セドリック・ディゴリーの名誉は穢されていた。
魔法省がその手の事をやるのだというのは理解していた。
秘密の部屋。それが開かれた事による犠牲者が一体どのような扱いを受けたか。マートル・エリザベス・ウォーレンは決して〝気の良い〟ゴーストでは無かったし、間違いなく生前においても性格は変わらなかっただろうが、しかしそれは彼女の死を誰も悼まなかった事を意味はせず、死後に辱められ続けても構わないという事でもない。
だが彼女の死の真実は、約五十年もの間、そもそも追及される事自体が殆ど無かった。
ルビウス・ハグリッドがのうのうと森番を続けられていた事からすれば、恐らく彼の無罪は早くから判明していたのだろう。あの頭の出来でスリザリンの遺産に辿り着けるのならば、秘密の部屋は毎年開いたり閉じたりしていた事だろう。
けれども、彼が犯人であるというのは、彼をアズカバンへと送った魔法省にとって──まあ一人の生徒に対して特別功労賞を授与してしまったホグワーツにとってもだろうが──都合が良かった。真犯人不明の迷宮入りと正しく訂正するよりも、最有力容疑者逮捕によって事件収束の方が体裁を取り繕う事が出来た。
故に、そのような不義は、大勢によって看過され、承認し続けられてきた。
それを考えれば、セドリック・ディゴリーが事故によって死んだと発表された事は、何ら驚くに値しない結果ではあるのだろう。
一応、日刊予言者新聞は、彼の事を悲劇的な犠牲者のように書いてはいた。
リータ・スキーターの記事を平気で載せ続けていた流石の彼等でも、不注意で死んだ間抜けな青年とは書けなかったらしい。そう書いてしまえば、魔法省の責任――夥しい死者を出した歴史を繰り返さないという誓いの下に、三大魔法学校対抗試合は魔法省の監督の下で行われた――を問わざるを得ないのであるから、語気が弱くなるのも仕方が無いとは言えるのだが。
けれども、敬意をもって彼の死を取り扱っているとは言い難い。
かのハッフルパフの模範生は、曲がりなりにも代表選手の一人として選出されたのだ。
スリザリンでも無く、グリフィンドールでも無く、レイブンクローでも無く、そして言うまでもなくハッフルパフの他の誰でも無く。五百年程の間代表選手を選び続けて来たあのゴブレットは、セドリック・ディゴリーこそがホグワーツを背負うに足りると相応しいとして、その名前が記された紙を炎の舌に乗せた。
そして実際、セドリック・ディゴリーは第一の課題と第二の課題でその実力を見せつけたのであり、あの試合を見ていた人間であれば彼が四人の中で一人実力が劣る訳ではないというのは疑う余地は無いのであって──けれども今、彼は他の三人と異なり実力不足だったからこそ死んだように書かれてしまっていた。
……いや、それだけならばマシだったのだろう。
大人達の失態により生徒の一人が死んだ。
それが、当然のように重要事として取り扱われるならば。
セドリック・ディゴリーの死は、大した問題ではないかのようにあっさりと流された。
三大魔法学校対抗試合でハリー・ポッターが優勝したという記事と同じ位しか紙面は割かれず、魔法界は彼の死を容易く忘れようとしているのが明らかだった。
代わって紙面の多くを埋めたのは、アルバス・ダンブルドアとハリー・ポッターの誹謗中傷記事。内容はどうでも良い。つまるところ醜い政治の主導権争いに過ぎないのであって、結局の所、一人の人間の死など魔法省にとっても──当然ながら無知蒙昧な読者にとってさえも──数字が一つ減っただけの、取るに足らない些事でしかないのだ。
二人の英雄、ハリー・ポッターとアルバス・ダンブルドアこそが世の関心であり、中心だった。
言葉を選ばなければ、セドリック・ディゴリーは『余計者』だった。
