「──終わった話はこれくらいにして、今後の話をしましょうか」
改めて僕はアルバス・ダンブルドアへとそう呼びかける。
確かに必要な確認では有ったが、これ以上過去に浸っていても何の建設性も無い。僕達は未来に繋がる話をする為に互いに会う意味を見出したのであり、僕の方は既に終えてしまったとはいえ、アルバス・ダンブルドアの目的はまだ終わっていないだろう。
「もっとも、既に立場は明らかにしているつもりですけどね」
牽制の意味を含めて、この老人にも解っている事を確認する。
「僕は今マルフォイ家に世話になっている。仮に貴方の目的や用件が僕を自分の陣営に引き込む事だとすれば、既に貴方の目的が叶う事は無いでしょう」
「君が
アルバス・ダンブルドアは冷ややかに言う。
「あの家がヴォルデモートに付き従い続けられるとは思えぬ。風向きが悪くなれば直ぐに裏切るじゃろうし、既にあやつも信頼を置いておらぬじゃろう。そしてヴォルデモートが今知っているか解らんが、ルシウスの迂闊な行いにより自身の秘宝を喪った事を知れば、その信頼が欠片も無くなる事は目に見えておる」
「……秘密の部屋の一件。分霊箱の話ですか」
「左様。それに、君はここに来たじゃろう? 一切揺らぐつもりが無いのであれば、儂の誘いを断わるべきじゃった」
「…………。だからと言って、貴方の走狗になるつもりは有りませんよ」
「それでも
半分呆れた僕を前にして、アルバス・ダンブルドアは断言した。
「クラウチ・ジュニアは君を引き込もうとした。しかし、引き込み切れなかったのは確かじゃろう? 彼は第三の課題後、殆ど直ぐに正体が露見してしまった。ヴォルデモートは君に対して本来抱くべき関心を、未だ抱いておらぬ筈じゃ」
「…………」
「逃亡したバーティへの対処を見るに、彼等の間に連絡手段が有ったのは確かであろう。しかし、ジュニアも敵地への潜伏中、或いは第三の課題の最中に、見込みが有るスリザリン生が居ると一々報告する程迂闊では無かったと儂は考えておる」
「……まあ、本来抱くべきという部分はさておき、闇の帝王が僕に必要以上の注意を払っていないのは確かでしょうね。ルシウス・マルフォイ氏の言動を観察する限りでも、僕をドラコ・マルフォイの知己以上には扱っていないように思える」
闇の帝王が公的には死んだままであるというのも有るだろうが、主君の為に使命に殉じた死喰い人が残した教え子という認識を持っていたならば、もっと何か有って良いという筈だという考えは抱かなくもない。
そして不用意なドラコ・マルフォイはさておき、少なくともルシウス・マルフォイ氏やナルシッサ・マルフォイ夫人の方は、僕の前で闇の帝王が復活した事を肯定する発言をしてもいない。僕の価値は、一ホグワーツ生の域を出ていないのは確実視していいだろう。
「しかし、儂はヴォルデモート以上に、君に関心を寄せておる」
それはそうだろう。
考えても気が滅入る事に、僕達には四年間の積み重ねがある。
「儂が目的をもって君を呼び寄せたように、君もまた目的をもってこの場所に来た。最初から見込みがないならば儂も諦めるが、多少の手間で可能性を手繰り寄せられるというならば、儂にやらない理由はない」
「……まあ、目的が無かった訳では有りませんが」
この老人と向き合うと何時も気疲れすると、そう溜息を吐く。
「ただ僕がどういう立場を取ろうとも、
「おお、それは解っているとも。しかし――」
「――何らかの情報を与える代わりに僕を貴方側に付かせる気ならもう無理ですよ。僕が一番聞きたかった事。つまり、あの死喰い人の正体が誰だったのかというのは知れたので」
アルバス・ダンブルドアの言葉を途中で切って結論だけを示す。
僕の用事はそれであり、それしかなかった。〝アラスター・ムーディ教授〟の正体をハリー・ポッターから聞く事は出来る事なら避けたかったし、そもそも彼がその事実を知っているかどうか自体が不明確だった。だから問題はどうやって知るか、そしてこの老人に口にさせるかだったのだが、重要でないと勘違いしたせいか、あっさりと吐いてくれた。
その情報に価値が有ると
老人の顔が僅かに歪む。彼は己の失態を漸く自覚したようだった。
「……開心術の方はさておき、儂は君に閉心術を教えた事は未だに正しいと思っておる。しかし、それが正しい判断であった事を今程に恨んだ事はない」
「貴方が教え始めてから丸二年以上。毎日修練を積んできた甲斐は有ったようですね。貴方が油断していたのも有るでしょうが、それでも貴方に通じたというのは確かなのですから」
「記憶を隠したのじゃな。それも、儂に知られれば不都合な記憶を」
「杖に誓って言いますが、ほんの一部だけですよ」
努力はしたものの、それが限界だった。
それ以上を欲張れば、この老人に不自然さを勘付かれただろう。
「他はバーテミウス・クラウチ氏のも含め本物の記憶で、一部を捻じ曲げるという事すら出来なかった。やはり単に不都合な記憶を隠すという事と、違う記憶を作るのは全く異なりますね。心を読まれるのを逆手に取って相手を嵌めるというのは中々出来そうにない」
「それは老練な魔法使いにとっても無理じゃよ。君より遥かに長く生きたスリザリンの先輩――ヴォルデモートやセブルスの事ではないが――ですらも非常に困難な御業じゃ」
「それを聞けて良かった。馬鹿な事をして失敗するのは避けたいですからね」
とはいえ、自分の閉心術は一応この老人にすら通じる。
それを知れた事は、今回の大きな収穫で有ったと言えよう。
「しかし、ここで明確に警告しておこう。自分以外の誰も信用しないヴォルデモートは、まず間違いなく儂を上回る開心術の腕前を持っておるじゃろう。先程まんまと儂を欺く事が出来たとしても、同じく通じると油断すべきではない」
「解っていますよ。貴方から教わった時の、当初の目標の期間すら未だ過ぎていない。まだ時間は有る──というより、御互いに有って欲しい訳ですが」
「ならば儂も少しは安心出来る。君が今言った通り、君の心の防備が厚いという事は儂にも利点があるのは確かじゃ。この会合も、君が易々と心を読まれぬ事を前提としておるしの」
机の上で指を組み、その顔に僅かに疲労を滲ませながらも、老人は言った。
「──して、儂の側の目的についての話じゃったか」
瞳を一度閉じたのは、覚悟を決める為か。
「儂も君をどうするかについて、今まで頭を悩ませておった。クラウチと一緒の気分じゃよ。君は喪えない駒では決して無いが、かと言って放置すれば問題が生じる程度には無視出来ない駒でも有る。彼がファッジを使って君を課題から遠ざけたのは非常に良い手じゃった」
「あの死喰い人の前でも思いましたが、僕を幽閉する必要が有ったとは思いませんが」
「いいや。自由に発想を飛ばせる君であれば、第三の課題中に移動鍵の絡繰りに気付きえたじゃろう。そこで君が公然と試合を中止させようと動いたかまでは儂にも断言出来んが、最悪でも自分の感想を周りに漏らす程度の事はした筈じゃ」
「……まあ、仮にマルフォイに聞かれでもしたら、口を滑らす位はしたかもしれませんね」
それ自体は、一スリザリン生として不自然ではない。
無知な生徒が偶々闇の帝王に不都合な行動をしてしまった程度であり、当然逆恨みを食らう事は避けられないが、やってみる価値は見出した事だろう。その内容がアルバス・ダンブルドアの耳にまで入るかは問題だが、優勝者がどうやって判定されるかの賭けでも大々的に開催すれば、この老人まで届き得たかもしれない。
「そして一番望ましい結果は、今ここで君の陣営を明確に変えさせる事であったが、どうもそう簡単には行かぬらしい。まあ解っていた事じゃがの。君が一度決めた事柄を易々と翻さぬ事は、儂以上に他人の言葉を聞き入れぬという事は、儂も十分よく知っている」
「…………」
「だからこそ、儂は考え方を変える事にした。未だ君の立ち振る舞い方を変える事は諦めておらぬが、多少譲歩しても良いと思っている。最悪、儂が君を使えずとも構わないとしよう」
「どういう──」
「──まずは
その宣言を聞いて、どうして絶句しないで居られようか。
アルバス・ダンブルドアは直ぐに説明を続けず、僕の動揺が収まるのを辛抱強く待っていた。そして、それには時間が掛かった。少なくとも僕の認識では、長い時間を必要とした。これまでの四年間で一度も感じた事ないとすら思える驚愕を、アルバス・ダンブルドアの提案は齎したのだった。
