るかは知りませんが――未成年の魔法不正使用を大法廷で裁くという異常を指摘している。誰が見ても露骨な権力闘争で、裏の事情を邪推するには十分です。そして被告人を有罪と疑うだけの証拠も不十分。であれば、評決を求められたウィゼンガモットの結論は見えていた」
ウィゼンガモットの構成員は現状、光の陣営に近しい者が多数を占める。
そうでなければ既に魔法界は闇の帝王の手に陥ちている筈であり、彼等には一定程度の良識を期待し得る。だからこそ、コーネリウス・ファッジがウィゼンガモットの支持を得たいのであれば、彼等の善なる心に最低限の〝配慮〟をしてやるべきだった。
余計な責任を自分が負う事は可能な限り避けたい。
そう考えるのが多くの人間の思考であり、特に正義を欠く疑惑が有るならば猶更だ。
ゲラート・グリンデルバルトが国際機密保持法の破壊を掲げ、また闇の帝王が純血の復権を掲げたように、大きな悪を実現するのに最も楽で手っ取り早い方法は、それを善であるかのように上手く糊塗してみせる事である。その時点では善だと思えたのだという後世への言い訳を用意してやってこそ、平凡な人間は心安らかに非道を為せる。
だがコーネリウス・ファッジには悪人の才能が無かったのだろう。
だからこそ、ハリー・ポッターやアルバス・ダンブルドアを他ならぬ自分の手で貶めたいと考える余り、表向き粛々と法に従う素振りをしつつも裏工作で滅ぼすのではなく、一見正々堂々に見える公開裁判で〝悪〟を叩きのめす事に固執した結果――誰が見ても権力の恣意的濫用と取れるような手段に手を染め、挙句の果てに失敗してしまった。
まあアルバス・ダンブルドアやルシウス・マルフォイ氏も己こそが法律であるというような振る舞いを相当しているのだが、しかしそれは傑出した大魔法使いや莫大な財産を持つ名家当主だからこそ出来る事で、そしてコーネリウス・ファッジはそのどちらでもない。
「敵でないのならば手放しで称賛出来る。そう思ってしまう程に見事な手腕ですよ」