このような結末に対し、あのハッフルパフには収まり切れない大望を有していた青年は、名誉と栄光を求めて三大魔法学校対抗試合に身を投じたあの男は、一体何を思うのだろう。
――もっとも、幾ら問い掛けた所で、墓石は何も答えてくれないが。
僕の眼の前、故人となったセドリック・ディゴリーを悼む為の墓は、その名前が見えない位、瑞々しく色鮮やかな弔花によって埋め尽くされていた。
彼が死んでから既に一カ月程経つというのに、未だに来訪者は尽きないようである。ハッフルパフも、レイブンクローも、グリフィンドールも、そして恐らくスリザリンですらも、彼を偲ぶ為にこの場所を訪れているのだろう。まったく、大した人徳だった。仮に僕が死んだとしてもこうはなるまい。それどころか一人も花を手向けてくれないかもしれない。まあ、そうであったとしても、僕は何も気にしないが。
所詮墓所は生者の為に存在する物体に過ぎず、当人にとって死は終わりでしかない。
墓の前に立ってみればもっと何か思う所が有るかとも思っていたが、どうやら僕の心はそれ程綺麗で繊細な物では無いらしかった。
「──行きましょうか」
再度墓石を一瞥した後。
この場所へ連れて来てきてくれた人間、ポモーナ・スプラウト教授に振り返る。
セドリック・ディゴリーがこの地に埋葬されて以来、彼女は幾度もこの場所を訪れているのだろう。花を供えた後は、僕を邪魔しないようにか、離れた場所に佇んでいた。
「……もう良いのですか」
「ええ」
暗い表情を隠し切れていないポモーナ・スプラウト教授に頷く。
「……本当に、花を手向けなくて良かったのですか?」
「僕にそれを求める程、セドリック・ディゴリーは愚かでは有りませんよ。彼と僕は友人でも何でも有りませんでしたしね」
そしてまあ、あの男が苦笑いをする姿は容易に脳裏に思い浮かべる事が出来た。仮に文句が有るならば、直接伝えに来ればいい。
「噂には伝え聞いてはいましたが、貴方は予想以上に変わった主義を持っているのですね。……とはいえ、セドリックと御両親のわだかまりを、一切関わりもしないままに解決してみせた貴方であれば、何の不思議も無い気もしますが」
「解決を為したのはあの男であり、彼等が育んできた家族としての絆でしょうに」
「それでも、貴方の御蔭で悲しい別れをせずに済んだというのは変わりませんよ」
その言葉には呆れと言うよりも、疲れが滲んでいた。
もっとも、それ以上に悲しみが──流石に僕に対してではない──彼女を覆っていたのは、場所が場所であるからかもしれない。墓石の前に立ってしまえば、どうしたって故人を思い出さねばならなくなる。僕ですらそうなのだから、あの男を丸六年の間見守って来た寮監ともなれば、余計に強く過去が蘇る事だろう。
「……まあ、僕としては取り立てて訂正する意義も無い話ですが」
教授がそう信ずるのであれば、勝手にすれば良い。
「セドリック・ディゴリーの本性──という表現は辞めましょうか。ともあれ、彼が過去にハッフルパフとしてどう在るべきか悩んでいたらしい事は御存知ですか?」
知らない可能性も有るかもしれない。
そういう心配がない訳ではなかったが、有り難い事に、問いに対して教授は頷いた。
「私が知っているのは入学して直ぐの時です。そしてそのような事は──自身の組分けに疑問を抱き、悩むのは、どの寮でも有る事でしょう。それは我々も理解していますし、一年生の間は特に注意深く見守る事にしています。セドリックも、私に相談しにきた一人でした」
教授はそこで一度言葉を切った。
それは相談内容にまで触れるつもりは無いという事であろうし、僕も軽く頷いて先を促した。個人的に行われた告白の中身まで知ろうとまでは思わない。