「……貴方は何を僕にさせようとしているのです?」
「儂がさせるのではない。君がするのじゃ」
長い顎鬚を撫でながら、嫌に蒼い瞳を煌めかせて老人は言う。
「ヴォルデモートは復活した。あやつは今は大人しくしておるが、今後ホグワーツへ干渉を試みないとは考えられぬ。まあ今年の闇の魔術に対する防衛術の新任教授は君の所の紐付きでは有りながらも、服従の呪文を掛けてどうこうする気までは無さそうじゃがのう」
「……それがハリー・ポッターの今までを語る事にどう繋がるのですか」
「君は儂と同じタイプの人間じゃ。人の心の動きを深く読み切り、人の行動を操り、そしてひいては未来すらも正確に推量してしまう。しかし、正確な過去と情報を知っておかねば、君はハリーの動向を予想し切れず、それどころか見誤ってしまう事じゃろう」
「だから貴方は僕へ彼について情報を教え、そしてその上で僕が勝手に動くのであれば、貴方の利益に反する事はないと考えているという訳ですか」
「そういう事じゃな」
アルバス・ダンブルドアの頷きに、苦々しい想いを抱く。
そして確かに一学年時、賢者の石の時は、僕はこの老人に真意の一端を教えられたが故に動かなかった。逆に何も教えられていなかったならば──今考えれば、教えられなかった方が余程良い方向に進んだ筈であるが──ルシウス・マルフォイ氏に賢者の石の存在を伝えるのを躊躇わず、結果としてアルバス・ダンブルドアの偉大な計画に支障が出たのは間違いない。
だが、アルバス・ダンブルドアは秘密の暴露により僕を完璧に制御しきったのであって、要はこの老人にとって、合理的に行動する相手程に操りやすい人間は居ないという事だろう。
「……しかし、僕じゃなくても良いでしょう。貴方がこれからの事を示唆しておくならば、僕よりも彼の傍に居るハーマイオニーやロナルド・ウィーズリーが適切なのでは?」
「ハリーの友人というだけでも注意を引くのに、儂が彼等に一生徒以上の関心や期待を抱いておると知られるのは宜しくない。その方が君にとっても都合が良いじゃろう。そして彼等はハリーの立場に寄り過ぎている。君のように全体を見て行動する事を期待は出来ぬ」
「…………僕はハリー・ポッターの味方という訳では無いのですがね」
「だとしてもハリーについて知っておく事は、君がハーマイオニーの安全を図る事にも繋がるのでは無いかね?」
……殺意を抱く程に、その指摘は正しい。
ただ一人の行動を確実に予測し切る事は、それが良く知るハーマイオニー・グレンジャーであったとしても中々困難だ。しかし、物事の規模が大きければ大きい程、そして動く人数が多ければ多い程に予測しやすくなる場合も時として存在する。
特にハリー・ポッターは、これからの戦争において中核となるべき人物である。
あの三人組の中で、生死を賭した闘争に直接挑んだ経験が有るのも彼一人。彼の意向は三人組全体の行動指針に大きく影響を与えるだろうし、彼の動向を正確に把握しておく事が、そのまま彼女の動きを見極める事にも繋がり得る。
「……はあ。自分の預かり知らぬ場所で己の情報が暴露されていた事を知れば、ハリー・ポッターは強い不快感を抱くでしょうね」
「真っ当な思い遣りの心など持ちあわせていないのは御互い今更の事じゃろう」
「まあ、戦争を遂行出来る人間が普通の良心を持っている方が異常ですか。そして僕も自分が善良とは言えない事は自覚しているつもりですよ」
僕の返答に、同意と言質は取れたと判断したのだろう。
そうして、アルバス・ダンブルドアはハリー・ポッターについて語り出した。それは、長い長い、英雄譚であった。
ハリー・ポッターの今まで。
そうは言えども、丸十五年を語る訳ではない。
ポッター家に居た頃の記憶のない赤子について長々と語った所で何の役に立たないし、ダーズリー家からの虐待がハリー・ポッターの人格を考える上で忘れてはならないにしても、彼の今を形作る決定的要素という訳では無い。そもそも、多くはアルバス・ダンブルドアが実際に見ていない光景であり、この老人には最初から語り得ないという事情も有る。
だから老人が主に語ったのは、ハリー・ポッターの
その上、アルバス・ダンブルドアは僕に必要な情報を提示するという名目でそれを語っている以上、情景を詳細に口述するという事は無く、半ば叙事史的な語り口であり、どちらかと言えば淡々とした、無味乾燥な響きから逃れられていなかった。
もっとも、半ばと言ったのは、完全に事実や事象のみを語った訳では無かったからだ。
例えばアルバス・ダンブルドアは、自身がハリー・ポッターと交わした会話や、クィリナス・クィレル教授に憑りついた闇の帝王の言葉、或いは日記帳より現れたトム・マールヴォロ・リドルの言葉については、時間を掛けて詳細に語った。
多分それらは彼がハリー・ポッターから聞いた言葉を相当正確に再現した物であり、この老人は、それらの会話の内容や話振りを非常に重要だと考え、そしてまた僕が是が否にでも知っておかねばならないと判断したのだろう。
一方で賢者の石へ繋がる途中への試練の詳細などは、アルバス・ダンブルドアにとって左程意義を持たない。スネイプ教授が石を狙っていると勘違いしたハリー・ポッターは、禁じられた廊下を抜けて石の間に辿り着き、鏡の前に立ったとだけ述べて終わりだ。
けれども、アルバス・ダンブルドアがそうしたのも、決して不親切によるものではない。重要部以外を可能な限り省いたのは、僕はハリー・ポッターと同じ年にホグワーツに通っている生徒であり、尚且つハーマイオニーという別の情報源、情感的な語り部が居たからである。
彼女は多くを語った。
賢者の石に関していえば、四つの試練。チェスでのロナルド・ウィーズリーの脱落。その際の不安や焦り。ハリー・ポッターの機転や対応等々。起きた事件だけを語るには不要な細部は、しかし当時の状況を脳裏で再現するには必要不可欠であり、ハリー・ポッターがどんな人物であるかを正確に把握する為の助けとなる部分だった。
勿論、ハーマイオニーが語れない部分も有る。鏡の仕掛けについての細部についてなどは、ハーマイオニーが直接見ていない事も有って多くを聞けた訳では無かったが、けれどもそれについては今回アルバス・ダンブルドアが語っている。
要は二人の語り手によって紡がれた話と、僕自身が彼等のホグワーツ生活の多くを見て来たが故に、僕はハリー・ポッターの四年間を再構成するのは容易かった。
さながら本のように、或いは映画のように、僕の脳裏にはハリー・ポッターが抱いた喜怒哀楽、実際に見たであろう光景は克明に再現されていた。あの英雄が直面したこれまでの脅威、今までの四年間に送ってきた冒険の数々は、当時抱いた感情は、その打倒の仕方は、容易に情景を想像する事が出来たのだ。
そしてそれはアルバス・ダンブルドアの目論見通りであった事だろう。
僕がそれを可能だと見透かした上で、彼はハリー・ポッターについて語っている。これまでの四年間を踏まえ、これからの数年間を動く事を期待している。つくづく嫌な老人であり、けれどもこれからの行動の為に僕に情報を与え、操り糸無しに僕を操作するという観点では、非常に見事な手腕だった。
ただ――アルバス・ダンブルドアは過小評価し過ぎていた。
僕にとってハリー・ポッターが如何なる存在であり、その話を聞く前から、僕が彼についてどんな認識を抱き、価値を見出していたのかを。
アルバス・ダンブルドアは、彼が最初に示唆した目的以上の意図を有していなかった。
彼の目的は、動く気がない己の代わりに、僕からハリー・ポッターに適宜必要な情報を与え、そしてまた、ハリー・ポッターの行動を監視し、制御させる事である。その事だけを考えれば、アルバス・ダンブルドアにとってハリー・ポッターの四年間を語る事は、最小の手間で最大の効率を上げる為の手段であるのは間違いなかった。
しかし、彼は思い出すべきだった。
三年時、シリウス・ブラックへの対応を僕は放棄した。
今では間違いであった事が疑いようもないその選択は、しかしあの時点の僕は正解だと判断していた。それは情報の不足によって僕が
確かに僕はアルバス・ダンブルドアと似た部分が有るかもしれない。
しかし僕はアルバス・ダンブルドアでは決して無い。