「もっとも、その手の悩みを引き摺る事は稀です。時間が経てば、寮に馴染めば、友人が出来れば相談しには来なくなります。特に我がハッフルパフではそうでしょう。広く寮生を受け容れている事もあって、私達の寮はどのように在れという圧力は小さいですから」
「……まあ貴族っぽく、騎士っぽく、賢人っぽく振る舞っていれば足る三寮と違い、ハッフルパフが掲げる徳目を普段から表現するのは難しいというのは解りますよ」
公平も誠実も加減を間違えれば他人にとって逆に迷惑な、独善的行動に変わり得るのだと、その程度を理解出来る頭が有るなら猶更に。
「やはり彼もそうでした。相談しに来たのは一度だけ。その後、彼がハッフルパフ。いえ、ホグワーツの模範生となったのは貴方も知る通りです。ただ……それは外からそう見えただけで、何ら解決してはいなかったのでしょう」
「寧ろ決して解決する問題では無いのでは? 少なくともスリザリン──純血主義を尊ぶ筈の寮では、その手の悩みが解決する事は有り得ませんよ」
「かもしれませんね」
自虐と揶揄を籠めたつもりだったが、教授は何も追及せずあっさりと頷いた。
「しかし、セドリックが代表選手となった翌日、ハッフルパフの価値を証明してみせると彼が笑いながら私に言いに来た時。あの時私は、彼が一年生であった時の事を、彼が相談した時の暗い表情の事を思い出さなかった訳では有りません」
「…………」
冗談交じりであっても、確かに本気は含まれていたのかもしれない。
確かにあの男は虚栄心に満ち、名誉欲に取り憑かれた男では有ったが、それでもハッフルパフを代表して戦うという気概が零だった訳ではないだろう。
「ですが安心しましたよ」
恐らく無意識にだろう、教授の視線は僕から逸れていた。
その視線の先、物言わぬ墓石へと僕も顔を向けながら続けた。
「同席する貴方がセドリック・ディゴリーの理解者である以上、今日僕が何を話そうと問題なさそうだ。想像されていると思いますが、彼と交わした会話は決して穏やかな物では有りませんし、何より僕は人の神経を逆撫でしないような会話というのが苦手ですからね」
「確かに貴方は色々と不器用なようですし、貴方の方は心配して然るべきでしょう」
自虐よりも本気を含ませていえば、教授は小さく笑う。
もっとも教授が更に続けた内容は、僕の予想を超えた物だった。
「ただ、私の方はそれ程心配していませんよ」
「……どういう意味です?」
「貴方が今、ここに立っているからです」
チラリと盗み見た教授の表情からは、その瞬間だけは、悲しみが見えなかった。
決して消えた訳でも無く、僕が直視しがたい類の感情がそれを塗り潰していたからだ。
「セドリックの墓を訪れ、悼み、そして彼の両親の願い――セドリックが貴方と交わした言葉を知りたいという求めに答えようとしている。あの日彼等が口論し、けれども仲違いしたまま別れずには済んだというのは彼等の事情で、貴方には一切関係無いにも拘わらず」
「…………」
「賢い貴方は理解しているでしょうが、彼等の願いを断る権利は貴方に有り、そうしたとしても我々は決して責めはしませんでした」
「……まあ、受けた所で余り手間では有りません」
断るという選択肢は、僕の中で有力では無かった。
後で何か文句を言われた方が嫌だし、下手な逆恨みを向けられても面倒である。
それに――
「――それに、セドリック・ディゴリーとの賭けが有りましたから、ね」
音を抑える事なく、大きく息を吐いた。
彼が三大魔法学校対抗試合で優勝すれば、僕はその招きに応じる。
一応僕は受けた訳では無いし、彼は単独優勝していないし、そもそも彼が招くという部分が叶えられていないが、それくらいは譲歩すべきだろう。代表選手四人の資質を疑った時から始まり、三大魔法学校対抗試合の全体を通して僕の眼は節穴だった。
「……セドリックがパーティを休暇中に開きたいと言っていたとは、彼の両親からも聞きました。それが貴方と関わるとは余り思えませんでしたが――本当なのですね」
「やはり信じられませんか」
「頭で解っていても難しい事は有る物です。貴方がたは友好的とは程遠かったようですし」
僕の方に再度顔を向けられて紡がれた言葉は、至極もっともではあった。
彼の言葉を直接耳にした僕ですら、今でも中々荒唐無稽な内容だったと思っている。あの男はやる気だっだが、果たして何処まで実現出来たやら。少なくとも在学中では、彼の野望が実現する事は無かっただろう。
「もっとも、一方で納得する気持ちも有りますが。少し落ち着いた後、
「それを聞いて、恐らく僕は嘆くべきなのでしょうね」
不可解な事象に関与しているのは僕だという、信頼の無さについて。
現実問題、彼と
「率直に言って、このような事は異例です。個人的に遺族が生徒から話を聞くのは止められはしないでしょうが、学校としてその仲介を行うのは、たとえハッフルパフ生相手であっても許される事では無い筈ですし、本来であれば拒絶して然るべきでした」
だからこそ、と教授は想いを籠めて強く言った。
「貴方が彼等の申し出を受けてくれた事に、私は深く感謝しています」
「……頭を下げて頂く必要は有りませんよ。言った通り、賭けが有りましたから」
「それでも、です」
更に深々と礼を示す教授に、僕は視線を逸らした。
教授的には当然の行いかもしれないが、見ていて気分の良い物ではない。
「別にそう気に病む必要は有りませんよ」
慰めでは無く、本心から言う。
僕は──恐らく、僕
あの日の会話の話をするだけならば、彼の両親からの申し出が有った時点で応じる事は可能だった。一カ月も経っている以上彼の葬儀も行われたのだし、その流れで彼との記憶を語るというのも自然ではあった。元より彼の葬儀へ出席してやる程に律儀ではないというのもあったが、一カ月の猶予を求めたのは違う理由が存在していた。
セドリック・ディゴリーについて話す程度で気が滅入るような神経を僕はしていない。ただ、その後に多大な心労を齎す本命が待ち受けているかもしれないとなれば別だった。
「僕の自惚れであって欲しいと願っていますし、違ったら笑い飛ばしてくれて構いません。しかし聞かせて頂きたい。本日の事ですが、セドリック・ディゴリーの両親と話した後、僕は自宅に
果たして、ポモーナ・スプラウト教授は答えた。
「……どうやって切り出した物かと悩んでいましたが、貴方の前では無意味な心配だったようです。貴方の考えている通りだと考えて差し支え有りません」
「……でしょうね。解っていましたよ」
視線を逸らしつつ紡がれた教授の言葉に、内心で嘆息する。
期待していなかった訳ではないが、そう上手くは行かないらしい。
昨年度、アラスター・ムーディ教授に化けた死喰い人に最も近しかったのは僕だった。その上で放っておいてくれる程、あの老人は他人を信頼していない。そして僕もあの老人から話を聞く必要性を感じており、後は何時会うべきか、どのように連絡を取るかという問題だった。
死喰い人達も一学生を監視する程に暇ではないだろうが、直接ふくろう便を送り合うような危険を冒す気がないのは御互い様である。そして伝言役と輸送役を僕の下へと派遣して最も不自然でない機会と口実が、御互いにとって今日になったに過ぎない。
「未だ囚われている貴方がたと違い、僕達にとってセドリック・ディゴリーは既に終わった事です。この会合とて、上手く利用されているに過ぎません」
「……また、戦争が始まるのですね」
「既に戦争が始まっているのです」
教授の言葉を少し、しかし決定的に訂正する。
理由は解らないが、あれから死人は出ていない。