そしてアルバス・ダンブルドアは自分がハリー・ポッターとした会話の全ては知っているが、ステファン・レッドフィールドがハリー・ポッターとした会話の詳細については、殆ど知らない。概要程度は伝え聞いているだろうが、僕が一番の尊さを見出した部分は、語り手のハリー・ポッター自身は重要だと思わなかった筈である。故にハリー・ポッターを通してアルバス・ダンブルドアに伝わっているという事はまず有り得ず、結果として彼の思惑を潰す最悪の手を打った。
一応、この老人が語る事実自体にも重要な部分が無かった訳ではない。
新たに判明した最重要の事実は、透明マントと忍びの地図の存在か。
その二つの魔道具については、所有者であるハリー・ポッターが僕にその存在を明かすのに同意しなかっただろうし、流石にハーマイオニー自身も僕に語るべきでないと判断した事だろう。僕は今まで知らなかったし、知らないままであれば、彼等が何処までの事をやれるかという点において、今後何かを間違えた可能性が高いと言える。
けれども、やはり此度で最も貴重で最大の武器となるのは、アルバス・ダンブルドアが簡略化した事実以上の事を語った部分であり、そして
彼の物語を聞いて僕が抱いた感想を、一言で表すのは難しい。
それでも敢えて表現するとすれば――やはり感動、ないしは感銘とするべきなのだろう。
──そして長い話が終わる。
アルバス・ダンブルドアが話している内に時計を見る余裕など無かったが、相当の時間が経ったようである。夏が終わり初め、昼が短くなりつつある八月である事を考えても、既に日は傾き始めている。夜には戻ると言った身だが、この分ではその予定を遵守出来るかどうか怪しい。セドリック・ディゴリーの家を辞して以降の、適当な攪乱工作の時間すら取れるかすら微妙だ。精々ドラコ・マルフォイが怪しんでくれない事に期待するしかない。
微妙な内心における不安と、しかし危険を冒す意味は有ったという複雑な心情を他所に、アルバス・ダンブルドアは続けた。
「君は二年前、誰が過去に秘密の部屋を開いたかを聞かなかった。ヴォルデモートと知る事で十分とした。けれどもこうなってしまった今、君は知っておかねばならぬ。トム・マールヴォロ・リドル。五十年程前に君の先輩であったあやつこそが、魔法戦争を引き起こし、今年セドリック・ディゴリーを殺して復活を遂げたヴォルデモートなのじゃ」
この老人と違い、今をもって尚僕が知っておく必要が有るかは疑問に思っているのだが、確かにここ以外で闇の帝王の正体を知る事は出来なかっただろう。
ハリー・ポッターに聞くのは流石に論外で、その事実をハーマイオニーが知っている事も確定させたくはない。スネイプ教授は主君の素性を知っているか解らず、そもそも知っていたところで絶対に教えてくれはしなかった。ただアルバス・ダンブルドアだけが、僕に対して、闇の帝王も過去は単なる一生徒に過ぎなかったのだと主張し得た。
「そしてここからはハリーとは話し合っていない部分であるが、これまでの情報で、君はヴォルデモートがどんな人間であるかをある程度察せたかと思う」
「……これもまた貴方の思惑と計画の一部ですか」
「寧ろこちらの方が本命と言えるかも知れんの。ヴォルデモートがどういう人間であるかを知れば、君が助かる可能性は総合的に見て上がるのじゃから」
強張った声色の僕の言葉に、飄々とした調子で老人は嘯いてみせる。
「しかも君は儂と違ってスリザリンの人間じゃ。であれば、トム・マールヴォロ・リドルという名について並々ならぬ関心を抱いた事であろうと思う。特に儂はあやつの出生を最初から知っておるが、君は知らぬからの」
「……まあ、会った事が無い以上、まずは客観的情報から推論するしかないですからね」
名は体を表すという格言に個人的に賛同は出来ないが、それでも名には人の祈りが籠められている。そこから読み取れる情報が無い訳では無い。
そしてトム・マールヴォロ・リドルが後世ヴォルデモート卿に成った事を想えば、闇に葬られたかつての名が持つ意味合いというのは非常に大きい。
「確かに奇妙な名前です。その姓は明らかに純血とは思えないし、何処の家系図でも見た覚えはない。そして更に興味深く有るのは、マールヴォロという名を有している人間を、僕はサラザール・スリザリンの末裔を名乗っていた名家の名前で見た記憶が有る」
「……流石にスリザリンじゃな」
素直な称賛と解る言葉に軽く苦笑する。
アルバス・ダンブルドアにしては、今回は過大評価が多いようだった。
「普通は気付きませんよ。社交界で会った事の無い人間、それも滅んだ家系の人間の個人名まで一々覚えている人間など、今のスリザリン全てを探してもまず居ないでしょう」
次期当主のマルフォイは当然、現当主のルシウス・マルフォイ氏とて記憶してはいない筈だ。
それは彼等にとって既に歴史に消えて覚える必要のなくなった名であり、臣下の誰かが、或いは屋敷しもべ妖精が知っていれば不名誉にならない程度の価値しか持たない。
「しかし、色々と注目を集めるゴーント家であれば別です。イゾルト・セイアとその子孫達は大っぴらに過去を語りませんでしたが、四百年近くの時間は歴史家が彼女の過去に辿り着くのは十分です。当然僕も知っており、他の家の家系図よりは真剣に見ましたよ」
リーニャ・スチュワードの願いとされる伝説も虚しく、ゴーント家の血はこの国に保存されており、しかし、その血は五十年程前、アズカバンの中で絶えた。サラザール・スリザリンの最も濃い血を引いていた者達は歴史の中に消え去った。
いや、この老人の反応から察するに、全てが消え去った訳では無かったのだろう。
「そして僕自身、トム・マールヴォロ・リドルという名前に見覚えが有ったのも大きい。実を言えば、僕は今この時まで何故ゴーント家の家系図を見た時に引っ掛かりを覚えたのか気付いていませんでしたが、成程、見た事が有る名であれば納得だ」
「リドルの名を? 君は一体何処で見たのかね」
鋭い追及の言葉。
当然の警戒だと思うが、問題に思う必要は無いと肩を竦める。
「優秀で如才ないスリザリン生は、後輩の学習に役立つように自身のノートや研究メモを残します。その際、自分の署名だったり、少し捻って綽名やイニシャルを残す事が有るんですよ。まあスリザリン流の社交であり、一種の御遊びですね。そのような先輩達の遺産こそが、スリザリンを長らく優等生たらしめてきた理由の一つでも有る訳です」
しかし、トム・マールヴォロ・リドルは五十年前の人物である。
それが少なからず役立つという事は、彼が並外れて優秀だった証か、それとも魔法界の進歩が緩やか過ぎるのか。多分、両方が正解なのだろうが。
けれども、眼前の老人は不思議そうに首を捻った。
「……それは何処の寮も少なからずやっておると思うが」
「では聞きますが。ハーマイオニーは僕の学年で最優秀の生徒です。その彼女が自身の使ったノートをホグワーツに残していったとして、果たしてそれを読む気になります?」
「……そうか。君の言わんとする事は儂にも理解出来たようじゃ」
ハーマイオニーが通常どんなノートを作っているか、この老人は知らないだろう。
けれども、完璧主義の彼女から大体想像は付いたらしく、そしてその通りである。教授の発言を一言一句残らず書き取り、更に自身の調査結果の多くの書き込みを加えた百点以上を目指すノートはそれ自体が山脈と化しており、彼女以外が気軽に読み解けるものではない。
「要はスリザリンは自分の為ではなく、最初から他人に見せる為に作る訳です。半純血が純血の為に作るテスト対策集が典型ですね。優等生向けには、役に立つか不明な個人的な研究結果や発想のメモや走り書きあたりです。確かに何処の寮も似た事はやってますが、スリザリンは己が名前と恩義を売る為、己が未来の為に作る。籠める情熱と費やす努力が違います」
自分の研究成果をホグワーツに残していけば、後輩達が読む可能性が有る。純血であろうと半純血であろうと、成績の向上という欲求には抗えない。そして、彼等が遺したノート等が有用で有れば、共に残された署名を覚え、その先輩への感謝と好感を抱く事だろう。
また、逆に残してくれたノートやメモに御世話になったのだと後輩側が直接先輩に伝えられたのならば、その先輩が自分に対し、単なるホグワーツの後輩以上の親近感を自分に抱いてくれる事を、後輩側は十分期待し得る。