表向きだけの話では無く、多分裏でも変わりないだろう。どういう訳か、闇の帝王は暫くの間大人しくしているようである。或いは、彼にとって何か優先すべき事があるのか。
ただ、一人のハッフルパフ生の死は烽火であり、号砲だった。
今死人が出て居なくとも、死人を出す為の動きは水面下で始まっている。冷たい休戦期間はとうに終わり、僕達は既に熱い戦争の中に居る。
「もっとも、今しがた先方で起こっている〝問題〟の為に僕の予定を動かすつもりは一切有りません。それは現時点で教授にも理解して頂きたい」
「……問題? 何か貴方がたは問題を抱えているのですか?」
「嗚呼、御存知ないならば構いません。連絡がないなら何も変える必要は無いという事でも有ります。多少の遅刻程度を問題にしないというのは御互い理解していますから」
鸚鵡返しに疑問を口にした教授に軽く首を振った。
ハリー・ポッターが起こした事件についてルシウス・マルフォイ氏の所に情報が来たのは昨日でそれが殆ど最速、そしてあの老人の所に報せが到達したのも同時期だろう。ただ事件が起こったのは何分夜の事、殆どの人間が仕事を終えて家に帰った時間なのだ。彼等が昨晩遊んでいたとは言わないし、出来る事からやっていただろうが、それでも本格的に動けるのはやはり今日からである。
そして「未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令」違反の裁判が何時行われるかの相場を僕は知らないが、彼が新学期を一カ月後に控えるホグワーツ生である以上、そう遠くない内に行われるだろうし、どちらにとっても左程猶予は有るまい。
だが、教授は僕に見せつけるように大袈裟に溜息を吐いた。
「……セブルスやミネルバが貴方に手を焼く理由が解る気がしますよ」
「僕は普通にしているつもりなので、そう言われるのは心外ですけどね」
そもそも今の会話の何処に、そう思われる部分が有ったというのか。
「しかしまあ、何時までもこの場所に居ても仕方がありません。そろそろ更なる約束の時間も迫っています。どう頑張ったとしても湿っぽいだけの話にしかなりませんが──」
教授は一瞬顔を臥せ、しかし再度上げた時には覚悟が有った。
「──為すべき事を為しましょうか」
頷いた後で杖を取り出した教授の腕を僕は取り、そしてセドリック・ディゴリーの墓に来た時のように、僕達は付き添い姿現しで目的地へと飛んだ。
一人の愛する家族が欠け、未だ大きな悲しみに覆われ続けている家へと。
セドリック・ディゴリーの両親との会話は、予想していたよりは穏やかに終わった。
夫妻は多少の質問や疑問以外には口を挟む事無く、僕の話を初めから終わりまで──つまり三大魔法学校対抗試合の資格を僕が疑った所から、廊下での遣り取りの中身と意図、第三の課題での最後の会話まで、時折涙を堪えながらも、ただ静かに聞いていた。
聞いた上で思う所は有っただろうが、僕が事前に危惧していた、感情的に僕へと暴言をぶつけるような真似はしなかった。それはやはり夫妻が生徒を無意味に責めない位には善良であり、同席していたポモーナ・スプラウト教授が適切な補足や、セドリック・ディゴリーについての想い出話を交えてくれた事も大きかっただろう。
マルフォイに話した時と違って可能な限り一言一句漏らさず語ったとはいえ、セドリック・ディゴリーと僕の交流はたかが知れており、語る内容がそう有る訳でもない。
一通り話終えて質問も尽きた後、僕はポモーナ・スプラウト教授を残して席を立った。彼等がセドリック・ディゴリーを偲べるようになるには一カ月という期間は余りにも短過ぎるようだったが、それでも僕が居ない方が話は進むだろう。
一応昼食でもと引き留められはしたものの、あの男は僕に弱みを握られる事を望まないだろうと伝えれば、彼等はそれ以上何も言わなかった。しかし立ち去る際、僕のような人間に対して頭を下げられたのは、やはり非常にやり切れない気分になった。
そして僕はディゴリー家の一室に用意されていた空き缶の前に立った。
僕は教授の付き添い姿現しによって彼等の家を訪れた訳だが、帰り──というより
夫妻はわざわざそれが用意された事自体に疑問を抱いたであろうし、それが何処に繋がっているか興味が無かった訳でもないだろうが、余計な質問はやはりしなかった。
まあ、それをしなかったのは多分、聞かずとも答えが解っていたからかもしれない。移動鍵を造れる術者というのは相応に限られる。まして現在の情勢でポモーナ・スプラウト教授が持ってきたとなれば、その作成者が誰であるかは彼等にも容易く想像が付くだろう。
そして僕は空き缶に触れ、一人ホグワーツの校長室に飛んだ。
案の定、アルバス・ダンブルドアは不在だった。
勿論、このような機会を奇貨として利用しない僕ではない。
勝手な都合により待たされる代償として、歴代校長の肖像画経由で一つの要求──アルバス・ダンブルドアが持っているであろう
その無礼な要求を伝えるに際し、歴代校長の半数程は多種多様な批難をしたが、しかし裏を返せば、それは半数程は口を噤む事を選択したという事でもある。何より肖像画は所詮肖像画、生きている人間ではない。判断権と決定権を持つのは生者であるアルバス・ダンブルドアであり、最終的に老人は僕の要求を承認した。
それ故に僕は望み通りにじっくりと本を読む事が出来、長らく待たされた所で何ら退屈はしなかった。まあ結果として数時間程待たされたのは、老人なりの嫌がらせであり、同時に配慮の一環なのかもしれない。
本を通読し、気になった部分の大半を手頃な羊皮紙に書き殴り終わった頃、視界の端で暖炉が明るく燃え上がった。一々視線を向けなくても何が起こったかは解る。部屋の主、アルバス・ダンブルドアの帰還だった。
「今更君が無礼千万であるのは儂も解り切った事ではあったのじゃが。しかし、儂の都合で待たせるなら帰ると校長を脅迫して自分の欲しい物を手に入れる人間は、今のホグワーツでは恐らく君くらいのものじゃろうな」
「そうですか? 探せば居ると思いますよ。現在の誹謗中傷を考えなくとも、貴方を嫌っている人間というのは多いでしょうから」
横からの声と共に、僕の手許から本が浮き上がる。抵抗はしない。
それを為したのは他ならぬアルバス・ダンブルドアであり、時間──もしくは我慢の限界──が来たという対応に他ならなかったからだ。羊皮紙まで奪わなかったのは、一応彼にも勝手な都合で待たせた身としての良心が働いたらしい。
ただ、肖像画経由でも伝えるよう求めたとはいえ、自分で言わねば済まない事が有った。
「やはり分霊箱の書籍は貴方が持っていた訳ですね」
「────」
老人は返答しないままに部屋を横断し、定位置である机の前に立ち、しかし座らなかった。既に座っていた僕と、立っている老人。僕達は机越しに対峙する。
「既に御存知でしょうが僕はマルフォイの所に世話になっていましたし、そもそもスリザリンです。故に、『幸運の泉の物語』をホグワーツ図書から除くようにルシウス・マルフォイ氏が求めた時、貴方が何と言って拒絶したのかを知っています」
「…………」
「貴方はこう言った。それを『知識の宝庫から取り除くことは非合法かつ不道徳である』。故に自分が取り除く事はないと」
そして未だに、かの書籍はホグワーツの図書として置かれている。
「『幸運の泉の物語』は、〝マグル〟の騎士と魔法族の恋愛をもって大団円とする話です。しかしルシウス・マルフォイ氏にとってそれはハッピーエンドなどではなく、紛う事無き有害図書であり、個人的に僕も同意しますよ」