「もっとも、やはり御遊び程度ですよ。何もやらないよりマシ程度で、金の掛かった寄贈本を残していく純血達の方が実用的なコネを遥かに持っていますからね」
学生時代の些細な助力を一生の恩義と受け取る者は居ない。
話の切っ掛けになる以上の事は、期待すべきでないのが普通だった。
「……しかし、それを聞いて頷ける話もある」
老人は得心行ったという表情を浮かべながら、しみじみと呟いた。
「日記帳の発言からして、あやつは学生だったあの時点でヴォルデモートという名を作っており、けれども、あの名義は自身が嫌っておった筈のトム・マールヴォロ・リドルであった。流石にヴォルデモートと記す訳には行かぬにしろ、何故その名を分霊箱に、つまり殆ど永久に残す真似をしたか疑問で有ったのじゃが、賢きスリザリンならそれが誰かを知れたのじゃな」
──つまり自分の名を知る、新たなスリザリンの継承者を捜す事が出来た。
アルバス・ダンブルドアの呟いた独り言は僕に聞こえなかったが、一先ず追及は終わったらしい。更に言葉を継ぐ気が無いのを確認して、僕から口を開く。
「ただ既に非常に嫌な予感がしているのですが、彼の姓がリドルであるという事は、それはつまり彼は半純血であるのみならず──」
「──君の推測は正しい。彼はゴーントの女系に連なる者じゃ。男系ではない」
その回答に、よりにもよってか、と椅子に背を預ける。
女系が必ずしも悪い訳では無い。
マグルの基準をそのまま当て嵌めるのは相当適切さを欠きはするが、この国における現在の君主が女王であり、尚且つ女王の男子が次期国王として戴冠するのが殆ど規定路線である事が示すように、例外は往々にして存在し、その例外を規定するのは強者であり頂点である。
ただ、書籍『生粋の貴族―魔法界家系図』が男児の滅んだ氏を記録しているように、貴族の世界ではやはり男系継承が基本──この国の非魔法界の王にしても、
しかもトム・マールヴォロ・リドルは女系のみならず半純血でもあった。
女系であるが純血であるならば、ゴーント家の相続……と言っても、当時の時点で殆ど衰退しており、継げるのは家名だけだっただろうが、ゴーント家内のみで正当な継承手続が行えなくなった事に代えて、他の家が相続を承認する事に何ら支障は生じなかった。だが、半純血である以上、彼を正当な相続人と認める家は存在しない。
そして聖二十八族基準を抜きにしても、狂信的な純血至上主義者として知られていたゴーント家が突然半純血に相続を認めるとは考えづらく、そもそもゴーント家最後の男子がアズカバンに行った罪状はマグル三人の殺害である。故に半純血の男子に対して家内で正当な相続手続が行われたと考える余地は無い。
つまり、トム・マールヴォロ・リドルは二重に資格が無かった。
確かにサラザール・スリザリンの末裔であり、ゴーント家の血を引いてはいるが、あくまでトム・マールヴォロ・〝リドル〟に過ぎず、トム・マールヴォロ・〝ゴーント〟となる余地は一切存在しなかった。
そしてその厄介な身上を理解して、納得出来る部分も有る。
「闇の帝王が純血主義として中途半端では無いかとは常々思っていましたが、それも当然なのでしょうね。彼にとって純血は寧ろ憎悪の対象で、純血主義は政治的に有益だから利用しているに過ぎない。尊ぶべきはサラザール・スリザリンの血の継承、そしてその象徴足る蛇語のみでしょうか」
彼にとって他の聖二十八族の殆どは等しく価値が無い。
プルウェット兄弟を初めとして、純血一族を殺戮するのに何ら躊躇いが無いのも当然だ。逆に半純血に寛容であるのも、自分が半純血であるからという理由のみならず、サラザール・スリザリンの系譜という点で許容される場合が有るとの観点からだろう。
「それも単に自分に都合の良い基準と理屈を振りかざしているに過ぎぬがの」
純血主義を侮蔑している人間に相応しく、老人は冷ややかに切って捨てる。
「しかし、君もそうじゃと思うが、ヴォルデモートが半純血だからと言って、そのあやつが純血主義を進める事を君は安易に軽蔑せぬのじゃろう?」
「ええ。
現在名門と呼ばれても、千年程度遡れば有象無象だった貴族など幾らでも居る。この国の王族も、男系で見ればそう大した物ではない。
「事実、闇の帝王が何と名乗っているかを聞けば露骨にそれを示しているではないですか。単にヴォル何とかが彼の正式名称などではない。まあ、これは彼がマグルの宗教に触れた事が有るのを前提とした話ですが」
「そこは問題とならぬ。彼はマグルの孤児院で育ったからの」
「……また要らない情報を」
肝心な事は口が重い割に、自分にとって重要でないものの他人にとっては危険物以外の何物でもない発言をポンポン投げ込んでくるのはどうにかならないのか。
しかし、その情報が確かならば確かに誤解を生ずる物ではない。
TOM MARLVOLO RIDDLE。
I AM 〝LORD〟 VOLDEMORT。
〝Lord〟は
「……で、その爆弾を僕に知らせたのは貴方の伊達や酔狂では無いのでしょう?」
闇の帝王の出生の秘密は、分霊箱の秘密より少しマシという程度の危険度である。
死喰い人の中にはそれを知っている者が居るかもしれないが、他人に口を滑らして自ら死体になりたがる者は居ない。僕が知っている事が露見すれば、何故知ったのかと心を隅々まで探られるで済めば御の字、まずもって拷問死である。
そんな情報を知らせたのだから確たる意図を有する筈であり、実際彼は頷いた。
「そうじゃ。彼は死を恐れると共に、自らが特別な存在足らんとしておった。サラザール・スリザリンの血や蛇語の価値を知る前から、彼は己が他とは違うと確信しておった。だからこそ、
「スネイプ寮監にも似たような事を言いましたが、僕は余り貴族趣味とは思いませんけどね」
大陸の本国が法文書や行政文書からラテン語を排する姿勢を明確に見せたのは
まあこの国では現在も議会で使用される
「そして貴方の名前の方が余程貴族趣味でしょう、ねえ、
彼の名は旧いラテン語由来である。
「……君とて似たような物じゃろう、
「まあそれはその通りですが」
ラテンが多数だろうが、他もラテンと並び古典語の双璧たるギリシャ語、そして紀元前から存在する
「そして例外も有る。例えば──」
「──四人のホグワーツ創設者でしょうか?」
言葉を引き取った解答に、老人は口を噤む。
「その場合でもやはり貴族趣味にならないと思いますがね。
「……つまり君はサラザール・スリザリンは少なくとも、フランス貴族出身の魔法使いなどでは無いと考えているのじゃな」
「あくまでマグル基準の価値観ですがね。反証が有るならば容易に翻しますよ」
断固とした根拠が有って言っている訳ではない。
「ただ
「……随分と良く知って居るの」
「何処かの図書館に行って司書に聞けば一発ですよ。飛行機の普及も有って、ほんの十年か二十年前あたりから、スコットランドやアイルランドで
親切な司書から借りた人名辞典でグレンジャーを調べるのも、当然苦労はしなかった。
「ちなみに今思いだしましたが、四創始者の中で一人だけフランス語風の名前を御持ちの方が居ましたよね。フラーによれば〝dor〟というのは彼女達の国で金を意味するようです。そして奇遇な事に、彼が立てた寮は赤と金を象徴とするようですが」
「…………。確かにそうじゃが、たまたまと似通っていたという場合も有るのではないのかね? スペルは変わっておるが、儂の姓の由来もその筈じゃ」
この時は知り得なかったが、
「そもそも今の発言は、スリザリン生として不適切な失言のように思えるがの」
「流石に他所でこんな不謹慎な言葉は口にしませんよ。僕も発言相手を選ぶ位の脳は有る」
「──話が逸れつつあるが、ヴォルデモートがどんな人間で有るかは君も理解したようじゃ」
アルバス・ダンブルドアは僕から眼を逸らし、軌道修正する。
「儂は今、君にヴォルデモートについて多くを伝えた。あやつは自身が純血主義の下では恥ずべき半純血で有った事、マグルの父の血と平凡な名を嫌っていた事、大仰で非人間的な名を自称する程特別に固執していた事を君は知った」
半ば独白めいたように中空を見詰めながら、滔々と老人は語る。
「それらを踏まえた時、今回の事件で一つ奇妙な事が有ると言えぬかね?