差別は許されるべきではない。
その想いは尊く、しかし現実は綺麗事だけで回らない。
「
「……儂の知る限り、幸せな家庭を築いた者は数多く居る」
「そうですか? 少なくとも僕達の直近にそうでなかったであろう実例が存在しますがね」
誰
「まあ貴方と僕の立場が異なるのは別として、検閲が許されるべきでないという立場には同意します。ええ、だから僕は信じて居ますよ。多くの闇の魔術の書物を──歴代の校長達が最悪でも禁書指定に留めて長らく尊重してきた知識の山を、まさか取り除くなんて真似を貴方がしなかっただろうとね」
アルバス・ダンブルドアはチラリと肖像画の方向を見た。
歴代の校長達の三分の一程は寝たふりをしていたが、その中にレイブンクロー出身の校長の割合が一番多いのは偶然でも無いだろう。僕がアルバス・ダンブルドアに対して分霊箱の書籍を要求した時、沈黙という形で賛同したのは彼等だった。
「しかし、マグル界の銃のように、大きな害を産む物は規制すべきではないかね」
当然のように、
その主張自体を否定する気は更々無い。実際、新大陸と違いこの国では警官ですら銃を持てない程に規制されているし、その是非はマグルが決める物である。だが今回の正当化する例示として、それは絶対に持ち出すべきでは無かった。
「──ならば杖を取り上げるべきでは?」
アルバス・ダンブルドアは表情を動かさなかったが、それは表面上だけだった。
「ええ、魔法使い一般からでは当然有りませんよ。包丁や自動車が人を殺し得る道具だからと言って、その一切の所持を規制しようとする過激派はマグルにもそう居ないでしょう。それと同様に、僕は魔法族の全てから杖を取り上げろと主張してはいない」
「…………」
「故に取り上げるべきは一部、すなわち未成年の魔法使いからです」
そしてその主張は昨日に発生した事件。
今現在問題となっている、ハリー・ポッターの退学騒動に繋がっている。
「イルヴァーモーニーでは休暇中、学生が学校に杖を置いて帰宅する事を義務化されている。子供が未熟で不用意な魔法を使う事で〝マグル〟に魔法界の存在が露見する危険を考えての措置であり、特に魔法界ではなくマグルの街中に住んでいるなら当然の対応だ」
未成年に杖を持たせる事によって生まれる利益と害悪。
前者は
「ハリー・ポッターが魔法省から警告を受けたのは二度目です。彼本人がやったのか、法律上許されるかはこの際問題ではない。重要なのは、その二度の何れも、彼が杖を持っていなければ何ら問題にならなかったという事です」
一度目はハリー・ポッターにそもそも嫌疑が掛かり得ず、二度目はハリー・ポッターは魔法を使えなかった。すなわち、警告のふくろうが飛んでくる事も有り得ない。
「今回の件によって、国際機密保持法が害される危険性が改めて浮かび上がった。故に未成年には休暇中の杖の所持自体を禁じる事にした──それは法を制定する良い建前だと思いません? 今まで純血達は反対していたでしょうが、今なら法案は通ると思いますよ」
ドラコ・マルフォイに説明したように、未成年の杖の所持は魔法界に住む人間にとって都合が良かった。故に純血達は新大陸に倣って規制しようと考える事は無く、しかし今年であれば賛成に回る理由などわざわざ言うまでもない。
「彼が魔法を暴発させて叔母を膨らませたように、マグル相手では杖が無くとも困る事は左程有りません。マグル最強の兵器の一つである銃も、この国では稀ですしね。それにも拘わらず、貴方は死喰い人や吸魂鬼などの
──それは、銃
そう皮肉で結べば、老人の白い髭がピクリと動いた。
「貴方が〝良い案だ〟と賛同すれば、僕からルシウス・マルフォイ氏に提案しても構いませんよ。彼はこの国に根付いた魔法使いである以上、このような形での社会の
未成年者は校外で魔法を使う事が許されないのだから、杖を持つ必要もまた無い。
些細な犠牲の下で大いなる善を確保出来る法律は社会的に承認されるべきであり──しかしそれを肯定してしまえば、ハリー・ポッターは十七歳の誕生日を迎えるまでの夏休暇中は当然、法律の規定次第では、十七歳を迎えた後も新学期を迎えてホグワーツへ登校するまでは、杖を保持する事が出来ない。
これから戦争に挑むアルバス・ダンブルドアは、それを良しと出来るのか。
「……一年以上空いたが。君は依然として絶好調のようじゃ。いや、寧ろ前よりも切れ味は上がっていると言って良いかもしれんの」
厳めしい表情を崩す事なく、アルバス・ダンブルドアは絞り出すように言った。
「……それで。仮に儂が分霊箱の本をホグワーツの書架から取り除いていたとしよう。その行いを君は悪だと批難するのかね」
「まさか。それは単純に悪と割り切れる物では無い」
僕は笑う。
「ただ、貴方はもっと自覚的であるべきです。学校の図書を一方的かつ恣意的に取り除く事は権力の行使であり、同時に校長はそれを行う正当な権限を有する権力者である事を。そして、権力を
瞳に不愉快気な色を浮かべたが、多分僕の方が酷いだろう。
アルバス・ダンブルドアが気に入らない根源というのは、そこに在る。
「貴方は確かに善人として在ろうと努力していますし、貴方が善人で在る事自体を否定しませんが、かと言ってその程度は貴方が思っている程では無い。自分に都合の良い規定や法律の抜け穴は見逃し、社会善より個人欲を優先する、一般に有り触れた極々平凡な善良さだ」
つくづく歪で、世間的には憐れまれて然るべきだろう。
この男程に英雄に向いていない人間は早々居らず、しかし彼は今世紀で最も偉大な魔法使いとなってしまった。魔法界にとって不幸であり、この老人にとっても不幸だった。
「だからこそ僕は──いえ、少なくない人間が、貴方が善の代表や秩序の守護者として扱われている事を気に入らず、貴方の行為に対して否と声を挙げざるを得ないのです」
「……どちらかと言えば、君は悪の側に立つのを厭わぬ人間じゃろう」
「善が秩序を破壊する場合が有るのと同様、悪が秩序を作れないという理屈も有りませんよ。まあ闇の帝王の秩序がどうかという部分については、一応貴方に譲歩しますが」
善は相対的な概念に過ぎない。
善意が善行を産むとは限らない。
僕達はそれを理解し、自戒しているが故に、アルバス・ダンブルドア一人の意思に基づく決定と横暴を──それが結果的に正解を導こうとも──嫌うのだ。
「……老人虐めはこれくらいにしましょうか」
意識的にアルバス・ダンブルドアから視線を逸らし、再度戻した。
その過程で円形の部屋の中が視界に入ったが、先程まで寝たふりをしていた肖像画達は眼を覚ましていた。それどころか、最早寝ている肖像画は視界の範囲に一人も居ない。大した話になるかは解らないというのに、わざわざ御苦労な事である。
見詰めるのは深海を思わせる蒼。丸一世紀を見続けて来た賢者の瞳。
四年前、一年の時に彼と対峙した際には、途方もない深淵のように思っていた筈だ。しかし今は、その奥底を見通せる程度でしかないような、そんな気がした。
「一昨年と違い今年は僕を呼んだという事は、それ相応の用件が有るという訳ですよね?」
「君も応じた以上、君の方もまた儂に用件が有る筈じゃ」
「ええ。であれば、速やかに済ませましょうか。貴方と会話しても僕は楽しい気分になれませんし、それは貴方の方も同じでしょうから」
次回からラスボス戦。
内容が内容なだけに一括で上げたくも有りますが、恐らく分割更新(下手すれば三回)となります。