「──っ。まさか貴方はハリー・ポッターが材料として使われる可能性、殺害ではなく誘拐が目的である可能性を想定しながら、今回の事件を止められなかったと――」
激昂した言葉は途中で力無く途切れた。
アルバス・ダンブルドアの真意を理解してしまったからだ。
かつてトム・マールヴォロ・リドルであったヴォルデモート卿。日記の発言等から伺える彼の人物像を想う時、此度は奇妙どころか異常でしかなかった。血、肉、骨。それらを不可欠の材料とした魔法薬について、明確に可笑しな部分が有る。
僕の反応を見てとったアルバス・ダンブルドアは、余計に厳しくなった表情で解答を紡ぐ。
「
……嗚呼、〝Lord Voldemort〟の人物像を考えた時、それは可笑しいのだ。
「
一理有るどころの話ではない。そう思ってしまう。
観方によっては、今回は〝穢れた〟肉体を捨てる絶好の機会であった筈なのだ。
他人の骨や血肉を使うのは半ば儀式的な物に過ぎないとしても、復活した肉体が滅んだ肉体と同一である事を証明する事は誰にも出来ない。言葉遊びに過ぎないとしても、今回の特別な復活の儀式によって闇の帝王が古い肉体を捨てたのだと主張すれば、臣下である死喰い人は内心はどうあれ、それを受け容れざるを得ない。
けれども今回、彼は父親の骨を、彼が忌み嫌うマグルの骨を用いた。
誰がどう見ても、半純血の穢れた肉体を取り戻したとしか──寧ろ更に魔法使いとしての血の純度を低下させたとしか考えられない手段を選んだ。
「僕の肉に関しても同様の事が言えるじゃろう。ペティグリューの肉を用いたじゃと? あのこそこそとした臆病で卑劣な魔法使いは、ヴォルデモートが最も忌み嫌う類の人間では無かろうか? そのような肉を自分に取り込むのを善しとする程、あの男は堕ちたというのか?」
「……しかし三分の一、ハリー・ポッターの血は一級の材料でしょう?」
反論というより素直な感想だったのだが、何故か彼は更に苛立った様子で吐き捨てた。
「それこそ成績が良いだけの馬鹿が犯した大いなる過ちじゃ……! 彼がマグル生まれのリリーの血を引いている事は、あやつに流れる穢れた血を更に濃くした事は、この際無視してやっても良い。しかし、よりにもよってあやつがハリーの血を使うのは、百味ビーンズの耳糞味、いやゴキブリゴソゴソ豆板を進んで身に入れるような所業――」
「────」
流石にその言葉は視線でもって咎める。
それを理解してか、アルバス・ダンブルドアはそっぽを向きつつ答えた。
「……今のは元より君が知っておくべき内容じゃった。儂は失言をしておらぬよ」
「……そうですか」
その言葉を聞いて余計に気が沈んでしまったのは否めない。
闇の帝王がハリー・ポッターの血を取り込んだ事を、アルバス・ダンブルドアは致命的な間違いだと評している。それが軽い意味を持つとは到底思えない。今意味が解らずとも、非常に重要な事実で、そして何れそれが証明される事が予言されたに等しいからだ。
「ただ闇の帝王が三つ全てが三流の材料である魔法薬で復活したというならば、かつてよりも質の悪い肉体であるという事は無いのですか?」
アルバス・ダンブルドアの理屈を前提とすればそういう結論になる。
そう思うからこそ期待して問うたのだが、答える瞬間だけは一気に老けたように見えた。
「……美学として問題なだけで、材料として不適格という訳ではない。魔法薬は完璧に効果を発揮した。分霊箱によって彼の魂は損なわれたままじゃが、しかし、頭脳と魔法力は無傷じゃろうと儂は考えておるし、実際にあやつに会ったセブルスも同様の見立てをしておる」
「分霊箱消滅の影響は? 彼は既に魂の欠片を一つ喪ったでしょう?」
「それも影響は無さそうじゃ。ヴォルデモート卿は完全復活したと言って良い」
「……それも可笑しな気がしますけどね」
魂、肉体、精神、そして魔法力の間に全く相関関係がないなら、その理屈は成り立ちうる。
しかし、分霊箱を複数作った彼は、容貌が変化したという。
つまり、魂と肉体には少なからず相関関係が存在する。であれば、分霊箱に収めた魂が一部この世から喪われたのならば、肉体や魔法力にも何らかの影響が出るのが寧ろ自然に思えるし、具体的には弱体化して良さそうだが──闇の帝王には、そのような事は無いらしい。
或いは、破壊されたからと言って現世から喪われたと考える事自体が間違いなのか。
「……それで、闇の帝王がかつての主義主張に反した、いわば堕落した手段を使った事が何の意味が在るのです? まさか自分の失態を正当化しようとした訳では無いでしょう?」
と言っても、内心では彼が見誤ったのもやむを得ないと感じてはいた。
ハリー・ポッターに何ら思い入れの無い僕はアルバス・ダンブルドア程に楽観視しないだろうが、それでもそのような復活の可能性は低いと判断するだろう。
老人は、最強の魔法戦士にして今世紀最大の賢者は大きく頷く。
「要するにの、ヴォルデモートは
眼鏡の奥の青色に浮かぶのは軽蔑。更には落胆。
十年戦い続けた相手に対して、今世紀最強の魔法戦士は語気荒く吐き捨てる。
「簡潔に表現するならば、あやつは妥協した。本来の在り方を忘れ、自分の道を曲げた。その事について、君は柔軟性が有ったと評するやもしれぬ。しかし、
「……つまり、
「然り」
アルバス・ダンブルドアは肯定する。
「妥協は気楽で容易じゃ。そして多くの場合、儂等にとってそれが問題となりはしない。儂等は多少の支障が生じようとも、大概は力押しだけで解決出来るからのう。けれども、それが問題となる極少数の場合は有り得る。そして儂等が力でどうにも出来ぬ物事というのは、それ即ち、儂等に致命的な結末を招来する脅威以外の何物でもないのじゃ」
「…………」
「特に
十四年前も同じじゃった、と老人は冷酷に評する。
「ヴォルデモートは細心の注意を払い、分霊箱や他の数々の護りによって己から死を遠ざけようとした。儂がどう思うかは別として、あやつは自身を無敵に等しいと考えておった筈じゃ。しかし、同時にその事に誰よりも自信を持っていなかったのもまたあやつなのじゃ。結果、短慮で拙速な行動を犯した挙句、身をもって代償を支払う羽目になった」
十四年前。
史上最悪の魔法使いは、わずか一歳の赤子の前に敗北した。
この老人は、それを当然の宿命だと評する。特別で、超越的で、唯一絶対だと自負していた筈の存在が、矮小で狭量な一般人と同じ行動を選択したが故の末路だと断言する。
「君にも肝に銘じていて欲しいが、あやつの隙と弱点はそこに在る。実際、あやつの不死の護りは今や分霊箱のみになった。そして、あやつは過去に身に着けていた不死の魔法的護りについて、最早興味は抱くまい。十四年前の身をもっての
「……まあ、不死を求める人間が
「あれが受けたのは単なる死の呪文ではない。史上最悪の魔法使いが放った死の呪文じゃ。あの時あやつの肉体に刻まれていた種々の護りは、まず間違いなく全てが破壊された。その影響を受けなかったのは、事前に分かたれていたが為に呪文の効果を受けない分霊箱だけじゃ」
思えば、リリー・エバンズはハリー・ポッターに命を犠牲にした護りをかけたにも拘わらず、呪文を完全に防ぎ切れていない。彼には特徴的な額の傷が残っているからだ。
つまり闇の帝王の呪文は愛の守護を貫く寸前までは行った訳で、同じ死の結果を齎す手段でも心臓を一突きと全身を滅多刺しとでは異なるように、ヴォルデモート卿の死の呪文は他と同じように考えるべきではないのだろう。
そんな推測を聞いて、そう言えばと思い出した。
「……バーテミウス・クラウチ・ジュニアは、死の呪文を受けて唯一生き残った人間はハリー・ポッターだと言っていましたが」
「ハリーに掛けられたリリーの愛の護りは死の呪文を反射した。故に正常な形で呪文の効果を受けた訳では無い。だから、死の呪文を受けて唯一生き残ったのは、やはりヴォルデモート一人だというべきじゃろうな」
勿論、その〝称賛〟は、分霊箱を作った上で死の呪文を受けた事の有る人間が存在しない事を前提とするのだが。しかしながら、恐らくそんな人間は居ないだろう。
「ヴォルデモートが何れ分霊箱以上の不死を追い求める事自体は儂も否定せぬ。しかし此度の戦争中は──流石に何十年も続けば別じゃが、あれを滅ぼす障害は分霊箱のみとして良いと思う。手頃な不死の企みは、第一次魔法戦争前に試しておる筈じゃからの」
「……まあ、そう簡単に不死の秘密が見付かるならば苦労はしませんよね。戦争の片手間に捜索、研究するのは、どう考えても困難でしょう」
少なくともこの国の大半を支配した後でなければ、闇の帝王が自由に動く事は叶うまい。
特に闇の帝王の復活が否定されている現状、自国であろうと他国であろうと、フラフラ動いた挙句に姿を目撃されるか、魔法で変装を剥がされたら只の阿呆である。彼の復活が公的に秘されている事は、アルバス・ダンブルドアの陣営にとっても悪い事ばかりではないのだろう。
「ユニコーンの血や賢者の石も最早必要とせぬ。ここで明言しておくが、あやつは一人で物事を為したがる性格をしておる。血も石も、継続的な摂取という呪いからは逃れられぬ。その手の不死には、自分の肉体を取り戻す為の手段として以上に関心を寄せはしまい」
「……別にその事に異議を唱えませんし、分霊箱を考えれば大丈夫だという考え自体にも反対は余りする気はないんですが、僕が聞いておく必要が有る気がするのは別の事です」
彼が求める手頃な不死は近場にそう無い。
けれども、ただ一つ。
ハリー・ポッターについて聞いた今の僕には、それが思い当たってしまう。
「──『吟遊詩人ビードルの物語』、その三人兄弟と死の物語は?」
その瞬間、老人は非常に大きな反応を示した。
表情や仕草に現れた訳では無い。寧ろ、それらの部分については完璧に制御し切っていた。しかしそれでもその瞳が、それまで透き通っていた蒼色が、今や溝や肥溜めが如く濁り切り、僕をして直視をしたくないと思ってしまう程の嫌悪感と拒否感を掻き立てていた。
「……第二の課題であのような仮説を提示する事によって生半可な校内の反論を尽く封殺し、その一方で同時に多種多様な活性化を引き起こした君であれば、それを指摘しても何ら不思議では無いと言うべきじゃろうな」
「…………その事は今は良いでしょう」
頬が引き攣るが、何とか捻じ伏せて言葉を続ける。
そして後半部は僕の周りでは知らないが、少なくともこの老人の口から聞きたくはなかった。
「透明マント自体は非常に稀少であれ、貴方がわざわざ借り受ける程の品だとは思えない。そもそも普通の品ならば、子が相続出来る程に効果は続かない。そして伝説の決闘について、貴方がゲラート・グリンデルバルトから杖を勝ち取ったという表現を──その筆者は単に有りふれた慣用的比喩表現を用いただけでしょうが──見た事が有る」
仮説が正しいという前提になるが、最低でも二つは近場に在りそうだ。
そして三人兄弟の同定に尽力してきた歴史家達が、物語のモチーフになった可能性が高い家系としてペベレル家、ゴドリックの谷に住んでいた魔法使いを挙げている事を考えれば、そして少なくともゴドリックの谷に住んでいたポッター家の持つ透明マントが本物である可能性が高いなら、残りがこの国の何処かに眠っていたとしても何ら不思議では無い。
「それを踏まえた上で聞きますが、死の秘宝は今回の戦争に関わる道具ですか?」
「……それは考えなくても良い」
今も襲う内心の動揺を、この老人は強靭な精神力で捻じ伏せている。
ただそれでも、その言葉が多大な苦労をもって紡がれたのが伝わってきた。
「ヴォルデモートは君とは違う。あやつはマグルの孤児院で育った以上、魔法使いの子供が聞かされるようなビードルの物語を知っている筈が無い。仮に知ったとしても、
「それはどの程度確信できます? ハリー・ポッターの手許に伝説の証拠らしき一部が存在する以上、後から興味を持たれるような真似は御免なのですが」
「君自身が御伽噺に命を預けられるか。それを問うだけで十分ではないかね?」
「……良く考えればそうですね。死の秘宝の伝説が嘘ならば死ぬ訳ですし」
そもそも三つ集めたら不死となるという話は物語中には出て来ないし、そして三人の兄弟の物語は、末弟まで含めて全員が『死』の手に掛かり、この世を去った事を伝えている。死を制する者という表現は、何らかの寓意を含んでいると考えるのが妥当であろう。
……嗚呼、妥当の筈なのだが、何か引っ掛かる。
先の反応からして、この老人が死の秘宝に何らかの強い関心を抱いているのは明白だった。ジェームズ・ポッターからわざわざ透明マントを借り受けたというのも気に掛かる。そして、この老人は僕にそれらの事実を隠蔽出来るとは考えていなくとも、せめて核心部まで看破させる事は避けたいと誤魔化そうとしている。
故に老人の言葉を額面通りに受け取るべきではないという感じがしてならなかったが、かと言って今すぐこの隠し事の多い老人をつつけるような理屈が浮かばない。何とか捻り出せないかと少しの間考えたが、今僕が想像している〝ヴォルデモート卿〟の人物像を考える限りは、死の秘法の
だから仕方ないと一息吐き、当初の話題へと舞い戻る。
「……ともあれ、これから貴方が紡ぐであろう偉大な計画の大枠は解りましたよ」
そして、此度の会談の主題と価値も判明した。
今回は負けた。犠牲は大きかった。
けれども、闇の帝王の弱点も同時に明確となり、指針も明瞭になった。
「ならば後は分霊箱の目星ですが。あれから二年です。三大魔法学校対抗試合という邪魔が有ったとはいえ、この間何もしていなかったという訳ではないですよね?」
僕の問いに、瞳を煌めかせながら老人は頷いた。
今度は大魔法使いに相応しい、冬の夜空のような瞳だった。
「そうでもあり、一部は違う。儂は前回の戦争以前からヴォルデモートの過去、卒業後の動向について関心を持っておった。あやつの就職先は何らかの目的を感じさせる物で、最後に平和的に会話した時点でも、あの男が良からぬ事を企んで居るのは明白だったからの」
「……正直言って、何を分霊箱にしたかを知る事は非常に困難だったと思っていたのですが。特に複数作ったと貴方が推測しているならば猶更の話です」
「確かに二年前から動いたならば掴むのは困難じゃったろう。それを語り得た証言者の中には既に死人がおる。しかし、幸運な事に儂は彼等の記憶を得ている。自画自賛となるが、儂以外には易々と出来ぬ仕事じゃったろう。あやつの不死の探究の痕跡を辿れば、膨大な人間に会う羽目になったからの」
実際、砂漠から砂粒を探し出すような苦労だった事だろう。
けれども、アルバス・ダンブルドアは得たのだ。闇の帝王にとっての分霊箱──自身の魂が執着し、固着しうるような資格の有る、文物についての情報を。
「…………貴方は本当に恐ろしい人間だと思いますよ」
純粋な称賛の言葉が漏れ出る事を、流石の僕にも止められなかった。
何の枷も課せられず、かつ正気で在る限りにおいては、この今世紀で最も偉大な魔法使いは正真正銘の怪物である。その一点を思う限り、ハリー・ポッターが死んでいた方が余程世界にとって良い方向に向かったのではないかという感慨すら抱く程だった。
「当たりは付けていたでしょうが、確信は持っていた訳でもないのでしょう?」
「そうじゃな。どれか一つが分霊箱にされたという可能性は常に頭の中に在った。その一つに分霊箱として相応しい格を持った品も有ったしの。しかし、一点賭けは余りしたくないのも確かじゃった。あやつが薄汚い烏よろしく
「……個数は? 言えないならば構いませんが」
「確実なのは日記も含めて三じゃ。つまり魂は最低四つに分割されておる」
速やかに紡がれたアルバス・ダンブルドアの回答には、流石に直ぐに返答出来なかった。
「……無茶苦茶な話だ。そこまで魔道に堕ちる事が出来た人間は、絶対に彼一人でしょう」
「それは儂をもってしても否定出来ぬの。分霊箱を複数作った者は居ない。その記述を読めば読む程に、あやつが色々な意味で規格外である事を想い知らされる」
そして確実なのは、という前置きを付けたのを考える限り、不確実なのが幾つか存在する、つまりこの老人は三つ以上分霊箱を作ったと推測しているという事だ。
「ただ、それ程の力量を持つ魔法使いです。僕は二年前にも、魂はいわば形而上学的な代物では無いかと指摘しましたが、三個作れるならば五個や十個も作れると考える方が論理的でしょう。端的に表現すれば、僕は魂の無限性や不可分性を信じている」
「……魂を分割するのに際し、分数の理屈は適用されぬと考えておるのじゃな」
「たとえば日記を作る際に二等分したならば、本体と日記の区別は何処に存在します? 肉体を持っている魂の半分が、自己を本体かつ特別な唯一無二だと定義する理屈は? 箒が自ら飛ぶ世界で、魂入りの日記帳が動かない理由は? 人が死ねば肉体はこの世界に置いていかれ、
そして今回闇の帝王が復活して証明してみせたように、肉体はこの世から跡形も無く消滅したとしても、魔法的に再生出来る程度の代物でしかない。
「そもそも二等分という考えが、魂を無意識の内に均一な球体として想定しているようで余り気に入らない。自分の肉体を秤や定規を使って二分割したとしても、分割した二個は明確に非対称でしょう? 魂がそうでないという証明は存在しない筈だ」
分霊箱はいわばこの世に魂を縛り付ける為の錨、或いは楔みたいな物であって、しかも内包される魂は分割されながらも一個であるというのが僕の想定に一番近い。
「興味深い。興味深いが……儂は君の説、さながら一体説とでも呼ぶべき考えには、寧ろ反対する立場を取っておると言えるじゃろう。しかし、ここは魂についての議論を戦わせる場では無い。それは互いに同意出来ると思うし、儂がそう思うのには他にも理由が有る」
軽く顎を引く事で了承と譲歩を示せば、アルバス・ダンブルドアは話を進めた。
「あれだけ死を恐れた男の事じゃ。分霊箱が無数に、自分の力の及ぶ限り作れると考えていたのならばさっさと数を揃えていたに違いない。けれどもあの男の足跡を儂が辿った限りにおいては、そのような素振りは一切見られぬ」
「……確かに理屈の上では、数が増えれば増える程に保険もまた増える訳ですが。しかし、闇の帝王はそうした訳では無かったと?」
「左様。あやつは分霊箱の作成を非常に勿体ぶっておった。分霊箱となる物の選定と同様、自身の魂を切り分ける死は特別で無ければならぬと信奉していた筈じゃ」
「貴方が語った闇の帝王の人物像からすればそうしただろうというのは僕も同意出来る所ですが、だからと言って分霊箱の作成の自重には繋がらないとは思いますけれど」
最初の一個、恐らく唯一正式な手続によって作成された
けれども、アルバス・ダンブルドアは嘆息しつつ答えた。
「君の指摘通り、確たる証拠はない。しかし儂の推量によれば、ヴォルデモートは最初に分霊箱を作成してから、あやつが魔法戦争中における最後の分霊箱を作ろうとするまで、三十年以上の時間を空けたように思う。無数に造れると考えていればまず有り得ぬ行動じゃ」
「三十年以上もの間、無数の分霊箱を作り続けたの間違いでは?」
「君ならそう主張するだろうとは解っておった。だがそれでも儂の推測を君に伝えておくべきだとは思っておる。儂の推量が誤りだと判断すれば君はそのように動けば良いし、そもそも君とて切り分けられる側の魂の無限を信じはすれど、切り分ける側の人為の全能は信じまい」
「……貴方の言葉通り、分霊箱を作るのに限界が有るという方が都合が良いのは確かです。そしてやはり、分霊箱は一人一個という第一原則を忘れるべきではないのでしょう」
あくまで闇の帝王は例外中の例外。
彼もまた人であった以上、何処かで頭打ちが来るのは確かなのだろう。
だから問題は幾つ存在するか、或いは存在させようとしたかという点だが──
「──手掛かりは有る。元々分霊箱の存在を知っていた筈のあやつが、不審な言動をしたと見える一度が存在する。今の所の最有力はそれじゃ。……無論、それが当てにならぬと解れば、他を探すか、最悪の場合は片っ端から破壊して我慢比べをする羽目になるが」
「……そうですか。まあ、今見付かっていないのだから今後も無理だろうとは言いませんよ。貴方がそれを出来る人間だというのは知っていますし」
毅然として答える老人に、軽く肩を竦める。
恐らく僕の関わりの無い事であると思われる。
闇の帝王の分霊箱が何個あろうが、スリザリンに在籍して死喰い人達の眼が届きやすい僕が露骨に近付くのは宜しくない。探す隙も無いだろうし、手掛かりを握っているのはこの老人である。故にアルバス・ダンブルドアが、或いはハリー・ポッターが見付けるべき解答だった。
そして、僕が知る彼等ならば、間違いなく突き止めてみせるのだろう。
「これ程の答えを明かしたのは、君一人じゃ」
漸く話は纏めに入ろうとしているのだろう。
アルバス・ダンブルドアは静かに、感情を敢えて押し殺した声色で言った。
「不死鳥の騎士団とて誰も知らぬ。アラスターも、ミネルバも、シリウスも、アーサーも、勿論セブルスも。分霊箱の脅威を体験し、儂すら欺く閉心術の腕前を有し、その身に愛を知り、これまで散々儂とやり合ってきた君に対してだけ、儂はこれらの事を打ち明けておる」
「……随分とまあ信頼された物ですね。今までの貴方の僕への対応からすれば、寧ろ逆の事を想っているように思いましたが」
「クラウチジュニアは一年じゃ。しかし儂は四年、君の事を見てきた。儂にとっても君は余り都合の良い存在では無かったが、君が簡単に闇の陣営に付く人間でない事は理解しておる。でなければ二年前に分霊箱を話題に出すような真似はしておらぬよ」
「ハーマイオニーが居るからという理由は挙げないのですね」
「どの道彼女が死んだとすれば、君は余計にヴォルデモートへと意趣返しをせずにはいられまい。儂はそう思っておるから、その指摘は全くの的外れじゃ」
僕の皮肉をするりと受け流して老人は続けた。
「無論、計画は所詮計画ではある。今後実行に移すにあたって問題は生じるじゃろうし、実行する事自体、そして求める結果を実現する事自体が最も困難であるのは揺るがぬ事実じゃ。けれども、君が考える程にヴォルデモートは無敵の存在ではない。儂は今度こそあやつを滅ぼせると思うておる」
「……そうなのでしょうね。今の御話を聞く限り、その可能性は存在しているように思える」
アルバス・ダンブルドアは僕に全てを明かしておらずとも、現時点で闇の帝王を滅ぼす為の道筋は大方が示された。そしてこの老人が僕に敢えて隠したという事は、要は分霊箱の秘密を僕に明かすよりも重要な事実が眠っているという事である。どう考えても、アルバス・ダンブルドアが既に闇の帝王に対して致命傷を与えうる武器を握っているのは明白だった。
そしてそれ以上に、改めて向かいあってみて、この老人が過去の遺物などではない事は思い知れた。最初にそう呼ばれた時から五十年近く経って尚、この大魔法使いは今世紀で最も偉大な魔法使いのままであり、何の策も無く敵に回すべき類の人間ではない。
「君には君なりの思惑が有ろう」
アルバス・ダンブルドアは静かに是認する。
「しかし、マルフォイと共に歩み、ヴォルデモートの臣下になった所で、君に待っているのは深い奈落じゃ。そこには君の明るい未来が待ってなどいない」
「…………」
「闇の魔術に熟達した人間がカッコいいなど思われる事も有らぬ。このまま君がハーマイオニーと共に居たいと少しでも思うのならば──」
「──スネイプ
僕の言葉に、彼は素早く口を閉ざした。
別に刺々しい口調で問うた訳では無かった。けれど、まるで叱られた子供のような反応を老人は見せ、一瞬だけであれども大賢者の威厳は忽然と消えていた。
この老人は、僕とセブルス・スネイプ教授との関係性――シリウス・ブラックがホグワーツから逃げ去った後、御互いに弱点を握り合った事を知らない。そして知らないが故に、軽々しく僕達について踏み込んでしまった。
同じくマグル生まれに惹かれた御互いが抱く感情、嫌悪と共感、軽蔑と敬意などを丸ごと言語化出来る気はしないのだが、それでもどんなに言葉を尽くしても、この老人には決して理解出来ないだろう。多少違えども、殆ど同じ立場に居る者だけが通じ合える理だった。
「分霊箱については理解しました」
動揺を収め切れていない老人を無視して、先の話題を続ける。
「僕風情が評価するのは多少傲慢な気もしますが、貴方の計画にそう簡単に隙は見えないように思える。仮に闇の帝王の分霊箱が百個存在していようが、貴方であればその全てを破壊してみせる所
今世紀で最も偉大な魔法使いは、多分それを出来る。
「しかし、闇の帝王
問われたアルバス・ダンブルドアは今日初めて迷いの色を見せた。
答えて良いのか、それとも口を噤むべきなのか。
言葉に反して僕が左程興味を持っている様子を見せていないにも拘わらず、何故僕はそんな事を問うたのか。そもそも
「……君らしい非道な発想であるが、それは出来ぬじゃろう」
歯切れが悪いながらも、アルバス・ダンブルドアは答える事を選んだ。
「愛の護りを掛ける為には、死ぬ必要が無いのに命を捧げなければならぬ。すなわち、犠牲となる者に生きる選択肢が与えられ、しかし深い愛情から意識的に死を選択し、命を散らす事が必要となる。君が適当な親と子を用意したとしてもヴォルデモートの呪文を防ぐ事は出来ぬし、それはあやつが数多くの家族を殺した事からも証明されておる」
……そうか。
犠牲の保護については何時だったか推量を巡らせていたが、つまりリリー・エバンズの選択こそが十四年前の奇蹟の鍵だった訳か。
「しかし選択肢が必要、ですか。
アルバス・ダンブルドアは今更僕の真意に気付いたようだが、既に遅かった。
僕の興味は愛の守護呪文が有効か否かという部分に関心は無く、それが何故機能しえたのかという事から必然的に導かれる先にこそ存在していた。
「ジェームズ・ポッターが妻子を見捨てる可能性は零だったという反論は不適当だ。何故ならリリー・エバンズも
「――――」
今度は老人は答えず、けれども僕は最早答えを欲していなかった。
「たとえば、こんな仮説はどうでしょう? 闇の帝王がリリー・エバンズの命を保証――まあ間違いなく、
その場合、これまで闇の帝王が、或いは死喰い人達が家族皆殺しにしてきたにも拘わらず、他に愛の犠牲によって生存した子供が一人も居ない事に説明が付く。
そしてこの手の魔法が時の流れによって忘れ去られたのにも納得である。
子供の為ならば我が身など惜しくはない親は歴史上数多く居ただろうし、簡単に自分が身代わりになる類の魔法ならば需要も大いに有っただろう。しかし、現実はこれなのだ。思う程に便利な魔法ではなく、求められる条件が厳し過ぎ、使い所も限られ過ぎている。
そして、その仮説が正しいとした場合、更に導かれる結論が有る。
「リリー・エバンズの生死に利害関係を有し、かつ闇の帝王の意思に干渉出来る余地が有る者。僕が知る限りでは、そんな人物は一人しか居ないと思いますけどね」
「……しかし結局リリーは殺された。ヴォルデモートが約束を守るような人物でないという事は、最早君に説明など不要じゃろう。ハーマイオニーの命を救う為にヴォルデモートに付くという選択肢は、やはり理性的で合理的な君が選ぶに相応しい道では無い」
「果たしてそうでしょうか。たとえ気に入らなかろうと、道化の札を引くと解っていても、選ぶ余地がないならその札を取るしかないでしょう。そして元より、狡猾なるスリザリンは、勝ちそうにもない側には付きたくないと考えるものなのです」
蒼の瞳と、僕の瞳が交錯する。
「……君は儂が負けると考えておるのかね?」
「負けるとは違うかもしれませんが、貴方が勝ち得ない可能性は高いと思っていますよ」
彼が平凡な人間であるような確認に、僕は微笑む。
「確証を得るには充分な事を聞きました。だからこそ、自信をもって言いましょう」
今日、ハリー・ポッターの物語を、アルバス・ダンブルドアの見解を聞いた。他の誰も知り得ない位に、多くの情報と示唆、気付きを得た。であるからこそ、意図的に隠された部分が致命的だと見透かしてしまうからこそ、僕は残念ながら次の結論を下さざるを得なかった。
「貴方が
・分霊箱を作る際の殺人
ローリング女史のChat Transcriptに従う限りは、ぶっちゃけダンブルドアが作中で言及していた程に重要人物を殺害した感じはしない。
特にスリザリンのロケットを分霊箱化した際は対象が〝Muggle tramp〟と言及されており、レイブンクローの髪飾りにおける〝Albanian peasant〟以上に(アルバニアは髪飾りの発見地ではある)理屈付けが難しい気がする。それでも理屈付けるならば、サラザール・スリザリンの思想に従う象徴的な意味合いか。
・分霊箱の作成結果
『ロード・オブ・ザ・リング』で冥王サウロンは一つの指輪に力を籠めた反動として指輪無しには弱体化を余儀無くされ、世間に存在する多くの創作やゲームでも分体を破壊すれば弱体化するボスというのは珍しくないが、ハリー・ポッターの世界では『あの者の魂は修復不能なまでに損傷されておるかもしれんが、頭脳と魔力は無傷じゃ』(六巻)とするように、そのルールを採用していないようである。
・英国の王位継承法
御存知の通り、現在は(長子先継で)早く生まれた順。
・House
英国王室ホームページの『The Royal Family Name』の記事が〝sovereigns normally take the name of their 'House' from their father.〟とするように、男系の嫡子が産まれず女性を通じて継承が行われる際は、基本的に〝House〟(我が国では通例王朝と訳されてしまうのだが。この翻訳が正しいかについては専門家ではない身には断言しかねる)が変わる事になる。
ヴィクトリア女王の子であるエドワード七世も、ヴィクトリア女王のHouse of Hanoverではなく、女王の夫であるアルバート公のHouse of Saxe-Coburg-Gothaを継いでいる(まあこれはヴィクトリア女王がアルバート公を好き過ぎたのも大きいとは思うけれど)。
この例に従う限りはチャールズ皇太子が即位された場合にもHouseが変わりうるのだが、即位後もHouse of Windsorは維持される見込みのようである(上記英国記事参照)。
これはエリザベス二世とフィリップ王配の子供が(ジョージ五世の基準は適用できないので)〝surname〟としてMountbatten-Windsorを用いる事によってWindsor家やそれ以前と区別出来るようになり、尚且つ王位継承法が変わった事で女性が王に就きやすくなった(前基準だとHouseがコロコロ変わり得る)から……なのかもしれない。
但し、継承関係無く国際事情でハノーヴァーがウィンザーに変わったように、将来の英国王がHouse of Windsorを変える事には何らの障害も無く、上記記事でもHouseが変わらないのはチャールズ皇太子が即位後に変えない限りとの留保を付けている。
・Houseの変更
一応女系継承だからHouseが変わるというのは正確な表現では無い。
たとえばかつてのフランス王政下では、男系を通じてカペー家の血を繋いでいようとも、別のHouseから男子を連れてきて王座に就けた場合は、dynastie des Capetiensであっても、カペー、ヴァロワ、ブルボンのように区別される。